第7話 貧民街の百人前
古い作業小屋の床から生えていた茸を、食べられるかもしれないという理由だけで残そうとする蓮司と、どう見ても腐っているから先に捨てるべきだと主張するリーゼ、それから掃除を早く終わらせなければ飯にありつけないと騒ぐミーナの三人が、最初の口論を始めてから一時間ほどが経った頃、冒険者ギルドの裏手に放置されていた石造りの小屋は、ようやく人間が立ち入っても病気にならない程度の場所へ変わり始めていた。
「だから、その茸は食べられないって言ってるでしょう! さっきから、触ると指が青くなってるじゃない!」
「青くなったから毒とは限らない。色素が移っただけかもしれない」
「毒の可能性が少しでもあるなら捨てなさいよ! どうして床から生えてる茸に、そこまで未練があるの!」
「食えるものなら捨てる必要がないからだ」
「その考え方のせいで、掃除が全然進まないんでしょう!」
ミーナは苛立たしげに尻尾を振り、柄の短い箒で床を叩いた。
まだ背丈も十分に伸びきっていない猫獣人の少女が使うには、倉庫から見つけてきた箒は重く、長さも合っていない。柄の中央を持って力任せに振り回すため、埃を外へ掃き出すより、小屋の中へ舞い上がらせている量のほうが多かった。
「ミーナ、箒は敵を殴る道具ではありません。柄の端を持ち、穂先を床から離しすぎず、手前へ集めるように動かしてください」
「分かってるわよ!」
「分かっている人の掃き方ではありません。埃を見てください。先ほどより空気が白くなっています」
「だったら自分でやればいいじゃない!」
「私は水場の汚れを落としているでしょう。それに、あなたが食事と引き換えに引き受けた仕事です」
「何よ、その言い方。あんたは店主でもないくせに」
「私も店員ではありません」
「じゃあ、何なのよ」
「……試食係です」
リーゼは答えたあと、自分でもその肩書きに納得していないような顔をした。
騎士として剣を振るっていた人間が、異世界から来た正体不明の料理人の試食係を名乗っているのだから、引っかかりを覚えるのも当然だった。
「何それ。料理を食べて感想を言うだけ?」
「だけ、ではありません。食材の安全性や料理の効果を確認し、蓮司が一人で勝手なことを始めないよう見張っています」
「それ、一番大変な仕事じゃない?」
「あなたにも分かりますか」
「何の話だ」
蓮司は床へしゃがみ込み、問題の茸を包丁の先で慎重に切り取っていた。
傘は濃い青色で、裏側は乳白色。柄を折ると、切断面から透明な液体が滲み出し、甘い果実のような香りがする。
頭の奥へ《食材鑑定》の情報が浮かぶ。
《青酔茸》。
食用可能。
ただし生食では、軽度の酩酊作用および皮膚の青変を引き起こす。
乾燥、または十分な加熱により酩酊成分は減少。
「食える」
「その青い指で言わないでください」
リーゼが呆れた声を出した。
蓮司の左手の人差し指と親指は、茸の汁が付着したせいで鮮やかな青色へ変わっている。
「色が移るだけだ。痛みも痺れもない」
「生で食べると酔うらしいわよ、その茸」
ミーナが口を挟んだ。
「知っているのか」
「貧民街のおじさんが食べて、半日ずっと壁に向かって自分の結婚式の挨拶をしてたことがあるもの。奥さんなんかいないのに」
「加熱すれば?」
「普通は、そこまでして食べようと思わないでしょう」
「リーゼ、お前に聞いてない」
「顔に書いてあったので答えました」
「火を通せば平気だと思う。あのおじさん、生で齧ってたから」
「なら、乾燥させて香りを確かめる。出汁や香味油に使えるかもしれない」
「今日の百人前に入れたりしませんよね」
リーゼが念を押した。
「入れない。初めて食う子供へ、効果の確かでないものは出せない」
「そこだけは、本当に信用できます」
「そこだけ、を強調するな」
蓮司は青酔茸を別の籠へ移した。
小屋の片隅には、捨てる物、洗えば使える物、食材になる可能性がある物という三つの山ができていた。
欠けた皿。
底へ穴の開いた鍋。
錆びた包丁。
形の違う木椀。
火箸。
古い布。
長い間使われていなかった作業場だったため、まともな調理器具は少なかったが、炉と水場が生きているだけでもありがたい。
「ねえ」
ミーナが箒を止めた。
「本当に百人分も作るの?」
「そのつもりだ」
「どうして?」
「どうしてとは」
「あたしは掃除をする代わりに食べさせてもらう。でも貧民街の連中は、何もしてないでしょう。百人分も食べ物を配ったって、あんたには何も返ってこないじゃない」
「働ける奴には、手伝わせる」
「そうじゃなくて。お金も取らないんでしょう?」
「最初はな」
「最初は?」
ミーナが警戒するように目を細めた。
「あとで高い金を取るつもり?」
「安全性も味も分からない料理を、最初から売れるか。今日の一杯は試食と宣伝を兼ねる」
「宣伝?」
「旨ければ、食べた奴が勝手に話す。店を始めるなら、それが一番早い」
蓮司は炉の灰を掻き出しながら答えた。
「それに、毒牙鼠は今まで捨てられていた。陽麦も、形の悪いものなら安く手に入るとガルドが言っていた。捨てられる食材を金へ変えられると分かれば、冒険者もギルドも得をする。腹を空かせている奴は飯を食える。俺は新しい食材を試せる。誰か一人が善人になる必要はない。皆が自分の得になる形で続けられるようにしたほうが、長く続く」
「でも、今日はあんたが損をするじゃない」
「最初の一杯から利益が出る店なんて、そう多くない」
「そういうものなの?」
「店を開けば、家賃、道具、仕入れ、人件費が要る。客が来る保証もない。前の店を始めたときは、半年分の運転資金を用意した」
「ウンテンシキン?」
