第3話 異世界で最初の一杯
意識を失った女を背負い、片方の肩を冷気で傷めたまま、牛ほどもある白角鹿の死骸まで戻ってきたところで、神谷蓮司は、自分が置かれている状況を改めて確認せざるを得なかった。
水がない。
鍋がない。
火がない。
塩がない。
麺に使える粉もなく、毒に侵されたリーゼの意識は戻らず、血抜きを終えたばかりの白角鹿からは、森の獣たちを招くには十分すぎる匂いが漂い始めている。
「ラーメンを作る条件としては、過去最低だな」
蓮司はリーゼを巨木の根元へ寝かせ、傷口を下にしないよう、背中へ丸めた上着を差し込んだ。
眠っているというより、気を失っている。
額へ手を当てると、先ほどより熱が上がっていた。呼吸も浅く、時折、喉の奥から苦しそうな音が漏れている。
毒牙狼とやらの毒が、まだ身体の中を回っているのだろう。
「不満があるなら起きて言え。黙って寝てる客は、扱いに困るんだよ」
返事はなかった。
蓮司はリーゼの腰へ下がっていた革袋を探った。
「悪いが、緊急事態だ。あとで怒るなら、元気になってから好きなだけ怒れ」
中には、空になった小瓶が二本、銀貨らしい硬貨、火打ち石、小さな針と糸、獣脂を染み込ませた布、それから革製の水袋が入っていた。
水袋には、三分の一ほど水が残っている。
蓮司は蓋を開け、匂いを確かめた。
少し革臭いが、腐ってはいない。
「一番欲しかったものは持ってるじゃないか。最初から出してくれれば、背負って歩く距離を半分にできたんだがな」
意識のない相手へ文句を言いながら、蓮司は水を布へ含ませ、リーゼの傷口の周囲を拭いた。
黒ずんだ血が落ちると、三本の爪痕がはっきりと現れる。
傷は深い。
しかし内臓まで達しているようには見えなかった。
問題は毒だ。
紫色の変色は腹部から脇腹へ広がり、触れると皮膚の下に不自然な熱がこもっている。
「口で吸い出すなんて真似は論外だし、毒が何か分からない状態で傷口を広げるのも危険だな。俺にできるのは、傷を洗って、身体を冷やしすぎないようにして、水分と栄養を入れるくらいか」
薬も医者もない以上、それ以上の処置を勝手に施せば、かえって命を縮める可能性がある。
蓮司は濡らした布を傷口へ当て、リーゼの身体を覆うように外套を掛けた。
次に必要なのは、安全な水場だった。
白角鹿とリーゼを同時に運ぶのは不可能だが、血の匂いがある場所へ傷病者を長く置くわけにもいかない。
蓮司は周囲の地形を見渡した。
地面はわずかに下っている。
耳を澄ませば、先ほどから一定の方向より、水が流れる音が聞こえていた。
「店を開くなら、立地は悪くない。客が来るかどうか以前に、店主と客がまとめて獣に食われる可能性がある点を除けば、だが」
蓮司は白角鹿の後脚へ蔓を結び直し、もう一方の端を太い枝へ巻きつけた。
その枝を肩へ担ぎ、死骸を引きずる。
びくともしなかった。
「……そう簡単にはいかないよな」
再び力を込める。
今度は白角鹿の身体がわずかに動いたが、同時に左肩へ鋭い痛みが走った。
蓮司は顔を歪め、枝を下ろした。
怪我をしていない状態でも重労働なのだ。
無理に運ぼうとすれば、自分まで動けなくなる。
前世であれば、そこで店の従業員を呼んだ。
いや、実際には呼ばず、自分で何とかしようとしていた。
「一人で何でもやろうとして死んだくせに、異世界へ来た直後から、同じことをやってるのか。相馬が見たら、説教じゃ済まないな」
だが、この場に頼れる相馬はいない。
リーゼも意識を失っている。
ならば一人でやるしかない――と考えかけて、蓮司は眉を寄せた。
「いや、違うな。一人で全部運ぶ必要がない」
必要なのは、白角鹿のすべてではない。
今から作ろうとしているのは、弱った人間へ飲ませる一杯分のスープである。
骨を一本。
脂の少ない肉を少量。
