第2話 討伐じゃない、仕入れだ
白角鹿が地面を蹴った瞬間、蓮司の視界から、森を満たしていた色や形のほとんどが消えた。
残ったのは、こちらへ迫る巨体と、半透明の角の内側を走る青白い光、それから雪を踏み砕くような四つの蹄の音だけであり、牛ほどもある身体が木々の隙間を縫って突進してくる光景を前にすれば、本来なら恐怖で足が竦んでもおかしくなかった。
しかし蓮司は、迫る魔物の顔よりも先に、その肩と脚を見ていた。
走り出した直後から、右の前脚だけがわずかに外へ流れている。
おそらく古傷があるのだろう。
さらに、角の付け根から肩にかけての筋肉は厚いが、頭を低く下げすぎているため、直前で方向を変えるのは難しい。鼻から吐き出される白い息が地面へ触れるたびに草が凍っている以上、角を避けても冷気に巻き込まれれば無事では済まないだろうが、それでも正面から受け止めるよりは、いくらかましだった。
「右前脚に古傷、それでもあの速度で走れるなら、肉質は悪くないだろうが……いや、今は味の心配をしている場合じゃないな」
口ではそう言いながらも、蓮司の頭の半分はすでに、白角鹿の肉をどう扱うか考えていた。
走らせすぎれば、筋肉に余計な疲労がたまる。
興奮させすぎれば血が回り、肉に臭みが残りやすい。
だからといって、正面から一撃で仕留められるほど、蓮司は自分の腕力を過信していない。
若返ったらしい身体は軽く、関節もよく動くが、それは目を覚ましてからまだ数分しか経っていない人間の感想にすぎず、命を懸けた状況でどこまで動けるかなど、自分自身にも分からなかった。
「お前も腹が減ってるのか、それとも縄張りへ入った俺が気に入らないのか知らないが、できれば一度止まって話し合いたいところだな。もっとも、俺は鹿の言葉を知らないし、お前も営業時間外のラーメン屋へ無理を言う客よりは話が通じそうにない」
返事の代わりに、白角鹿の角がさらに強く輝いた。
まずい。
蓮司がそう思った直後、鹿の周囲から冷気が噴き出し、走路の両側に生えていた草花が一斉に白く凍りついた。
蓮司は正面から左へ身体を投げ出した。
頭では、鹿の右前脚に古傷があるなら、その反対側へ避けたほうが追撃されにくいと分かっていたのだが、長年厨房で染みついた動きは、飛んできた熱湯や落ちた鍋を避けるときと同じ方向へ、無意識に身体を逃がしていた。
「しまっ――」
白角鹿の巨体が、蓮司の肩を掠める。
直撃は免れた。
しかし角を覆っていた冷気が左腕へ触れた途端、布の上から氷水を流し込まれたような痛みが走り、肩から指先までが一瞬にして痺れた。
踏ん張ることもできず、蓮司は湿った土の上を転がり、背中から木の根へ激突した。
「ぐっ……!」
肺の中の空気が押し出された。
包丁だけは手放さなかったものの、痺れた左腕は思うように上がらず、肩に触れてみると服の表面へ薄い霜が張りついている。
白角鹿は十数歩先で止まり、ゆっくりとこちらへ向き直った。
「身体が若くなったからって、動きまで勝手に若返るわけじゃないらしいな。頭で考えた方向と、身体が逃げた方向が違うなんて、ずいぶん間抜けな話だ」
自嘲しながら立ち上がった蓮司は、左腕を何度か振った。
指は動く。
骨も折れていない。
それでも、あと半歩遅ければ角に胸を貫かれ、異世界へ来てから十分も経たず、二度目の人生まで終えていたところだった。
ようやく、恐怖が追いついてきた。
心臓が激しく鳴り、口の中が乾き、膝の裏がわずかに震えている。
厨房で倒れたときには、身体が動かず、何もできないまま死を待つしかなかった。
今度は違う。
動ける。
逃げることもできる。
それなのに、目の前の得体の知れない魔物を食材として見て、包丁一本で戦おうとしている。
