「メスガキ」な妹
すると唐突に、景色が遮られた。
パーテーションの影からひょっこりと頭が覗いたのだ。湊と目が合ったことに目を丸めた顔に次いで、全身が現れる。
「……起きてる」
女性のものではないが、少し高い声。先程まできこえていた声と同じだった。
湊の前に姿を現したのは、中学生ほどの少年。癖のない黒髪に紫の差し色、吸い込まれそうなほど黒い目。
パーテーションに手を添えて湊を眺める静かな眼差しは、闇をたたえているのに光を宿していて、不思議と目を逸らせないものだった。
こつり、とローファーを鳴らしてベッドの脇まできた彼は、振り返った。
「鈴木さんの言う通りでした」
少年の言葉と同時に、パーテーションの向こうからもう一人。
「適当に言ったんだけど、当たっちゃったか」
それは長身の若い男性だった。灰色の瞳と湊の目が合う。
ワイシャツの上に緑色のセーターを着て、首元には黒い革のチョーカーを付けている。
鈴木と呼ばれた彼は、少年を通り越してベッドの枕元まで来ると、床に膝立ちになり湊に向き直った。
少し長い黒髪が揺れる。黒に混ざった金色の髪がきらめいた。
「おはよう、気分はどう?」
「え、あ、」
——こんなときに、こんなことを考えるのも難儀なものだけれど。
気分はどうかと聞かれて、咄嗟に元気ですと答えられる人はいいなと思う。
良いことがないわけじゃあないけれど、それよりも悪いことが先に思いついてしまうのは、湊が大人になりきれない証拠なのだろうか。
使い古された表現をするならば、真っ白い絵の具に一滴でも黒を垂らせば、それはもう白ではなくなってしまう、みたいな。
突然の質問に思考だけが先走って、返事ができずにいる湊に、男性は眉根を下げた。
「うーん、記憶が混濁しているかな」
敵意のない笑みを浮かべると、「そうだ」と手を打って少年の着ている服、グレーのパーカーを軽く引っ張った。
肩の辺りに両方切れ込みが入っている。少年はその下にスパッツと半ズボンを履いていた。全体的に暗い色だ。髪色とよく合っている。
彼は言い聞かせるようにゆったりした口調で続ける。
「私は鈴木。この子は高橋君だよ。君は昨日この店の前に積んである段ボールの山に落ちて来て、今……午前十時まで寝ていたんだ。記憶はある?」
「あ、ああ、なんとなく……」
湊は先ほど見た外の景色を思い出す。結月が何でも屋だと言っていたここの外には所々潰れた段ボールの山があった。話によれば、元々は潰れていなかったのだろう。
そこで、湊はなんとなく何があったのかを思い出した。
彼は昨日、二階建てのビルの屋上から落ちたのだ。
◆
「お兄ちゃん!」
頭の中で妹が湊を呼ぶ。四年前の笑い声が、未だに頭の中でこだましている。
「お兄ちゃん……」
花が咲くような笑顔と、鈴が鳴るような笑い声が、泣き声に変わる。三年前の泣き声が、未だに脳を蝕んでいる。
「……」
何も聞こえなくなる。
「結月……!」
湊は呼びかける。妹は——結月は、何も言わない。二年前からずっと、無音が、今も心を切り裂いている。
「お兄ちゃんのこと、待ってるよ」
結月が笑う。心と体の軋む音を隠しながら。
「お兄ちゃんのこと、大好きだよ」
結月が喜ぶ。湊のことを思って。
「だから」
結月が——
「いっぱい」
泣きながら。
「いっぱいお土産話、聞かせてね」
笑った。か細い声で、湊に全てを託しながら。
「お兄ちゃんは、まだこっち来ちゃ、だめだよ」
◆
——逃げたい。
「お兄ちゃんったら、そんな顔してどうしたのー? メンタル雑魚すぎ」
くすくす。
結月が湊に顔を近づけた。ふわりと、病院を思わせる薬品の匂いがする。幽霊の結月からはいつもこの匂いがした。
少し前から結月をずっと無視してしまっていることは、気になってはいる。
それでも返事をする気にならないのは、楽しそうに「メスガキ」の真似をする彼女を少し鬱陶しく思っているからかもしれない。
「えー、無視するなんて大人気なぁい」
湊は、自分から死を選ぶ勇気も、かといって生きる覚悟すら持てないで。いつまでもぬるいお風呂に浸かっているような、そんな怠惰が憎らしかった。
緩やかに体温を奪われて、そのぬるま湯が完全に冷めるまでに出なくちゃいけないのに、ただただ甘えて、そっちの方が楽だからと、湯に浸かり続けることを選ぶ。
そして、成人と共に、お湯が冷めて。
デッドライン——タイムリミットが、首に
刃のように押し付けられるのだ。
人生が一人称視点だから、少し、勘違いしてしまっていたみたいだ。
湊は、主人公でもなんでもなかった。
「……ね、ねえ、無視しないでよ」
「……結月、ちょっとだけ静かにしてほしいな」
嫌な思考に蝕まれた湊の言葉と、結月の言葉はほぼ同時に紡がれた。彼がハッとする間もなく、結月の心につららのように冷たいものが刺さる。
「え……わ、わかった」
「あっ、ごめん。そういう意味じゃなくて……」
慌てた声音に、彼女が曖昧に微笑んだ。これは、結月が何かを堪えるときによくする、病院でずっと見てきた——
「ゆ、結月はさ!」
見ていられなくて、やりきれなくて、湊は声を張る。
「内容はともかく、元気に話してくれてるのが……僕は一番、好きだよ」
結月は目を見開いたあと、はにかんだ。そして、不敵に口角を上げる。
「ふふ、だよねえ。知ってる」
湊が内心胸を撫で下ろすと、彼女は「必死だね、ウケる。かわいー」なんて軽口を叩いた。
先ほどまでは少し煩わしかった「メスガキ」の口調も、今はありがたい。
「でも、その口調はやめて欲しいかもな。いつもの結月に戻ってよ」
「うーん、わかったよ。ごめんね、お兄ちゃん」
結月の言葉に湊がくすりと笑って目線を前に移すと、ふと街路樹の隙間から夕日が目に飛び込んできた。
——そうだ、夕日が。
夕日があまりにも綺麗だったもので。
いっときでいいから全て忘れてと、そう言われているような。あたたかく包み込まれていくような錯覚を湊は覚えてしまったのだ。
光の方へ歩いていけるなんて勘違いまでしてしまうような、そんな夕日だった。
だから、ビル群の間から見えるその夕日を、もっと近くで見られたらどれほど綺麗だろうと思って。
「結月、ちょっと寄り道しよう」
「お、いいねえ」
湊は道の脇に並ぶビルの一つに入った。結月が続く。
なんのビルかも知らないのに、エレベーターすらもないそこの狭い階段を一段一段、踏み締めるようにのぼって、彼は屋上へ続くと思わしきドアのノブに手をかけた。




