第6話 捨てられた肉
岩鎧猪が地面を蹴った瞬間、冒険者ギルド裏の訓練場を囲んでいた野次馬たちの声が、目に見えない大波に呑まれたように一斉に消えた。
猪という名から連想するには、あまりにも巨大だった。
背丈は蓮司の胸ほどもあり、頭から背中、脇腹にかけて灰色の岩盤を貼りつけたような皮膚に覆われ、前方へ湾曲した二本の牙は、槍どころか小振りな攻城兵器を思わせる。重い蹄が土を蹴るたびに訓練場全体が揺れ、その巨体が速度を増して迫ってくる光景には、生き物というより、崩れ落ちた城壁が勢いのまま転がってくるような圧迫感があった。
「避けろ、料理人!」
柵の外から、誰かが怒鳴った。
言われなくても、正面から受け止めるつもりなどない。
しかし蓮司は、すぐには動かなかった。
岩鎧猪の肩が上下する様子、蹄が土を掴む角度、開いた口から飛び散る唾液、そして岩のような皮膚に覆われていない箇所を、ほんの数秒のうちに目へ焼きつける。
目元。
耳の内側。
口の中。
前脚と胴の境目。
腹の下。
尻尾の付け根。
《厨房領域》によって光の線はいくつも浮かんでいるが、ほとんどは厚い岩皮の下に隠れており、見える線へ包丁を当てれば解決するという、都合のよい構造にはなっていなかった。
「蓮司!」
リーゼの声が飛ぶ。
岩鎧猪の牙が、すでに目の前まで迫っていた。
「分かってる」
蓮司は右ではなく、左へ踏み出した。
白角鹿との戦いで、頭では右へ避けようとしながら、長年の習慣で左へ動いてしまったことを思い出していた。身体が勝手に選ぶ方向を無理に変え、動きが遅れるくらいなら、最初からその癖を前提として戦い方へ組み込めばいい。
左足を軸に身体を回す。
岩鎧猪の牙が服の裾を掠め、その巨体が横を通り抜けた。
土と獣臭い風が顔へ叩きつけられる。
蓮司はすれ違いざまに包丁を振ったが、狙った前脚の付け根へ刃が届く前に、岩皮の突起へ弾かれた。
甲高い金属音。
手首へ強い衝撃が返り、危うく包丁を落としそうになる。
「硬いな。包丁の刃が通らないというより、入れる角度を作らせてもらえない」
「だから最初から言っただろう!」
ガルドが柵の外から声を張り上げた。
「岩鎧猪の皮は、安物の剣なら刃のほうが欠ける! 口の中か目を狙え、命を取るだけならそれが早い!」
「口と目を傷つければ、頭から出汁を取りにくくなる」
「今は料理の話をしている場合じゃない!」
「料理をするための試験だろ」
「冒険者になるための試験だ!」
「俺にとっては同じだ」
岩鎧猪が訓練場の端で急停止し、太い蹄で土を抉りながら向きを変えた。
あれだけの巨体でありながら、白角鹿より方向転換が早い。
身体の重さを前脚だけで支えるのではなく、岩皮を地面へ擦りつけるようにして速度を殺し、そのまま横滑りしながら反転している。
足の古傷を見抜けた白角鹿とは違い、こちらには目立った弱点がない。
「蓮司、あれを何度も避けるつもりですか」
リーゼが険しい声で尋ねた。
「さっき、自分で走らせると言った」
「それは聞きました。ですが、走らせて疲れさせるつもりなら、先にあなたの体力が尽きます。白角鹿の魔力で身体が冷えていたときにも感じましたが、あなたは自分の限界を低く見積もる癖があるのではなく、限界というものを最初から計算に入れていないでしょう」
「そこまで馬鹿じゃない」
「過労で死んだ人が言っても、まるで説得力がありません」
周囲の冒険者たちがざわめいた。
「過労で死んだって何だ?」
「死んだ奴が、どうして動いてるんだよ」
「転生者って話、本当なのか?」
蓮司は柵の外へ顔を向けた。
「人前で余計なことを言うなと、さっき言っただろ」
「命より体面を優先するつもりですか」
「秘密にしたいわけじゃない。ただ、説明が面倒だ」
「それを秘密にしたいと言うのです」
言い争っている間にも、岩鎧猪は二度目の突進を始めていた。
今度は直線ではない。
蓮司が左へ避けると読んだのか、僅かに進路を左へ寄せてくる。
「猪のくせに、学習が早いな」
蓮司は直前で右へ飛んだ。
身体は一瞬、慣れた左へ動こうとして遅れたが、どうにか牙を避ける。
それでも岩皮の側面が肩へ触れ、軽く撫でられただけとは思えない力で弾き飛ばされた。
土の上を転がり、背中から地面へ落ちる。
「ぐっ……」
「試験中止だ!」