「我ながら、死んでも馬鹿は治らなかったらしい」
そう呟いた蓮司の頭へ、不意に相馬の顔が浮かんだ。
今の自分を見たら、あの男は何と言うだろう。
店長は何でも一人で抱え込むから駄目なんです、と、またあの疲れた顔で怒るかもしれない。
異世界へ来た直後に巨大な鹿へ喧嘩を売る人間へ、もっと常識的な説教をする可能性もある。
「……今さら、お前の説教が懐かしくなるとは思わなかったよ」
白角鹿が再び頭を下げる。
二度目の突進が来る。
次も同じように避けられる保証はない。
逃げるなら今だった。
木々の間へ飛び込み、鹿の巨体が通りにくい場所まで走れば、振り切れるかもしれない。
しかし、蓮司はその場から動かなかった。
最初の突進で分かったことがある。
白角鹿は身体が大きく、直線での速さは恐ろしいが、止まって向きを変えるまでに時間がかかる。
そして冷気を放つ直前、角の根元から首筋へ流れる光が一度だけ強くなる。
あれが合図だ。
「もう一度だけ付き合ってもらう。今度は失敗しない。それで駄目なら、さすがに逃げるよ。料理人にだって、仕入れ先を選ぶ権利くらいはあるからな」
白角鹿が地面を蹴った。
先ほどより速い。
蓮司は正面へ立ったまま、右手の包丁を身体の横へ下げ、左足をわずかに後ろへ引いた。
包丁で受け止めるつもりはない。
あの巨体と正面から力比べをすれば、刃ごと腕を折られる。
狙うのは首でも心臓でもなかった。
まず動きを止める。
そして、できる限り苦しませず、骨と肉を傷めない場所から仕留める。
白角鹿の角が輝く。
今だ。
蓮司は今度こそ、頭で考えたとおり右へ踏み込んだ。
巨体が目の前を通過する。
その瞬間、世界の輪郭が歪んだ。
「……何だ?」
白角鹿の身体へ、細い光の線が浮かび上がっていた。
肩と胴の境目。
前脚の腱。
顎の下から首へ続く血管。
関節や筋肉の継ぎ目を示すように、青白い線が幾重にも走っている。
それは見たことのない魔法でありながら、蓮司には不思議なほど理解できた。
魚を下ろすとき、骨へ刃を当てず、身と骨の間を探る感覚。
鶏を捌くとき、関節を指先で確かめ、余計な力を使わず切り離す感覚。
長年、数えきれないほどの肉や骨へ包丁を入れてきた蓮司の経験に、目の前の魔物の構造が重なってくる。
包丁の刃が、淡い光を帯びた。
頭の奥へ、聞き慣れない言葉が浮かぶ。
《厨房領域》
声が聞こえたわけではない。
文字を見たわけでもない。
それでも、その能力の名前と意味だけが、誰かに教え込まれたように意識へ流れ込んできた。
食材と認識した対象に限り、蓮司の包丁は本来の性能を超えて刃を通す。
ただし、どこへ刃を入れるべきか判断するのは、あくまで使い手自身だった。
「ずいぶん都合がいいが、何でも勝手に切ってくれるわけじゃないらしい。それなら、まだ信用できる」
蓮司は走り抜けようとする白角鹿の横へ身を寄せ、右前脚の裏側へ包丁を走らせた。
硬い皮へ触れたはずの刃は、熟した果物へ入るように滑り込み、古傷によって張りつめていた腱だけを切断する。
白角鹿の右前脚が崩れた。
巨体が前のめりに傾き、角が地面へ突き刺さる。
土と氷が派手に舞い上がり、蓮司は顔を庇いながら後ろへ下がった。
白角鹿は悲鳴を上げ、残る三本の脚で立ち上がろうと暴れた。
切ったのは腱だけだ。
すぐに死ぬ傷ではない。
だからこそ、長引かせてはいけなかった。
「悪かった。すぐに終わらせる」
蓮司は鹿の背後から首元へ回り込んだ。
しかし、倒れた白角鹿が首を振るたび、鋭い角が周囲の木々を薙ぎ、触れた場所から幹が凍って砕けていく。
近づけない。
無理に飛び込めば、今度こそ身体を引き裂かれる。
蓮司は呼吸を整え、鹿の動きを観察した。
