第8話 六席だけの屋台
百人を超える人々へラーメンを振る舞った翌日から、古い作業小屋を店へ変えるための仕事が始まったが、蓮司が最初に直面した問題は、鍋でも炉でも食材でもなく、店の入口に取りつける扉だった。
「閉まりません」
リーゼが扉の取っ手を両手で引き、隙間から差し込む朝の光を見つめながら、淡々と告げた。
「見れば分かる」
「昨日、蓮司は“蝶番へ油を差せば使える”と言いましたね」
「油を差したら、動くようにはなっただろ」
「動くようになった結果、扉そのものが斜めに傾き、下の角が床へ引っかかって、開いたまま閉じなくなりました」
「蝶番ではなく、柱が歪んでいたらしいな」
「昨日のうちに、私もその可能性を申し上げたはずです」
「言っていたか」
「言いました。蓮司は床から生えていた青い茸の乾燥具合を確かめるのに夢中で、返事だけして聞いていませんでしたが」
「あれは食材になる可能性がある」
「扉も店に必要です」
リーゼが手を離すと、扉は低い軋み声を上げながら、さらに外側へ傾いた。
壁との間には、猫なら問題なく通り抜けられそうな隙間ができている。
その隙間から、赤茶色の髪と猫耳が覗いた。
「店主、これ、入口から入る意味ある?」
ミーナは半身になって扉の脇をすり抜け、そのまま店内へ入ってきた。
「入口から入れ」
「今、入口から入ったわよ。扉を開けてないだけで」
「客が真似をする。行儀の悪いことをするな」
「お客なんて、まだいないでしょう」
「今日から来る」
「本当に?」
ミーナは疑うように店内を見回した。
掃除を終えた石床。
煤を落とし、修理した炉。
錆を削り、何度も煮沸した鍋。
作業小屋の正面を開放し、その前に置かれた長い板と六つの椅子。
屋台と呼ぶには小屋へ寄りかかりすぎており、店舗と呼ぶには壁も屋根も頼りない、何とも中途半端な造りである。
それでも暖簾代わりの白い布が入口へ吊るされ、その中央には、職人に頼んで描いてもらった《異世界麺処・蓮》の文字があった。
看板代を聞いたとき、蓮司は自分で書くともう一度主張したが、リーゼとミーナが揃って反対した。
最終的に看板職人へ依頼したところ、蓮司が見本として書いた文字を見た職人からも、「これは店名ではなく、魔物を封印する呪符に見える」と言われ、本人はしばらく不機嫌になった。
「百人へ食べさせたんだから、今日も並ぶと思ってるの?」
ミーナが六脚しかない椅子を数えた。
「昨日のラーメンは無料だった。今日は金を取る」
「だったら、みんな来ないんじゃない?」
「一人も来ない可能性はある」
「そこは自信満々に、絶対来るって言いなさいよ」
「根拠のないことを言って、来なかったら余計に惨めだろ」
「店主が開店前から、そんな暗いことを言わないでください」
リーゼが傾いた扉を押し上げながら言った。
「せめて、“味には自信があるので、食べてもらえれば必ず分かる”くらいは言えないのですか」
「食べてもらえれば、味は分かる」
「言葉が足りません」
「だが、事実だ」
「商売は、正しいことだけ言っていれば客が来るほど簡単ではないのでしょう?」
リーゼの言葉に、蓮司は黙った。
その通りだった。
前世の《麺処かみや》も、開店初日から行列ができたわけではない。
蓮司が長く働いていた店の客や、修業時代の仲間が顔を出してくれたため、最初の数日はそれなりに賑わったが、一か月を過ぎると客足は落ち、昼営業で十杯も出ない日が続いた。
味さえよければ客は来る。
当時の蓮司は、本気でそう信じていた。
だが客は、存在を知らない店へは来ない。
知っていても、入りにくければ避ける。
値段が分からなければ不安になる。
誰も食べていない店へ、一人で入ることを恥ずかしがる者もいる。
料理人が料理だけを見ていれば店が続くわけではないと、前世で嫌というほど学んだ。