香りづけに使えそうな内臓か、筋のない部位。
あとは白角鹿の冷気を宿した角が、何らかの形で使える可能性もある。
「店ごと運ぶんじゃない。必要な食材だけ持っていけばいい。そんな当たり前のことを、どうしてすぐに思いつかないんだろうな」
蓮司は白角鹿の腹へ包丁を入れた。
腹部へ浮かぶ光の線を参考にはしたが、頼り切ることはせず、指先で筋肉の境目を確かめながら刃を進める。
内臓を傷つけないよう腹を開くと、白い冷気が薄く立ち上った。
鹿の身体でありながら、腹の中は驚くほど清潔だった。
心臓、肝臓、胃袋。
形は蓮司の知る鹿と大きく変わらないが、それぞれの臓器の表面へ、青い光の筋が走っている。
「魔力というものが本当にあるなら、肉を煮たとき、どんな変化が出るか分からないな。いきなり大量に食わせるのは危険だ。最初は骨と、癖の少ない肉から試す」
肋骨の一本を外し、後脚から赤身を少量切り取る。
さらに、胃袋の中身を確認した。
半分ほど消化された草や木の実の中に、細長い黄金色の穂が混じっている。
「これは……麦か?」
蓮司は指先で一粒取り出した。
皮の形は小麦に似ている。
白角鹿が食べていたものなら、少なくとも鹿にとっては毒ではない。人間が食べられる保証にはならないが、この周辺に同じ植物が生えている可能性は高い。
「お前、死んだあとまで仕入れ先を教えてくれるのか。ずいぶん気の利く鹿だな」
蓮司は胃の中身から穂をいくつか選び、水で洗って革袋へ入れた。
食材を切り分け、白角鹿の身体へ枝葉を被せる。
匂いを完全に隠せるわけではないが、むき出しにしておくよりはいい。
蓮司は骨と肉を白角鹿の皮で包み、リーゼを背負った。
「今度こそ水場まで行くぞ。途中で目を覚ましたら、自分の足で歩いてくれると助かる」
「……無理を、言わないでください」
耳元で掠れた声がした。
蓮司は足を止めた。
「起きてたのか」
「つい、今しがたです。目が覚めたら、知らない男の背中へ担がれていたので……悲鳴を上げるべきか、剣で刺すべきか、少し迷っていました」
「剣で刺す元気があるなら、自分で歩け」
「それができないから、迷っただけです」
声は弱いが、言葉にはまだ棘が残っている。
蓮司は少しだけ安心した。
「傷を勝手に見た。荷物も探った。水を使った」
「女性の身体と荷物を勝手に調べておいて、悪びれずに報告できるところは、立派というより、どこか壊れていますね」
「悪かったとは思ってる。ただ、許可を待っていたら、お前は返事をする前に死んでた。それより水場へ移動する。あの場所は血の匂いが強すぎる」
「白角鹿は、どうしたのですか」
「必要な部位だけ取った。残りはあとで回収する」
「本当に、食べるつもりなのですね」
「その話はさっきしただろ」
「意識を失う前の記憶が曖昧だったので、悪い夢だった可能性に期待していました」
「残念だったな。現実だ」
リーゼが小さく息を吐いた。
「蓮司、あなたは自分が何をしているか、本当に分かっているのですか。魔獣の肉は、普通の獣肉とは違います。適切な浄化をせずに食べれば、身体の中へ魔力毒が蓄積し、良くて高熱、悪ければ内臓が焼けるように壊れて死にます」
「何が原因で毒になる」
「何が、と言われても……魔物だからです」
「それは原因じゃない。名前を言い換えただけだ」
「随分と面倒な聞き方をしますね」
「料理をするなら必要なことだ。血に毒があるのか、内臓にあるのか、肉そのものが駄目なのか、魔石とかいうものの近くが危険なのか、それによって処理の方法が変わる」
「私は料理人ではありませんから、そこまで詳しく知りません。ただ、魔獣の死骸へ素手で触れる者はいませんし、肉を食べようとする者は、もっといません」
「誰も試していないのか」
「遠い昔には、飢えた者が口にした記録もあるそうです。皆、死んだか、魔物のように理性を失ったと聞きました」
