落っこちるくらい美しい夕日
彼は屋上へ続くと思わしきドアのノブに手をかけた。
ドアを開けたその瞬間。光が広がる。
見えた景色に湊は思わず息を呑んだ。湊の耳に、結月が感嘆の声をもらすのが届く。
時が、止まったような気がした。
橙色の光が六畳ほどある屋上の床を照らし、グラデーションを作っている。
その先の、遮るもののなくなった夕日は、昼間のそれならば眩しくて見ることも叶わないのに。今はぼんやりと光る円から目が離せない。
そこはまるで絵に描いた世界のようだった。
無機質な印象しか覚えなかった、所々高く飛び出たビル群が暖色に染まって、今は湊の視線を、湊自身を、優しく受け入れている。
湊は一歩、二歩と夕日に釘付けになったまま踏み出して、自身もその色に染まる感覚に包まれながら夕日に近付いて行った。その後ろを、結月が一歩引いて着いていく。
空に浮かぶ雲の陰影すらも暖まって、橙色の世界をその一部となって見下ろしている。
彼は夕日に手をかざした。
手の平に源を隠されても、指の間から漏れ出る色は弱まらない。手は夕日を撫でるように動き、光を掴もうとして空を切る。
ゆっくりと手を下ろして、屋上の端まで来た湊はさび付いた鉄柵に両手をかける。その上で腕を組み、体重を半分ほどかけたとき。
「え」
「お兄ちゃん!!」
バキ、ともボキ、ともつかない音がした瞬間、浮遊感と共に世界が反転する。
それが鉄柵が壊れた音だと気が付いたときには、既に湊の視野から屋上は消えていた。
結月の悲痛な叫びが聞こえる。
不思議と声は出なかった。出せなかったのか。人は本当に驚いたとき、もがくことも対処することもせずに目を見開くことしかできないらしい。
落下している自身の姿が映っているであろう窓ガラスが、湊の視界を素早く流れていく。
そこにまで沈みかけの橙色が映っていて、湊は焦点の定まらない目でそれを見ていた。
腹の底から湧き上がるような、むず痒くなって身震いしたくなるような恐怖が身体を硬直させる。
それほど高くない建物だったので、すぐに終わりは来た。
「——がっ」
とてつもない衝撃。何かが崩れ潰れる音と共に、全身に痛みが広がった。息がつまる。
横向きになった視界は夢の中のように白飛びしている。全身の震えが止まらない。
——あ、終わるかも。
終われるかも。
ふと、そう思った。
きっと罰が当たったのだろう。努力もせずに甘えて過ごしているくせに、逃げたいなどとほざいたから。
ならば望み通りにしてやると、神様からの意趣返しだ。
意識が揺らぐ。
一瞬、何もかも忘れて、ただ美しい夕日に見惚れていられた。やっと忘れられそうだったのに。
——いや、逆か。
そんな幸せなタイミングだったからこそ、だったのだろう。
意識が薄れる。
自分から死ぬ勇気がない分、こんなことになったのは僥倖であった。
——嗚呼、ごめんな。
幽霊としてこの世に取り残されてしまった彼女を、また一人にしてしまう。
それだけが、心残りだ。
ろうそくに火消しを被せたように、視界が暗くなっていった。
◆
「——い……おーい。ふむ、まだ意識がぼんやりしているのかな」
「あ」
顔を上げれば、鈴木と高橋が小首を傾げていた。湊は我に帰る。
「すみません、少し考え事を……」
はにかむように言ってから、口を挟む隙を与えずに湊は続けた。
「助けていただき、ありがとうございます」
笑みが引き攣っていないか、それだけを意識しながら鬱憤を押し殺す。
「嗚呼、どういたしまして。頭を打っているといけないから、しばらくは安静にね」
鈴木が微笑する。湊は、その笑顔に心がざらつくのを感じた。こんなのただの社交辞令だ。
——こっちの気も知らないで。きっと、死なないことがいつでも正しいと思ってるんだ。
やっと、逃げられそうだったのに。感謝なんてしていない。あのまま、この世から逃げられたなら、どれほど良かったか。
湊は頭を掻きむしりたくなるちくちくとした苛立ちをおさめようとまた口を開いた。口調には出さないよう気を付ける。
「それと……段ボール、潰しちゃってすみません」
「あ、段ボール……ね。はは」
大丈夫と言ってくれそうな雰囲気だったのだが、途端に鈴木は笑みを少しだけ引きつらせた。
片目を開いてパーテーションの向こうを見ると、笑みに冷や汗を浮かべて考え込むように間を開ける。
湊は先ほどまでの苛立ちはどこへやら、まさか大事なものだったんじゃ……と瞬間的に体を強張らせた。こう見えて根は良い子なのである。
段ボールに関して、申し訳ないとは思っていたが、心のどこかで捨てていないだけのゴミだと勝手に思っていたせいで、怒られる準備ができていなかった。
——怒られるのは嫌いだ。それより前に反省しているのに、追い打ちをかけられるから。
「……き、気にしないでいいんじゃないかな! 潰れても使えるだろうし」
そんな湊の心情を知ってか知らずか、努めて明るい声を出して、鈴木は両手をパッと開いた。
チラチラとパーテーションの向こうを気にしているし、高橋も右下を向いて両の拳を強く握っている。明らかに大丈夫ではなかった。
——こういうのってちゃんと弁償させた方がいいんじゃないの!?
優しさで損するタイプというものを目前にして、湊はなんだか少しやるせない気持ちになった。
自身を助けたのも完全なる善意なのではないかとそれで思ってしまって、勝手に不満に思っていた自分が申し訳なくなる。
鈴木は高橋の方を見ると、「人命には代えられないしさ」だの「きっとまたすぐに段ボールなんて空くしさ」だの誰に向けてかもわからぬ言い訳をしている。
高橋は無言で何回も大きくなずいて、鈴木を慰めるようにぎこちなく笑みを浮かべた。
「えっと……本当に大丈夫、ですか?」
恐る恐る湊が口を挟むと、この短時間で数日何も食べていないみたいに、干し芋みたいにやつれた情けない顔になった鈴木が湊を振り向く。
「大丈夫大丈夫、気にしなくて——」
急激に年を取ったようにかすれた声だった。
——そのとき、先程まで鈴木が気にしていたパーテーションの隙間から、黒い猫がするりと入って来たのを湊は見た。