それでも、今の蓮司には、派手な宣伝へ使える金も、以前の店で得た評判もなかった。
「まず、扉を直す」
「客の話から逃げましたね」
「開いたままの扉では、夜に食材を置けない」
「それは正しいですが、先ほどの話が消えたわけではありません」
「俺が来いと言って、客が来るなら苦労しない。今日来なければ、明日の方法を考える」
「また一人で考えるつもりですか」
「三人で考える」
リーゼが目を瞬いた。
「……珍しく、先回りしましたね」
「俺だって同じ注意を何度も受ければ覚える」
「過労についても、そのくらい覚えてください」
「今は扉の話だ」
「また逃げました」
ミーナが二人を見比べ、呆れたように尻尾を揺らした。
「夫婦みたい」
「違います」
リーゼは即座に否定した。
「出会って三日だ」
「蓮司は、どうして毎回、そこを否定するのです!」
「事実だからだろ」
「期間が長ければよいという意味に聞こえるでしょう!」
「聞こえないわよ。リーゼが気にしすぎなんじゃない?」
「ミーナまで余計なことを言わないでください!」
開店前の小さな店には、客の代わりに三人の声だけが響いていた。
◇
扉は、冒険者ギルドの修繕係から木工道具を借り、柱の下へ薄い板を噛ませることで、どうにか閉まるようになった。
完全ではない。
閉めるときには少し持ち上げ、左下を蹴る必要がある。
「客へ扉の閉め方を説明する店なんて、聞いたことがありません」
リーゼが言った。
「開店中は開けておけばいい」
「冬はどうするのです」
「冬までに直す」
「本当に?」
「店が続いていればな」
「また暗いことを言う」
ミーナが入口の横へ木札を置いた。
リーゼが書いた品書きには、今日の料理が一つだけ記されている。
《白角鹿と毒牙鼠の塩ラーメン》
並盛り、銅貨六枚。
肉増し、銅貨八枚。
麺大盛り、銅貨一枚追加。
値段を決める際には、三人の間でかなり長い口論があった。
蓮司は、材料費と薪代だけを考え、銅貨四枚でよいと主張した。
リーゼは、作業小屋の修繕費、道具の買い替え、ミーナへ将来支払う賃金、蓮司自身の生活費まで含めるべきだと反対した。
ミーナは、「高くすると貧民街の人が食べられない」という理由で銅貨二枚を提案したが、それでは一杯売るたび赤字になると知り、今度は「お金持ちには銅貨十枚、貧しい人には二枚にすればいい」と言い出した。
「同じ料理なのに、客の服を見て値段を変えるのは駄目だ」
蓮司が言うと、ミーナは納得しなかった。
「でも、お金持ちは払えるでしょう」
「払えることと、理由もなく多く取っていいことは別だ」
「じゃあ、貧しい人が食べられないじゃない」
「手伝いと引き換えに出すまかないを用意する。店の掃除、薪割り、器洗い。働けない事情がある奴は、そのとき考える」
「誰にでも無料で出すのではないのですね」
リーゼが確かめた。
「それを続ければ店が潰れる。店がなくなれば、誰にも出せない」
「昨日の蓮司なら、また百人分を一人で無料で作ると言い出すかと思いました」
「俺を何だと思ってる」
「過労で一度死んだ人です」
「毎回それを言うな」
「忘れないためです」
結局、一杯銅貨六枚という価格に落ち着いた。
ギルド食堂の肉入り煮込みと黒パン一つが銅貨五枚であるため、それより僅かに高い。
量は十分にあり、魔物肉とはいえ肉も入っている。
安すぎれば材料を買えず、高すぎれば誰も試さない。
ぎりぎりの価格だった。
日が高くなり、昼の鐘が鳴った。
蓮司は炉へ薪を入れ、鍋の蓋を開けた。
白い湯気とともに、白角鹿の骨、野菜、毒牙鼠の肉から取った澄んだ香りが店の外へ流れ出す。
岩鎧猪の脂を少量だけ精製し、清流葱に似た香草を加えて作った香味油も用意した。
前回のまかないラーメンより、味の輪郭は強くなっている。
麺の太さも、三人で型を作り、それへ合わせて切ったため、かなり揃った。