ガルドが鉄格子へ手を掛けた。
「まだだ」
蓮司はすぐに片膝を立てた。
「肩は動く。骨も折れてない」
「お前の自己診断など信用できるか!」
「試験官なら、受験者より先に諦めるな」
「受験者が死にそうなら止めるのが試験官だ! 登録前の馬鹿を死なせたら、こっちの寝覚めが悪い!」
ガルドは本気で怒っていた。
単に試験を円滑に進めたいのではなく、蓮司の命を案じているのだろう。
口は悪いが、少なくとも新人を使い捨てにする男ではないらしい。
「次で駄目なら止める」
「勝手に回数を決めるな」
「一度だけだ」
「蓮司」
リーゼの声は、ガルドより静かだった。
静かだからこそ、怒っていることがよく分かった。
「先ほど、一時間休むという約束は守りました。ですが、休めば無理をしてよいという意味ではありません。私が見て、次も危険だと判断したら、あなたの意思に関係なく試験を止めます」
「どうやって」
「ギルド支部長に頼みます」
「自分で止めるんじゃないのか」
「今の身体で格好をつけても邪魔になると、あなたに教えられましたから。できる人へ任せます」
蓮司は返す言葉に詰まった。
自分の言葉を、都合よく使われた気もする。
だが間違ってはいなかった。
「分かった。次で見せる」
「見せる必要はありません。無理なら無理だと言ってください」
「無理かどうか確かめるための、あと一度だ」
リーゼは納得していない顔をしていた。
それでも、これ以上は止めても聞かないと分かったのだろう。唇を引き結び、剣の柄から手を離した。
岩鎧猪がこちらへ向き直る。
二度の突進で呼吸は少し荒くなっているが、疲れた様子はほとんどない。
むしろ興奮が増し、口の端から白い泡を吹いていた。
蓮司は、その泡を見つめた。
「唾液が多いな」
怒っているからではない。
岩鎧猪は突進前から、頻繁に口を開閉している。
呼吸を整えるために口を開けているのかと思ったが、それだけではない。牙の付け根や歯茎から、大量の唾液が分泌されている。
口から落ちた唾液が地面へ触れると、土の中に混じっていた小石の表面が、微かに白く変色していた。
「ガルド。こいつは普段、何を食ってる」
「岩苔、鉱石茸、鉄根草だ。鉱山の岩肌に生えるものなら、だいたい何でも食う」
「鉱石まで?」
「小さな石なら、植物ごと噛み砕く。腹の中に特殊な酸を持っていて、鉱物の成分を岩皮へ変えると聞いた」
「特殊なのは腹の中だけか」
「何が言いたい」
「唾液にも、岩や金属を軟らかくする成分が混じっている可能性がある」
ガルドの眉が寄る。
「自分の唾液で、自分の皮が溶けるというのか」
「普段は口の中へあるだけだ。皮へ大量につくことはない」
「まさか、お前……」
蓮司は足元に落ちていた、拳ほどの石を拾った。
猪が食べるには小さすぎる。
だが口を開かせる囮にはなる。
さらに訓練場の隅へ置かれていた、掃除用の長い木柄を手に取った。
「包丁以外の武器を使うのか」
「これは武器じゃない。調理器具の代わりだ」
「どこから見ても、ただの棒だろうが!」
「麺棒だと思えば使える」
「思い込めば何でも調理器具になると思うな!」
「ガルド、話しかけるな。失敗したら、お前のせいにするぞ」
「理不尽にもほどがある!」
岩鎧猪が三度目の突進に入った。
蓮司は逃げる代わりに、拾った石を猪の口元へ投げた。
岩鎧猪は反射的に顎を動かし、飛んできた石を噛み砕く。
砕けた欠片と大量の唾液が飛び散った。
蓮司は身体を低くし、その直下へ潜り込む。
巨大な牙が頭上を通り過ぎる。
次の瞬間、木柄を猪の口へ横向きに差し込んだ。
牙と牙の間に木柄が挟まり、岩鎧猪の口が閉じきらなくなる。
怒り狂った猪が頭を振る。
木柄が軋み、今にも折れそうになる。
「蓮司、離れて!」
「まだだ!」
蓮司は木柄を両手で掴み、猪の頭を下向きに押さえつけるのではなく、自分の身体ごと横へ引いた。
力比べをすれば勝てない。
狙いは、猪の唾液を顎から首、前脚の付け根へ流すことだった。
泡立った唾液が岩皮の表面を濡らす。
すぐには何も起きない。
「やはり無理か」
そう思った直後、唾液を浴びた箇所から薄い煙が上がった。
岩皮が溶けているわけではない。
表面を構成する鉱物の結合が緩み、灰色だった皮が、濡れた土のように黒く変色していく。
《厨房領域》の光の線が、そこだけ鮮明になった。