「食べ方も、部位も、量も分からないまま?」
「そこまで知りません」
「なら、まだ“食べられない”と決まったわけじゃない」
「普通は、そこで“食べるのをやめよう”と考えるものではありませんか」
「普通の料理人ならな」
「あなたは違うのですか」
「俺は、食材を目の前にして、何も確かめず捨てるほど物分かりがよくない」
しばらく沈黙が続いた。
リーゼの呼吸が、耳元へ小さく当たる。
「……あなたの店では、客が止めても危険な料理を出していたのですか」
「出すわけがない。危険かもしれない段階では、客には食わせない。まず俺が確認する」
「今、あなたが作ろうとしているものを、私へ食べさせるつもりだったのでは?」
「お前へ出す前に、俺が食う」
「それであなたが倒れたら、私はどうなるのです」
「二人とも助からない可能性が高くなるな」
「堂々と言わないでください」
「では、嘘でも言えばいいのか。俺が絶対に安全だから心配するな、と」
「……そういう根拠のない言葉を言う人ではないのでしたね」
「覚えていたか」
「忘れたくても、あなたの話し方は妙に頭へ残ります。愛想がないうえに理屈が長く、こちらが弱っていると分かっていても容赦なく言い返してくるので」
「元気になってきたな」
「どこを聞けば、そう思えるのですか」
「文句が長くなった」
リーゼは返事をせず、額を蓮司の肩へ預けた。
それから十分ほど歩くと、木々の間に細い川が見えた。
水は透明で、底の石まで見える。
蓮司は周囲に獣の足跡が少ない場所を選び、リーゼを大きな岩へもたれかからせた。
「ここで待っていろ」
「逃げるだけの体力がないことは、あなたにも分かっているでしょう」
「念のためだ。知らない草を勝手に食べたり、川の水を一気に飲んだりするなよ」
「私は幼児ではありません」
「毒で判断力が落ちている人間は、幼児より面倒だ」
「あなたは、助けようとしている相手を、どうして毎回怒らせるのですか」
「怒る元気を残しておいたほうが、死ににくそうだからな」
「それは、医学的な根拠があるのですか」
「ない」
「……本当に腹立たしい人ですね」
言葉とは裏腹に、リーゼの口元がわずかに緩んだ気がした。
蓮司は川の水を手ですくい、まず匂いを嗅ぎ、舌先へほんの少し触れさせた。
冷たく、妙な苦みや金属臭はない。
上流を確認すると、岩の隙間から水が湧き出している。
「少なくとも、少量なら問題はなさそうだ」
水袋を洗って水を汲み、リーゼへ渡す。
「一気に飲むな。口を濡らしてから、少しずつ飲め」
「言われなくても分かります」
そう言ったリーゼは、最初の一口を飲み込んだ途端、二口目を急いで喉へ流し込もうとした。
蓮司は水袋を取り上げた。
「返してください」
「分かってないじゃないか」
「喉が渇いているのです」
「だから少しずつだ。吐いたら余計に水分を失う」
「あなたは私の保護者ですか」
「違う。最初の客だ」
「私はまだ、注文した覚えがありません」
「注文できる状態じゃなかっただろ。今日の品は店主の勝手で決める」
蓮司はリーゼの抗議を無視し、火を起こす場所を探した。
川辺には乾いた枝が少ない。
石の下や倒木の内側から比較的湿っていない木片を集め、リーゼが持っていた獣脂の布へ火打ち石で火を移す。
何度目かの火花で、ようやく小さな炎が上がった。
そこへ細い枝を重ね、少しずつ太い薪を加える。
「火を起こせるのですね」
「料理人が火も扱えなかったら商売にならない。ただ、ガス台のつまみを回すのとは勝手が違うから、偉そうなことは言えないが」
「ガスダイ?」
「前にいた場所の調理器具だ。説明すると長い」
「あなたは説明しなくても話が長いので、今さら変わらないと思います」
「毒が治ったら、相当面倒な客になりそうだな」