少なくとも、昨日より旨い。
「開店だ」
蓮司が言った。
誰も来なかった。
◇
昼の鐘から、一刻が過ぎた。
店の前を冒険者たちが何度も通った。
鍋から漂う匂いへ顔を向ける。
品書きを読む。
六脚の椅子と、誰も座っていない店内を見る。
そして、足を止めることなく通り過ぎる。
「今の人、三回目」
入口に立つミーナが言った。
「さっきから同じ道を行ったり来たりしてる」
「気になるなら、入ればいいのにな」
「蓮司の顔が怖いんじゃない?」
「料理人の顔で店を選ぶのか」
「選ぶ人もいます」
リーゼは椅子の位置を直しながら言った。
「特に、誰も客がいない店の中で、腕を組んだ店主が無言で入口を睨んでいれば、入りづらいでしょう」
「睨んでない」
「では、どのような顔ですか」
「客が来ない理由を考えている」
「考えている顔が怖いのです」
「笑っていればいいのか」
「不自然な笑顔は、もっと怖いと思います」
「では、どうすればいい」
「厨房で何かしてください。店主が暇そうに客を待っていると、入る側も監視されているように感じます」
蓮司は納得できなかったが、何もしないよりはましだと考え、包丁を取り出して香草を刻み始めた。
数分後、一人の冒険者が店の前で立ち止まった。
若い男だった。
品書きを読み、鍋の香りを嗅ぎ、店内を覗き込む。
蓮司が包丁を動かしながら、視線だけを向けると、男は目を逸らし、そのまま早足で去っていった。
「今、目が合った瞬間に逃げた」
ミーナが言った。
「包丁を持ったまま見たからです」
リーゼが続けた。
「料理中なんだから、包丁を持っているのは普通だろ」
「顔が普通ではありません」
「失礼だな」
さらに半刻が過ぎた。
スープは、火へ掛け続ければ変化する。
煮詰まれば塩味が強くなり、香りも重くなる。
客が来る時間を予測し、開店時に最良の状態へ持っていくつもりだったが、誰も来ないまま時間だけが過ぎていく。
「火を落とす」
「もう閉めるの?」
ミーナが驚く。
「違う。これ以上煮詰めないよう、保温へ切り替える」
「客は来るでしょうか」
リーゼの声には、蓮司を責める響きはなかった。
だからこそ、答えにくかった。
「分からない」
「百人へ振る舞った人たちが、噂を広めているはずです」
「無料で食うのと、金を払うのは違う」
「値段が高いのでしょうか」
「それもある。だが一番は、魔物肉だろうな」
毒牙鼠を安全に食べられると、ギルドの薬師が確認した。
昨日食べた百人以上にも、症状を訴えた者はいない。
それでも、長年の常識は、一日で消えない。
魔物肉は毒。
食べれば死ぬ。
飢えていた者なら無料で試しても、金を払ってまで食べるとなれば、躊躇する。
「料理名から、毒牙鼠を外しますか」
リーゼが言った。
「隠して売るのか」
「隠すのではありません。森肉や狩猟肉という表現にして、尋ねられたら説明する方法もあります」
「駄目だ」
蓮司は首を振った。
「材料名を見たら食わない客へ、言葉を変えて食わせても、あとで知れば騙されたと思う。最初から説明して、それでも食いたい奴に出す」
「その頑固さで、店が潰れたら?」
「そのときは、説明の仕方を変える。材料は変えない」
「微妙な違いですね」
「大きな違いだ」
リーゼはしばらく考え、頷いた。
「分かりました。私も、知らないうちに魔物肉を食べさせられていたら、蓮司を信用できなかったと思います」
「お前の場合、最初から知っていても信用してなかっただろ」
「出会ったときのあなたは、血まみれの包丁を持っていましたから」
「まだ言うのか」
「事実です」
昼の営業予定時間が、半分を過ぎた。
客は一人も来ない。
ミーナは次第に入口へ立たなくなり、椅子へ座って尻尾を床へ垂らしていた。
「昨日、みんな美味しいって言ってたのに」
