空腹
——お腹が、空いた。
パーカーにジーンズを履いた、十八歳。湊は、すれ違う人々から奇異な目で見られながら、足を引き摺るようにして俯いて歩いていた。その目に、光は宿らない。
「凝り固まった考え方、ダサすぎぃ」
くすくす。
「……」
——今、突然倒れ込んだら、何人かは助けてくれるのかな。
頭を掠める思考に首を振る元気もない。
ただ、心の中でだけは強く否定する。人に迷惑は、かけたくなかった。こうなったのは、自分のせいだから。
「根暗思考きっつぅー」
くすくす。
「……」
誰も恨んじゃいけない。
全て自分のせいだ。
甘えることしかできない自分のせいだ。
過去も環境も周りの人も、何一つ悪くない。全部、全部自業自得。
「かわいそ、よしよししてあげよっかぁ? なーんてね!」
くすくす。
「…………」
苛立ちが、悲哀が、後悔が、不安が、一気にのしかかってくるようで、体が重い。
そんなときにこそ上を向け、と。
誰かが言った気がしたから、ふと上を向いた。
空は、憎たらしいほど綺麗だ。
「なにセンチメンタルになってんのー」
「……」
少し視線を下げれば、ビル群の隙間から覗く夕日が穏やかに空を染め上げて、後ろを見ればもう夜の気配を感じるのに、歩いていく方はまだまだ明るい。
こんな己に、自分を傷つけることばかりが得意な脳に希望を見せるように、自身の足は光の方へ向かっている。
——僕の未来も、明るかったらよかったのに。
『きっと、明るいよ』
そのとき、声が聞こえた気がした。それは僕の、大切な妹の——
「ユヅ、そんなこと一言も言ってないよ? もしかしてぇ、アタマよわよわ?」
くすり。
「…………」
あまりにも思考が遮られる。——続いて欲しい思考でもないのだけれど。
湊には、妹の幽霊が見える。名前は結月。今、隣で口角を上げて小首を傾げ、犬歯を覗かせている彼女だ。
彼の暗い表情から大体何を考えているか推測できるのだという結月は、こうしてよく彼に話しかけてくる。
「あ、今ユヅのこと考えたでしょ。ドキドキしてるの?」
くすくす。
「…………」
それ自体にはもう慣れて、周りにはどうやら見えないらしいのでイマジナリーフレンドのように扱うことでことなきを得ていた。
誰かが結月のいる場所を通ってもすり抜けるし、湊にも、彼女に触れることはできない。
見えるのかどうか、触れられるのかどうかは、全て結月次第なのだそうだ。曰く「幽霊マジック」らしい。
しかし、彼女は色々なものに感化されやすくて、よくふらりと消えていっては何かしらのサブカルチャーを学習して帰ってくる。
「そんなにジロジロ見ちゃって。お兄ちゃんたら私のこと大好きなんだ」
くすくす。
「………………」
本人を見るに今回は「メスガキ」に興味を惹かれたようだ。彼女のそれがどのくらい再現度の高いものなのか判断はつかないが。
この前は「男装女子」だったというのに、中々に振れ幅が大きい。
しかも毎回、どこで手に入れるのか律儀にインスパイア元のテーマに合った服装で湊のもとに現れるのだから、手が込んでいる。
今日は灰色の襟がついたセーラー服に、ダスティピンクのリボン。そして、それより少し明るいピンク色の、オーバーサイズのカーディガンを合わせていた。
「これ、可愛いでしょ! 原宿にあった」
ただ、今はどうしても返事をする気になれない。俯いたまま湊は、影を引き延ばしながら歩いた。
◆
「!!」
湊は目を見開いた。喉が乾いている。
頭が痛い。それに肩も、腕も足も痛い。見開いた目に映るのは、いつもの六畳半ではなく、知らない天井。
真っ白なそれが目に痛くないのは、部屋自体が薄暗いせいだろうか。
「ふむ…………ね……」
「……して…………う」
意識がはっきりしてくるのと同時に、微かに声が聞こえてくる。
男性のものと、それよりも少し高い声。近くにはいないのか、何を話しているのかまでは聞き取れない。
どうしてこんな場所にいるのかがわからなくて、そもそもここがどこかわからなくて、戸惑いに困惑を重ねて湊は目を瞬かせる。
しかし目に映るのはいつまで経っても白い天井で、部屋は薄暗いまま。
目線を少し右にずらせば、少し空間を開けて折り畳み式のパーテーションが見える。
左側は壁のため、寝ている状態ではそれ以上見えなかった。
視線を天井に戻しかけて、視界の端にピンク色を見た。
結月が、ベッドに突っ伏すようにして寝ている。
知らない場所にいる知った顔になんとなく安心感を覚えて、湊はしばらくその様子を眺めていた。
彼女の丸まった背中が、ゆるやかに上下する。幽霊なのに、肺はあるのだろうか。
結月が目を覚さないことを確認した湊は、起き上がろうと肘をついた。体に力を込める——しかし。
「いっ……」
その瞬間、鈍い痛みが節々に広がった。勢いを殺せずにそのまま上半身を起こす。肩までかかっていたブランケットがずり落ちた。
全身が痛い。特に肩と二の腕が痛かった。頭にも広がる鈍痛に思考がまとまらず、起きる前何をしていたかが断片的にしかわからない。
静かに悶えていると、起き上がった振動に気付いたのか結月が小さく唸る。しばらくして彼女はゆっくりと顔を上げた。
「あっ、お兄ちゃん!」
「結月……」
喜びは抑えずとも声を抑えて、結月は頭に手を当てる湊を見た。彼は普段より覇気のない目で、結月を認識する。
「目が覚めて良かった……。あのね、ここ、何でも屋さんなんだって。見つからないように影からこっそり見てたんだけど、男の子とお兄さんが助けてくれたみたい」
「そうなんだ……」
いまいち回らない頭で、結月の言葉を反芻した。噛み砕いて、飲み込む。やっとしっかり理解したところで、湊は「ん?」と呟いた。
「結月って、幽霊だから普通は見えないんじゃ」
そのとき、結月が体を強張らせる。目を丸くして、何も見えないはずなのにパーテーションのほうを振り返った。
直後、ずっと微かに聞こえていた話し声が止み、代わりに足音が鳴る。すぐにパーテーションの向こうにあるのだろうドアが開いて、音が近付いた。
「どうした?」
「いや……」
結月は曖昧に濁す。険しい顔で、今度は湊の座っているベッドの足元の方を見た。
つられて彼もそちらを見れば、パーテーションが途切れていて、事務所のような内装が見えた。
書類の積まれた机と、子供のときによく遊んだようなくるくる回る椅子。その先は床から天井までガラス張りで、外が見わたせる。
「ごめん、また来るね」
急かされるように湊を一瞥し、早口で呟いた結月は、湊が何か言おうとして口を開いたときには既に居なくなっていた。
珍しい様子に彼は一人で首を傾げ、しかし唐突にいなくなること自体はよくあるので、また足元の方に視線を戻す。
景色は建物に遮られているが、その前には日が差し込んでいるため日中なのだろう。
建物の前には段ボールが積まれているが、所々潰れているのが気になった。ガラス面には同じ素材のドアもあるので、入り口の役割を担っているようだ。
すると唐突に、景色が遮られた。
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