「あなたほどではありません」
石を円形に並べ、簡単なかまどを作る。
だが、肝心の鍋がない。
蓮司は川辺を歩き、中央が深く窪んだ大きな岩を見つけた。
そのまま火へ掛ければ熱で割れる可能性がある。
ならば、岩の窪みへ水を張り、火で熱した石を入れて沸かす方法が使える。
「直接火へ掛けるより時間はかかるが、鍋がない以上は仕方ない」
「何をしているのです?」
「石を鍋にする」
「石は鍋ではありません」
「そのくらい知ってる。ただ、器の役割を果たせれば、今は名前なんてどうでもいい」
窪んだ岩を川の水で洗い、そこへ水を張る。
次に、割れにくそうな丸石を選んで火の中へ入れた。
石が熱せられる間、蓮司は白角鹿の肋骨を小さく割り、表面に付着した血や肉片を川で丁寧に洗った。
しかし、骨をそのまま水へ入れる気にはなれなかった。
「一度、表面を焼くか」
「骨を焼くのですか」
「血の臭みを抑えるのと、香ばしさを加えるためだ。ただ、焦がしすぎれば苦くなる。お前に飲ませるなら、味は軽いほうがいい」
「私へ飲ませることが、もう決定事項になっていますね」
「嫌なら無理には飲ませない。その場合は、水だけ飲んで、毒に勝てるよう祈ることになる」
「神殿の司祭より、よほど祈りに期待していない言い方です」
「料理人が味の調整を神頼みにしたら、店を畳んだほうがいい」
肋骨を遠火で炙る。
表面の水分が飛び、残った脂がじわりと滲んだ。
香りは鹿肉に似ているが、それより清涼感が強く、冬の森を思わせる匂いが混じっている。
蓮司は目を細めた。
「悪くないな。少なくとも、腐った臭いも、毒草のような刺激臭もない」
火の中で熱した石を、枝で作った即席の火箸を使って岩の窪みへ沈める。
水が激しく音を立て、白い湯気を上げた。
何度か石を交換すると、水がゆっくり沸き始める。
そこへ炙った骨を入れ、灰汁が浮くたび、平らな木片ですくい取った。
「本当に、煮るのですね」
「煮なければスープにならない」
「それは分かりますが……あなたは少しも迷わないのですか。魔獣の骨から出た汁を、自分で飲もうとしているのでしょう?」
「迷ってる。迷っているから匂いを嗅いで、色を見て、少量ずつ試す。迷わない料理人なんて、危なくて厨房へ置けない」
しばらくすると、透明だった水へ淡い金色が移り始めた。
骨の周囲から、細かな青白い光が溶け出す。
蓮司は眉を寄せた。
頭の中へ《食材鑑定》の情報が浮かびかけたが、あえて一度目を閉じ、自分の鼻で香りを確かめる。
甘い。
だが砂糖のような甘さではなく、鶏や魚の骨を丁寧に煮たときに立ち上がる、旨味を含んだ香りだった。
「温度を上げすぎると、魔力とかいうものまで荒れそうだな。沸騰させ続けるより、静かに揺れる程度を保ったほうがいい」
「匂いだけは……確かに、不快ではありません」
「食欲が出たか」
「いいえ。匂いが分かるだけです」
「顔を少し近づけたのに?」
「毒の変化を確認しただけです」
「そういうことにしておこう」
リーゼが不満そうに睨んだ。
だが、先ほどより瞳に力が戻っている。
蓮司は骨のスープを煮ながら、先ほど胃袋から見つけた黄金色の穂と同じ植物を周囲で探した。
川沿いの日当たりのよい場所に、似た草が群生している。
穂から粒を取り出し、指で潰すと白い粉が現れた。
少量を舌へ載せる。
僅かな甘みと青臭さ。
毒を思わせる痺れや苦みはない。
念のため《食材鑑定》を使う。
《陽麦》
日光と微量の魔力を蓄える穀物。
粉食可。
生食では消化不良を起こす可能性あり。
「使える」
「何がですか」
「麺だ」
蓮司は石の平らな面へ陽麦の粒を載せ、別の石ですり潰した。
製粉と呼ぶには粗い。
殻も完全には取り除けず、前世の店で使っていた小麦粉とは比べものにならない。
