第5話 料理人は冒険者になれない
最初の毒牙狼が飛びかかってきたとき、蓮司は白角鹿を相手にしたときのように、正面からぎりぎりまで引きつけようとはしなかった。
相手は一頭ではない。
目の前の一頭だけを仕留めることに集中すれば、左右へ回り込んだ別の個体に喉を食い破られる。厨房で一つの鍋ばかり見ているうちに、隣の鍋を焦がすような失敗を、命の懸かった場面で繰り返す気はなかった。
「リーゼ、火へ薪を足せるか」
「この状況で、なぜ火の心配をするのです」
「火を大きくしろと言ってる。狼は鼻が利くし、毛のある獣は炎を嫌う。俺の背中側だけでも塞げれば、囲まれにくくなる」
「私を厨房の助手のように扱わないでください」
「動けない客として座っているよりは役に立つだろ。それとも、騎士は薪も足せないのか」
「できます。できますが、言い方というものがあるでしょう!」
怒鳴り返しながらも、リーゼは地面へ手をつき、火の近くに集めてあった枝を抱え込んだ。
毒はまだ完全に抜けていない。
立ち上がることさえできないが、手を伸ばして薪を放り込む程度なら可能らしい。
炎が一段高くなる。
乾いた枝が激しく爆ぜ、火の粉が夕暮れの森へ舞い上がった。
その瞬間、蓮司の右から回り込もうとしていた毒牙狼が足を止めた。
「そうだ。そっちには来るな。俺も、客席へ毛の長い獣を入れる趣味はない」
「私はいつから客席に座っているのですか」
「俺の後ろだ。厨房から見れば客席だろ」
「森です!」
「今は話しかけるな。舌を噛むぞ」
「話しかけているのは、あなたでしょう!」
正面の毒牙狼が口を開いた。
長い犬歯の根元にある青黒い毒腺が膨らみ、紫色の液体が糸を引く。
白角鹿のときと同じように、《厨房領域》が獣の身体へ光の線を浮かび上がらせていたが、今回は線が多すぎた。
四肢の腱。
肩の関節。
顎の付け根。
首を通る血管。
そして、左右の上顎へ埋まっている毒腺。
あれを傷つければ、毒が肉へ回る。
だからといって、毒腺を避けることだけを考えていれば、自分が牙を受ける。
「食材として扱うには、ずいぶん面倒な構造だな」
「食べることは諦めて、普通に倒してください!」
「食べるかどうかは、倒したあとに決める。だが食べられる可能性を、自分から潰す必要はない」
「自分の命より肉質を優先していませんか」
「命が一番だ。その次に肉質だ」
「二番目なのですね……!」
毒牙狼が跳躍した。
蓮司は包丁を持つ右手を動かさず、左手で地面の土を掴むと、獣の顔へ投げつけた。
毒牙狼が目を閉じる。
その一瞬に身体を沈め、喉元をくぐり抜けるように横へ踏み込んだ。
包丁を入れたのは首ではない。
着地に使う左前脚の、腱と筋肉が重なる細い隙間だった。
刃先が光の線へ沿って走る。
毒牙狼は着地した途端に前脚を崩し、地面を転がった。
だが、仕留めてはいない。
一頭へ止めを刺す前に、背後の茂みから二頭目が飛び出してきた。
「後ろです!」
「見えてる!」
蓮司が振り返ったときには、毒牙狼の牙が目の前まで迫っていた。
避けきれない。
包丁で受ければ、刃を折られる。
そう判断した瞬間、横から銀色の何かが飛び、毒牙狼の頬へ突き刺さった。
リーゼの短剣だった。
深い傷ではない。
だが突然の痛みに獣の顔が横を向き、飛びかかる軌道が僅かに逸れた。
蓮司は肩から地面へ倒れ込み、その脇を黒い巨体が通り過ぎる。
「お前、動けないんじゃなかったのか」
「剣を振れないとは言いましたが、短剣まで投げられないとは言っていません。それより、私が助けなければ、今ごろ肩の肉を食いちぎられていましたよ」
「食材に食われるところだったな。助かった」
礼を言われると思っていなかったのか、リーゼは一瞬だけ言葉を失った。
「……ずいぶん素直ですね」
「助かったときに礼を言わないほど、ひねくれてはいない」
「では、私がラーメンの欠点を指摘したときにも、そのくらい素直に聞いてください」
「それは内容による」