暴れるたびに、光る角から冷気が噴き出す。
だが、その冷気は無尽蔵ではないらしく、三度、四度と角を振るううちに光が弱まり、白角鹿の呼吸も荒くなっていった。
待てば安全になる。
しかし、待つほど肉には血が回り、恐怖と苦痛も長引く。
料理人として肉質を考える以前に、生き物を食材として仕留めるなら、その命へ最低限の責任を持たなければならない。
「自分が怪我をしたくないからって、相手だけ苦しませて待つのは、さすがに筋が違うよな」
蓮司は革袋から水筒を抜き取り、中身を地面へ捨てた。
水を失うのは痛い。
だが、命よりは安い。
空になった水筒を、白角鹿の顔の前へ投げる。
金属製の水筒が木の根へ当たり、甲高い音を立てた。
鹿が反射的にそちらへ角を振る。
蓮司は反対側から踏み込み、白い毛に覆われた顎の下へ手を伸ばした。
光の線が見える。
太い血管の位置も分かる。
包丁を深く入れすぎれば、喉を傷つけ、汚れが肉へ回る。
浅ければ苦しませるだけになる。
蓮司は呼吸を止め、一息で刃を引いた。
温かい血が勢いよく噴き出した。
白角鹿の身体が大きく震え、残った脚が土を掻く。
蓮司は角が届かない位置から、その首を押さえた。
「すまない。生きるために、食わせてもらう」
鹿へ言葉が伝わるとは思っていない。
それでも、言わずにはいられなかった。
自分は料理人であり、命を奪うことを仕事にしてきた人間でもある。
肉も魚も、最初から切り身や塊として生まれてくるわけではない。
誰かが育て、誰かが殺し、誰かが運び、厨房へ届く。
店が繁盛してからは、完成した食材を仕入れることが増え、命が食材へ変わる瞬間を直接見る機会は少なくなっていた。
だからといって、知らなかったことにはできない。
白角鹿の脚から力が抜けていく。
やがて、大きな身体は静かになった。
蓮司はしばらく首元へ手を添え、脈が完全に止まったことを確認してから、ゆっくり息を吐いた。
「……仕留めた、のか」
自分の声が、他人のもののように聞こえた。
両脚へ一気に疲労が押し寄せ、その場へ座り込みそうになる。
勝ったという爽快感はなかった。
あるのは、死なずに済んだ安堵と、自分が一つの命を奪った重さ、それから、血抜きを急がなければならないという料理人としての焦りだった。
「感傷に浸るのはあとだ。血が回る前に吊るしたいところだが、この大きさを一人で持ち上げるのは無理だな。傾斜を使って頭を下へ向け、胸を少し開いて心臓の残った収縮を利用するしかない」
蓮司は周囲を見回し、地面の傾きを確認した。
鹿の後脚へ蔓を巻き、巨木の根を支点にして少しずつ身体を動かす。
若返った肉体にも限界はあり、牛ほどの巨体は簡単には動かなかった。
何度か足を滑らせ、傷ついた左肩へ激痛が走る。
「重い……店の寸胴だって、ここまで言うことを聞かない代物じゃなかったぞ。いや、寸胴鍋と死んだ鹿を比べるのも失礼か」
誰も聞いていない森で悪態をつきながら、蓮司は白角鹿の頭を斜面の下へ向けた。
首元の傷口から、残っていた血が流れ出す。
そのとき、白角鹿の全身から淡い光が浮かび、血液へ混じっていた青い粒子が傷口から抜け始めた。
再び、頭の奥へ言葉が流れ込む。
《瞬間血抜き》
魔力を含む血液を効率よく排出し、食材の汚染を抑える能力。
ただし、適切な切開と姿勢を取らなければ発動しない。
「なるほど、手順を間違えたら何もしてくれないわけか。至れり尽くせりの奇跡より、よほど性に合ってる」
能力の存在には驚いた。
だが、料理の技術そのものを代わりにやってくれるわけではないと分かり、蓮司はむしろ安心していた。
何も考えず、手をかざすだけで料理が完成するような力なら、自分が長年積み重ねてきたものまで否定された気分になっただろう。