それでも、何度もすり潰して細かな粉を集め、水を少量加えると、まとまりのある生地になった。
「それが、麺になるのですか」
「なるかどうかは、これから試す」
「ならない可能性もあるのですね」
「初めて触る粉なんだ。当然だろ」
「あなたは先ほどから、できるか分からないことばかり始めますね」
「できると分かってることだけやっていたら、新しい料理なんて作れない。ただし、客へ出す前に失敗は潰す」
蓮司は生地を拳で押し、折りたたみ、再び押した。
水分が少ない。
力を入れるたび、生地の端がひび割れる。
「加水率が低すぎたか。だが、追加する水を間違えると、今度はまとまらなくなる」
前世では、粉の重さも水の温度も、一グラム、一度単位で管理していた。
今は秤も温度計もない。
手の感覚だけが頼りだった。
「あなたでも、うまくいかないことがあるのですね」
「当たり前だ」
「先ほど白角鹿を包丁一本で倒した人が言っても、あまり説得力がありません」
「あれも最初は失敗して、肩を凍らされた。そもそも料理は、魔物を倒すより面倒だ。倒すだけなら命を止めれば終わるが、料理は食べる相手が旨いと思うところまで持っていかなければならない」
「命を止めるほうが簡単だという言い方は、騎士として聞き捨てなりません」
「料理人としての話だ。包丁は、切れるだけでは良い道具とは言えない。必要な場所へ、必要な深さだけ入って、初めて仕事をしたことになる」
「……料理人は皆、あなたのように面倒なのですか」
「腕のいい奴ほど、大抵は面倒だ。俺はその中でも、かなり面倒なほうだったらしい」
「自覚はあるのですね」
「あるから直せるとは限らない」
リーゼは、今度こそ小さく笑った。
一瞬だけだったが、確かに笑った。
蓮司は何も言わず、生地へほんの少し水を足した。
再びこねる。
今度は表面のひびが減り、押し返すような弾力が生まれた。
「これなら、何とかなる」
生地を平らな石の上で薄く伸ばし、包丁で細く切っていく。
不揃いだった。
前世の店で出せば、相馬から「店長、寝ながら切りましたか」と嫌味を言われる出来だ。
だが、今は機械も麺棒もなく、傷ついた肩で作っている。
それを言い訳にしたい気持ちと、客へ出す以上は言い訳など関係ないという気持ちが、蓮司の中でぶつかった。
「太さが揃っていないと、茹で上がりに差が出るな」
「私には、ほとんど同じに見えます」
「同じじゃない。こっちは一ミリ以上太い」
「一ミリ……?」
「太い麺へ合わせれば細い麺が柔らかくなりすぎる。細い麺へ合わせれば、太いほうに芯が残る」
「食べられれば十分ではありませんか」
蓮司の手が止まった。
「それは、腹を空かせている人間へ食事を渡す側が、絶対に言ってはいけない言葉だ」
「そこまで強く言わなくても……」
「食べられれば十分だと言い始めたら、作る側はいくらでも手を抜ける。弱っている客だから味が分からないだろう、貧しい客だから安物でいいだろう、子供だから適当でいいだろう――そうやって、相手の事情を料理の質を落とす理由にする店を、俺は何軒も見てきた」
口調が強くなっていた。
蓮司は気づき、短く息を吐いた。
「悪い。お前へ怒ったわけじゃない」
「では、誰へ怒ったのですか」
「昔の同業者と……たぶん、自分自身だ」
「あなた自身?」
「忙しいときに、客の顔を見ず、丼だけ見ていた日がある。味は落としていないつもりだったが、あれは料理を作っていたというより、注文を処理していただけだった。そんな働き方を続けた結果が、今の俺だ」
「今のあなたは、身体も若く、白角鹿を一人で倒せるほど強いように見えますが」
「その前に一度死んでる」
リーゼの表情が固まった。
「死んだ?」
「話せば長い」
「あなたは普段から話が長いのですから、今さら気にするところではないでしょう」
