14 拗れた縁、正される絆
「こちらでございます」
「……ああ、ありがとう」
この扉の向こうに、己のかつての恋人がいる。己の配慮が足りなかったばかりにひどく傷付け、その経歴に瑕まで付けてしまったかつての恋人が。
案内された部屋の重厚な扉の前に立ったアレクは、大きく深呼吸した。
二度、三度。
深く息を吸い込み、そして吐き出してから、扉を叩く。
一瞬の間の後、「どうぞ、お入りになってくださいませ」という声が聞こえた。
記憶にあるよりは幾分低い、けれども落ち着いた懐かしい声が耳を打つ。
取っ手に手を掛けてゆっくりと扉を開くと、窓辺に背筋を伸ばして立つ女の姿があった。
逆光で顔はよく見えない。
しかしそのシルエット、少し撫で肩のその立ち姿は記憶にある彼女の――レヴェッカ・ハロンスティンのものそのままで、あの居心地の悪い城暮らしの中の、数少ない優しい想い出が蘇るようだった。
――同時に、あの胸が軋むような別れの日の記憶もだ。
彼女は深く膝を折り、腰の位置を落として目を伏せた。
上位の者への礼法。
非公式の場に於いて、親密な間柄であった二人の間にはなかったはずの作法は、そのまま今の二人の間に横たわる距離を表していた。
越えがたい壁。
身分差による断絶。
彼女との間にそれを作ったのは己だ。
そのまま無言で待ち続ける彼女に近寄ったアレクは、詰まったような喉から必死の努力で言葉を発した。
「……顔を上げてくれ。座って楽にしてくれないか。産後の身体だ、あまり無理はしないでくれ」
言葉を掛けられてようやく姿勢を元に戻した彼女は、「……お気遣い感謝いたします、王兄殿下」と言った。口調は固く、かつての親しさはない。名前すら呼ばず、敬称のみで己を呼んだ。
けれども十九年ぶりに見る彼女の顔は白く強張っていた。彼女もまた緊張しているのだ。
アレクは肩の力を抜いた。
「……どうか、昔のように話してくれないか。腹を割って話したいんだ」
レヴェッカは少し躊躇うようだった。けれども一つ頷き、そして「分かったわ」と微笑む。
ああ、とアレクは思った。あの優しかったレヴェッカそのままの微笑みだ。あの頃と変わることのない、けれども笑うと目尻や口元に微かな皺が浮く顔に浮かぶ表情には、あの頃にはなかった落ち着きと余裕があった。
良い年齢の重ね方をしたのだ。髪や肌の艶は良く、出産という大仕事を終えてまだ三ヶ月ということをほとんど感じさせない。婚家では大切にされているのだろうことが分かる。
レヴェッカが再び腰掛けるのを待ってから、アレクは向かい合わせに腰掛けた。
しばしの無言。
これではいけないと口を開く前に、レヴェッカがぽつりと言った。
「――見違えたわ。本当に……こんなに逞しく、立派になって」
記憶に残っているアレクの姿は、少年らしい線の細さがあった。
それがこんなに逞しくなっているとは思わなかったと彼女は言った。
「背なんて見上げるほどに伸びたわね。健康そうで……良かったわ」
「……ああ。あれから随分鍛えたからな。今では竜とやり合えるほどだ。大した進歩だろう?」
「ええ、そうね」
ふふ、と口元を押さえて微笑む仕草は娘時代のままだ。
「……君は、元気だったか?」
「……ええ。この歳になるまで病気らしい病気もせず、健康そのものよ」
「そうか……良かった。出産したと聞いたが」
「ええ。この歳で初産だから随分と心配されたけれど、産後の肥立ちも良いとお医者様のお墨付きを頂いたの。わたくしも娘も、とても元気よ」
「名を聞いても?」
「シフ。シフリーナというの」
「良い名だ。農耕の女神か」
「ええ。リンドヴァリ家に久々に生まれた女の子で、皆さんとても喜んでくださって。旦那様が女神様のお名前をお借りして付けてくださったの」
「そうか。博士はきっと目に入れても痛くないくらいに可愛がっているんだろうな」
「その通りよ。まるで見てきたように言うのね。毎日べったりなのよ」
「べったりか」
「ええ。お仕事とお乳の時間以外は、もう本当にべったり。お嫁にやりたくないという父親の気持ちをようやく理解したって、大真面目に言うのだもの。それで、わたくしのことも今まで以上に大事にしてくださって……毎日がとても幸せよ」
「……そうか。幸せか」
短くそう言ったアレクの声が震えた。