流れ出る血の色が薄くなったところで、蓮司は包丁を布で拭い、鹿の腹へ手を当てた。
温かい。
死んだ直後だから当然だが、肉の奥には不自然な冷気も残っている。
腹を開く前に、内臓の位置と状態を知りたい。
そう考えた途端、白角鹿の身体の上へ、ぼんやりと情報が浮かび上がった。
《白角鹿》
寒冷属性を持つ大型草食魔獣。
可食部多数。
骨髄の旨味濃度、高。
血液および角周辺に冷却魔力を含有。
肝臓は生食不可。
青白く脈動する内臓は――。
「待て待て、勝手に全部教えるな」
蓮司は顔をしかめ、情報から目を逸らした。
便利ではある。
毒があるかどうかも分からない世界では、命を守るために必要な能力だろう。
しかし、表示された情報だけを信じ、匂いも手触りも確かめず食材を扱う気にはなれなかった。
「参考にはする。だが、最後に決めるのは俺だ。お前がどこの誰から与えられた能力なのか知らないが、料理人の舌と鼻まで代わりにやるつもりなら、悪いが余計なお世話だぞ」
能力へ説教している自分が馬鹿らしくなり、蓮司は苦笑した。
その直後、風向きが変わった。
血の匂いがした。
白角鹿から流れたものではない。
もっと遠く、木々の向こうから漂ってくる、鉄に似た生々しい匂いだった。
蓮司は立ち上がり、耳を澄ませた。
風が枝葉を揺らす。
鳥の声。
遠くで水が流れる音。
そして、その間に紛れるように、低い呻き声が聞こえた。
「誰かいるのか?」
返事はない。
もう一度、呻き声がした。
人間の声に聞こえる。
白角鹿を放置するのは不安だったが、血抜きはひとまず終わっている。周囲に別の肉食獣がいる可能性も考え、蓮司は近くの枝を折って鹿の身体へ被せると、包丁を持ったまま声のした方向へ歩き出した。
数十歩ほど進んだところで、折れた枝や、地面へ残された血の跡が見つかった。
何者かが、傷を負ったまま森を移動している。
血の量は多くないが、足取りは不規則だった。
「歩幅からすれば人間だが……片足を引きずってるな。途中から手をついた跡もある」
蓮司は血痕を追った。
巨木の根が複雑に絡み合う場所へ出ると、その陰に一人の人間が倒れていた。
長い銀色の髪。
黒と銀を基調にした鎧。
腰には細身の剣があり、背中からは布とも装飾とも違う、銀白色の何かが覗いている。
女だった。
年齢は二十歳を少し越えた程度だろう。
整った顔立ちをしているが、頬は青ざめ、額には大粒の汗が浮かんでいた。脇腹の鎧が裂け、その隙間から黒ずんだ血が滲んでいる。
「おい、生きてるか」
蓮司が近づくと、女の瞼がわずかに動いた。
次の瞬間、彼女は腰の剣を抜き、切っ先を蓮司の喉元へ向けた。
倒れていたとは思えない速さだった。
ただし腕にはほとんど力が残っておらず、剣先は小さく震えている。
「それ以上、近づくな……」
「近づくなと言われても、そのままだと死ぬぞ」
「私の生死を、あなたが気にする理由などないでしょう。それに、その包丁と血の匂い……あなたは、何者です」
女の瞳は金色だった。
苦痛で焦点が揺れているにもかかわらず、その眼差しには、こちらを射抜こうとする強さが残っている。
蓮司は自分の服を見下ろした。
白角鹿の血が腕や胸へ跳ね、包丁にも拭いきれなかった赤い筋が残っている。
確かに、森で倒れている女から見れば、親切な旅人より殺人鬼に見えるだろう。
「ラーメン屋だ」
女はしばらく何も言わなかった。
やがて、震える剣先を向けたまま、眉を寄せた。
「……何屋ですって?」
「ラーメン屋だと言った。もっと正確に言えば、行列のできる店のオーナーシェフだったが、今は店も鍋もないから、無職と言われれば否定できない」
「意味が分かりません」
