第4話 竜人騎士、ラーメンを食べて泣く
リーゼの金色の瞳からこぼれた涙は、頬を伝い、白角鹿の角を削って作った器の縁へ落ちた。
ぽつり、と。
小さな音だった。
川の流れや、薪が爆ぜる音に紛れてしまいそうなほど小さかったのに、蓮司の耳には妙にはっきりと届いた。
「おい、どうした」
蓮司は咄嗟にリーゼの手から器を取り上げようとした。
「喉が痛いのか、舌が痺れるのか、それとも腹が熱くなったのか。何でもいいから、どこに異常が出たのか言え。吐けるなら無理に飲み込まず――」
「取らないでください」
リーゼは器を胸元へ引き寄せた。
先ほどまで剣を構える力すら失っていたとは思えないほど、妙に素早い動きだった。
「取らないで、と言いました。これは、私のものです」
「お前のものなのは認めるが、毒が出たなら食わせ続けるわけにはいかない」
「毒ではありません」
「なら、何で泣いてる」
「泣いてなどいません」
リーゼはきっぱりと言った。
しかし、その間にも新しい涙が頬を流れていた。
「いや、泣いてるだろ」
「これは……毒の影響で、目から水分が出ているだけです」
「ずいぶん都合のいい毒だな。だったら俺にも分かるように、傷口の変色や熱以外に、目から水が出る症状があると最初から説明しておけ」
「毒に侵されている本人へ、そこまで冷静な説明を求めないでください」
「俺が聞いているのは毒の話じゃなく、お前が泣いている理由だ」
「ですから、泣いていません」
「面倒な女だな」
「あなたにだけは言われたくありません」
言い返した声は途中で震え、リーゼは唇を噛んだ。
泣いていることを認めたくないらしい。
蓮司には、その意地がよく分からなかった。
痛いなら痛いと言えばいい。
苦いなら苦いと言えばいい。
料理が不味ければ不味いと言えばいい。
言われなければ、作る側には直しようがない。
だが人間は、料理ほど簡単ではなかった。
本当は辛いのに平気だと言い、助けてほしいのに一人でできると言い、嬉しいときほど不機嫌な顔をすることさえある。
前世の蓮司自身も、疲れていない、休まなくていい、誰にも任せる必要はないと言い続けて死んだのだから、他人の面倒くささを笑える立場ではなかった。
「分かった。泣いてないことにする」
「……随分と簡単に引き下がるのですね」
「理由を言いたくない相手へ、無理に吐かせても仕方ない。ただし、身体に異常があるかどうかだけは答えろ。そこを意地で黙られると、本当に困る」
リーゼは角の器を両手で持ったまま、しばらく俯いていた。
やがて、恐る恐る舌で自分の唇をなぞる。
何かを確かめるように。
それからもう一度、スープを少量だけ口へ含んだ。
今度はすぐに飲み込まず、舌の上へ留めるようにして、ゆっくり味わっている。
澄んだ黄金色のスープ。
白角鹿の骨から出た穏やかな旨味。
干し肉から借りた塩気。
火で炙った骨の香ばしさと、清流葱の青い香り。
前世の店で出していたものと比べれば、足りない部分はいくらでもある。
タレは未熟で、香味油もない。
麺も不揃いで、茹で加減に僅かなむらがある。
それでも、今の材料と道具で作った一杯としては、蓮司が出せる最善だった。
リーゼの喉が動く。
「味が……します」
声はひどく小さかった。
聞き返せば消えてしまいそうな、頼りない声だった。
「何だって?」
「味がするのです」
リーゼは顔を上げた。
涙で濡れた金色の瞳が、正面から蓮司を見つめていた。
「塩味がします。最初は少し薄いと思ったのに、飲み込んだあとから骨の味が残って、それから、あの青い葉の匂いが鼻へ抜けて……肉も、ただ硬いとか柔らかいだけではなくて、噛むと少し甘くて、最後に冷たいような香りがする」
「白角鹿の魔力が残っているのかもしれないな。冷たい感覚が強すぎるなら、次は骨を煮る時間を短くするか、火にかける前に魔力を抜く方法を――」
「そういう話ではありません!」
リーゼが声を上げた。
その拍子に器が傾き、スープが縁からこぼれそうになる。
蓮司は慌てて底へ手を添えた。
「何をする。せっかく作ったのに、こぼすだろ」
「あなたは、どうして今、次の改良点の話を始められるのですか」
「味の感想を聞いたら、直すところを考えるのは当然だ」