「旨いと言った客が、毎日来るわけじゃない」
「でも、一人くらい来てもいいでしょう」
「そうだな」
「あたしが呼んでこようか」
「無理に連れてくるな」
「貧民街へ行けば、銅貨を持ってる人も少しくらいいる。昨日食べた人に――」
「今日の生活に必要な金を使わせるな」
「じゃあ、どうするの」
「待つ」
「待ってるだけ?」
「開店初日は、店がここにあると知ってもらう日でもある。今日来なくても、匂いを覚えた奴が明日来るかもしれない」
「本当は、すごく悔しいくせに」
ミーナの言葉に、蓮司は包丁を動かす手を止めた。
「そう見えるか」
「見える。口がいつもより曲がってる」
「もともとだ」
「昨日、百人に食べさせたときは、ちょっとだけ嬉しそうだった。今は、鍋に怒ってるみたい」
「鍋に怒ってはいない」
「じゃあ、自分に?」
蓮司は答えなかった。
味は悪くない。
昨日より改善した。
安全も確認した。
値段も、続けられる範囲で抑えた。
それでも客が来ない。
料理人にとって、不味いと言われることと同じくらい、食べてもらえないことは辛かった。
不味いなら直せる。
薄い、濃い、硬い、臭い。
欠点を言われれば、次の一杯へ生かせる。
だが、食べてもらえなければ、料理は存在しないのと同じだった。
「悔しい」
蓮司が言うと、ミーナは少し驚いた顔をした。
「正直に言うのね」
「隠しても、客は増えない」
「じゃあ、あたしが一杯買う」
「金を持ってるのか」
「昨日もらった銅貨が二枚ある」
「足りない」
「まかないの前借り」
「お前は店員だ。営業が終われば出す」
「今食べれば、最初のお客になれるでしょう」
「客のふりをして椅子へ座る店員がいるか」
「誰もいない店より、誰か食べてる店のほうが入りやすいって、リーゼが言ったじゃない」
「私は、そこまで言っていません」
「似たようなこと言ったわよ」
「しかし、通行人を騙すことになります」
「騙すってほどじゃないでしょう。あたしだって食べたいもの」
「駄目だ」
蓮司は言った。
「最初の客は、金を払って、この店を選んだ奴に出す」
「変なところへこだわるのね」
「店員へ食わせるまかないと、客へ出す一杯は違う」
「味は同じでしょう」
「作る気持ちが違う」
「それで味が変わるの?」
「変えないようにする。だが、同じではない」
ミーナは理解できない顔をしたが、それ以上は言わなかった。
◇
昼の営業を終える鐘が、遠くで鳴った。
結局、客は一人も来なかった。
鍋には、二十杯以上のスープが残っている。
麺は保存が利くが、打ちたての状態ではなくなる。
「閉める」
蓮司が言う。
「本当に?」
ミーナが入口から外を見た。
「もう少し待てば、誰か来るかもしれない」
「決めた時間を過ぎて、いつ来るか分からない客を待ち続ければ、仕込みも休憩もできない。営業時間は守る」
「でも」
「今日は終わりだ」
蓮司は火を落とした。
店の前に置いた木札を裏返そうとしたとき、低い声が聞こえた。
「待て」
振り返ると、店の前に一人の男が立っていた。
五十歳を少し過ぎたくらいだろう。
灰色の髪と無精髭。
革の上着は擦り切れ、右腕には古い傷跡が何本も走っている。背負っている大きな籠には、鉱石や工具が詰め込まれていた。
冒険者というより、鉱山で働く荷運び人に見える。
「まだ食えるか」
男は品書きを見ながら尋ねた。
「鐘が鳴ったばかりだ。火は落としたが、出せる」
「なら一杯くれ」
蓮司はすぐに木札から手を離した。
「並盛りか、大盛りか」
「並でいい。それと」
男は品書きの文字を指した。
「本当に毒牙鼠が入ってるのか」
「ああ」
「昨日、南壁で配ったものと同じか」
「スープも麺も、昨日より直してある」
「つまり、昨日とは違う?」
「昨日より旨い」
男は蓮司の顔を見た。
「自信があるんだな」