「安心しろ。俺も自分が何を言っているのか、半分くらいしか分かっていない。ついさっきまで厨房にいたはずなのに、気がついたらこの森へ寝かされていて、腹が減ったところへ大きな白い鹿が襲ってきたから、仕方なく仕入れた」
「仕入れた?」
「倒した」
「それは、討伐したという意味ですか」
「討伐じゃない。仕入れだ」
女の金色の瞳が、わずかに見開かれた。
蓮司は冗談を言ったつもりはなかったが、言葉にしてみると、ずいぶん物騒な響きだった。
「まさか……白角鹿を、一人で?」
「白角鹿という名前なのか。見た目のままだな」
「見た目の問題ではありません。白角鹿は銀級冒険者でも単独では近づかない魔獣です。それを、そんな短い包丁一本で倒したと言うのですか」
「短くはない。刃渡りとしては扱いやすい長さだし、骨へ当てなければ十分に仕事をする。それより、お前の脇腹から出ている血の色が悪い。傷を見せろ」
「断ります」
「そうか。では、その剣を構えたまま死ぬか?」
「ずいぶん失礼な男ですね」
「初対面の相手へ剣を向けている人間に、礼儀を説かれるとは思わなかった」
「血まみれの包丁を持って近づいてきた男へ、笑顔で挨拶しろと言うのですか」
「それは無理だな。俺でも警戒する」
「でしたら――」
女が言葉を続けようとしたところで、腕から力が抜けた。
剣先が下がり、身体が木の根へ崩れる。
蓮司は反射的に手を伸ばし、その肩を支えた。
「触るな……!」
「暴れるな。傷口が開く」
「あなたを、信用したわけでは……」
「そんなことは分かってる。俺も、お前が何者か知らないし、助けた途端に後ろから刺してくる可能性まで考えている。ただ、目の前で死にかけている人間を放っておいたら、あとで飯が不味くなる。それだけだ」
「助けると言っても……あなたは医者なのですか」
「ラーメン屋だ」
「先ほど聞きました。それでは助けられないでしょう」
「少なくとも、傷口が腐っているか、毒が回っているか、出血で弱っているかくらいは見分けられる。人間を食材として見る趣味はないが、顔色と呼吸を観察する程度なら、厨房でも従業員相手にやっていた」
「今の説明で、余計に不安になりました」
「気が合うな。俺も自分で話していて、まったく安心できる説明ではないと思っていた」
女は苦しそうに息を吐いた。
警戒は消えていない。
しかし、剣を持ち上げる力も残っていないらしく、切っ先は地面へ落ちたままだった。
蓮司は裂けた鎧の隙間から傷口を確認した。
獣の爪で抉られたような傷が脇腹へ三本走り、その周囲の皮膚が紫色に変色している。
血には、甘いような、腐った薬草のような異臭が混じっていた。
「毒だな」
「……分かるのですか」
「何の毒かまでは分からない。ただ、傷の深さに対して、お前の呼吸と意識の落ち方が早すぎる。それに血の匂いが普通じゃない」
「毒牙狼に……襲われました。解毒薬は使いましたが、量が足りず……」
「毒牙狼か。名前を聞く限りでは、ずいぶん親切な狼だな。毒を持っていることを隠す気がまるでない」
「笑い事ではありません」
「笑ってはいない。名前をつけた人間の工夫が足りないと言っているだけだ」
「同じことです……」
女の声が次第に弱くなる。
蓮司は彼女の瞳孔を確かめ、首筋へ指を当てた。
脈は速く、浅い。
身体は冷えているのに、胸元と首筋だけが不自然に熱かった。
さらに、彼女の背中から覗いていたものが動いた。
銀白色の鱗に覆われた、細長い尾だった。
「人間じゃないのか」
「竜人族を……知らない?」
「知らない。だが、尻尾がある人間を見るのも初めてなら、喋る巨大鹿を見るのも――いや、あの鹿は喋らなかったな。ともかく今日は初めてのことばかりだ」
「あなたは、本当にどこから……」
「説明はあとだ。それまで生きていられたら話す」