「私は味が戻ったと言っているのです。何年も、何を食べても砂や濡れた紙を噛んでいるようにしか感じなかった私が、今、この料理の塩味や香りや甘みを感じていると……それなのに、あなたは、もう少し煮る時間を短くしたほうがいいなどと、そんな顔で……」
リーゼは言葉を詰まらせた。
「どんな顔だ」
「自分は大したことをしていないという顔です」
「実際、ラーメンを一杯作っただけだ」
「その一杯で、私の何年が戻ったと思っているのですか」
「全部は戻ってないだろ」
蓮司が言うと、リーゼの目が険しくなった。
「今は、もう少し感動的な言葉を選ぶべきではありませんか」
「感動で病気が治るなら、いくらでも言う。ただ、最初の一口で味を感じたからといって、お前の病気が完治したとは限らない。白角鹿の魔力と、お前の身体に流れている魔力が一時的に噛み合っただけかもしれないし、食べ終わったあとにまた味覚が消える可能性もある。期待だけさせて、明日になったら元に戻っていましたでは、余計にきついだろ」
リーゼは何かを言い返そうとして、唇を閉じた。
怒っている。
だが、それだけではない。
期待してしまうことを恐れている顔だった。
「……分かっています」
しばらくして、リーゼは俯いたまま答えた。
「そんなことは、私にも分かっています。病気が治ったと決まったわけではない。毒で高熱が出て、感覚がおかしくなっているだけかもしれない。明日どころか、この器を空にする前に、また何も分からなくなるかもしれません」
「なら――」
「ですが、今は分かるのです」
リーゼの声が、僅かに強くなった。
「今、この一口が温かくて、塩味があって、肉が甘いことだけは分かる。あなたにとっては、まだ改良すべき未完成の料理かもしれませんが、私にとっては……私にとっては、もう二度と戻らないと思っていたものなのです」
彼女は器へ視線を落とした。
「味が分からなくなったばかりの頃は、必死に治療法を探しました。神殿へ通い、医師を訪ね、竜人族に伝わる薬草も、怪しい行商人が売る秘薬も試しました。薬と呼べないようなものまで飲んで、三日間寝込んだこともあります」
「それで治らなかったのか」
「治りませんでした。それどころか、悪化しました。最初は味が薄く感じる程度だったのに、少しずつ甘みも塩味も消え、最後には匂いまで遠くなった。食事は身体を維持するために、口から押し込む作業へ変わりました」
蓮司は黙って聞いた。
普段なら、スープが冷める、麺が伸びると言って会話を切っただろう。
だが今は、急かす気になれなかった。
「騎士団では、私が食堂へ来なくなったことを心配してくれる者もいました。けれど、そのうち面倒になったのでしょうね。皆が美味しいと言う料理を前にして、私だけ無表情で噛み続けているのですから、食卓の空気が悪くなる」
「それは、お前のせいじゃない」
「そうかもしれません。ですが、病気になった人間は、自分のせいではないと分かっていても、自分が周囲を暗くしていることには気づいてしまうものです」
リーゼの口元に、弱い笑みが浮かんだ。
「ある日、同僚の一人が、悪気なく言ったのです。“味が分からないなら、何を食べても同じだから楽でいいな”と」
蓮司の眉が動いた。
「そいつは馬鹿なのか」
「悪い人ではありません」
「悪人じゃなくても、馬鹿なことは言う」
「あなたは容赦がありませんね」
「食べる楽しみを失った相手へ、何を食べても同じで楽だなんて言う奴を、無理に賢いことにする必要はないだろ」
「本人も、言った直後に失敗したと思ったのでしょう。何度も謝られました。私も気にしていないと答えましたし、実際、彼を恨んではいません。ですが、その言葉だけは、ずっと残りました」
「気にしてるじゃないか」
「気にしていないと言わなければ、相手はいつまでも謝るでしょう。謝られ続けるのも疲れるのです」
「分かるような、分からないような話だな」
「人間の感情は、あなたの料理のように、材料と手順を並べれば綺麗に説明できるものではないのですよ」
「料理だって、そんなに綺麗じゃない。材料が同じでも、作る人間の機嫌や疲れ方で味が変わる」
「それは、料理人として認めてよいことなのですか」
「認めたくないから、毎日同じ味を出そうとする。ただ、人間が作る以上、完全に切り離すことはできない。だから厄介なんだ」