「今は麺を切ってる。話すと太さが乱れる」
「都合が悪くなったから逃げましたね」
「客は黙って待ってろ」
「まだ客になった覚えはありません」
「食べたら客だ」
「私は食べるとも言っていません」
「では、出来上がったものを見てから決めればいい。無理に口へ押し込む趣味はない」
蓮司は麺を切り終えると、火で熱した石を入れ替え、別の岩窪みで湯を沸かした。
麺を茹でる。
陽麦の麺は湯へ入れた直後から淡い黄金色に変わり、表面に小さな光をまとった。
「溶けてはいないな」
「麺が光っていますが、本当に大丈夫なのですか」
「俺に聞くな。初めて見た」
「作った本人が言う言葉ではありません」
「だから、まず俺が食う」
一本を取り出し、冷ましてから噛む。
外側は柔らかいが、中心に僅かに硬さが残っている。
小麦に似た香りのあと、ほのかな甘みが広がった。
悪くない。
むしろ、何も加えていないのに味が濃い。
ただし、茹で時間をもう少し伸ばす必要がある。
蓮司は麺を湯へ戻し、骨のスープを味見した。
口へ含んだ瞬間、澄んだ旨味が舌へ広がる。
鹿骨特有の軽い鉄臭さはほとんどなく、後味へ雪解け水のような冷たい香りが残る。
同時に、腹の奥へ僅かな熱が落ちていく感覚があった。
「……これが魔力か?」
「どうしました」
「味はいい。身体にも、今のところ異常はない」
「味がいい?」
リーゼの声に、僅かな疑いが混じった。
「飲んでみるか」
「まだ結構です」
「そう言いながら、ずいぶん鍋を見てるな」
「毒の色が出ていないか確認しているだけです」
「毒に色があるのか」
「種類によっては」
「なら、あとで教えろ。次から判断材料にする」
「次も食べるつもりですか」
「これだけで究極の一杯が完成するわけがないだろ」
「普通は最初の一杯を生き延びてから、次の心配をするものです」
スープには塩味が足りなかった。
白角鹿の骨そのものに微かな塩気はあるが、弱った身体へ出すには輪郭がぼやけている。
川辺や周囲の植物を探したが、塩に使えるものは見当たらない。
海も岩塩もない。
そこで蓮司は、リーゼの革袋へ入っていた乾燥携帯食へ目をつけた。
硬い肉の塊。
表面へ白い結晶が浮いている。
「これを使うぞ」
「それは干し肉です。私の三日分の食料なのですが」
「生きて三日後を迎えたければ、今日使え」
「全部入れる必要はないでしょう」
「もちろんだ。少し削るだけでいい」
「先ほど荷物を勝手に調べたことより、そちらを勝手に使われるほうが腹立たしいのですが」
「命より干し肉が大事か」
「論点を極端にしないでください。私は、使う前に一言断ってほしいと言っているのです」
「今、断った」
「“使うぞ”は確認ではなく宣言です」
「では、使ってもいいか」
「……どうぞ」
「最初からそう言えば早かった」
「どうして私が悪いような結論になるのですか」
「元気そうで何よりだ」
干し肉の表面を薄く削り、少量の湯で煮出す。
塩気と肉の旨味を抽出し、簡単なタレにする。
さらに白角鹿の後脚肉を薄く切り、別の石の上で表面だけを焼いた。弱ったリーゼへ生に近い肉を出すわけにはいかないため、スープへ入れて中まで火を通す。
香りづけには、川辺に生えていた細い葉を使った。
《食材鑑定》によれば《清流葱》という植物で、食用可能。
ただし能力の表示だけでは信用せず、自分で少量を噛み、刺激や痺れがないことを確認した。
刻むと、青葱と香草を合わせたような爽やかな香りが立つ。
「器が問題だな」
岩窪みのままでは、リーゼが食べられない。
蓮司は白角鹿の角の根元付近を横へ切り、内側を包丁でくり抜いた。
半透明の角は見た目より軽く、中は大きく空洞になっている。
冷気が残っていたため、火の近くでゆっくり温め、何度も湯で洗う。
「それを器にするつもりですか」
