第1話 人気店主、厨房で死ぬ
午前二時を回った厨房には、もう客の声も、食器が重なる音も、店員たちが交わす気の抜けた笑い声も残っておらず、聞こえてくるのは巨大な寸胴鍋の中で豚骨が静かに踊る音と、換気扇がくたびれた獣のように低く唸り続ける音だけだった。
神谷蓮司は火口の前に立ち、白く濁ったスープを長い柄杓ですくうと、小さな器へ移し、まず香りを確かめてから、舌の上で転がすように一口だけ含んだ。
「……違うな」
誰に聞かせるでもなく呟き、蓮司は眉間に皺を寄せた。
不味いわけではない。
むしろ、この時間まで煮込まれたスープは十分に旨かった。骨の髄から出た濃厚な旨味があり、それでいて嫌な臭みは抑えられ、鶏ガラと香味野菜の甘みも喧嘩せずに重なっている。明日の開店時にこのスープを出せば、ほとんどの客は満足して帰るだろう。
だが、ほとんどでは駄目だった。
「昨日のほうが、あとに残る甘みがきれいだった。今日の骨は脂が強いのか、それとも玉葱を入れる時間が早すぎたのか……いや、火を落としてから一度温度が下がったな。あのとき店頭の客に呼ばれて、戻るまで五分、いや七分くらい空いたか」
そう口にしながら、蓮司は鍋の表面へ浮いた脂を見つめた。
店内は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っている。
カウンターだけで十四席。
決して広い店ではないが、昼時になれば店の外に三十人を超える列ができ、土日ともなれば遠方から訪れた客が開店の二時間前から並ぶ。
雑誌にも載った。
テレビにも何度か出た。
動画配信者が食べに来て、派手な言葉で褒めたこともある。
食べ歩きサイトでは、都内のラーメン店ランキングで三年連続上位に入り、半年前には海外の観光客向けガイドにも掲載された。
神谷蓮司、三十八歳。
人気ラーメン店《麺処かみや》のオーナーシェフ。
中学を卒業してすぐに町のラーメン店へ弟子入りし、いくつもの店を渡り歩きながら十九年間修業を続け、三十四歳で独立した。
その結果として手に入れたのが、この店だった。
欲しかった店。
誰にも口を挟まれず、自分が納得できる一杯だけを出すための、自分自身の厨房だった。
ところが、店が繁盛すればするほど、蓮司の仕事は増えていった。
早朝の仕入れ、午前中の仕込み、昼営業、休む暇もなく夜営業の準備、閉店後の清掃と翌日のスープ作り、さらに帳簿の確認、業者との連絡、求人への対応、新人の教育、常連客から届く要望への返信。
最初は、すべて自分でやることが楽しかった。
自分の店なのだから、自分が責任を持つ。それが当然だと考えていた。
だが、その当然はいつからか、誰にも任せられないという思い込みへ変わっていた。
蓮司はもう一度スープを口へ運んだ。
「玉葱を追加するか……いや、それをやると今度は輪郭がぼやける。昆布水を少し入れて、塩分を調整すれば――」
厨房の奥から、何かが振動する音が聞こえた。
作業台の上に置いたスマートフォンだった。
蓮司は画面へ目を向けたものの、すぐに鍋へ視線を戻した。
数秒後、振動が止まる。
また鳴った。
「こんな時間に、誰だ」
柄杓を置き、濡れた手を前掛けで拭ってからスマートフォンを取ると、画面には副店長の名前が表示されていた。
蓮司は一瞬だけ迷い、通話ボタンを押した。
「もしもし」
『店長、まだ店にいますよね』
「店にいなかったら、こんな時間に電話へ出ないだろ」
『そういう屁理屈を聞きたいんじゃありません。帰ってください。今すぐ火を落として、スープは俺たちが朝に確認しますから』
電話の向こうから聞こえてきたのは、開店当初から働いている副店長、相馬の苛立った声だった。
相馬は今年三十二歳になる。以前は別のラーメン店で働いており、独立したばかりの蓮司の店へ、半ば押しかけるような形で加わった男だった。
包丁の扱いも悪くない。
舌も確かだ。
従業員たちからも信頼されている。
蓮司も相馬の腕を認めていた。
認めてはいるのだが、だからといって明日のスープを任せられるかと言われれば、それとこれとは別の話だった。
「お前、明日は十時入りだろ。早く寝ろ」
『店長こそ昨日から何時間寝ています?』
「三時間くらいは寝た」
『一昨日は?』
「覚えてない」
『覚えてないんじゃなくて、寝てないんでしょう。夕方、寸胴の前で立ったまま目を閉じていたじゃないですか。あれを仮眠に数えるのはやめてください。人間は馬じゃないんですから、立ったまま寝る前提で身体ができていないんですよ』
「お前は電話をかけてまで説教したいのか」
『説教じゃなくて、お願いです。店長が倒れたら、この店は終わるんですよ』
蓮司は返事をしなかった。
耳に痛い言葉だったからではない。
そんなことは自分が一番よく分かっていた。
自分が倒れたら、この店は終わる。
だから倒れるわけにはいかない。
だから休めない。
だから誰よりも働くしかない。
蓮司の中では、すべてがきれいにつながっていた。
「俺がいないと終わる店なら、俺がいれば終わらない」
『その理屈を真顔で言えるところが、本当に怖いんですよ。いいですか、店長、あんたが考えているより、俺たちは使えます。スープの調整もできますし、製麺もできます。仕入れ先との交渉だって、やらせてもらえれば覚えます。それなのに、あんたは何でも自分で抱えて、俺たちが手を出そうとすると、“まだ早い”の一言で終わらせるでしょう』