「客が来なくても店を潰さないための金だ」
「そんなお金があるなら、働かなくても食べられるじゃない」
「いつかなくなる。それに、金は店を続けるための道具であって、持って眺めるものじゃない」
ミーナは理解できないという顔をした。
貯めるほどの金を持った経験がないのだろう。
今日食べるものすら確保できない人間に、半年先の経営を説明しても、実感が湧くはずがない。
「でも、あんたはお金を持ってないんでしょう」
「持ってない」
「じゃあ、百人分なんて無理じゃない」
「だから、頭を使う」
蓮司は炉の前から立ち上がり、作業台へ並べた食材を示した。
ギルドから引き取った毒牙鼠、三十二頭。
岩鎧猪の脂と、肉の切れ端。
《寸胴収納》に保存していた白角鹿の骨。
ガルドが用意した規格外の陽麦。
食堂で余った野菜の葉と根。
形が悪いという理由で売れ残った岩塩。
「売り物にならないもの、捨てる予定だったものを集めた。足りないのは人手と器だ」
「器なら、貧民街の人たちに持ってこさせればいいんじゃない?」
ミーナが言った。
「家にある椀とか、鍋とか。あそこに住んでる人は、無料でもらえるって言うと、家族の分まで欲しがって、何回も列に並ぶから」
「お前もやったことがあるのか」
「……あるわよ」
ミーナは少しだけ顎を引いた。
「同じ服で並ぶと顔を覚えられるから、上着を裏返したり、髪を帽子へ入れたりして。小さい子の分だって言えば、もう一杯もらえることもある」
「小さい子はいたのか」
「いない」
「嘘をついたのか」
「食べるものがないんだから仕方ないでしょう!」
ミーナの耳が後ろへ伏せられた。
怒ったというより、責められると思って身構えたように見える。
「悪いとは言ってない」
「顔が怖いのよ」
「生まれつきだ」
「その顔で黙ると、何を考えてるか分からない」
「どうすれば、同じ人間へ何杯も渡さずに済むか考えていた」
「やっぱり、一杯しかくれないの?」
「家族の分まで必要なら、最初から人数を言えばいい。ただ、何も言わず何度も並ばれると、最後の人間へ回らなくなる。食べる奴の名前を聞くか、手へ印をつけるか……」
「名前なんかない子もいるわよ」
ミーナの言葉に、蓮司の手が止まった。
「親がつけた名前を知らない子。小さい頃から誰にも呼ばれてなくて、チビとか、赤毛とか、そんな呼び方しかされてない子もいる」
「そうか」
「だから、名前を言えない奴を追い返したら、あたし怒るから」
「追い返さない」
「本当に?」
「名前がないなら、その場で呼び名を決めてもいい。だが人数は数える。一人一杯、足りない子供には少し多めにする」
「大人は?」
「働ける大人は、準備を手伝わせる。薪を運ぶ、湯を沸かす、器を洗う、列を整理する。何もできない病人や老人には、持っていく」
「食べさせる代わりに働かせるんですね」
リーゼが言った。
「嫌か」
「いいえ。むしろ、ただ施すよりよいと思います。食べ物を受け取るだけでは、相手によっては誇りを傷つけられたと感じるでしょう。自分も料理を作る側へ関わったと思えたほうが、受け取りやすい」
「そこまで考えたわけじゃない」
「では、何を考えたのです」
「俺一人では百人分を作れない」
リーゼは数秒黙り、やがて苦笑した。
「理由は現実的ですが、結果としては悪くありませんね」
「善意だけで百人へ食わせようとするより、現実を見たほうがいい」
「その言葉を、自分自身の体力にも向けてください」
「分かってる」
「分かっている人は、昨日、一人で夜通し見張ったりしません」
「今日は人へ仕事を任せてるだろ」
「私が言ったからでしょう」
「それでも任せた」
蓮司が言うと、リーゼは少し意外そうな顔をした。
「……そうですね。そこは、きちんと認めるべきでした」
「褒めると減るものでもあるのか」
「それは以前のあなたでは?」
「俺は改善した」
「まだ一回です」
「最初の一回がなければ、二回目もない」
「妙にいいことを言いますね」
「料理人だからな」
「関係ありません」
◇
毒牙鼠の処理は、予想以上に手間がかかった。
頭部へ毒腺が集中しているため、顎の両側へ浅く刃を入れ、袋状の器官を破らないよう周辺の肉ごと外す。次に首を落とし、肝臓を傷つけず内臓を取り出し、血抜きを行う。
蓮司が最初の一頭を実演すると、リーゼは険しい顔で手元を観察していた。
「剣なら、一息で首を落とせます」
「それをやると、毒腺を切る可能性がある」
「では、顎の骨を外してから?」
「外す必要はない。ここへ指を当てろ。少し硬い部分があるだろ」
蓮司は処理を終えた別の頭部を使い、リーゼの指を毒腺の位置へ導いた。
「……確かに、豆のようなものがあります」
「それを包丁の腹で押さえ、刃先を外側へ向けて切る。内側へ傾けるな。袋を傷つける」
「力は?」
「ほとんど要らない。力を入れなければ切れないのは、刃の角度が悪いか、切る場所を間違えてる」
「剣の訓練でも似たことを言われました。力で斬ろうとする者ほど、動きが遅くなると」
「料理も同じだ。力を入れすぎれば食材が潰れ、刃も傷む」
リーゼは包丁を受け取り、慎重に毒牙鼠の顎へ刃を入れた。
長剣を扱っていたからといって、小さな包丁をうまく扱えるわけではない。切っ先は僅かに震え、途中で刃が止まる。
「動かないのですが」
「手首だけで切ろうとするな。肘を少し引け」
「こうですか」
「引きすぎだ。刃先が毒腺へ向いてる」
「注文が多いですね」
「一つ間違えれば毒が漏れる」
「では、最初からあなたが全部やったほうが早いのでは?」
リーゼが苛立ったように言った。
蓮司は反射的に「ああ」と答えかけた。