「見えた」
蓮司は木柄から手を離した。
急に抵抗を失った岩鎧猪が前へつんのめる。
蓮司はその脇へ滑り込み、唾液で軟らかくなった前脚の付け根へ包丁を差し入れた。
刃は通った。
だが深く切らない。
皮膚の下を走る筋と腱を見極め、巨体を支える力だけを断つ。
右前脚が崩れる。
岩鎧猪は勢いを殺せず、頭から地面へ突っ込んだ。
訓練場を揺らす轟音。
土煙が舞い上がる。
それでも猪は起き上がろうとした。
「まだ動くぞ!」
冒険者の一人が叫ぶ。
「一脚だけならな」
蓮司は暴れる後脚を避け、反対側へ回った。
口へ挟まっていた木柄は折れ、猪は自由になっている。
牙が振られる。
蓮司は紙一重で避け、地面へ落ちた唾液を布切れへ吸わせると、左前脚の付け根へ叩きつけた。
「自分の消化液で下処理をするとは、なかなか手のかからない食材だ」
「それを手がかからないと言えるのは、お前だけだ!」
ガルドの怒声が聞こえた。
岩皮が黒く変わる。
そこへ二度目の刃を入れる。
左前脚も力を失い、岩鎧猪の胸が完全に地面へ落ちた。
後脚で土を蹴り、前へ進もうとするが、前半身を支えられない。
動きは止まった。
だが猪は苦しげに息を吐き、牙を地面へ突き立てながら、それでも蓮司を睨み続けている。
ガルドが訓練場へ入ってきた。
「そこまでだ。制圧を確認した。試験は合格――」
「待て」
「何だ」
「このまま生かしておくのか」
「ギルドで処理する。お前は制圧すればよいという条件だった」
「なら、俺にやらせろ」
蓮司は岩鎧猪の前へ膝をついた。
猪は口を開き、噛みつこうとする。
しかし地面へ伏せた姿勢では牙が届かない。
血走った目。
苦しそうな呼吸。
切った前脚の周囲から、少量の血が流れている。
「肉を受け取るんだったな」
ガルドが低く言った。
「ああ」
「なら、最後までお前がやれ」
蓮司は頷いた。
岩鎧猪の耳の後ろへ手を当てる。
岩皮の隙間から、延髄へ続く細い光の線が見えていた。
「悪かったな。試験に付き合わせた」
言葉が通じるはずはない。
それでも蓮司は、何も言わずに刃を入れることができなかった。
「無駄にはしない」
一息で包丁を差し込む。
岩鎧猪の身体が一度だけ大きく強張り、やがて後脚から力が抜けた。
訓練場が静かになる。
しばらくして、柵の外から拍手が聞こえた。
一人。
二人。
やがて多くの冒険者が手を叩き、歓声を上げる。
「本当に倒しやがった!」
「包丁一本だぞ!」
「自分の唾液で皮を軟らかくするなんて、誰が思いつくんだよ!」
蓮司は立ち上がり、彼らを見た。
妙な気分だった。
前世でも、客から拍手を受けた経験はある。
テレビ番組の収録や、新店の開業日。
だが今は、嬉しいというより、死んだばかりの岩鎧猪の横で騒がれることに落ち着かなさを覚えた。
「拍手はいい。血抜きを手伝ってくれ。この身体を一人で吊るすのは無理だ」
歓声が止まる。
「今、それを頼むのか?」
「今やらなければ肉へ血が回る。食材を受け取る条件だっただろ」
「普通は合格を喜ぶところじゃないのかよ」
「合格は逃げない。肉は傷む」
何人かの冒険者が顔を見合わせ、それから笑いながら訓練場へ降りてきた。
「本当に料理人なんだな、あんた」
「最初からそう言ってる」
「さっきは笑って悪かったよ。俺はバルド、銅級だ。血抜きなら手伝える」
「俺は蓮司だ。後脚へ縄を回してくれ。あの梁なら重さに耐えられるか」
「いや、あっちの解体場へ運んだほうがいい。滑車もある」
「なら頼む。ただし、腹を下にして運ぶな。胸の血が抜けにくくなる」
「注文が多いな」
「食べるつもりなら当然だ」
「俺たちも食うことになってるのか?」
「安全を確認できたらな」
バルドは一瞬黙り、それから肩をすくめた。
「さっきまで、魔物肉を食うなんて馬鹿だと思ってたんだが……あんたがそこまで真顔で言うと、少し気になってくるから不思議だな」
「良い兆候だ。人間は腹が減れば、常識を疑う余裕ができる」
「格好いいことを言ってるようで、全部飯の話だな」
岩鎧猪を解体場へ運び込み、血抜きを始めたところで、ガルドが一枚の金属板を持ってきた。
手のひらほどの大きさで、中央には剣と盾を組み合わせた紋章が刻まれている。
「仮の冒険者証だ。正式なものは明日になる。等級は鉄級からだ」