「やはり面倒です」
二頭目の毒牙狼が向きを変える。
頬に刺さった短剣を前脚で掻き落とし、低い唸り声を上げた。
残る三頭も、炎を警戒しながら距離を詰めている。
頭のよい獣だった。
一斉には襲わず、こちらが疲れるのを待っている。
「リーゼ。あいつらは、群れでどう戦う」
「一頭が正面から注意を引き、別の個体が死角から足を狙います。倒れた獲物へ一斉に噛みつき、毒が回るまで離れない。もともと、自分たちより大きな魔獣を仕留めるための狩り方です」
「厄介だな」
「ようやく理解しましたか」
「いや。調理の話だ。毒腺を傷つけず五頭まとめて仕留めるのは難しい」
「そちらではありません!」
正面の一頭が吠えた。
それを合図に、左右の二頭が同時に走り出す。
蓮司は一歩下がった。
背後には炎がある。
さらに下がれば火傷する。
左右へ逃げれば、待ち構える別の狼に追いつかれる。
「リーゼ、狼が恐れる音はあるか」
「音ですか?」
「大きな金属音でも、甲高い音でもいい。動きを一瞬止められればいい」
「毒牙狼は耳がよいので、大きな音には敏感ですが、この場に鐘など――」
蓮司は視線を動かした。
先ほど使った白角鹿の角の器。
火の中で熱せられている丸石。
リーゼの金属製の水筒。
「器を貸せ」
「何をするつもりです」
「食器は食べるためだけにあるわけじゃない」
「普通は食べるためにあるものです!」
蓮司は角の器を地面へ伏せ、金属製の水筒で縁を強く叩いた。
高く澄んだ、しかし耳の奥へ突き刺さるような音が森へ響いた。
白角鹿の角に残っていた冷気の魔力が共鳴したのか、ただの食器とは思えないほど音が増幅され、木々の間を震わせる。
毒牙狼たちの耳が一斉に伏せられた。
左右から迫っていた二頭が足を止め、頭を振る。
「今です、蓮司!」
「分かってる!」
蓮司は一頭目の正面へ踏み込み、下から顎を蹴り上げた。
噛みつこうとしていた口が閉じる。
そのまま横へ回り込み、後脚の腱を切る。
崩れた巨体を避け、二頭目の背後へ移動したところで、別の毒牙狼が立ち直り、蓮司の背中へ飛びかかった。
「右後ろ!」
リーゼの声に従い、考える前に身体を沈める。
頭上を狼が飛び越えた。
着地した瞬間、その尾の付け根へ包丁を入れた。背骨を傷つけるのではなく、後脚へ力を伝える筋肉の接合部だけを断つ。
毒牙狼は甲高い声を上げ、後半身を引きずった。
「三頭、動きを止めた」
「まだ二頭います。それに、止めただけでは仕留めたことになりません」
「分かってる。だが、一度に全部はできない」
蓮司の息は上がっていた。
若返った身体にも限界はある。
肩の傷が痛み、包丁を握る指にも痺れが出始めている。
最初の白角鹿との戦いで体力を使い、その後リーゼを背負い、解体と調理まで続けた。身体が軽いからといって、疲労まで消えるわけではなかった。
前世でも同じだった。
疲れている。
休まなければならない。
頭では分かっていながら、あと一杯、あと一時間と動き続け、最後には厨房で倒れた。
「蓮司、息が乱れています」
「見れば分かる」
「私が囮になります」
「動けないと言っただろ」
「立って走る必要はありません。炎の近くで剣を振り、注意を引くだけなら――」
「駄目だ」
「今は頑固になっている場合ではありません」
「毒が抜けていない人間を囮にする料理人が、どこにいる」
「ここは料理店ではなく、魔獣の森です!」
「俺がいる場所が厨房だと言っただろ」
「そんな理屈で何でも押し通せると思わないでください!」
怒鳴りながら、リーゼは地面へ剣を突き、無理やり立ち上がった。
膝が震えている。
顔色も再び悪くなっていた。
それでも蓮司の隣へ並び、両手で剣を構えようとする。
「座ってろ」
「嫌です」
「倒れたら邪魔になる」
「置いて逃げることも、後ろで黙って守られることも嫌です。あなたは私を客だと言いますが、私は騎士です。今は騎士団から追われ、満足に剣を振ることさえできなくても、自分を助けようとしている人間を一人で戦わせ、座って見ていることだけはできません」
