なんでも屋の店長
——そのとき、先程まで鈴木が気にしていたパーテーションの隙間から、黒い猫がするりと入って来たのを湊は見た。
二人は気が付いておらず、その猫は湊の隣にしとやかに座る。
つややかな黒い毛並みに、しなやかにうねる尻尾。気品のある佇まいに、彼は思わず一瞬見惚れた。
「わあ……え、あの、この猫って……」
慌てて、まだ言い訳している鈴木に小声で呟くが、聞こえないようだった。
「そもそもあそこに置いておくのが」
「にゃーん」
「うわっ」
「あああああ!?」
「うわあああああ!?」
湊は思わず叫んだ。湊の小声よりもよくとおる声でその猫が鳴いた途端、高橋が短く、鈴木が騒々しく悲鳴を上げたせいだ。
「うるさいです」
耳を塞ぐ高橋。
鈴木は肩で息をして、パーテーションの角に縮こまっている。
二人は猫の声にというより、その存在に驚いているような、同時になぜか少しだけ怖がっているような気が湊はした。
しかもどういうわけか、叫んだ瞬間に鈴木の頭からは三角形の立ち耳が生えた。
明らかに動物のものである黄土色のそれは、鈴木の驚きを現すように時々小刻みに揺れている。
「にゃあん」
黒猫はもう一度鳴くと、大きな丸い目で湊を見上げた。
その目に湊はどきりとする。
毛の色によく映える黄色いその目に、品定めされているような錯覚に陥ったのだ。人間性を一瞬で見抜かれたような感覚。
怖くなって湊が思わず目を逸らし、助けを求めるように鈴木を見ると、鈴木は頭に生えた耳を撫でつけて引っ込めようと格闘していた。
湊の方に気をとめる余裕はなさそうで、高橋に見守られながら必死に耳を撫で付けている。
助けてもらえなさそうだ、ともう一度黒猫の方を見て、そして湊は目を見開いた。そこにもう、猫はいなかった。
代わりに、髪の長い女性が隣に腰かけて、湊を見下ろしていた。湊は目をこする。こすりおわっても、女性はまだそこに居た。
「ひ、と……?」
思わず口から零れ落ちた呟きに、女性は口角を上げる。
「残念、人じゃない」
瞬きをしても女性はやはりまだそこにいて、芯のある聞き心地の良い声は耳に滑り込んでくる。
女性は組んだ足に乗せていた手を持ち上げて、胸に当てた。
「邪神さ」
「……え」
仰天。
刹那、先程からの違和感を思い出す。
店と呼ばれたここになぜ高橋のような少年がいるのか。客にしては馴染んでいた。
驚いた鈴木の頭からなぜ動物の耳が生えたのか。黄土色のそれはおよそ人間に生えて良いものではない。
そして、猫がいたはずの場所に入れ替わったように突然現れた女性。
まるで、まるで——異世界にでも来てしまったようだった。
◆
「お兄ちゃん」
妹——結月が湊を見上げる。
病院のベッドの脇に置かれた椅子には、今日は湊だけが座っていた。普段は両親も来ているのだが、休みを取り続けることに限界が来たらしく、今日は仕事に向かっていた。
「神様って、いると思う?」
「え」
藪から棒に、という慣用句が頭をよぎる。直前までは両親が来ていないことを嘆いていたはずなのに、突然静かになったと思えば、先ほどの言葉だ。
ただ、なんとなく適当に答えてはいけない気がして、湊はしばし黙った。
そして、口を開く。
「いるよ」
彼が静かに告げれば、結月は少し驚いてから、花が咲いたように笑みを浮かべる。
「そうだよね、そうだよね! ……でも、お兄ちゃんは『いない』っていうと思ってたから、ちょっとびっくり」
「そう言うつもりだったよ。夢みがちな自覚はあるし……でも、僕の妹がこんな目に遭っているんだから、神なんていない、いるわけない。……たださ、信じるしかないじゃないか。縋るしか……ないじゃないか」
湊の声が弱々しく尻すぼみになる。結月はそれを見て、少しだけ表情を歪めた。そんな表情の機微に気がついて、湊は我に帰る。
「あっ、ご、ごめん。一番辛いのは結月だよな。僕がこんな、弱ってちゃだめだ……結月を、元気づける立場なのに」
「……違うよ。ないよ、一番とか。お兄ちゃんは私がこんなふうになってるのを見て、私と同じように、それ以上に治るよう願ってくれてる。それが私は嬉しいんだよ」
不謹慎かもしれないけどね、とはにかむ彼女を見て、湊はやりきれなくなる。一番不安で一番怖がっているはずの結月は、今まで以上に明るく振る舞っている。自分より辛いはずの彼女に慰められることが、どうしようもなく湊をやるせない気持ちにさせた。
着実に弱っていく妹を救う術が湊自身にないことが、嫌だった。
結月が亡くなったのは、その数週間後だった。
◆
「そっか……神様なんですね!」
湊は、驚かなかった。なぜなら湊は夢物語を好むタイプであり、そして、目に見えない類のものも片っ端から信じるタイプであったから。
そして、妹がずっと、妹と共にずっと。信じてきた存在だったから。
「……驚かないのかい?」
今度は女性が目を丸くした。話を聞いていた高橋と、やっと耳を引っ込めた鈴木も面食らっている。
「元々神様や幽霊は信じるタイプなので……この世のどこかには居るかなって」
「信じているのと実際に見るのは違う」
高橋が静かに言った。
「まぁ、そうなんですけど……思ったより人っぽいから、かな」
「へぇ……中々肝が据わってるねぇ」
女性が喉の奥で笑う。高橋は不思議そうに湊を見ていた。
「嗚呼、申し遅れたね。私は佐藤。この店の店長だよ」
「あっ、こんにちは……」
湊が慌てて会釈すると、微笑んでから佐藤が、さて、と鈴木と高橋に向き直る。二人は途端に背筋を伸ばし、居住まいを正した。
「この子が無事だったのは何よりだけど、私の猫たちの憩いの場が大丈夫かは後で確認するからね」
「猫……?」