自分でやったほうが早い。
何度も口にしてきた言葉だった。
相馬に仕事を教えていたときも、新人が麺上げに手間取ったときも、忙しくなると結局は包丁を取り上げ、自分で終わらせていた。
そのほうが早かった。
今日だけを見れば、間違いなく。
「今は遅くていい」
蓮司は言った。
リーゼが顔を上げる。
「本当に?」
「百人分を今日中に仕込むことだけを考えれば、俺一人でやったほうが早い。だが、次も百人、その次は二百人になったとき、俺一人では無理だ」
「では、もう一度教えてください」
「包丁を持つ指へ力を入れすぎるな。落とさない程度でいい。食材を押さえる左手のほうが重要だ」
「はい」
「返事だけは素直だな」
「教わる立場で、無意味に反論するほど子供ではありません」
「普段は十分反論してるだろ」
「それは、あなたが間違っている場合です」
「自信があるな」
「騎士として、判断へ迷えば部下を死なせますから」
その言葉のあと、リーゼの表情が僅かに曇った。
騎士団を追われたと言っていた。
その理由を本人はまだ話そうとしない。
蓮司は尋ねなかった。
今は包丁の使い方を教える時間だった。
「そこだ。ゆっくり引け」
リーゼの刃が、毒腺の外側を通った。
袋を傷つけず、周囲の肉ごと外れる。
「できた」
彼女は、自分でも驚いたように小さく呟いた。
「ああ。次は、もう少し切り取る肉を減らせる」
「まず、よくできたと言うべきでは?」
「昨日言っただろ」
「昨日一度言えば、一生分終わりなのですか」
「面倒だな」
「蓮司が人を褒めないせいです」
「……よくできた」
「間がありました」
「注文が多い」
「料理人の弟子ですから」
リーゼが少し笑った。
その言葉を聞き、蓮司は妙な気持ちになった。
「弟子にした覚えはない」
「では、試食係兼、一時的な調理助手です」
「長いな」
「あなたが勝手に役割を増やしたのでしょう」
小屋の反対側では、ミーナが皮を剥いだ肉を水へさらしていた。
こちらは刃物を使わせず、リーゼが処理を終えたものを洗う作業だけを任せている。
「蓮司! この肉、色が違う!」
「どれだ」
「こっちは赤いけど、これは少し黄色い」
「脂が多い個体だ。別の桶へ入れろ。煮る前に匂いを確かめる」
「これは?」
「傷口の周りが黒いな。討伐に使った武器へ毒が塗られていた可能性がある。使わない」
「せっかく洗ったのに」
「捨てる」
「もったいないって言ってたじゃない」
「食えないものまで使うことは、もったいないとは言わない。安全な肉まで一緒に駄目にするほうが、よほど無駄だ」
ミーナは口を尖らせたが、黒ずんだ肉を廃棄用の桶へ移した。
「全部食べられるわけじゃないのね」
「当然だ。見分けずに食うから、魔物肉は危険だと言われる」
「じゃあ、あたしが拾った肉も、本当に駄目だった?」
「完全に腐ってた。あれは魔物か普通の獣か以前の問題だ」
「焼いても?」
「駄目だ」
「塩をいっぱいかけても?」
「駄目だ」
「スープにしても?」
「駄目だ」
「何をしても?」
「何をしてもだ」
ミーナは少し黙った。
「そういうことを、教えてくれる人がいなかった」
声から、さっきまでの勢いが消えていた。
「食べられるものと、食べられないもの。どう洗うか、どのくらい焼くか。貧民街では、腹が痛くなっても、食べ物に当たったのか、病気なのか分からない。死んだら、運が悪かったって言われるだけ」
「これから覚えろ」
「教えてくれるの?」
「仕事を続けるならな」
「今日だけじゃなく?」
「働きぶりを見て決めると言った」
「今は、どう?」
「掃除は下手だ。返事は悪い。勝手に食材へ触ろうとする。だが、匂いと色の違いには気づいた」
「それ、褒めてる?」
「半分は」
「残りの半分は?」
「直すところだ」
「リーゼの言った通り、本当に褒めるのが下手ね」
「うるさい。手を動かせ」
「はいはい、店主様」
「まだ店主じゃない」
今度はリーゼではなく、ミーナが訂正した。
「でも、顔はもう店主よ。みんなへ命令して、自分だけ一番忙しそうな顔をしてる」
「自分だけという言い方はやめろ。お前たちも働いてる」
「じゃあ、ちゃんと任せてね」
ミーナはそう言って、肉を洗う作業へ戻った。
子供にまで同じことを言われるとは思わなかった。
蓮司は何も答えず、次の毒牙鼠へ包丁を入れた。
◇
調理場の安全性を確認するため、最初に作ったのは、毒牙鼠の肉を茹でただけのものだった。
肉を細かく切り、水へさらし、何度か水を替える。
それを塩も香草も加えず、十分な時間をかけて茹でる。
味をよくするためではない。
肉そのものに、舌の痺れや異臭、身体へ異常を起こす成分が残っていないか確かめるためだった。
「俺が食う」
蓮司が小皿を取ると、リーゼが止めた。
「少し待ってください」
「何だ」
「本当に、一人で全部試すつもりですか」
「最初は俺が食うと決めてる」
「一口目を止めるつもりはありません。ただ、何かあった場合に備え、解毒薬と治療師を呼ぶ準備くらいはするべきです」
「解毒薬が何の毒に効くか分からない」
「だからこそ、ギルドの薬師に立ち会ってもらいます。ガルド支部長へ頼んできました」
「いつの間に」
「あなたが青い茸を食べられるか調べていた間です」
「勝手なことをするな」
「その言葉を、あなたから聞く日が来るとは思いませんでした」
リーゼは、少し勝ち誇った顔をした。
ほどなく、薬師らしい老女とガルドが小屋へ入ってきた。
老女は蓮司を見るなり、細い目をさらに細めた。
「この馬鹿かい。魔物肉を食うと言っているのは」
「食えるように処理した肉だ」