「追われた?」
「今、その話をしている場合ですか」
「自分から言ったんだろ」
「そこへ食いつくところではありません!」
残った二頭の毒牙狼が距離を詰める。
動けなくした三頭も、前脚や後脚を引きずりながら立ち上がろうとしていた。
リーゼは剣先を前へ向けたが、その腕は明らかに震えている。
蓮司は横目で彼女を見た。
座っていろと命令しても、聞かないだろう。
無理に押さえつければ、その間に狼が襲ってくる。
「分かった」
「では――」
「ただし、勝手に前へ出るな。俺が一頭目を引きつける。お前は二頭目が動いたら、剣を地面へ叩きつけて音を出せ。斬ろうとするな。身体が流れたら、毒牙を避けられない」
「子供のように指示しないでください」
「今のお前に、できもしない格好をつけられるほうが困る」
「……分かりました。ただし、あなたも勝手に全部引き受けないでください」
「善処する」
「それは、守る気のない人が使う返事でしょう」
「前の店で、よく相馬に言われた」
「その相馬という方の苦労が、少しずつ理解できてきました」
「会ったこともない男へ同情するな」
先頭の毒牙狼が動く。
蓮司も前へ出た。
真正面からではなく、炎を背にしたまま円を描くように走り、狼の視線を自分へ集中させる。
二頭目がリーゼへ向こうとした瞬間、彼女が剣の腹を岩へ叩きつけた。
金属音に毒牙狼の耳が動く。
ほんの僅かな隙だった。
しかし蓮司には十分だった。
一頭目の牙を腕の外側へ流し、顎の付け根へ柄を打ち込む。
口が閉じたところで首の後ろへ回り、延髄へ一息で刃を入れた。
筋肉が強張り、すぐに力が抜ける。
「一頭!」
「左から来ます!」
二頭目がリーゼへ跳びかかった。
蓮司は間に合わない。
リーゼは避けようとしたが、弱った脚が動かず、その場へ膝をついた。
しかし倒れたのではない。
自分から姿勢を低くし、毒牙狼が頭上を越える瞬間、剣の柄を腹へ突き上げた。
狼の軌道が崩れる。
地面へ横向きに落ちたところへ、蓮司が駆け寄った。
毒腺を避け、頸動脈へ刃を入れる。
二頭目が動かなくなった。
「見事だ」
「当然です。私は……これでも、竜人騎士団の近衛隊にいたのですから」
言い終えたリーゼの身体が傾いた。
蓮司は腕を伸ばし、地面へ落ちる前に抱き留めた。
「無茶をするなと言っただろ」
「あなたに言われると、どうしても腹が立ちますね」
「それだけ喋れるなら、まだ死なないな」
「先ほどの私の動きを見て、ほかに言うことはありませんか」
「ある。狼の腹を柄で突いたのは悪くないが、あと半歩遅ければ毒の唾液を顔へ浴びていた。次は体勢を低くする前に、相手の顎の角度を確認しろ」
「褒めるだけでは済ませられないのですか」
「悪いところを放置して、次に死なれたら困る」
「料理と同じなのですね」
「何がだ」
「美味しいと言いながら、次の瞬間には麺の太さや香草の量を直そうとする。あなたは、人の戦い方まで同じように見るのですね」
「嫌か」
「腹は立ちますが、嫌ではありません」
リーゼは力なく笑った。
「ただ、今くらいは、よくやったと先に言ってもらいたかったです」
蓮司は少し黙った。
そういうものなのか、と考える。
従業員に仕事を任せたときも、できた部分より先に直すべき点を指摘していた。相馬から何度か、店長は人を褒めると給料が減る病気にでもかかっているのか、と嫌味を言われたことがある。
自分では、良い部分は見れば分かると思っていた。
だが、見れば分かることと、言葉にしなくてよいことは別だったのかもしれない。
「……よくやった」
「ずいぶん間がありましたね」
「言い慣れてない」
「知っています。それでも、ありがとうございます」
残った毒牙狼三頭は、仲間二頭が死んだのを見て、戦意を失い始めていた。
足を傷つけられたまま後退し、低い声で唸る。
蓮司は包丁を構え直したが、追いかけなかった。