「昨日のまま出すなら、今日仕込む意味がない」
「食って死んだら?」
「薬師が安全を確認している。処理方法もギルドへ提出する。ただ、絶対に何も起きないと、神のような約束はできない」
「商売人なら、“絶対安全です”くらい言うもんじゃないのか」
「言うだけなら簡単だ。だが、嘘を聞いて安心したいなら、ほかへ行け」
「蓮司」
リーゼが低い声で咎める。
せっかく来た最初の客を、追い返すような言い方だった。
しかし男は怒らず、喉の奥で笑った。
「なるほど。南壁の連中が言ってた通りだ。料理は旨いが、店主の言葉は塩よりきつい」
「誰が言った」
「みんなだよ」
「なら来るように言ってくれ」
「金がねえ奴が多い」
「それも聞いてる」
男は銅貨を六枚、板の上へ置いた。
「俺は今日、鉱山で臨時の運搬をして、少し余裕がある。無料で食った連中が、金を払っても食いたい味かどうか確かめてこいとうるさくてな」
「お前が代表か」
「自分で食いたかっただけだ。格好をつけるほど立派な人間じゃねえよ」
男は六席の中央へ座った。
「名前はオルド。昔は冒険者だったが、膝を壊して、今は鉱山と倉庫で荷を運んでる」
「蓮司だ」
「店名に書いてある」
「俺は読めない」
「自分の店の看板が読めないのか?」
「勉強中だ」
オルドは声を上げて笑った。
「変な店へ入っちまったな」
「まだ注文を取り消せるぞ」
「いや。ここまで来たら食う」
蓮司は炉へ火を戻した。
鍋のスープを別の小鍋へ移し、強く煮立たせないよう温度を上げる。
麺を一人前だけ湯へ入れる。
リーゼが湯切り籠を用意し、ミーナは慌てて木椀を洗い直した。
「さっき洗った!」
「最初のお客へ出すんでしょう。もう一度洗う!」
「洗いすぎて木が削れるぞ」
「店主は黙って麺を見てて!」
蓮司は言い返さず、麺へ集中した。
一人前。
鍋の中には、その一人分だけが泳いでいる。
百人分を作るときとは違う。
一本一本の動きが見える。
麺を上げ、余分な湯を切る。
器へタレを入れ、香味油を一匙。
温めたスープを注ぎ、麺を整える。
毒牙鼠の肉を三枚。
白角鹿の骨で煮た根菜。
清流葱を刻み、中央へ載せる。
「白角鹿と毒牙鼠の塩ラーメンだ」
オルドの前へ器を置いた。
「変な取り合わせだな」
「食ってから言え」
「客への態度じゃねえ」
「麺が伸びる」
「はいはい」
オルドは木匙でスープをすくった。
匂いを嗅ぎ、慎重に口へ入れる。
蓮司は何も言わず、男の顔を見た。
リーゼとミーナも、少し離れた場所から息を詰めている。
「見すぎだ」
オルドが言った。
「食いにくい」
「最初の客だからな」
「初めて女に会った子供みたいな顔をするな。もっと自然にしろ」
「どんな顔だ、それは」
「知らん。例えだ」
オルドは麺を持ち上げた。
この世界では箸が一般的でないため、木製の二股叉と匙を用意してある。叉で麺を巻き、口へ運ぶ。
数度噛む。
肉を食べる。
根菜をかじる。
「どうだ」
ミーナが我慢できずに聞いた。
「店員が先に感想を催促するな」
蓮司が止める。
「蓮司だって聞きたいくせに」
「食い終わるまで待つ」
オルドは無言で食べ続けた。
やがて器を両手で持ち、残ったスープを直接飲む。
器を板へ戻したとき、その中には清流葱の欠片一つ残っていなかった。
「旨かった」
オルドは短く言った。
蓮司は、胸の奥で固まっていたものが、ようやく少し溶けるのを感じた。
「そうか」
「それだけ?」
ミーナが小声で言う。
「よかったです、でも、ありがとうございます、でも、何かあるでしょう」
リーゼも続ける。
「二人とも黙れ」
オルドが笑った。
「店主、尻に敷かれてるな」
「違う」
「出会って三日です!」
リーゼがなぜか日数を補足した。
「それで、味は」
蓮司は改めて尋ねた。
「旨いと言っただろ」
「具体的に」
「面倒な店だな」