リーゼはスープをもう一口飲んだ。
今度は先ほどよりも自然に。
角の器を包む指の震えも、少し収まっている。
「味を失ってから、私は食事を一人で取るようになりました。何を食べても同じなら、誰かと食卓を囲む意味もないと思ったからです。誘われても断り、断る理由を説明するのも嫌になって、忙しいふりをしました」
「俺と同じだな」
「あなたも味覚を失ったのですか」
「いや。店が忙しいと言って、誰とも飯を食わなくなった。従業員が閉店後に何か食べに行こうと誘っても、仕込みがあると断った。店を始めてから、自分のために食事を作った記憶もほとんどない」
「料理人なのに?」
「料理人だからだ。客へ出す味を確かめるために、一日に何度もスープを飲み、麺を噛む。それで腹が満たされて、食事をした気になっていた」
「それは食事ではなく、仕事でしょう」
「今ならそう思う」
「死んでから気づいたのですか」
「死んでからだな」
リーゼは呆れたように蓮司を見た。
「あなたは、本当に一度死んだのですね」
「ああ。厨房で倒れた。おそらく心臓だ」
「おそらく?」
「医者に確認する前に、ここへ来たからな」
「死んだ人間が、どうしてここにいるのです」
「俺が聞きたい。ただ、前の身体とは明らかに違うし、森も白角鹿も、お前の尻尾も、俺がいた場所には存在しなかった」
「尻尾を指差さないでください」
「事実を確認しただけだ」
「竜人族の尾を無遠慮に眺めるのは、あまり礼儀のよい行為ではありません」
「そうなのか。それは悪かった」
蓮司が素直に謝ると、リーゼはかえって戸惑ったような顔をした。
「何だ」
「いえ。あなたも謝れるのだと思いまして」
「謝るべきことなら謝る。何でも自分が悪いことにするつもりはないだけだ」
「そこが面倒なのです」
「お前も十分面倒だよ」
「知っています」
意外な返事だった。
「自覚があるのか」
「病気になる前から、融通が利かない、冗談が通じない、正論で人を追い詰めると、よく言われていました。味覚を失ってからは、それに加えて、周囲へ気を遣わせないよう平気な顔をし続けていたので、さらに面倒な人間になったと思います」
「そこまで自分で分かってるなら、少し直せばいいだろ」
「あなたは、自分が何でも一人で抱え込む性格だと分かっていながら、直せたのですか」
「……嫌なところを突くな」
「先に言ったのはあなたです」
リーゼはほんの少しだけ得意そうに笑った。
その表情は、森で倒れていたときよりずっと年相応に見えた。
凛々しい女騎士というより、口喧嘩で一本取り返し、少し気分をよくした若い女の顔だった。
「それで」
蓮司は器を指した。
「味はどうなんだ」
「先ほど話したでしょう」
「味が戻ったことではなく、料理としてどうかを聞いている。遠慮せず言え」
「命を救われかけている相手へ、料理の欠点を言えというのですか」
「救われたかどうかも、まだ分からない。それに、恩を感じて何でも旨いと言う客の感想ほど役に立たないものはない」
「私の感想を聞いて、怒りませんか」
「内容による」
「怒らないとは言わないのですね」
「不味いと言われれば腹は立つ。ただ、腹が立つことと、意見が間違っているかどうかは別だ。納得できれば直すし、納得できなければ反論する」
「随分と面倒な料理人ですね」
「だから何度もそう言ってるだろ」
リーゼは器へ顔を近づけ、スープを改めて味わった。
麺を数本すすり、肉を噛み、清流葱も口へ運ぶ。
蓮司は黙ってその様子を観察した。
箸の使い方はぎこちない。
この世界に箸の文化がないのか、枝を削って作った道具が扱いにくいだけなのか分からないが、麺を持ち上げようとして何度か落としている。
それでも匙がないため、文句を言いながら使い続けていた。
「麺が少し柔らかすぎます」
やがてリーゼが言った。
「どの部分だ」
「太いものは噛み応えがあるのに、細いものは舌へ触れると崩れるように感じます。同じ器の中で食感が違うので、少し落ち着きません」
「やはり切り幅の差が出たか」
「あと、肉は甘いのですが、少し血の匂いが残っています」
「血抜き自体は悪くなかった。おそらく、仕留めてから処理に移るまでの時間か、冷気を宿す魔力が鉄臭さを強めてる。次は肉を一度水へさらすか、香草を増やす必要があるな」