「逃げるなら行け」
「仕留めなくてよいのですか」
「動きを止めるために傷を負わせた。あの脚では、森で長く生きられないかもしれない」
「でしたら、苦しませないためにも――」
「分かってる」
蓮司はリーゼを岩へ座らせ、傷ついた三頭へ近づいた。
食べるために命を奪う。
危険だから命を奪う。
どちらにしても、途中で投げ出してよい理由にはならない。
一頭ずつ、できるだけ短く終わらせた。
森に静けさが戻ったあと、蓮司は五頭の毒牙狼を並べ、口元を観察した。
紫色の毒液が垂れている。
だが顎の下や首筋には毒の臭いがなく、肉そのものまで汚染されているようには見えない。
《食材鑑定》を使う。
可食部あり。
毒腺、牙根、唾液腺は強毒。
毒腺を損傷した個体は食用非推奨。
十分な加熱が必要。
「二頭は使えそうだな」
「本当に食べるのですか」
「頬へ短剣を刺した個体は、毒腺の近くが傷ついている。あれはやめる。残りも、町へ着いて安全性を確認できるまで食わせない」
「ようやく慎重な判断をしてくれましたね」
「俺は最初から慎重だ」
「白角鹿を見て、“鹿骨ならまず塩だな”と包丁一本で向かっていく人間の、どこが慎重なのです」
「肉を傷めない方法は考えた」
「自分が傷つく可能性は、あまり考えていなかったでしょう」
反論できなかった。
蓮司は毒牙狼の血抜きを済ませ、毒腺を傷つけていない二頭だけを《寸胴収納》へ収めた。
残る個体からは、ギルドで証明になりそうな牙を、毒腺ごと慎重に切り取る。
「これを持っていけば、町で金になるのか」
「毒牙狼の毒腺と牙は、解毒薬や武器の素材になります。ただし、冒険者登録をしていない者が持ち込むと、入手経路を疑われるかもしれません」
「なら登録すればいい」
「それがよいでしょう。魔獣を狩り、素材を売るつもりなら、冒険者証が身分証明にもなります」
「登録に条件はあるのか」
「犯罪歴がなく、最低限の戦闘能力か、有用な職業を持っていることです。あなたなら白角鹿を単独討伐した実績がありますから、問題はないと思います」
「職業は料理人だが」
「……実技で証明すればよいでしょう」
「今、少し目を逸らしたな」
「逸らしていません」
「料理人だと登録できない可能性があるのか」
「登録自体はできます。ただ、採取や解体を専門とする者はいても、料理人が魔獣討伐のために冒険者になる例は、あまり聞きません」
「例がないなら、今日から作ればいい」
「あなたは、何でもその一言で済ませますね」
「前例がないからできないと言う奴と、前例がないから面白いと言う奴では、後者のほうが旨いものを作る」
「冒険者登録と料理を無理に結びつけないでください」
夜は川辺から少し離れた岩場で過ごした。
血の匂いが残る場所を避け、火を絶やさず、蓮司とリーゼは交代で見張りをする――はずだったが、リーゼは食事の効果が切れたのか、ほどなく眠り込んでしまった。
蓮司は起こさなかった。
自分一人で見張ればいい。
そう考え、夜明けまで火の前へ座っていた。
だが夜が明け、目を覚ましたリーゼがその事実を知ると、予想以上に本気で怒った。
「どうして起こさなかったのです!」
「毒のある病人を起こして見張りをさせるほうがおかしいだろ」
「では最初から、交代すると約束しなければよかったでしょう。私は、自分の番が来ると思って眠ったのです」
「結果としてよく眠れたなら、それでいい」
「よくありません。あなたは、自分だけが無理をすれば丸く収まると考えているのでしょうが、勝手に約束を破られた側は、自分が信用されていないように感じるのです」
「信用の問題じゃない。身体の状態を考えた」
「それなら、“今夜は私が見張るから休め”と、最初から言えばよいではありませんか。あなたは相手に反対されるのが面倒だから、話し合わず、あとから自分一人で決める。そうして結果だけ見せて、“これが一番よかった”と言うのでしょう」
「……朝からよく喋るな」