「このままでは口が狭いから、縁を整える」
「白角鹿の角を食器にする人間など、聞いたことがありません」
「今日からいる」
「あなたは、誰もやらないことを始めるたびに、そんな顔をするのですか」
「どんな顔だ」
「少し楽しそうです」
蓮司は答えなかった。
否定できなかったからだ。
店が繁盛してからの毎日は、同じ味を守ることに追われていた。
客は変わり、季節も変わるのに、期待される一杯から外れないよう、毎日同じ手順を繰り返した。
もちろん、同じ味を出し続けることにも技術がいる。
だが、いつしか新しいものを作る喜びより、失敗する恐怖のほうが大きくなっていた。
今は違う。
鍋もない。
塩もない。
見たことのない食材ばかり。
目の前の客は、口が悪くて警戒心が強く、こちらの料理を食べる前から毒だと決めつけている。
最悪の条件だった。
だからこそ、楽しかった。
「料理人が料理を作って、楽しそうにしてはいけないか」
「いけないとは言っていません。ただ……先ほどまで死にかけていた私の隣で、未知の魔獣を煮込みながら笑っているので、少し怖いだけです」
「笑ってたか」
「自覚がないのなら、余計に怖いですね」
角を加工した器へ、干し肉の塩気を移したタレを入れる。
そこへ黄金色のスープを注ぐ。
茹で上がった陽麦の麺を持ち上げ、丁寧に湯を切って沈める。
白角鹿の肉と刻んだ清流葱を載せた。
油はほとんど浮いていない。
透き通ったスープの中で、黄金色の麺が揺れ、表面へ青白い光が一瞬だけ走って消えた。
ラーメンと呼ぶには、不完全だった。
丼ではなく角の器。
醤油も味噌もなく、出汁の素材も一種類。
麺は不揃いで、具も少ない。
前世の《麺処かみや》では、試作品としても客前へ出さなかっただろう。
それでも蓮司は、器を見つめながら、これが今の自分に作れる最善だと判断した。
「できた」
「これが……ラーメン?」
「正確には、白角鹿の骨で取った塩味の汁麺だな。俺が前に作っていたものとは、材料も道具も違いすぎる。それでも、今はラーメンと呼ばせてもらう」
「名前は?」
蓮司は一瞬考えた。
「白角鹿の黄金塩ラーメン」
「そのままですね」
「料理の名前は、食べる前から何が入っているか分かるほうがいい。奇をてらって長い名前をつけても、味が良くなるわけじゃない」
「あなたの説明は、毎回長いですけれど」
「名前の話だ」
蓮司はまず自分用に少量を取り分け、スープを飲んだ。
次に麺を食べ、肉を噛む。
身体へ異常はない。
舌の痺れも、吐き気も、視界の変化もない。
むしろ、冷気で傷めていた左肩の痛みが、僅かに和らいだように感じられた。
頭の奥へ、能力の情報が浮かぶ。
《白角鹿の黄金塩ラーメン》
完成度――。
「数字はいらない」
蓮司が呟くと、リーゼが怪訝な顔をした。
「何の話です?」
「こっちの話だ」
「毒は?」
「少なくとも、俺には今のところ異常はない。ただ、お前は毒で弱っている。俺が平気だから、お前も平気だとは言い切れない」
「そこまで慎重なのに、食べさせようとはするのですね」
「最終的に決めるのはお前だ」
蓮司は角の器をリーゼの前へ差し出した。
湯気が二人の間へ上がる。
清流葱の青い香りと、骨から取った澄んだ旨味、炙った鹿肉の香ばしさが、冷え始めた川辺へ広がった。
リーゼは器を見つめていた。
警戒と空腹。
常識と好奇心。
死への恐怖と、目の前の温かさへ手を伸ばしたい気持ち。
それらが金色の瞳の奥で、面倒なほど入り乱れているのが分かった。
「……私は、何年も前から、まともに味を感じていません」
不意にリーゼが言った。
「毒牙狼のせいか」
「違います。もっと以前からです。竜人族の身体に流れる魔力が強くなりすぎる病で、食事をしても、温かいか冷たいか、硬いか柔らかいか、それくらいしか分かりません」
「治療は?」