「白角鹿を倒しても、一番下なのか」
「どれだけ強くても、新人は鉄級だ。依頼の手順も、町の規則も、冒険者同士の約束事も知らない人間を、いきなり上の等級へ置けるか」
「討伐の腕と、仕事の信用は別ということか」
「そういうことだ。そこへ文句をつけるなら、登録を取り消すぞ」
「文句はない。俺の店でも、新人が包丁を使えるからといって、初日から厨房を一人で任せはしなかった」
「店の話に置き換えれば、物分かりがいいんだな」
「それ以外の基準を知らない」
ガルドは呆れながらも、少しだけ口元を緩めた。
「職業欄は《麺聖》、役割は討伐兼解体補助……で登録しておく。料理人の扱いなんぞ、うちにも前例がない」
「調理も入れろ」
「冒険者証の役割欄に、調理と書くのか」
「俺にとっては一番重要だ」
「好きにしろ。受付へ言っておく」
ガルドが冒険者証を渡そうとしたとき、リーゼが横から手を伸ばし、それを先に受け取った。
「何をする」
「確認します」
「俺のものだぞ」
「あなたは、この世界の文字が読めないのでしょう。名前や職業を間違えられていても分からないではありませんか」
「受付の人間を信用していないのか」
「信用の問題ではなく、確認の問題です。あなたは、料理を出す前に味見をするでしょう」
「……それを言われると返せないな」
リーゼは金属板へ刻まれた文字を読み、裏面まで確認した。
「名前はカミヤ・レンジ、年齢二十五、出身地不明、職業《麺聖》。役割は討伐、解体、調理。間違いありません」
「最初から、そう書いてあると思ってた」
「なら、なぜ受け取る前に確認しなかったのです」
「お前が勝手に取ったからだろ」
「そういうところです。誰かが先に気づけば、その人へ任せたことにして、自分では覚えようとしない」
「昨日まで文字の存在すら知らなかった人間へ、厳しすぎないか」
「では、少しずつ覚えてください。自分の名前くらいは読めなければ困ります」
「料理に必要か」
「店の看板も、仕入れの契約書も、値札も読めないまま商売をするつもりですか」
蓮司は黙った。
必要だった。
「教えてくれ」
素直に言うと、リーゼが目を瞬いた。
「……私がですか」
「ほかに知り合いがいない」
「私は、ずっとあなたと行動すると決めたわけではありません」
「では、町へ案内したら別れるつもりだったのか」
「その予定でした」
「そうか」
蓮司は短く答え、岩鎧猪の血抜きへ視線を戻した。
胸のどこかに、細い棘を刺されたような感覚があった。
出会って一日程度である。
リーゼにはリーゼの目的があり、蓮司へ付き合い続ける理由などない。
分かっていたことだ。
それなのに、味を確かめる客がいなくなることを、想像していなかった。
「何です、その顔は」
「どんな顔だ」
「閉店直前に、常連客からもう来ないと言われた店主のような顔です」
「見たことがあるのか」
「ありません。あなたから聞いた話を組み合わせました」
「別に、困ってない」
「そうですか」
「お前がいなくても、料理は作れる」
「そうでしょうね」
「味見だって自分でできる」
「その結果、一人で仕込みも経営も抱え、厨房で死んだのでしたね」
「……どうして、毎回そこへ戻る」
「一番効くからです」
リーゼは冒険者証を蓮司へ返した。
「ただ、私も今すぐ町を離れるつもりはありません。傷の治療と装備の修理が必要ですし、あなたの料理によって味覚が戻った理由も調べたい。少なくとも、白角鹿の食材を使い切るまでは、試食に付き合います」
「それは、何日くらいだ」
「食材の量を知りません」
「一頭分ある」
「それなら……かなり長くなりませんか」
「骨は一本煮るだけでも、何杯分か取れる。肉も保存できる。角もまだ片方残ってる」
「私を引き留めるために、食材を小分けに使うつもりではありませんよね」
「そんな姑息なことはしない」
「少し間がありました」
「使い道を考えただけだ」
「本当に?」
「疑り深い女だな」
「あなたが分かりにくいのです」
言い争っていると、先ほど血抜きを手伝ったバルドが解体場の奥から顔を出した。
「料理人、ちょっと来てくれ。あんたに見せたら、たぶん面白いものがある」
「旨いものか」
「逆だ。あんたなら怒りそうなものだ」
「なぜ、会ったばかりのお前に、俺が怒りそうなものまで分かる」