蓮司は女の腕を肩へ回し、立たせようとした。
彼女は痛みに顔を歪めながらも、弱々しく抵抗する。
「どこへ、連れていくつもりです」
「すぐ近くに水と、さっき仕入れた白角鹿がある。火を起こして身体を温め、傷を洗う。毒そのものを消す方法は分からないが、水分と塩分を取らせて体力を戻すくらいはできる」
「白角鹿を……食べるつもりなのですか」
「そのために仕入れた」
「魔獣の肉には、魔力毒があります。食べれば死にますよ」
「毒があるなら抜く。臭みがあるなら消す。肉が硬いなら煮る。骨から旨味が出るなら出汁を取る。食えない理由が分かっているなら、食える方法を探せばいい」
「無茶苦茶です……」
「よく言われた。もっとも、俺にそれを言っていた連中は、今のところ全員、最後には丼を空にして帰ったよ」
「丼というものが、何なのかも分かりません」
「それも生きていれば教える」
蓮司は女の身体を支えながら歩き出した。
彼女は数歩進んだところで限界を迎え、完全に体重を預けてくる。
鎧のせいで重い。
傷ついた左肩が悲鳴を上げた。
それでも手を離すわけにはいかなかった。
「名前は?」
蓮司が尋ねると、女はしばらく黙っていた。
「信用していない相手へ……名乗る必要がありますか」
「必要はない。ただ、いつまでも“お前”と呼ぶのは、客へ出す料理の名前を決めないまま営業を始めるくらい落ち着かない」
「人の名前と料理を、一緒にしないでください」
「面倒な女だな」
「あなたにだけは、言われたくありません」
苦しみながらも言い返すところを見ると、まだ意識は保てている。
蓮司は少しだけ安心した。
やがて女は観念したように目を閉じ、小さく息を吐いた。
「リーゼ……リーゼ・ドラグニールです」
「神谷蓮司だ」
「カミヤ……レンジ」
「蓮司でいい」
「では、蓮司……あなたが作ろうとしているものを食べれば、本当に助かるのですか」
「分からない」
蓮司が即答すると、リーゼは薄く目を開けた。
「そこは、助かると言い切る場面ではないのですか」
「根拠もないのに言い切る人間を、俺は信用しない。食べれば必ず助かるとは言えないし、そもそも今のお前が食べられる状態かどうかも分からない。ただ、何もしないよりは生き残る可能性が上がるように考える。それ以上の約束はできない」
「本当に……愛想のない人ですね」
「人気商売には向いていないと、自分でも思っていたよ」
「人気ラーメン店の店主だったのでしょう」
「味と愛想は別だ」
リーゼの口元が、ごくわずかに緩んだ。
笑ったのか、それとも呆れただけなのか、蓮司には判断できなかった。
その直後、彼女の身体から力が抜ける。
「おい、リーゼ」
返事はない。
意識を失っただけで、呼吸は続いている。
蓮司は彼女を抱え直し、白角鹿を置いた場所へ急いだ。
水場を探し、火を起こし、傷を洗う。
それから、身体へ負担をかけない温かい食事を作る。
鍋も塩も麺もない。
あるのは包丁一本と、正体の分からない森の植物、それから未知の魔力を蓄えた白角鹿だけだった。
条件としては最悪に近い。
それでも蓮司の頭の中では、すでに透明なスープの輪郭が生まれ始めていた。
脂は控える。
骨を強く煮立てず、澄んだ旨味だけを引き出す。
弱った身体へ塩分と水分を入れ、香りで食欲を呼び戻す。
もし小麦に似た穀物が見つかれば、細く柔らかな麺を打つ。
「究極の一杯には、ほど遠いな」
蓮司は意識を失ったリーゼを背負いながら、静かに呟いた。
「だが、客を一人も救えない料理人が、究極なんて言葉を使う資格はない」
異世界で最初の一杯は、味覚を満足させるためではなく、死にかけた一人の女を生き延びさせるために作ることになった。