「まだ食えると決まってないから、あたしが呼ばれたんだろう。順番を勝手に入れ替えるんじゃないよ」
「その通りです」
リーゼが頷く。
「お前は、どちらの味方なんだ」
「生きている蓮司の味方です。死にたがる蓮司の味方をするつもりはありません」
「死にたくはない」
「なら、慎重にしてください」
老薬師は茹でた肉の匂いを嗅ぎ、小さく切って薬液へ浸した。
液体の色は変わらない。
「少なくとも、毒牙鼠の毒腺から出る痺れ毒は混じっていないようだ。ただし、魔力毒までは、この薬では分からん」
「それは俺が確認する」
「一口だけだよ。食べたあと、半刻は何も口にするんじゃない。症状が出たら、すぐ吐かせる」
「分かった」
「本当に分かっている顔かい、それは」
「よく言われる」
「便利な言葉として使うんじゃないよ」
蓮司は茹でた肉を一片だけ口へ入れた。
柔らかい。
筋は少なく、噛むと軽い弾力がある。
味は淡泊で、鶏の胸肉と兎肉の中間に近いが、後味へ土臭さが残る。
毒を思わせる苦みや痺れはない。
飲み込む。
しばらく待つ。
「どうですか」
リーゼが尋ねる。
「味は弱い。後味に土臭さがある。水へさらすだけでは足りないな。香草を使うか、下茹での湯へ酒を――この世界に酒はあるか」
「ありますが、今は身体のことを聞いています」
「異常はない」
「まだ一口食べた直後でしょう」
「症状が出てから考える」
「だから、そういうところです」
半刻が過ぎても、蓮司の身体に異常は出なかった。
次は量を少し増やす。
さらに時間を置く。
老薬師が脈と瞳を確認し、問題なしと判断した。
「処理さえ間違えなければ、食える可能性は高いね」
彼女は認めたくなさそうに言った。
「ただし、誰が処理しても同じ結果になるとは限らない。毒腺を外し損ねれば死人が出る」
「だから、俺が教える」
「あんた一人の技術へ頼るのも危険だよ。あんたがいない日に、半端に真似した奴が毒を漏らしたらどうする」
「処理済みの肉だけ流通させる。毒腺を外せる奴を認定する仕組みを作るか、ギルド内でまとめて処理する」
ガルドが腕を組んだ。
「もう、そこまで考えているのか」
「食材として広めるなら必要だ。ただ、それは明日以降だ。まず旨くなければ、誰も食わない」
「安全だけでは駄目なのか」
「危険を冒してまで、わざわざ不味い肉を食う奴はいない」
「貧民街の者なら、食えるだけでも喜ぶだろう」
ガルドの言葉に、蓮司は顔を上げた。
「腹を空かせているから、不味いものでもいい?」
「そういう意味では――」
「なら、ギルドの食堂で客へ出している煮込みを、同じ味のまま貧民街へ持っていけばいい。食えるだけで喜ぶんだろ」
「……嫌味を言うようになったな」
「最初からだ」
「分かった。俺の言い方が悪かった。腹を空かせている者へ、まず食わせることも大事だと思っただけだ」
「それは分かる。だが、腹を空かせているときに食べたものほど、長く覚えてる。どうせなら、また食いたいと思うものを出したい」
ガルドは少し黙り、やがて頷いた。
「好きにしろ。ただし明日、百人分を本当に作るなら、ギルドから監視役を出す。何か起きれば即座に配布を止める」
「構わない」
「それと、百人分の陽麦代と薪代だが――」
「今は払えない」
「知っている。岩鎧猪の皮と牙の買い取り金から引く。残りは明日、正式な冒険者証と一緒に渡す」
「肉と骨は俺のものだな」
「ああ。約束どおりだ」
「なら問題ない」
ガルドは肩をすくめた。
「金より先に、肉の所有権を確認する新人は初めてだ」
「金は食材を買うために要る。食材があるなら、金を一度挟む必要はない」
「商人が聞いたら、嫌な顔をするだろうな」
「近いうちに、されるだろう」
蓮司はまだ知らなかったが、その予想は数日もしないうちに現実となる。
◇
毒牙鼠の肉は、一度下茹でして湯を捨て、清流葱に似た香草と、食堂から譲られた野菜の切れ端を加えて煮込むことにした。
スープの土台には白角鹿の骨を少量だけ使う。
白角鹿の骨だけなら、澄んだ上品な味になる。
しかし百人の腹を満たすには量が足りず、味も軽すぎる。
そこで岩鎧猪の脂を細かく刻み、弱火で溶かして不純物を取り除き、少量ずつ加える。
「入れすぎると、鼠肉の軽さが消える」
蓮司は木匙で表面の脂を確認した。
「一鍋へ、これくらいだ。ミーナ、同じ量を覚えろ」
「数字で言ってよ」
「秤がない」
「じゃあ、どうやって同じにするの?」
「この木匙へ、縁より少し下まで。山盛りにするな」
「少し下って、どのくらい?」
「これくらいだ」
「分かりにくい!」
「道具が揃うまでは、目で覚えろ。匙を変えるな」
「同じ匙をなくしたら?」
「なくすな」
「横暴!」
文句を言いながらも、ミーナは蓮司の手元を真剣に見ていた。
猫獣人の嗅覚は鋭い。
脂を一匙入れる前と後で、鍋から立ち上る匂いがどう変わったか、蓮司より早く気づくこともあった。
「今の鍋、さっきより獣臭い」
「脂が多いか」
「ううん、違う。こっちの肉から出てる」
ミーナが示したのは、黄色みの強い肉を入れた鍋だった。
蓮司はスープを少量取り、匂いを確かめる。
「本当だ。雄の成獣かもしれないな。この肉は別にして、香辛料の強い料理へ回す」
「食べないの?」
「明日のラーメンには使わない。臭みを隠すために味を濃くすると、ほかの肉まで分からなくなる」
「捨てる?」
「安全なら捨てない。使い方を変える」
「なるほど」
ミーナは少し嬉しそうに尻尾を動かした。
「鼻はいいな」
「猫獣人だもの。当然よ」
「当然で済ませるな。それは仕事になる」
「鼻がお金になるの?」
「食材の状態を見分けられるならな」
ミーナの耳がぴんと立った。