「岩鎧猪の血を一滴でも無駄にするなって顔をしてたからな」
バルドに案内され、ギルド裏のさらに奥へ回る。
建物から離れるほど、嫌な臭いが強くなっていった。
腐った肉。
古い血。
土へ染み込んだ脂。
そこへ薬品に似た刺激臭まで混じっている。
蓮司は眉を寄せた。
「廃棄場です」
リーゼが口元を押さえた。
高い木柵で囲まれた広場に、魔物の死骸が山のように積まれていた。
皮を剥がされた大蜥蜴。
角と牙だけを取られた猪。
魔石を抜かれ、腹を開いたまま放置された鳥型の魔物。
まだ新しい血を流しているものもあれば、黒く変色し、蝿のような虫に覆われているものもある。
骨。
肉。
脂。
内臓。
命だったものの大部分が、価値のないごみとして投げ捨てられている。
「これを、全部捨てるのか」
「魔石や素材を取った残りだ」
バルドが答えた。
「一定量がたまれば、火炎魔術師を呼んで焼く。放っておくと、魔力汚染が広がるからな」
「魔力汚染を防ぐために、魔力を含んだ死骸を一か所へ積んで腐らせるのか」
「言いたいことは分かるが、ほかに方法がない。穴へ埋めても、土の中で魔力が濁る。川へ流すわけにもいかない。全部を焼くには金がかかる」
「町の外で魔物を解体し、必要な部位だけ持ってくることは?」
「大型の魔物なら現地解体もするが、森で長く作業すれば別の魔物が寄ってくる。毒を持つ種類もいるし、安全な部位を見分けられる奴はいない。冒険者だって、金にならない肉のために命を懸けたくはない」
理屈は分かった。
誰も、好きで捨てているわけではない。
持ち帰れば危険。
処理には金と人手がかかる。
肉は食べられないという常識があり、素材以外に価値がないのなら、廃棄するほかない。
それでも蓮司の腹の奥に、熱いものがこみ上げてきた。
「この肉は、本当に全部食えないのか」
「だから危険だと言ったでしょう」
リーゼが止めるように言った。
「白角鹿は、たまたまあなたの能力と調理法がうまく働きました。しかし、すべての魔物が同じではありません。腐敗しているものも、強い毒を持つものもあります」
「全部食うとは言ってない」
蓮司は廃棄場へ近づいた。
「食えるものまで、何も調べず一緒に捨てているのかと聞いている」
「調べる奴がいないんだよ」
バルドは困ったように頭を掻いた。
「俺たちは魔物を倒す。薬師は毒や薬になる部分を見る。職人は皮や牙を選ぶ。肉が食えるかなんて、考えたこともない。昔から、魔物肉は食えば死ぬと決まっている」
「昔からそう言われているから、確かめない?」
「死ぬかもしれないものを、好き好んで食べる奴はいないだろ」
「いる」
「お前のことかよ」
「俺は死にたいわけじゃない。死なない方法を探すんだ」
蓮司は比較的新しい死骸を一つずつ見ていった。
すでに腐敗が始まっているもの。
内臓を傷つけ、内容物で肉が汚れているもの。
毒腺や魔石が破裂しているもの。
それらは食材として扱う以前の問題である。
しかし中には、討伐からそれほど時間がたっておらず、肉の色も悪くないものがあった。
「これは?」
蓮司が示したのは、大きな鼠に似た魔物だった。
猫ほどの体格があり、口から二本の長い牙が伸びている。
腹には浅い斬り傷があるだけで、肉の大部分は傷んでいない。
「毒牙鼠だ」
ガルドの声が背後から聞こえた。
いつの間にか、支部長も廃棄場へ来ていた。
「穀物倉を荒らす害獣だ。牙に弱い毒があり、噛まれると手足が痺れる。繁殖力が強く、見つけ次第討伐する」
「毒腺はどこだ」
「顎の左右だ。牙と一緒に薬師へ売る」
「この個体は、まだ抜かれていない」
「素材として安いからな。持ち帰る手間のほうが高くつく場合は、そのまま捨てる」
蓮司は布を手へ巻き、毒牙鼠の顎を開いた。
犬歯の根元に、小さな黄緑色の袋がある。
毒腺は口の周辺へ集中しており、首から下には毒を示す臭いも変色も見当たらない。
《食材鑑定》を使う。
毒腺および唾液は有毒。
肝臓に微量毒。
筋肉は十分な血抜きと加熱により食用可能。
脂肪量、低。
肉質、柔らかい。
「食える」
蓮司が言うと、ガルドの顔が険しくなった。
「能力にそう出たのか」
「ああ。ただし毒腺と肝臓は使わない。血抜きをして、十分に火を通す必要がある」
「能力の表示を、どこまで信用できる」