「ただ、香草はこれ以上増やさないほうがいいと思います。私は久しぶりに香りを感じたので嬉しいですが、少し強くて、飲み込んだあとも舌へ残ります」
「清流葱の量は半分でいいか」
「半分まで減らす必要はないと思います。今の七割ほどでしょうか」
「細かいな」
「遠慮なく言えと言ったのは、あなたです」
「そうだが、味覚が戻ったばかりで、そこまで言われるとは思ってなかった」
「騎士団では、装備や食料の不備を細かく報告するよう訓練されていました。感想を求められた以上、曖昧な言葉で済ませるのは失礼でしょう」
蓮司は思わず口元を緩めた。
「何ですか」
「いや。いい客を拾ったと思ってな」
「誰が拾われた客ですか」
「森で倒れていたところを拾っただろ」
「人を捨て猫のように言わないでください」
「猫は見ていない。鹿なら拾ったが」
「あれは拾ったのではなく、あなたが倒したのでしょう」
「細かい女だな」
「あなたが雑なのです」
言い合いながらも、リーゼは食べる手を止めなかった。
最初は恐る恐るだったのが、次第に麺をすする間隔が短くなり、器を抱える手にも力が戻っていく。
蓮司はその様子を見て、胸の奥が僅かに温かくなるのを感じていた。
前世でも、客が夢中で麺をすする姿を見るのが好きだった。
旨いという言葉より、会話を忘れ、丼へ顔を近づける姿のほうが信用できた。
リーゼは先ほどまで味が分からないと言っていた。
今も、いつ感覚が消えるか分からない不安を抱えている。
だからこそ、一口ごとに確かめるように食べている。
塩味がまだある。
肉の甘みが分かる。
香草の匂いも消えていない。
その確認を重ねるたび、彼女の目から再び涙が落ちた。
しかし今度は、泣いていないとは言わなかった。
「麺が伸びるぞ」
蓮司が言うと、リーゼは涙を拭わず、こちらを睨んだ。
「女性が泣いているときに、他に言うことはないのですか」
「ある。スープも冷める」
「そうではありません」
「泣くなと言って止まるのか」
「止まりません」
「なら、泣きながら食えばいい。ただ、麺は待ってくれない」
「本当に、信じられない人ですね」
「よく言われた」
「それも何度目ですか」
「数えてない」
リーゼは鼻をすすり、少し乱暴に麺をすすった。
その姿に、先ほどまでの気品はあまり残っていなかった。
髪は汚れ、頬には涙の跡があり、鎧も傷だらけで、箸の代わりの枝から麺を一本落としている。
それでも、蓮司には今の彼女のほうが、森で剣を構えていたときより、ずっと生きているように見えた。
「旨いか」
「……はい」
小さな返事だった。
「もう一度」
「聞こえたでしょう」
「客の感想は、はっきり聞いておきたい」
「先ほど欠点をいくつも申し上げました」
「欠点と、旨いかどうかは別だ」
「面倒ですね、本当に」
リーゼは器を胸元へ抱え、観念したように息を吐いた。
「美味しいです。麺の太さは揃っていませんし、肉には少し血の匂いが残っています。香草も強く、器は持ちにくく、枝で麺を食べる方法も面倒です。それでも、温かくて、塩味があって、骨の旨味が身体の中へ染みていくようで……これまで私が食べた、どんな料理よりも美味しい」
「最後の部分は、何年も味が分からなかった分を差し引いて聞いたほうがよさそうだな」
「今くらい、素直に受け取れないのですか」
「褒められると、どこまで信用していいか分からなくなる」
「あなたも、なかなか面倒な感情を抱えていますね」
「だから否定してないだろ」
リーゼは呆れたように笑い、最後の麺を口へ運んだ。
スープも少しずつ飲み、器の底が見える。
蓮司は食べ終わった直後の彼女の顔色と呼吸を確認した。
先ほどまで紫色に変色していた傷の周囲が、僅かに薄くなっている。
額の熱も、完全ではないが下がり始めていた。
白角鹿の魔力が毒へ作用したのか、《一杯入魂》と呼ばれる能力が働いたのか。
頭の奥へ、また情報が浮かんだ。
《一杯入魂・微弱発動》
白角鹿の黄金塩ラーメン。
効果――冷気耐性、魔力鎮静、疲労軽減。
持続時間――。
「数字はいらないと言っただろ」
蓮司が顔をしかめると、リーゼが器から顔を上げた。
「また独り言ですか」
「料理の効果らしいものが、頭に勝手に浮かんでくる」
「料理の効果?」