「――良かった。ずっとそればかりが心配だった。俺のせいで人生の一番大事な時期を無駄にさせてしまったんだ。しかも若い身空で後添えだろう。だから、君から幸せになる道を奪ってしまったんじゃないかと、そればかりがずっと気掛かりだった」
別れ際の酷い言葉に囚われて、一方的に被害者面していたのは己だった。
だが実際は彼女の方こそが被害者だったのではないか。優しく思慮深いはずだったレヴェッカに、あそこまでの暴言を吐かせてしまった、その原因は確実に己にあった。
庶子の身で盤石とはいえない立場、けれども継承権を持つ王子には政治的な価値があって、そこに娘を宛がって宮中での立場を高めたい者は多かった。そんな中で決して権威ある家とは言えない下級貴族の娘が恋人と知れたらどうなるか。
ゆえに交際は秘密にせねばならず、それでもいずれは一緒になると信じていた彼女を十八まで待たせた挙句、身分を捨てて城を出ることを理由に別れ話を切り出して、それで円満解決するわけはなかったのだ。
「あのとき、後の人生にかかわるほどの大事なことを、君に相談せず自分一人で決めてしまったことをずっと悔いていた。もっと早くに君に打ち明けていれば……よく話し合っていれば、あんなふうに君を怒らせることはなかっただろうし、そのことで君が処罰されることだってなかったはずだ。そうすれば君にはもっと選択肢があったはずなんだ。あのまま王家専属侍女でいれば出世だってしていたかもしれない。良縁だってあったはずだ。俺の方が身分が上である以上、君からは言い出せなかったことだってたくさんあっただろう。だから俺はもっとそれを気に掛けてしかるべきだったんだ。俺が自分のことに手一杯でその配慮を欠いたために、君には本当に申し訳ないことをしてしまった。今更許してもらえるとは思っていないが、せめて……謝りたかったんだ」
居住まいを正したアレクは正面からレヴェッカを見据え、そして深々と頭を下げた。
「すまなかった、レヴィ。あの日、君への配慮を欠きひどく傷付けたこと……心よりお詫びする」
息を詰めてその独白を聞いていたレヴェッカは、目を見開いた。そして口元を押さえ、その美しい顔を痛ましげに歪めた。
「アレク……」
静かに立ち上がった彼女は目の前で膝をつき、俯けたままのアレクの顔をそっと上げさせた。
「いいえ。いいえ。決して貴方のせいではないわ。確かに貴方の方が身分は上だった。でも、生まれながらの貴族で仕来たりや作法に長じていたのは、間違いなくわたくしの方よ。しかも年上。十代の二歳差はとても大きいわ。だから、わたくしの方こそが気を配るべきだった」
「……レヴィ」
「庶子で立場が弱かった貴方の妃に求められていたのは、後ろ盾になれる人だった。家柄であれ、能力であれ、貴方が王族として立つための強みを持つ女でなければ、務まるようなものではなかった。護られてばかりのお人形に務められるようなものでは決してなかったはずよ。でも、わたくしにはそれがなかった。貴方に求めるばかりで、自分が努力しようとはしなかった。少なくともあの頃のわたくしには、王族の妻となることで頭がいっぱいだったのよ。これはもう妃としてはおろか、臣下としても失格だわ」
そこまで一息に言ったレヴェッカは、瞳を俯ける。
「自分のことばかり考えていたのはわたくしの方。貴方は自分のことに手一杯だったというけれど、貴方はオリヴィエル殿下や国のことまで考えていた。そればかりか、わたくしの身の安全を図るために随分と気を配ってくれたわ。そんな貴方を責める資格は、わたくしには初めからなかったのよ。王族に名を連ねようというのであれば、冷静に状況を見極め判断できなければならなかった。貴方の置かれた状況を把握して動かなければならなかった。でもわたくしにはそれができなかった。自分のことばかり考えて、王家に嫁ぐということの意味を何一つ考えていなかったわ」
後ろ盾がなく味方も少ない状況で、それでも立太子した異母弟を支えるために奮闘し続けて身体まで壊した、そんなアレクの不調に気付かなかったばかりか、秘密の恋人という曖昧な立場から婚約者になりたいがために、我が儘ばかりを言って。
挙句、別れ話に激高して、罵倒の限りを尽くして。
自らの罪を振り返るかのようにそこまで語ったレヴェッカの手が、膝の上で強く握り込まれた。