「参考にはする。最後は俺が匂い、色、手触りを確かめ、少量を試食する」
「また自分で食うつもりか」
「客へ出す前にな」
「その客というのは、私ですか」
リーゼが嫌そうな顔で尋ねた。
「安全が確認できたらだ」
「嫌だと言ったら?」
「無理には食わせない」
「……そう言われると、食べない自分が臆病なようで、少し腹が立ちますね」
「誰も臆病とは言ってない。毒のある鼠を食いたくないのは、普通の感覚だ」
「あなたから普通だと言われると、なぜか褒められた気がしません」
蓮司は毒牙鼠の後脚を押し、筋肉の弾力を確かめた。
脂は少ないが、その分、臭みも弱い。
鶏の胸肉や兎肉に近い使い方ができるかもしれない。
「これを何頭かもらえないか」
「廃棄物だから、好きに持っていけと言いたいところだが」
ガルドは腕を組んだ。
「町の中で調理し、何か起きれば問題になる。ギルドの監視下で処理するという約束を守れ」
「調理場を貸してくれ」
「ギルド食堂の厨房は使わせられん。料理長が、お前の顔を見るたび包丁を研ぎ始めている」
「火を弱めろと言っただけだ」
「そのあと、休憩中に煮込みを一口食って、“塩を足して焦げ味をごまかすな”と言っただろう」
「事実だ」
「事実でも、言い方がある!」
「リーゼにも同じことを言われた」
「少しは学べ!」
「では、どこなら使える」
ガルドは頭を掻き、廃棄場の隣にある古い石造りの小屋を指した。
「以前、素材処理に使っていた作業場だ。炉と水場はある。鍋も、錆びたものでよければ倉庫に残っているだろう」
「掃除すれば使える」
「使うつもりか」
「今日から、そこを俺の厨房にする」
「勝手に店を始めるな。貸すのは、安全性の確認が終わるまでだ」
「分かってる」
「その返事は信用ならんな」
ガルドがため息をつく横で、バルドが毒牙鼠を覗き込んだ。
「これ、本当に旨くなるのか」
「まだ分からない」
「さっき食えると言ったじゃねえか」
「食えることと、旨いことは別だ。食べられるだけのものを、金を取って客へ出す気はない」
「じゃあ、どうする」
「まず毒腺を外す。血を抜く。肉質を確認する。臭みが強ければ水へさらし、香草を使う。脂が少ないなら、岩鎧猪の脂を少し合わせてもいい」
「もう料理が見えてる顔だな」
「鼠肉だけでは、スープが弱い。骨も小さい。白角鹿の骨を少量使い、清湯にするか……いや、これだけ数がいるなら、丸ごと煮て旨味を重ねる方法もある。ただし頭部は毒腺の近くで危険だ。首から下だけを使う」
蓮司が考え込みながら話していると、柵の外から小さな物音がした。
木箱が倒れたような音。
振り返ると、廃棄場の隅に積まれた樽の陰から、小柄な影が飛び出した。
猫の耳。
細い尻尾。
赤茶色のぼさぼさした髪。
年齢は十五歳ほどだろうか。
痩せた少女が、何かを胸へ抱え、出口へ走ろうとしていた。
「止まれ!」
バルドが声を上げる。
少女は驚き、足を滑らせた。
抱えていたものが地面へ落ちる。
腐敗しかけた魔物の後脚だった。
「またお前か、ミーナ!」
ガルドが低く唸った。
「廃棄場へ入るなと、何度言えば分かる!」
「捨てるんでしょう! だったら、あたしが持っていったって、誰も困らないじゃない!」
少女――ミーナは、地面へ落ちた肉を拾い直そうとした。
蓮司が先にその腕を掴んだ。
「触るな」
「離して! あたしが見つけたんだ!」
「腐ってる」
「焼けば食べられる!」
「食べられない」
「分かったようなこと言わないでよ! お腹が減ったこともないくせに!」
ミーナは蓮司の手へ爪を立てた。
痛みが走る。
それでも離さなかった。
「ある」
「嘘よ。あんた、ギルドで冒険者になった人でしょう。肉だって、お金だって持ってるくせに」
「今の俺は、金も家も店もない。腹が減って、森で鹿に襲われた」
「でも、死にかけた肉を拾って食べたことはないでしょう!」
「ない」
「だったら偉そうに――」
「だから、知らないことまで分かるとは言わない。ただ、その肉が腐っていることは分かる。表面が緑色に変わり、酸っぱい臭いが出てる。焼いても毒は消えない。腹が減っているからこそ、そんなものを食って死ぬな」
「じゃあ、どうしろって言うのよ」
ミーナが睨み上げた。
瞳の奥にあるのは、反抗心だけではなかった。
空腹。
羞恥。
憐れまれたくないという意地。