「話を逸らさないでください」
痛いところを突かれていた。
相馬にも似たようなことを言われた。
蓮司は他人に仕事を任せないだけではない。
相手に断られること、意見を言われること、説得することを面倒に感じ、最初から相談せず自分で決める癖があった。
「悪かった」
蓮司が言うと、リーゼは口を開いたまま固まった。
「何だ」
「いえ……もう少し言い訳を重ねると思っていました」
「言い返せないことまで、無理に言い返すほど暇じゃない」
「そこは、“次からは相談する”まで言うべきでしょう」
「善処する」
「それでは駄目です」
「努力する」
「本当に?」
「……次からは、起こす前に状態を確認して、見張りができそうなら相談する」
「最初から、そう言えばよいのです」
「面倒だな」
「お互いさまです」
それから二人は、白角鹿の残りを《寸胴収納》へ収め、森を抜けた。
リーゼは完全には回復していなかったが、杖代わりの枝を使えば歩けるまでになっていた。
蓮司が背負うと言っても断った。
「町へ入るところを背負われていたら、余計な噂が立ちます」
「死にかけている人間を運んだだけだと言えばいい」
「人は、事実より面白い話を好むのです」
「面倒な生き物だな、人間は」
「あなたも、その人間でしょう」
昼を少し過ぎた頃、森の切れ間から石造りの城壁が見えた。
城壁の前には荷馬車が並び、武器を持つ者、籠いっぱいの野菜を運ぶ者、獣の耳を持つ者、背丈の低い髭だらけの男などが行き交っている。
蓮司は足を止めた。
「本当に異世界なんだな」
「今まで何だと思っていたのですか」
「死ぬ前に見ている長い夢の可能性は、まだ少し考えていた。だが、あの耳と尻尾をつけた連中まで、全部俺の想像だとは思いたくない」
「私の尾を見た時点で、納得しておくべきでは?」
「一人だけなら、そういう衣装の趣味かもしれないだろ」
「竜人族の尾を衣装と一緒にしないでください」
町の名は、辺境都市ラグナ。
魔獣の森と鉱山地帯に近く、冒険者や商人が集まる町らしい。
門番はリーゼの姿を見ると驚き、怪我を理由に治療院を勧めたが、彼女は簡単な応急処置だけ受けると、先に冒険者ギルドへ向かうと言い張った。
「治療院へ行け」
「毒の変色はほとんど消えています。それに、先にあなたの身分を作らなければ、町で宿を取るにも困るでしょう」
「俺より自分の身体を優先しろ」
「あなたがそれを言いますか」
「俺の話は関係ない」
「大いにあります。自分は過労で死ぬまで働いたのに、他人には休めと言う。説得力というものを、どこへ置いてきたのです」
「前の世界だろうな」
「開き直らないでください」
冒険者ギルドは、町の中央広場に面した三階建ての建物だった。
中へ入ると、酒と汗、革製品、魔物の血、それから煮込み料理らしい匂いが混ざって漂っている。
壁には依頼書が何十枚も貼られ、武器を持った男女が受付へ並んでいた。
蓮司は入った瞬間、奥の食堂へ目を向けた。
大鍋で茶色い煮込みが沸いている。
だが火が強すぎる。
表面の脂が完全に分離し、鍋底から焦げた匂いも出ていた。
「火を弱めたほうがいいな」
「入って最初に気にするところが、そこなのですか」
「あのままでは苦みが出る」
「今から登録をするのです。厨房へ口を出して喧嘩を増やさないでください」
「分かってる」
「その目は分かっていません」
二人が受付へ向かうと、赤茶色の髪を後ろで束ねた女性が顔を上げた。
「いらっしゃいませ。本日は依頼の受注ですか、それとも素材の買い取りでしょうか」
「この男の新規登録をお願いします」
リーゼが言った。
受付嬢は蓮司を見て、次に血の染みた服と、腰の包丁へ視線を移した。
「登録希望ですね。では、こちらの用紙へ名前、年齢、出身地、職業をご記入ください。文字が書けない場合はこちらで代筆します」
「文字が読めない」
「承知しました。それでは、お尋ねした内容をこちらで――」
「待ってくれ。読めないのに、言葉は通じるんだな」