「次へ直すためだ」
オルドは空の器を見つめた。
「スープは、最初の一口だと少し薄く感じた。だが飲んでるうちに、肉の味が出てくる。鉱山帰りには、もう少し塩が強くてもいい。汗をかいてるからな」
「客ごとに塩を変えるか」
「そんなことできるのか」
「注文のときに言えばな」
「なら、“鉱夫向け濃いめ”と書いとけ」
「濃いめと薄めですね。品書きへ加えます」
リーゼがすぐに記録する。
「麺は?」
「腹には溜まる。黒パンより食いやすい。ただ、俺はもう少し太くても好きだな。歯で噛んでる感じが欲しい」
「肉は」
「鼠だと聞いてなければ分からん。柔らかいし、臭くない。ただ三枚だと、肉増しを頼めばよかったと途中で思った」
「次は銅貨八枚だ」
「商売が早いな」
「売れなければ、店が続かない」
「それでいい」
オルドは立ち上がり、荷籠を背負った。
「明日も同じ時間に開けるのか」
「ああ」
「席は六つだけ?」
「今はな」
「なら、少し早く来たほうがよさそうだ」
「一人なら、今日と同じで空いてる」
「誰が一人だと言った」
オルドは店の外へ出た。
「鉱山の連中へ教えてやる。無料で食った奴らの話が大げさじゃなかったとな」
「無理に褒めるな。気になったところも言え」
「十分言っただろ。それに、客が増えたら、お前は一人で全部作ろうとするんじゃないか?」
蓮司は答えなかった。
オルドはそれを見て、意地の悪い顔で笑った。
「明日、俺たちが来るまでに、そこの二人へ仕事を任せる練習をしておけ。過労で死んだ料理人さんよ」
「誰から聞いた」
「南壁の連中」
オルドは片手を上げ、笑いながら去っていった。
「話が広がるのが早すぎる」
蓮司が呟く。
「百人以上が聞いていましたから」
リーゼは当然のように答えた。
「明日、一人ではないと言っていましたね」
ミーナが嬉しそうに耳を動かした。
「二人かもしれない」
「十人かも」
「六席しかない」
「外で待ってもらえばいいでしょう」
「麺は何食分仕込む」
「まず二十」
「蓮司」
リーゼが低い声で呼ぶ。
「何だ」
「今日、客は一人でした。明日の人数が分からない状態で、また大量に仕込むのですか」
「……十五」
「十食でよいと思います。足りなければ、売り切れとして次へつなげる。余らせるより安全です」
「十では少ない」
「では十二」
「十三」
「子供のような交渉をしないでください」
「十二でいい」
ミーナが笑った。
「もう一人で決めなくなったね、店主」
「お前たちが、いちいち口を出すからだ」
「嫌?」
ミーナに聞かれ、蓮司は少し考えた。
「面倒だ」
「嫌かって聞いたの」
「嫌ではない」
リーゼが柔らかく笑った。
「では、明日の仕込みを始めましょう。ただし、先に私たちもまかないをいただきます。昼から何も食べていません」
「そうだったな」
「また忘れていたのですか」
「客が来なかったから、食う気にならなかった」
「私たちは働いています。店主の気分で、店員の食事まで抜かないでください」
「悪かった。すぐ作る」
「蓮司も食べてください」
「味見はしてる」
「それは食事ではありません」
前の世界で、何度も言われた言葉だった。
相馬から。
家族から。
付き合っていた女から。
そのたびに適当な返事をして、仕事へ戻っていた。
「分かった。三人分作る」
「店主も一緒に食べるの?」
ミーナが尋ねる。
「ああ」
「同じ席で?」
「六席もある。三人なら余る」
「そういう意味じゃないけど、まあいいや」
店を開けた最初の日。
金を払った客は、たった一人だった。
それでも三人は同じ板へ並び、残ったスープで作ったラーメンを食べた。
味の反省をしながら。
明日の仕込みを相談しながら。
ミーナが肉を一枚多く取ったと揉めながら。
誰もいない店で一人きりのまかないを食べていた前世より、騒がしく、面倒で、ずっと食事らしい食事だった。