「本当に、あたしを雇うつもり?」
「まだ決めてない」
「今、仕事になるって言った!」
「仕事になる能力があると言っただけだ。毎朝決まった時間に来られるか。掃除を途中で投げ出さないか。勝手に食材を持ち出さないか。確認することがある」
「あたしが盗むと思ってる?」
「昨日、廃棄場へ盗みに入ってただろ」
「あれは捨ててあるものじゃない!」
「勝手に持っていくのは同じだ」
ミーナは言葉に詰まり、唇を尖らせた。
「……お腹が減っても?」
「言え」
「言ったら、くれるの?」
「まかないを出す。働く人間が腹を空かせたままでは、良い仕事はできない」
「毎日?」
「店が続けばな」
「店がなくなったら?」
「なくさないように働く」
ミーナは黙って鍋を見つめた。
毎日食事がある、という約束を信じるのが怖いのだろう。
期待して、翌日なくなるくらいなら、最初から期待しないほうが傷つかない。
リーゼが味覚の治療へ期待することを怖がったのと、どこか似ている。
「給料は、店が金を取るようになってから相談する」
「いくら?」
「まだ売値も決めてない」
「先に決めてよ」
「売上より多い給料は払えない」
「けち」
「払えない約束をするほうが悪い」
「でも、ほかの大人は、働いたら後で払うって言って、払わないことがある」
「俺が払わなかったら、辞めればいい」
「その頃には、何日も働いたあとでしょう」
蓮司は答えに迷った。
信用しろ、と言うのは簡単だ。
だがミーナにとって、大人の約束など何度も破られてきたものなのだろう。
「毎日のまかないは、その日の仕事が終わったら必ず出す。店の売上がない間は、それが報酬だ。金を払えるようになったら、一日ごとに払う。帳簿をつけ、お前にも見せる」
「文字、読めない」
「俺もだ」
「駄目じゃない!」
「だからリーゼに教わる」
二人が同時にリーゼを見る。
彼女は陽麦の生地をこねながら、嫌そうに眉を寄せた。
「私は、いつから文字の教師まで兼ねることになったのですか」
「試食係兼、調理助手兼、文字教師」
「勝手に増やさないでください」
「嫌なら断っていい」
「……そう言われると、断りづらいのです」
「それはお前の問題だ」
「本当に腹立たしい人ですね」
リーゼは小麦粉で白くなった手を見下ろした。
「ですが、帳簿を隠さず見せるという考えには賛成です。雇う相手が子供だからと曖昧にせず、何を約束したか記録へ残すべきでしょう」
「では頼む」
「条件があります」
「何だ」
「蓮司も文字を覚えてください。私がいなくなったあと、帳簿を読めないでは困ります」
いなくなったあと。
その言葉が、蓮司の胸へまた小さく引っかかった。
「……分かった」
「また、閉店する店主のような顔をしていますよ」
「してない」
「しています」
「生地が乾く。手を動かせ」
「都合が悪いと、すぐ料理へ逃げますね」
リーゼはそれ以上追及しなかった。
◇
翌朝。
ラグナの南壁沿いにある貧民街へ、料理の匂いが流れ始めた。
崩れかけた倉庫と、廃材を組み合わせた小屋が並ぶ空き地に、ギルドから借りた大鍋が三つ置かれている。
火を管理するのは、食事と引き換えに手伝いを申し出た日雇いの男たち。
水を運ぶのは、比較的元気な子供たち。
器を洗うのは、年配の女性たち。
列を作らせるのは、なぜか誰より張り切っているミーナの役目だった。
「押さないで! 一列に並んで! 器を持ってない人は、あっちの木椀を借りて! あと、一度もらった人は、尻尾に白い布を結ぶからね!」
「尻尾がない奴はどうするんだ!」
人間の少年が叫ぶ。
「腕!」
「最初から腕で統一しろよ!」
「獣人は尻尾のほうが分かりやすいの!」
「差別だ!」
「うるさい! 文句があるなら、自分で列をまとめなさい!」
ミーナの怒鳴り声が空き地へ響いた。
「よくやってるな」
蓮司が言うと、リーゼは呆れたように笑った。
「蓮司と同じで、命令する側へ回ると生き生きする性格なのかもしれません」
「俺は、あそこまで怒鳴らない」
「自覚がないのですね」
「それより麺だ。次の分を入れるぞ」
三つの鍋のうち、一つはスープ。
一つは麺を茹でる湯。
残る一つは、肉と野菜を温めるために使う。
百人分を一度に作れば、麺が伸びる。
そのため十杯から十五杯ずつ茹で、順番に提供する方式へした。
「麺、入ります!」
リーゼが周囲へ聞こえるよう声を出す。
蓮司は陽麦の麺を湯へ放ち、長い木箸でほぐした。
前日の夜まで、リーゼ、ミーナ、そして手伝いへ来た女性たちが生地をこね、延ばし、切った麺である。
太さは不揃いだ。
最初に蓮司が一人で作ったものより、さらに差がある。
それでも、誰が切ったかによって麺の姿が違うことを、今は悪いとは思わなかった。
「太い麺から、先に湯へ入れたほうがいいのではありませんか」
リーゼが言う。
「一人ずつ分けて入れればな。今は混ざってる。太いほうへ合わせて、細い麺が崩れない限界で上げる」
「次からは、切った者ごとに分けておきます」
「そうしてくれ」
「蓮司が、私の提案を素直に採用した」
「料理に関して正しい意見なら聞く」
「普段から、正しい意見は聞いてください」
「内容による」
「またそれですか」
湯の中で、黄金色の麺が踊る。
蓮司は一本を取り出し、指で硬さを確かめてから噛んだ。
「上げる」
リーゼとミーナが作った湯切り籠へ麺を移す。
完全に同じ量にはならないが、子供用、大人用、働いた者への大盛りと、目分量で分けた。
器の底へ、岩塩と乾燥香草から作ったタレを少量。
白角鹿の骨と毒牙鼠、野菜から取ったスープを注ぐ。
下茹でして細く裂いた毒牙鼠の肉と、規格外の根菜、刻んだ香草を載せる。