「転生者には、言語理解の恩恵が与えられることがあります。ただし文字までは含まれない例もあると、伝承にはあります」
リーゼが小声で説明した。
「中途半端に親切だな」
「どなたの話でしょう?」
受付嬢が困った顔をする。
「こっちの話だ。名前は神谷蓮司。年齢は……今の身体が何歳か分からない」
「見たところ二十代半ばですね。仮登録では二十五歳としておきましょう。出身地は?」
「異世界」
受付嬢の筆が止まった。
「……もう一度、お願いします」
「異なる世界から来た、と言っています」
リーゼが代わりに答えた。
受付嬢はリーゼの顔を見て、それから蓮司を見た。
表情には疑いがあったが、竜人族の女騎士が冗談を言っているようには見えなかったのだろう。
「出身地不明、としておきます。職業は?」
「料理人だ」
受付嬢の筆が、もう一度止まった。
近くの窓口にいた男が吹き出した。
「料理人が冒険者登録だって?」
声を上げたのは、革鎧を着た若い冒険者だった。
周囲の仲間たちもこちらを見る。
「兄ちゃん、ここは食堂の求人窓口じゃないぞ。鍋を振る仕事なら、奥の厨房で聞いたほうが早いんじゃないか」
「俺は鍋を振らない。鍋は火へ掛けるものだ」
「そういう話じゃねえよ」
「分かってる」
「では、神谷様。料理人として、採取や野営調理を専門にされる予定でしょうか。護衛付きの隊へ補助職として参加するのであれば、その形でも登録できます」
「自分で魔物を狩る」
受付嬢が眉を寄せた。
「失礼ですが、戦闘系の技能や職業をお持ちではありませんか」
「職業は《麺聖》らしい」
室内が静かになった。
数秒後、誰かが笑った。
今度は一人ではない。
「あはは、何だそりゃ!」
「麺の聖人様が、魔物を茹でるのか?」
「ラーメンとやらを作る職業だ」
「ラーメン?」
「知らないのか」
「知らねえよ!」
笑い声が広がった。
リーゼの顔が険しくなる。
「彼は白角鹿を単独で討伐しています」
その一言で、笑い声が止まった。
「白角鹿?」
「嘘だろ」
「銀級でも一人じゃやらねえぞ」
受付嬢も目を見開いた。
「討伐証明はありますか」
蓮司は《寸胴収納》から、白角鹿の角を一本だけ取り出した。
巨大な半透明の角が受付台へ置かれる。
周囲の空気が冷え、薄い霜が木製の台へ広がった。
受付嬢が息を呑む。
「本物……ですが、角だけでは単独討伐の証明にはなりません。譲渡品や拾得物の可能性もあります」
「肉と骨もある」
「どこに?」
「収納能力の中だ」
「それでも、どのように入手したかまでは――」
「だから、実技を受ければいい」
蓮司が言うと、受付嬢は困った顔で奥を見た。
そこから、左目に大きな傷を持つ、四十代ほどの大男が歩いてきた。
太い腕に古傷がいくつもあり、腰には幅広の剣を下げている。
「何の騒ぎだ」
「ガルド支部長。こちらの方が、新規登録をご希望なのですが、職業が料理人で、白角鹿を単独討伐したと主張されていまして……」
「主張じゃない。倒した」
「お前が?」
ガルドと呼ばれた男は、蓮司を頭から足先まで眺めた。
包丁。
傷んだ服。
凍傷の残る肩。
武器らしい武器は、ほかにない。
「料理人が、包丁一本で白角鹿を倒したと?」
「正確には、足の腱を切って動きを止め、顎の下から血管へ刃を入れた。骨も肉も傷めたくなかったからな」
「……何のために」
「出汁を取るためだ」
再び、ギルド内が静まり返った。
ガルドは白角鹿の角へ手を触れ、霜の付き方や切断面を確かめた。
「刃物で切った跡だ。しかも根元を潰さず、綺麗に外してある」
「器に使う分もあるからな」
「器?」
「もう一つの角で丼を作った」
「白角鹿の角を丼に?」
「スープを入れる器だ」
ガルドは何かを言おうとして、やめた。
額へ手を当て、面倒な頭痛を堪えるように目を閉じる。
「話を聞くほど分からなくなる奴だな、お前は」
「よく言われる」
「実技を受けたいと言ったな」
「ああ」