「ありません。神殿で浄化を受けても、王都の医師へ診せても、悪化を遅らせるだけでした。だから今、この料理の匂いが良いと言われても、私には確かめようがないのです」
「匂いも分からないのか」
「少しは分かります。ただ、以前のようには……」
リーゼは自嘲するように笑った。
「ですから、毒で死ぬかもしれない料理を食べるかどうか悩むこと自体、滑稽なのでしょうね。どうせ味も分からないのに」
「滑稽じゃない」
蓮司は即座に答えた。
「味が分からないなら、食事を粗末に扱っていいことにはならない。温度が分かるなら、熱すぎないようにする。硬さが分かるなら、噛みやすくする。腹へ入るなら、少しでも身体へ負担が少ないものを作る。客が感じられるものが一つでも残っているなら、料理人はそこへ合わせる」
「あなたは、誰に対しても、そうなのですか」
「そうありたいとは思っていた。ただ、いつもできていたかと聞かれると、胸を張れない」
「人気店の店主だったのに?」
「人気が出たから、できなくなったこともある」
蓮司は器を持ったまま、視線を落とした。
「店を始めた頃は、客の顔を覚えていた。脂が苦手な客、麺を柔らかくしてほしい客、子供へ分けるために薄味を頼む親。それが行列が長くなるにつれて、客を人数で見るようになった。一時間に何杯出せるか、回転を落とさず、味を揃えられるか。間違いではない。店を続けるには必要だった。だが、必要なことを言い訳にして、見なくなったものもあった」
「それで、死ぬまで働いたのですか」
「たぶんな」
「馬鹿ですね」
「ああ」
「否定しないのですか」
「死んだ結果が出てるのに、否定しても仕方ないだろ」
リーゼはしばらく蓮司を見つめ、それから小さく息を吐いた。
「その料理をください」
「本当にいいのか」
「ここまで匂いを嗅がされ、長い話を聞かされて、食べずに死んだら悔しいでしょう」
「客の動機としては、あまり褒められたものじゃないな」
「では返します」
「待て。冗談だ」
「あなたも冗談を言うのですね」
「たまにはな」
蓮司は角の器をリーゼへ渡した。
彼女の手は震えていたため、底を支える。
「熱い。最初はスープを少しだけ飲め」
「子供扱いしないでください」
「落としたら、もう一杯作るのに時間がかかる。器も一つしかない」
「私の心配ではなく、料理の心配ですか」
「両方だ」
リーゼは器へ顔を近づけた。
立ち上る湯気が銀色の前髪を揺らす。
彼女は一度だけ躊躇し、スープを口元へ運びかけたが、そこで手を止めた。
「どうした」
「これを食べて死んだ場合、あなたはどうするのです」
「原因を調べる」
「悲しむとは言わないのですね」
「初対面の相手へ、死んだら一生悲しむと約束するほうが無責任だろ。ただ、お前を助けるために作った料理で死なせたなら、俺は二度と同じ失敗をしないよう、死ぬまで覚えている」
「……本当に、変な人です」
「よく言われる」
「それも先ほど聞きました」
リーゼは覚悟を決めたように、器へ口をつけた。
ほんの少しだけ、黄金色のスープを含む。
その瞬間、彼女の肩が大きく震えた。
「……え?」
掠れた声が漏れた。
器を持つ指が固まり、金色の瞳が信じられないほど大きく見開かれる。
蓮司は顔を近づけた。
「どうした。痺れるのか、吐き気は? 喉が焼ける感じがあるなら、すぐに吐き出せ」
「違う……」
「何が違う」
リーゼは答えなかった。
答えられないようだった。
震える指で木の枝を削った即席の箸を持ち、今度は黄金色の麺を数本つまみ上げる。
蓮司が止める間もなく、彼女は麺を口へ運んだ。
一度噛み、二度噛み、ゆっくりと飲み込む。
そして、リーゼの両目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。