「白角鹿の骨に、魔力を落ち着かせる作用があるらしい。お前の味覚が戻ったのも、暴れていた竜人族の魔力が一時的に鎮まったからかもしれない」
リーゼの表情が固まった。
「では、やはり一時的なものなのですね」
「可能性が高い。いつまで続くかは分からない」
「そう……ですか」
器を抱えていた手から、力が抜ける。
分かっていたはずなのに。
完治したわけではないと、自分でも口にしていたはずなのに。
それでも、改めて一時的だと言われれば、落胆せずにはいられない。
期待しないようにしても、味を感じた瞬間、もう期待してしまっていたのだろう。
「ただし」
蓮司は続けた。
「一時的にでも効いたなら、何も手がかりがない状態とは違う」
リーゼが顔を上げる。
「白角鹿のどの部位が、どの程度効いたのかは、まだ分からない。骨か、肉か、角に残っていた魔力か。調理方法で効果が変わる可能性もある。煮る温度、時間、組み合わせる香草、食べる量――調べることはいくらでもある」
「つまり?」
「味覚が戻る料理を、もう一度作れるか試す。それを繰り返して、毎回同じ効果が出るなら、少なくとも症状を抑える方法にはなる。もっと別の食材を組み合わせれば、効果が長く続くかもしれない」
「治る可能性も?」
「そこまでは言ってない」
「少しくらい、希望を持たせてくれてもよいでしょう」
「根拠のない希望は、薬よりたちが悪い。ただ、可能性がゼロではないことだけは言える。今日、お前の味覚は実際に戻った。それは勘違いでも、慰めでもない」
リーゼは黙った。
泣きそうな顔でありながら、今度は涙を堪えている。
「どうして、そこまでしてくれるのですか」
「何がだ」
「私は、あなたにとって初対面の人間です。出会った直後には剣まで向けました。それなのに、命を危険にさらして料理を試し、病気の治療法まで探そうとしている」
「究極のラーメンを作るためだ」
「……はい?」
「お前の症状を抑え、味覚を戻せる食材と調理法があるなら、確かめる価値がある。それで今まで作れなかった一杯が完成するかもしれない」
「結局、料理のためですか」
「それだけではない」
「では、何です」
蓮司は少し考えた。
格好のよい理由など浮かばない。
異世界で出会った最初の人間だから。
目の前で死なれると寝覚めが悪いから。
味を失った客が、料理を食べて泣いたから。
どれも本当であり、どれか一つだけでは足りない。
「俺の料理を食って、旨いと言った客を、簡単に手放したくない」
リーゼが瞬きをした。
「それは……どういう意味でしょう」
「そのままの意味だ。味の違いを細かく言えて、駄目なところを遠慮なく指摘する客は貴重だからな」
「その言い方では、私を雇うつもりのように聞こえます」
「雇えるほど金を持ってない。水と火打ち石を借りた分すら、まだ返せない」
「では、どうするつもりですか」
「お前が町まで案内する。俺は途中で食べられる魔物や植物を探し、飯を作る。お前は味を確かめて、気づいたことを言う。病気へ効きそうな食材が見つかれば、優先して試す」
「勝手に話を決めないでください」
「嫌なのか」
「嫌だとは言っていません。ただ、私は騎士です。少なくとも、少し前までは騎士でした。料理人の試食係として雇われる未来を想像したことはありません」
「少し前まで?」
リーゼは視線を逸らした。
「その話は、今はしたくありません」
「そうか」
「聞かないのですか」
「言いたくないと言っただろ」
「先ほどは、泣いている理由を随分しつこく聞いたのに」
「身体の異常かと思ったからだ。騎士だったかどうかは、今すぐ命に関係しない」
「あなたは、興味があるのかないのか、よく分かりませんね」
「興味はある。だが、他人の事情へ首を突っ込むより、今は傷と毒のほうが先だ」
蓮司はリーゼの傷をもう一度確認した。
変色は確かに薄くなっている。
しかし毒が完全に消えたわけではなく、まだ自力で長く歩ける状態ではないだろう。
「このまま休んで、日が傾く前に移動する。町までどのくらいかかる」
「私が倒れた場所からなら、歩いて半日ほどです。ただし、この身体では一日以上かかるでしょう」
「夜を森で越す必要があるな」
「白角鹿の血の匂いに、他の魔物が寄ってくる可能性があります」