「通常なら、訓練場で木人相手に武器の扱いを見る。だが白角鹿を倒したというなら、そんな試験では意味がない」
ガルドは受付台の奥から、一枚の依頼書を取った。
「今朝、町の北門近くで岩鎧猪が暴れた。討伐隊が追い込み、今はギルド裏の檻へ入れてある。本来は明日、銅級冒険者五人で仕留める予定だった」
「食えるのか」
「最初に聞くことが、それか」
「食えないなら、倒し方を変える必要がある」
「岩鎧猪の肉は硬く、臭みも強い。食用には向かない。皮と牙だけが素材になる」
「食べたことは?」
「昔、物好きが焼いた肉を口へ入れて、歯を折ったと聞く」
「調理法が悪いだけかもしれない」
「……お前は本当に、何でも食うつもりだな」
「食えるものならな」
ガルドは太い腕を組み、蓮司を睨んだ。
「条件を出す。岩鎧猪を一人で制圧しろ。ただし、殺す必要はない。動きを止め、こちらが安全に処理できる状態にすれば合格だ」
「殺してはいけないのか」
「殺しても構わんが、あの猪の皮は剣でも簡単には通らん。包丁一本で挑めば、お前のほうが肉の塊になるぞ」
「肉を傷めずに仕留められれば、死骸はもらえるのか」
「登録試験中に討伐した魔物の所有権は、原則としてギルドにある」
「なら受けない」
「なぜだ!」
「食材にならない試験へ命を懸ける理由がない」
ガルドのこめかみに青筋が浮かんだ。
「お前は冒険者になりたいんじゃないのか!」
「魔物を合法的に仕入れたいから、冒険者証が必要なんだ。仕入れた食材を持っていかれるなら、目的と逆になる」
「登録試験で利益の交渉から始める新人が、どこにいる!」
「ここにいる」
「そういう返しを求めているんじゃない!」
周囲から笑いが漏れた。
先ほどの嘲笑とは違う。
ガルドが振り回される様子を、面白がる笑いだった。
「支部長」
リーゼが静かに口を挟んだ。
「岩鎧猪を無傷に近い状態で制圧できれば、皮と牙はギルドが受け取り、肉と骨を彼へ渡す、という条件ではいかがでしょう。これまで廃棄していた部位なら、ギルドに損はありません」
「だが魔物肉は危険だ。町の中で勝手に調理され、死人でも出れば、ギルドの責任を問われる」
「では、最初の調理と試食は、ギルドの監視下で行います。安全が確認されるまで、他人には食べさせない。それなら、問題は減るはずです」
ガルドはリーゼを見る。
「お前さんは、こいつの保証人か」
「違います」
「即答だな」
「出会ってまだ一日ですし、性格にも大きな問題があります。何を言っても料理へ結びつけ、一人で無理をし、相談せずに物事を決めるので、全面的に信用するには危険すぎます」
「そこまで言うか」
「事実でしょう」
「だが」
リーゼは続けた。
「料理に関して嘘をつく人ではありません。安全でないものを他人へ食べさせないという一点だけは、信用できます」
蓮司は横目で彼女を見た。
褒められたのか、貶されたのか分からない。
「ずいぶん限定的な信用だな」
「出会って一日の相手へ、それ以上を求めないでください」
「それもそうか」
ガルドは二人を見比べ、長い息を吐いた。
「分かった。皮、牙、魔石はギルドが回収する。肉、骨、内臓は、お前が自分で安全性を確認することを条件に譲る。ただし町の者へ勝手に食わせるな」
「それでいい」
「まだ話は終わっていない。岩鎧猪を制圧できなければ、登録は補助職限定だ。魔物討伐の依頼は受けさせない」
「構わない」
「随分と自信があるな」
「実物を見ていないから、できるとは言わない。ただ、猪なら鹿より脂がある。骨も太い。うまく処理できれば、濃いスープが取れる」
「戦う前から献立を考えるな!」
「戦う前だから考えるんだ。倒し方を決めるには、何に使うかを決めておく必要がある」
ガルドはまた頭を抱えた。
受付嬢が小さく笑いを堪えている。
蓮司は気にせず、包丁を抜いて刃を確認した。
「案内してくれ」
「今すぐか?」
「時間を置けば猪が興奮して、肉質が落ちる」