「毒牙鼠の白湯……いや、白湯というほど濁ってないな」
「料理名は決めていなかったのですか」
「味が完成する前に名前を決めると、名前へ味を合わせたくなる」
「では、今決めてください。食べる人へ説明できません」
「捨て肉の塩ラーメン」
「その名前はやめてください」
リーゼが即座に反対した。
「なぜだ。事実だろ」
「食べる前に、捨てられていた肉だと聞いて喜ぶ人はいません。特に、貧民街の人々は、残り物や捨てられた物ばかり与えられていると感じています。その人たちへ、“捨て肉の料理だ”と言えば、また自分たちは捨てられたものしか食べられないのかと思うでしょう」
蓮司は器の中を見た。
昨日まで捨てられていた食材。
それを隠すつもりはない。
だが、料理名として突きつける必要もない。
「毒牙鼠と陽麦の塩ラーメン」
「分かりやすいですが、“毒”という文字が入っていますね」
「実際、毒牙鼠だ」
「食欲を失う名前です」
「では、黄金麦と森肉の塩ラーメン」
「少し胡散臭いですね」
「注文が多いな」
「客へ出す料理でしょう」
ミーナが鍋の横から口を挟んだ。
「貧民街ラーメンでいいんじゃない?」
「それでは、別の場所で売りにくい」
「じゃあ、まかないラーメン」
蓮司は少し考えた。
売り物ではない。
働いた者、腹を空かせた者へ出す、最初の一杯。
「今日だけは、それでいい」
「本当に?」
「毒牙鼠のまかない塩ラーメンだ」
「結局、毒牙鼠は入れるんですね」
「材料を隠すほうが問題だ。食う前に説明する」
最初の器を受け取ったのは、薪を運んだ獣人の老人だった。
狼に似た耳が片方欠け、左脚を引きずっている。
「本当に、あの鼠の肉か」
「ああ。毒腺と内臓を外し、血抜きと下茹でをした。俺とギルドの薬師が食べ、安全を確認している。ただし初めての料理だ。少しでも舌の痺れや吐き気があれば、すぐに食べるのをやめて言ってくれ」
「そこまで聞かされると、少し怖いな」
「食べない選択もできる」
「いや、食うさ。薪十束分は働いたからな」
「なら大盛りだ」
蓮司は肉を一枚追加した。
「贔屓ではありませんか」
リーゼが小声で言う。
「働いた分だ」
「列の後ろの者へ、肉が足りなくならないよう計算していますか」
「してる。大盛りは手伝った奴だけだ」
「なら結構です」
老人は地面へ腰を下ろし、木の匙でスープをすくった。
箸を使えない者が多いため、麺は前世のラーメンより短く切ってある。匙でも食べやすく、器から直接すすってもよい。
老人が一口飲む。
周囲の者たちが、その顔を見た。
「どうだ」
誰かが尋ねる。
老人は返事をせず、もう一口スープを飲んだ。
それから麺を口へ運び、肉を噛む。
「おい、何か言えよ」
「黙ってろ。今、食ってる」
老人は器へ顔を近づけ、そのまま食べ続けた。
言葉より、よほど信用できる反応だった。
「次を出すぞ」
蓮司が言う。
列が少しずつ前へ進んだ。
警戒しながら食べる者。
一口目で目を丸くする者。
鼠だと聞いて嫌がり、子供が食べるのを見てから戻ってくる者。
無料なら何でもいいと笑っていたのに、食べ終えたあと、もう少し塩を薄くしたほうがいいと真剣に意見を言う者。
反応はそれぞれだった。
「肉が柔らかい」
「鼠とは思えないな」
「麺っていうのか、これ。腹に溜まる」
「もう一杯ないの?」
「一人一杯です!」
ミーナが叫ぶ。
「鍋に残ったら二杯目を出すから、先に全員へ回す!」
「お前、昨日まで三回並んでた側だろ!」
「今日は配る側なの!」
「偉くなりやがって!」
「働いたもの!」
怒鳴り合いながらも、ミーナは楽しそうだった。
自分が列を乱す側ではなく、誰かへ食事を渡す側になったことが、嬉しいのかもしれない。
「次、麺十二」
蓮司が言う。
「はい」
リーゼが麺を入れる。
「火、少し弱い」
ミーナが匂いだけで気づく。
「右の薪を一本足せ。ただし奥へ押し込みすぎるな」
「分かった!」
人へ任せる。
声を掛ける。
任せた相手の仕事を待つ。
蓮司にとって、それは戦闘より難しいことだった。
リーゼの麺上げは少し遅い。
ミーナは慌てると、脂の匙を山盛りにしようとする。
手伝いの男は器を洗う水を替え忘れ、女性たちは麺の量で口論を始める。
自分で全部やれば、もっと早い。
もっと正確にできる。
何度も、そう思った。
だが包丁を取り上げず、まず言葉で直す。
「リーゼ、麺を上げる前に、籠を湯へ一度沈めろ。冷えた籠へ麺を入れると温度が下がる」
「分かりました」
「ミーナ、その匙は多い。脂を戻せ」
「少しくらい多いほうが美味しいでしょう」
「子供や老人には重い。自分の好みだけで決めるな」
「はあい」
「返事」
「はい!」
前の店で、相馬たちにもこうして教えていればよかった。
失敗する前に包丁を取り上げるのではなく、失敗しそうな理由を説明して、待てばよかった。
今さら気づいても遅い。
前の世界へ戻れるかも分からない。
それでも、同じ間違いを繰り返さないことはできる。
「蓮司」
リーゼが呼んだ。
「何だ」
「手が止まっています」
「ああ」
「疲れましたか」
「少しな」
「では、水を飲んでください。次の麺は私が見ます」
「まだ茹で加減を一人で――」
言いかけて、蓮司は口を閉じた。
「一本食って確認しろ。迷ったら早めに呼べ」
「はい」
「火は強くしすぎるな」
「分かっています」
「麺を入れた直後は――」
「蓮司」
「何だ」
「任せるのでしょう?」
リーゼの金色の瞳が、まっすぐこちらを見ていた。
「……分かった」
蓮司は鍋から一歩離れ、水袋を取った。
背中側で、リーゼが麺を湯へ入れる音がする。
振り返りたい。
茹で方を確認したい。