「――あの頃のわたくし、貴方の恋人という立場を守ることばかり考えて、あまり冷静に話し合えるような状態ではなかったでしょう。そんな状態では、きっと貴方だって身分を捨てて姿を隠すだなんて、とても言い出せなかったでしょう。貴方が結局事後承諾のような形で別れ話を切り出すことになってしまったのも、そんな状況を作り出していたわたくしのせいだったと今なら分かるわ」
レヴェッカはその場に跪いたまま、ソファに腰掛けているアレクの顔を覗き込んだ。
「ごめんなさい、アレク。わたくしがあまりにも愚かだったばかりに、貴方をひどく傷付けてしまったわ。頑張り過ぎて身体を壊していたのに、わたくし、なんてことを……」
すすり泣くレヴェッカを、アレクは長いこと黙って見つめていた。
結局のところ、どちらかが一方的に悪いという話ではなかったのだ。
「……俺たちは未熟だった。歩み寄り、支え合おうという気持ちがお互いに足りなかったんだな」
だからこそ、あの結末を迎えてしまった。いずれああなることは必然だったのだ。
あのときの二人がもう少し冷静であったなら。
もう少し視野が広かったなら。
もう少し大人であったなら。
そうしたらもっと違う結果があっただろうか。
しかし、もう十九年も前に為されてしまった事柄に、もしもの話をするのはあまりに不毛だ。
あの日決別した二人が再び歩み寄ることができた今、これからの話をするべきなのだ。
「聞いてくれ、レヴィ。確かにあのときは辛かった。君の言葉にだってひどく傷付いたさ。それ以上に、何もできなかった自分が歯痒く、許せなかった。でもな、今の俺はもう決して無力ではない。己が身と大切な者を護れる力を手に入れた。気の置けない友人だってたくさんいる。それになにより最愛に巡り合えたんだ。俺は今、このうえなく幸せだ。レヴィはどうだ。君は今、幸せか?」
「……ええ。ええ、勿論よ、アレク」
頬を伝う涙を拭いながら、レヴェッカは口元に笑みを刻んで頷いた。
「貴方と陛下の気遣いで、最愛の人に巡り合えたの。確かに後添えだし、歳だって親子くらいに離れているわ。でも、でもね、あの人となら何でも語り合えるの。あの人と二人で庭や畑をいじりながら、色々なことを語り合う日々は何ものにも替え難いわ。二人で支え合って、子どもにも恵まれて、今はとても幸せよ。ねぇ、アレク」
アレクの手を両手でそっと包み込んだレヴェッカは、決別するずっと前、まだ十代前半の幼かったあの頃に見せてくれた、優しい微笑みを湛えて言った。
「わたくしたち、もう二度と間違えては駄目よ。そして今以上に幸せになるの。それが、あの日に間違えたわたくしたちができる、唯一の贖罪だと思うわ」
「……そうだな」
アレクは頷いた。その瞬間、目尻から温かな水滴が零れ落ちる。
「約束だ、レヴィ」
差し出した手を一瞬驚いたように見つめたレヴェッカは、やがて綻ぶように笑い、そして握り返してくれた。
「――さぁ、これ以上は身体に障る。産後の身体は思う以上に傷付いていると聞く。部屋に戻って休むんだ」
握手を解いて代わりに腕を差し出すと、彼女は昔を懐かしむように目を細めた。
「……相変わらず、優しいのね」
――甘く優しい恋に浸っているだけでよかった、まだ子どもだった二人の幻が目の前を過ぎり、窓から吹き抜けた爽やかな風に掻き消されていく。
過ぎ去った日々を思い出していたのだろうレヴェッカは、やがて微笑を引っ込めて「でも、大丈夫よ」と言い、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「こう見えてもわたくし肉体派なの。旦那様を手伝って農作業だってするのですもの。鍬で魔獣を追い払ったことだって何度もあるわ。だから大丈夫。でも、そうね。竜の英雄様がエスコートしてくださるのですもの、せっかくだから甘えさせていただこうかしら」
己が知るあの頃よりも、ずっと強く逞しい女になったかつての恋人に目を丸くしたアレクは、次には弾けるように笑いだした。
時を経ても変わらないものもあれば、驚くほどの変化を遂げるものもある。
十九年という時を経て、拗れた縁はようやく正された。
その先にあるのは友人、あるいは姉弟のような間柄に変化した二人だ。