助けてほしいのに、助けてと言えば負けるような気がして、先に相手へ噛みついている。
「食べ物をくれるの? 今日だけ一切れくれて、それで自分はいい人だって満足して、明日からまた勝手にしろって言うの?」
蓮司は返事をしなかった。
簡単に否定できなかった。
前世でも、店の前に腹を空かせた若者が来たことはある。
まかないを食べさせた。
金を取らずに帰した。
だが翌日から、その人間がどう生きたかまでは知らない。
一杯の食事で、他人の人生すべてを背負えるわけではない。
それでも一杯を出したことに、意味がなかったとも思いたくない。
「今日だけかどうかは、お前次第だ」
「何、それ」
「仕事をしろ」
「子供を働かせるの?」
「盗みに入る元気があるなら、働ける。あの作業小屋を掃除する。床を洗い、使える道具と使えない道具を分ける。それができたら、飯を出す」
「お金は?」
「飯だけだ」
「けち!」
「知らない相手へ、最初から給料を払うほど金がない。働きぶりを見て、続けて雇う価値があると思えば相談する」
「雇うって、何の仕事よ」
「ラーメン屋だ」
ミーナが固まった。
「……何屋?」
「ラーメン屋」
「それ、流行ってる冗談なの?」
「どうして誰も、一度で理解しないんだ」
「この世界にない料理なのですから当然です」
リーゼが横から言った。
「それに蓮司。あなたは先ほど、店を始めるなと言われたばかりでしょう」
「厨房を借りた。料理を作れば、そこが店になる」
「なりません。営業許可も、客席も、食器もありません」
「最初はまかないだ。客から金は取らない」
「詭弁です」
「食わせないほうがいいのか」
「そうは言っていません。ただ、何でも勢いで決めず――」
「掃除する!」
ミーナが割り込んだ。
「すれば、ご飯を食べられるんでしょう」
「ああ」
「腐った肉じゃない?」
「そんなものを客へ出すか」
「客じゃなくて、掃除係でしょう」
「食べる人間は、全員客だ」
「変なの」
「よく言われる」
ミーナは地面へ落ちた腐肉を名残惜しそうに見たあと、手を離した。
「先に言っておくけど、あたし、掃除なんかしたことないからね」
「自慢することじゃない。やり方は教える」
「怒鳴らない?」
「手を抜けば怒る」
「優しく教えるって言いなさいよ!」
「嘘をつく気はない」
「やっぱり嫌な奴!」
「嫌なら帰ってもいい」
「帰らない!」
リーゼが額へ手を当てた。
「どうしてあなたの周りには、一日で面倒な人ばかり集まるのでしょうね」
「お前も含めてか」
「私は違います」
「さっき自分で面倒な性格だと言ってただろ」
「自覚があることと、他人から言われて腹が立たないことは別です」
ガルドはしばらく三人のやり取りを眺めていたが、やがて大きく息を吐いた。
「分かった。今日一日だけ、作業小屋を使わせる。毒牙鼠を調理し、安全性を確認する。食べるのは、お前と、本人が了承した者だけだ」
「俺とリーゼでいい」
「私は、まだ了承していません」
「さっき味見に付き合うと言った」
「白角鹿の食材とは言いましたが、毒鼠まで含めたつもりはありません」
「安全を確認して、旨いものができたらでいい」
「……その言い方は卑怯ですね」
「どこがだ」
「美味しくできたと言われたら、味覚を確かめたい私が断れないと分かっているでしょう」
「断っても構わない」
「それが余計に腹立たしいのです」
ミーナが二人を交互に見た。
「ねえ、あんたたち、夫婦なの?」
「違う!」
リーゼの声が廃棄場へ響いた。
蓮司は少し遅れて答えた。
「出会って二日目だ」
「蓮司、否定するところが違います!」
「事実を言っただけだろ」
「期間の問題ではありません!」
ミーナは初めて、子供らしく声を上げて笑った。
その直後、腹が大きく鳴る。
少女は恥ずかしそうに腹を押さえ、顔を背けた。
「笑ってないで、掃除を始めろ」
「分かってるわよ」
「先に手を洗え。爪の間までだ」
「面倒くさい」
「食べ物を扱うなら当然だ。廃棄場へ入った服のまま、調理場の中を歩くな。外で埃を落とせ。それから髪をまとめろ。毛が入ったら全部作り直しだ」
「まだ掃除も始めてないのに、注文が多すぎる!」
「最初に言っておいたほうが、あとで怒らずに済む」
「どっちにしても怒るでしょう!」
「お前の働き方次第だ」