「お前の体力はどうなんだ。森から来たばかりで、その肩も負傷しているだろう」
「問題ない」
「問題があります」
リーゼが低い声で言った。
「蓮司。あなたは昨日から、白角鹿、毒牙狼五頭と戦い、料理を作り、夜通し見張りをしています。今すぐ試験を受ければ、動けるつもりでも判断が遅れます」
「しかし、猪を檻に入れたまま――」
「また食材を理由に、自分の状態を無視するつもりですか」
「長く閉じ込めれば、ストレスが――」
「聞いてください」
リーゼは蓮司の袖を掴んだ。
力は弱い。
だが、離すつもりはないらしい。
「私は、あなたが強いことを疑っていません。白角鹿を倒し、毒牙狼の群れから私を守った。それでも、疲労した人間は失敗します。あなた自身が、一度それで死んだのでしょう」
ギルド内の者たちが、何の話だという顔でこちらを見ている。
蓮司は小さく眉を寄せた。
「人前で言うな」
「恥ずかしいのなら、同じことを繰り返さないでください」
「試験を先延ばしにすれば、登録も――」
「一時間です」
「何がだ」
「一時間だけ休んでください。食事をして、水を飲み、肩の傷を手当てしてから試験を受ける。それでも遅すぎるとは思いますが、今日中に受けたいというあなたの意見も、これなら無視していません」
「一時間も必要ない。三十分でいい」
「また子供のような交渉をするのですか」
「四十五分」
「一時間です」
「五十分」
「一時間」
「……分かったよ」
蓮司が折れると、リーゼはようやく袖を離した。
ガルドが低い声で笑った。
「どうやら、料理人よりそっちの竜人娘のほうが話が通じるらしいな」
「勘違いするな。俺が譲っただけだ」
「はいはい」
「何だ、その返事は」
「いいから、食堂で何か食ってこい。試験は一時間後だ」
蓮司は食堂の大鍋へ目を向けた。
焦げた匂いが、先ほどより強くなっている。
「その前に、一つだけ言っていいか」
「何だ」
「あの煮込み、火を弱めたほうがいい。鍋底が焦げ始めてる」
厨房の奥から、太った料理人の怒鳴り声が響いた。
「さっきから誰だ! 俺の鍋へ文句をつけてる奴は!」
リーゼが両手で顔を覆った。
「お願いですから、試験の前に別の喧嘩を始めないでください……」
「喧嘩じゃない。火加減の話だ」
「あなたにとっては同じなのでしょうね!」
一時間後。
冒険者ギルド裏の訓練場には、噂を聞きつけた冒険者たちが集まり、鉄格子の向こうでは、全身を灰色の岩のような皮膚で覆われた巨大な猪が、太い牙で地面を抉っていた。
蓮司は包丁一本を持ち、閉じられた門の前へ立つ。
ガルドが腕を組み、最後の確認をした。
「今ならやめてもいいぞ。料理人として補助登録をする道もある」
「それでは、自分で食材を選びに行けない」
「死んだら料理もできん」
「それも、一度経験した」
「笑えない冗談だな」
「冗談じゃない」
門番が鎖へ手を掛ける。
リーゼが柵の外から蓮司を睨んでいた。
「無理だと思ったら、すぐに離れてください。肉質がどうとか考えず、まず自分が生き残ること。それから、疲れを感じたら隠さず言うこと。あと――」
「分かった、分かった」
「まだ話の途中です」
「全部聞いていたら、猪のほうが先に腹を空かせる」
「人の忠告を――」
鉄格子が上がった。
岩鎧猪が低く唸り、血走った目を蓮司へ向ける。
その全身へ、《厨房領域》の光の線が浮かんだ。
だが、ほとんどの線は分厚い岩皮に覆われ、包丁の届かない場所に隠れている。
唯一、刃を通せそうな場所は――。
「なるほど」
蓮司は猪の腹と、口元から垂れる唾液、それから異常に発達した顎を観察し、僅かに口元を上げた。
「硬い肉を柔らかくする方法なら、煮込む前にも一つある」
「何をするつもりだ!」
ガルドの声に、蓮司は包丁を構えながら答えた。
「まず、こいつに自分で走ってもらう」
岩鎧猪が地面を蹴る。
訓練場全体が揺れ、冒険者たちの歓声と悲鳴が上がった。
料理人の冒険者試験が、始まった。