それでも、最初の一口を飲むまでは振り返らなかった。
◇
用意した百十二杯分のラーメンは、一杯も残らなかった。
最後の一杯を受け取ったのは、毛布へ包まれた小さな人間の少女だった。
自分で歩けないほど痩せており、兄らしい少年に背負われている。
「この子、名前は?」
ミーナが尋ねる。
少年は首を振った。
「ない」
「じゃあ、今日は何て呼ぶ?」
「俺は、妹って呼んでる」
「それでいい」
蓮司は麺を通常の半分まで短く切り、さらに柔らかく茹でた。
肉も細かく裂き、脂は少なくする。
「一気に食わせるな。最初はスープを少しずつ。吐いたら、すぐに言え」
少年は何度も頷いた。
「ありがとう」
「礼は、妹が食べ終わってからでいい」
少女は兄に支えられ、ほんの少しだけスープを飲んだ。
その表情はほとんど変わらなかった。
ただ、もう一口を求めるように、口を小さく開いた。
兄の少年が泣きそうな顔で笑った。
蓮司は視線を逸らし、空になった鍋へ水を注いだ。
「洗うぞ」
「今すぐですか?」
リーゼが尋ねる。
「汚れは冷える前に落としたほうが早い」
「少しくらい、うまくいった余韻へ浸ってもよいのでは?」
「鍋を洗いながらでも浸れる」
「そういうところが、情緒に欠けるのです」
「次も使う道具だ。放っておけば脂が固まる」
ミーナが腕へ白い布を結んだまま、空の器を抱えて戻ってきた。
「ねえ、みんな、また明日もあるのかって聞いてる」
「明日は無理だ」
「どうして!」
「食材の処理と仕込みに時間がかかる。毎日百人分を無料で出せば、俺たちが先に潰れる」
「でも、お腹は毎日減るでしょう」
「分かってる。だから店を作る」
「店なら、毎日食べられる?」
「金は要る」
「やっぱり、お金を取るのね」
「店を続けるためだ。払える奴からは取る。払えない奴には、仕事をしてもらう方法も考える。全部無料では、薪も塩も買えない」
ミーナは納得しきれない顔をした。
「今日みたいに、捨てるものをもらえばいいじゃない」
「捨てるものだけでは、いつも同じ量を作れない。食材の状態も選べない。店で金を取るなら、客へ安定して同じものを出す必要がある」
「難しいのね」
「難しい。だから面白い」
「あたしは、お腹がいっぱいなら、それでいいけど」
「なら、その腹を毎日いっぱいにするために働け」
「それって」
ミーナは急に緊張したように、耳を立てた。
「雇ってくれるってこと?」
「朝、決めた時間に来る。手を洗う。勝手に食材を持ち出さない。嘘をつく必要があるときは、先に相談する」
「嘘をつくな、じゃないの?」
「生きるために、どうしても必要な嘘もある。だが店の金や食材について嘘をつかれると、商売ができない」
「給料は?」
「店が開くまでは、毎日のまかない。売上が出たら、一日ごとに金を払う。額は、読み書きを覚えて、帳簿を見ながら決める」
「文字も教えてくれる?」
「リーゼが」
「だから、勝手に決めないでください」
リーゼは怒りながらも、本気で拒む顔ではなかった。
「でも、ミーナが店の金を扱うなら、数字と文字は必要です。私が滞在している間だけなら、教えます」
「滞在している間だけ?」
ミーナがリーゼを見る。
「ずっといるんじゃないの?」
「私は、もともと町へ戻ったら、蓮司とは別れる予定でした」
「じゃあ、どこへ行くの?」
「それは……まだ決めていません」
「行く場所がないなら、ここにいればいいじゃない」
「子供のように簡単に言わないでください」
「あたし、子供だもの」
「それは、そうですが」
「蓮司も、いてほしいでしょう?」
不意に話を振られ、蓮司は鍋を洗う手を止めた。
「試食係は必要だ」
「そういう意味じゃなくて」
「ほかに何がある」
「本当に分からないの?」
「分からない」
「鈍い」
「お前に言われる筋合いはない」
ミーナは大げさにため息をついた。
「まあいいわ。あたしは働く。毎日ご飯を食べられて、お金ももらえるようになるなら、掃除もするし、肉も洗う」
「勝手に食うなよ」
「味見よ」
「俺が許可する前は盗み食いだ」
「一切れくらい」
「駄目だ」
「けち」
「食中毒で死にたいのか」
「それは嫌」
「なら、指示を守れ」
「分かった。店主」
「まだ店主では――」
リーゼが言いかけたところで、空き地の入口から声が聞こえた。
「いや、今日ここで百人以上へ料理を出したなら、もう十分店主じゃないか?」
ガルドだった。
その隣には、赤茶色の髪をした受付嬢と、ギルド食堂の料理長が立っている。
料理長は腕を組み、不機嫌そうに空の鍋を見た。
「一杯も残ってねえのか」
「残ってない」
「俺も味を見ようと思って来たんだが」
「遅い」
「支部長から、仕事を抜けるなって言われたんだよ!」
「言い訳は客に関係ない。食いたければ、次は早く来い」
「お前は本当に、人を苛立たせる言い方しかできねえな!」
「ただ」
蓮司は鍋の底へ残っていた、僅かなスープを木椀へ移した。
「麺はない。スープだけなら一口ある」
料理長は一瞬黙り、乱暴に椀を受け取った。
「最初から出せ」
「残り物だ。客へ出す量じゃない」
「味見には十分だ」
料理長はスープを飲んだ。
眉間に皺を寄せ、もう一度、椀の底を見つめる。
「……薄い」
「子供と老人へ合わせた」
「だが、薄いわりに肉の味はある。何を使った」
「白角鹿の骨、毒牙鼠、野菜の切れ端、岩鎧猪の脂」
「毒牙鼠を使って、あの臭みがないのか」
「下茹でして、香草と根菜を使った。ただ、脂の量はまだ調整が必要だ。後半の鍋は、少し重くなった」
「自分で分かってるなら、言うことはねえ」
「何かあるなら言え」
「俺は、お前の試食係じゃない」