蓮司は毒牙鼠を持ち上げた。
捨てられていた肉。
誰にも価値がないと思われ、腐るのを待つだけだった命。
それを旨い一杯へ変えられるかどうか、今はまだ分からない。
だが、一つだけは決めていた。
腐った肉を盗まなければ腹を満たせない子供がいるのなら、料理人として見て見ぬふりはできない。
「百人分には足りないな」
蓮司が呟くと、ガルドが眉を寄せた。
「何の話だ」
「貧民街に、ミーナみたいな子供は何人いる」
「正確には知らん。南壁沿いの一帯に、仕事のない日雇い、戦争で家を失った者、獣人の孤児が集まっている。腹を空かせている奴なら、子供だけでも五十人はいるだろう」
「大人を含めれば?」
「百人を超える」
蓮司は廃棄場へ積まれた、まだ新しい毒牙鼠の死骸を見渡した。
小さい。
一頭から取れる肉は少ない。
しかし数はある。
陽麦も町で手に入るはずだ。
白角鹿の骨。
岩鎧猪の脂。
毒牙鼠の柔らかな肉。
それぞれを正しく処理すれば、腹を満たす一杯を作れる。
「ガルド。食べられると証明できた毒牙鼠は、今後も俺が引き取っていいか」
「安全性が確認でき、廃棄費用を減らせるなら、ギルドに断る理由はない。ただし、お前一人でどうするつもりだ」
「百人前、作る」
「今日か?」
「道具も仕込みも足りない。まず小屋を使える状態にし、安全性を確かめる。明日、貧民街へ持っていく」
「勝手に話を大きくしないでください」
リーゼが止めた。
「百人分の調理を、あなた一人で行うつもりですか」
「ミーナがいる」
「掃除すら初めての少女を数に入れないでください」
「あんた、失礼ね!」
「事実です」
「お前も怪我人だが、味見はできる」
「つまり、また自分一人で仕込みを抱えるつもりですね」
「今は俺しか処理方法を知らない」
「なら、教えてください」
リーゼは蓮司の前へ立った。
「毒腺を外す方法も、血を抜く方法も、麺を作る方法も、私やミーナへ教えてください。初めは遅く、失敗もするでしょう。それでも、あなたが一人で百人分を作り、倒れるよりはましです」
「刃物を扱ったことのない人間へ、いきなり解体は任せられない」
「私は騎士です。刃物なら、あなたより長いものを扱っています」
「剣と包丁は違う」
「違うなら教えればよいでしょう!」
リーゼの声が強くなる。
「あなたは、できないから任せないと言います。ですが、任せなければ、誰もできるようにはなりません。前の店でも、そうして何もかも自分で抱えたのではないですか」
蓮司は言葉を失った。
相馬の顔が浮かぶ。
朝一番の丸鶏を任せた。
それが最後だった。
もっと早く任せていれば。
もっと多くを教えていれば。
自分が倒れたあとも、店は続いたのだろうか。
「……分かった」
「本当に?」
「毒腺を外す作業は、俺がやる。安全な状態にしてから、血抜きと皮剥ぎを教える。麺の生地も、最初の配合は俺が決めるが、こねる作業は任せる」
「私にも?」
「怪我へ響かない範囲でな」
「蓮司が人へ仕事を任せた!」
リーゼが大げさに目を見開いた。
「そこまで驚くことか」
「白角鹿を一人で倒したと聞いたときより驚いています」
「馬鹿にしてるだろ」
「褒めています」
「どこがだ」
ミーナが小屋の入口から顔を出した。
「ねえ! 床に茸が生えてるんだけど、これも掃除するの?」
「触るな。食えるか確認してからだ」
「掃除の途中まで、食材を探すの!」
「食えるものなら捨てるな」
「本当に面倒くさい店主!」
「まだ店主じゃない」
リーゼが訂正した。
「本人は、もう店主のつもりだと思います」
蓮司は古い作業小屋を見た。
煤けた炉。
錆びた鍋。
茸の生えた床。
割れた窓。
金も看板も、客席もない。
前世の《麺処かみや》とは比べるべくもない。
それでも、胸の奥へ、厨房へ初めて立った日のような熱が戻ってくる。
「六席も置けないな」
「何です?」
「いや。店をやるなら、まず掃除からだと思ってな」
「ですから、まだ店ではありません」
「明日、百人へ食わせるなら、立派な厨房だ」
蓮司は包丁を抜き、毒牙鼠の顎へ刃を当てた。
「まずは毒を外す。食べられないと言われて捨てられた肉が、本当に食べられないのか、一つずつ確かめるぞ」
腐臭の漂う廃棄場の隣で、異世界最初のラーメン屋が、まだ誰にも店とは認められないまま動き始めた。