「だから残りを回収したら、ここから離れる。肉は持てる分だけ切り分け、骨と角は――」
蓮司は言葉を止めた。
頭の奥で、先ほどとは別の感覚が生まれる。
白角鹿の死骸を思い浮かべた途端、目の前の空間がわずかに歪み、黒い寸胴鍋のような形をした影が浮かんだ。
《寸胴収納》
食材のみ収納可能。
内部時間停止。
完成料理、武器、貨幣、生体は収納不可。
「……随分と遅いんだよ」
「何がです?」
「食材を保存できる能力があるらしい。さっき鹿を引きずろうとして肩を痛める前に出てきてほしかった」
「能力というものは、普通、神殿で授かったときに説明を受けるものですが」
「俺は説明書もなしに森へ放り出された」
「やはり、転生者なのですか」
「転生者?」
「異なる世界から、神々の力によって現れる者です。伝承では、特別な職業や能力を授かるとされています。ただ、実在したという確かな記録は、何百年も前のものですが」
「神に会った覚えはないな」
「神々にも、会う相手を選ぶ権利があるのでしょう」
「助けた相手に言う台詞か、それ」
「ラーメンは美味しかったですが、それとあなたの性格への評価は別です」
「元気になったら、本当に遠慮がないな」
「遠慮なく感想を言えと、あなたが教えたのでしょう」
リーゼは少し得意そうに笑った。
蓮司は反論しようとしたが、その直後、森の奥から低い唸り声が聞こえた。
一つではない。
二つ、三つ。
さらに遠くから、枝を踏み折る音が近づいてくる。
リーゼの表情から笑みが消えた。
「血の匂いを追ってきたのでしょう。おそらく森狼、あるいは毒牙狼の群れです」
「お前を襲った奴か」
「同じ群れかもしれません。私が傷を負わせた個体がいるなら、警戒して近づいてくるはずです」
リーゼは剣へ手を伸ばした。
だが立ち上がろうとした瞬間、膝が崩れる。
蓮司が肩を支えた。
「無理するな」
「無理をしなければ、二人とも食われます」
「食われるのは困る。食材に食われるなんて、料理人として格好がつかない」
「まだ食べるつもりなのですか」
「毒牙狼という名前なら、毒腺を傷つけずに仕留めれば、肉まで毒とは限らない」
「あなたは先ほど、命を救ったばかりの客を前にして、次の献立を考えているのですか」
「客が一人増えたから、食材が必要になった」
「私は狼の肉を食べるとは言っていません」
「白角鹿も最初は嫌がってただろ」
「一緒にしないでください」
唸り声が近づく。
木々の隙間に、赤い瞳がいくつも浮かび上がった。
リーゼは壁となるように蓮司の前へ出ようとしたが、身体がついてこない。
蓮司は彼女の肩を掴み、反対に自分の後ろへ座らせた。
「何をするのです」
「客を厨房へ入れるな。危ないだろ」
「ここは厨房ではありません」
「俺が料理を始めた場所が厨房だ」
蓮司は包丁を抜いた。
目の前の茂みから現れたのは、黒い体毛を持つ狼だった。
普通の狼より一回り大きく、口元からは紫色の唾液が滴っている。犬歯の根元に、毒を溜めているらしい青黒い袋が透けて見えた。
その後ろから、さらに四頭。
合計五頭。
白角鹿一頭とは違い、連携して襲ってくる相手である。
「蓮司、逃げてください」
「お前を置いてか」
「私を抱えていれば、追いつかれます」
「それで、一人だけ助かってどうする」
「見ず知らずの相手と一緒に死ぬよりは、合理的でしょう」
「その言い方は気に入らないな」
「感情で判断している場合ですか」
「今の俺は、お前の感想を聞いて、次の料理を改良しようとしてる。その試食係に勝手に死なれると困る」
「まだ、その話を――」
「それに」
蓮司は包丁を構え、毒牙狼の動きを見据えた。
「俺のラーメンを食って、ようやく旨いと泣いた客を、食後すぐに狼の餌へするほど、俺は薄情な店主じゃない」
毒牙狼が牙を剥く。
蓮司の視界へ、筋肉と関節、そして毒腺を示す光の線が浮かび上がった。
リーゼが背後で息を呑む。
「泣いていません」
「まだ言うのか」
「毒の影響です」
「分かった。泣いてないことにしておく」
「あとで訂正してください」
「生き残ったらな」
一頭目の毒牙狼が地面を蹴った。
蓮司は迫る牙を見つめながら、静かに包丁を握り直した。
「鹿の次は狼か。異世界の仕入れは、ずいぶん休ませてくれないらしいな」