◇
翌朝。
開店まで半刻あるというのに、店の前から人の声が聞こえた。
「早すぎないか」
蓮司が扉を開ける。
扉の左下が床へ引っかかり、途中で止まった。
「店主、少し持ち上げてから蹴るんだったな」
外からオルドの声がした。
扉の隙間を覗くと、昨日の男が立っていた。
その後ろには、作業着姿の鉱夫や荷運び人が、ずらりと並んでいる。
一人。
二人。
三人。
数える。
「十人」
ミーナが蓮司の脇から顔を出し、嬉しそうに叫んだ。
「本当に十人連れてきた!」
「声が大きい」
「だって、当たったもの!」
リーゼも奥から出てきた。
「十二食分しか、仕込んでいません」
「三人分は、まかないに残す」
「それでは九食です」
「俺たちは、売り切れたあとで別のものを食えばいい」
「また自分たちの食事を後回しにするのですか」
「客が十人いる」
「今後、同じことが続けばどうするのです」
「今日は――」
「店主!」
オルドが扉の向こうから笑った。
「開店前に夫婦喧嘩を始めるなら、俺たちは帰ったほうがいいか?」
「違います!」
リーゼの声が朝のギルド裏へ響いた。
「出会って四日目です!」
「日数を増やして報告するな!」
並んでいた男たちが、一斉に笑った。
蓮司は傾いた扉を持ち上げ、左下を蹴って完全に開いた。
「まだ開店前だ」
「待つさ」
オルドが答える。
「昨日食ったラーメンの話をしたら、こいつらが仕事の前に寄ると言い出した。濃いめにできると言ったのも本当だろうな」
「できる。だが一度に六人しか座れない」
「残りは外で待つ。鉱山じゃ、飯の列に並ぶのは慣れてる」
「十二食しかない」
「俺たちは十人だ」
「店員のまかないが減る」
「なら次から多く仕込め」
「簡単に言うな。余れば損になる」
「店主らしいことを言うようになったじゃねえか」
オルドは笑いながら、銅貨を板の上へ置いた。
その後ろの男たちも、それぞれ財布を取り出す。
昨日は、営業中ずっと空いていた六つの席。
今日は、開店前から十人が待っている。
たった一杯が、十杯になった。
十杯が、明日いくつになるかは分からない。
味を守れるのか。
仕込みは足りるのか。
三人で店を回せるのか。
問題は山ほどある。
それでも蓮司の胸には、客が一人も来なかった昨日にはなかった、久しく忘れていた熱が戻っていた。
「ミーナ、器を並べろ。リーゼ、最初の六人分の麺を量る。濃いめが何人か、先に聞いてくれ」
「はい!」
「分かりました。ただし蓮司、自分だけで全部やろうとしないでください」
「分かってる」
「本当に?」
「今日は、三人の店だ」
口へ出すと、少し気恥ずかしかった。
だがミーナは嬉しそうに尻尾を立て、リーゼも一瞬驚いたあと、静かに微笑んだ。
「では、店主」
リーゼが暖簾を持ち上げる。
「開店してください」
蓮司は炉の火を確かめ、鍋の蓋を開けた。
熱い湯気と、魔物の骨から引き出した旨味の香りが、朝の空気へ広がっていく。
「《異世界麺処・蓮》、開店だ」
六席だけの小さな店に、初めて行列ができた。
そして、その行列を広場の向こう側から、値踏みするような目で見つめる男がいた。
上等な外套をまとい、指には大きな宝石の指輪。
男は店先へ漂う香りに顔をしかめ、隣にいた従者へ低く尋ねた。
「あの店が、ギルドから魔物肉を無償で受け取っているという料理屋か」
「はい、ベルトラン様。昨日は貧民街で百人以上へ料理を配ったそうです」
「捨てるはずの肉をただで手に入れ、我々の市場を通さず商売を始めるとは、随分と都合のよい話だ」
商業ギルド食材部門を取り仕切る男、ベルトランは、六席だけの店へ並ぶ客たちを見ながら、薄く笑った。
「麺など、貧民が腹を膨らませるための餌にすぎん。早いうちに、誰の許可を得て商売をしているのか教えてやろう」