「料理人なら、料理の話をしろ」
二人はしばらく睨み合った。
やがて料理長が、鼻を鳴らした。
「麺がないから、完成品の評価はできん。次は食堂へ持ってこい」
「店を開いたら、自分で来い」
「客として金を払えってか」
「当然だ」
「生意気な新人だな」
「焦げた煮込みを出す料理人に言われたくない」
「表へ出ろ!」
「今いるだろ」
「そういう意味じゃねえ!」
ガルドが二人の間へ入った。
「喧嘩はあとにしろ。蓮司、正式な冒険者証と、岩鎧猪の素材代だ」
差し出された革袋には、銀貨と銅貨が入っていた。
前世の金銭感覚へ換算することはできない。
だが宿と食材を確保し、小さな商売を始めるには、十分な額らしい。
「それと、ギルド裏の作業小屋だが」
ガルドは言葉を切った。
「一月だけ、お前へ貸す。廃棄物の処理費を減らせる可能性があることと、今日、貧民街で問題を起こさなかったことへの試用期間だ」
「家賃は?」
「最初の一月は、毒牙鼠を安全に処理する方法を文書へまとめることで相殺する」
「俺は文字が書けない」
「そこの竜人娘に手伝ってもらえ」
「また私ですか」
リーゼが眉を寄せる。
「食材の処理手順を文書へ残すことには賛成です。ですが、条件を一つ追加してください」
「何だ」
「処理方法を真似する者は、蓮司かギルドの薬師から実技指導を受けること。文書だけを読んで、勝手に処理してはいけないと明記してください」
ガルドは頷いた。
「もっともだ」
「では、リーゼが書く」
「だから勝手に――」
「必要なことだろ」
「必要ですが、お願いの仕方があります」
蓮司は少し考えた。
「頼む」
「それだけですか」
「ほかに何を言う」
「……いえ。今回は、それでいいです」
リーゼの口元が僅かに緩んだ。
「それから、作業小屋の前へ六席までなら置いていい」
ガルドが続けた。
「通路を塞がず、火事を出さず、ギルドの仕事を邪魔しないこと。正式な営業許可は、商業ギルドへ申請しろ」
「六席」
蓮司は呟いた。
前の店は十四席だった。
新しい店は、その半分以下。
崩れかけた作業小屋。
寄せ集めの鍋。
文字も金の価値も分からない店主。
騎士団を追われた竜人の試食係。
盗みをして生きてきた猫獣人の少女。
客席すら、まだ一つもない。
それでも、始められる。
「店の名前は?」
受付嬢が尋ねた。
「営業許可の仮申請に必要です」
「まだ決めてない」
「《異世界麺処・蓮》ではどうですか」
リーゼが言った。
「異世界を店名へ入れるのか」
「あなたが異世界から来たことと、誰も知らない麺料理を出す店だと伝わります。それに、蓮司の“蓮”は、この世界の文字へ置き換えても、看板にしやすい形です」
「悪くない」
「珍しく、すぐに認めましたね」
「料理名より、店名には向いてる」
「では、決まりですね」
「看板は?」
「文字を書ける奴に頼む」
「お金がかかります」
「俺が書く」
「読めないのに?」
「形を教えろ。写すくらいはできる」
「看板くらいは職人へ頼んだほうがよいのでは」
「最初の店の看板も、自分で書いた」
「上手だったのですか」
「相馬には、客を追い返す字だと言われた」
「職人へ頼みましょう」
リーゼが即答した。
ミーナが腹を抱えて笑う。
「そんなに下手なの?」
「味には関係ない」
「でも、店の名前が読めなかったら、客が来ないでしょう」
「……職人へ頼む」
蓮司は不本意ながら譲った。
空き地では、食べ終えた人々が片づけを手伝っている。
器を洗う者。
薪の残りを運ぶ者。
明日も手伝える仕事がないか尋ねる者。
腹を満たした子供たちが、短い麺を指で真似しながら、ラーメンという聞き慣れない言葉を繰り返している。
「ラーメン、また食えるかな」
「六席の店を作るんだって」
「金がないと駄目だろ」
「薪を運べばいいって」
その声が、少しずつ広がっていく。
蓮司は空になった鍋を見下ろした。
究極の一杯には、まだほど遠い。
麺も不揃い。
スープにも改善点が多い。
毒牙鼠の肉も、使える部位や個体差をもっと調べなければならない。
それでも、百十二の器が空になった。
「蓮司」
リーゼが隣へ立った。
「今日は、うまくいきましたね」
「ああ」
「それだけですか」
「嬉しい」
蓮司が素直に言うと、リーゼは目を見開いた。
「どうした」
「いえ。あなたが自分の感情を、すぐ言葉にするとは思わなかったので」
「俺だって、少しは改善する」
「では、私とミーナが手伝ったことへの感想は?」
蓮司は片づけを続けるミーナと、粉まみれになったリーゼを見た。
一人で作るより時間はかかった。
麺の太さも、仕込みの精度も揃っていない。
途中で何度も手を出したくなった。
それでも一人では、百人分など作れなかった。
「助かった」
「もう少し」
「よくやった」
「もう少し」
「注文が多いな」
「料理の感想は細かく求めるのに、人への感謝は二言で終わらせるのですか」
「……二人がいなければ、できなかった」
リーゼは満足したように微笑んだ。
「はい。それで十分です」
ミーナが遠くから叫ぶ。
「何を二人で話してるの! 片づけ、まだ残ってるんだけど!」
「今行く」
「店主が一番さぼらないでよ!」
「少し話していただけだ」
「口より手を動かして!」
蓮司は苦笑し、空の鍋を持ち上げた。
前の店では、閉店後の厨房に最後まで残るのは、いつも自分だった。
今日の厨房には、片づけを急かす声がある。
勝手に仕事を始める仲間がいる。
次の営業を楽しみにする客がいる。
悪くない。
いや。
ずいぶんと、悪くなかった。
こうして、六席だけの異世界ラーメン屋を作る準備が、本当に始まった。