「実際、まだ早い」
『その“まだ”は、いつ終わるんですか』
「俺が納得したらだ」
『それじゃ、店長が死ぬまで終わらないじゃないですか』
相馬の言葉が、静かな厨房の中へ落ちた。
蓮司は小さく息を吐いた。
「縁起でもないことを言うな」
『だったら、縁起でもない働き方をやめてください』
「分かった。あと一時間で帰る」
『それ、昨日も言いましたよね』
「昨日は昨日だ」
『明日になったら、“昨日は昨日だ”って言うつもりでしょう。もういいです、今から俺が店へ行きます』
「来なくていい」
『行きます』
「来るな。お前まで寝不足になったら、明日の営業をどうする」
『店長にだけは言われたくありません』
「相馬」
『何ですか』
「明日の限定、塩にする」
『……この話の流れで、どうして限定の相談になるんですか』
「豚骨の出来が少し重い。濃い味を二本並べるより、白湯と清湯で分けたほうが客も選びやすい。朝一番で丸鶏を確認して、状態がよければ――」
『店長』
「何だ」
『俺は怒っています』
相馬の声は大きくなかった。
むしろ、それまでより静かだった。
『四年前、店長がこの店を始めたとき、俺はここなら自分も本気でラーメンを作れると思って入りました。あんたの味が好きだったし、何より、客が丼を空にしたときに、厨房の奥でほんの少しだけ嬉しそうな顔をするところを見て、この人についていけば間違いないと思ったんです』
「急に気持ちの悪い話をするな」
『照れ隠しで人を気持ち悪い呼ばわりしないでください。そういうところも含めて面倒くさいんですよ、あんたは』
蓮司は反論しかけて、やめた。
面倒くさい。
それは自分でも自覚している。
味の話になると妥協できない。誰かに任せた仕事が気になって、結局自分でやり直す。従業員を信用していないわけではないのに、失敗させることを怖がり、仕事を渡せない。
そのくせ、誰にも頼られていないと感じると不機嫌になる。
我ながら、ずいぶん厄介な人間だった。
『俺たちは、あんたの作った店で働いているんじゃありません。今はもう、一緒にこの店を作っているつもりです。そこを、いい加減に分かってください』
「……相馬」
『はい』
「朝一番の丸鶏は、お前が見ろ」
電話の向こうが静かになった。
『本当に任せるんですか』
「ただし、腹の中の匂いまで確認しろ。表面だけ見て判断するな。皮の色がよくても、内臓の処理が遅い鶏はスープに濁りが出る。それと、胸骨の周りの脂が黄色すぎるものは避けろ。餌の匂いが残る可能性がある」
『分かりました』
「仕入れ値が上がっていても、品質を落とすな。ただし業者の言い値で買う必要はない。羽数をまとめる代わりに――」
『店長』
「何だ」
『ありがとうございます』
「礼を言うほどのことじゃない」
『それと、今すぐ帰ってください』
「あと一時間だ」
『三十分』
「四十五分」
『子供みたいな交渉をしないでください。三十分です』
「……分かったよ」
『絶対ですよ』
「しつこい」
通話を切り、蓮司はしばらくスマートフォンの黒い画面を見つめていた。
一緒に店を作っている。
相馬の言葉を、心の中で繰り返した。
「勝手なこと言いやがって」
口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
悪い気はしなかった。
いや、正直に言えば、嬉しかった。
だが、それを本人の前で認めるのは癪だった。
蓮司はスマートフォンを作業台へ戻し、寸胴鍋へ向き直った。
「三十分か」
十分で火加減を整え、十分で床を流し、残りの十分で明日の仕込み表を作る。
それなら約束は守れる。
蓮司は長い柄杓を持ち直し、スープの表面へ浮かんだ脂を丁寧にすくい取った。
そのときだった。
胸の奥に、小さな痛みが走った。
「……ん?」
鋭い痛みではない。
筋肉が引きつった程度の、鈍い違和感だった。
疲れているのだろうと考え、蓮司は作業を続けた。
脂を取り除き、火を弱め、鍋の中を静かに混ぜる。
再び胸が痛んだ。
今度は先ほどより強かった。
左胸の奥から、重い杭を打ち込まれたような痛みが広がり、肩から腕へ、嫌な痺れが落ちていく。
「ちょっと……待て」
柄杓の先が鍋の縁に当たり、金属音が鳴った。
息が吸えない。
胸を押さえようとしたが、左腕に力が入らず、指先が思うように動かなかった。
蓮司は作業台へ手をつこうとした。
届かなかった。
膝が折れ、身体が傾く。
視界の端で、白い器が床へ落ちた。
甲高い音とともに砕け、破片が散る。
「……洒落に、ならねえな」
床へ倒れ込みながら、蓮司は妙に冷静だった。
胸が痛い。
呼吸が苦しい。
おそらく心臓だ。
救急車を呼ばなければならない。
スマートフォンは作業台の上にある。
手を伸ばせば届く距離のはずなのに、腕は床を弱々しく掻くだけで、身体が少しも前へ進まなかった。
「相馬に……馬鹿にされるな」
帰れと言われた直後に倒れた。
これでは、まるで漫画だった。
しかも、朝になれば従業員が店へ来る。
厨房の床で倒れている自分を見つけ、きっと大騒ぎになる。
明日の営業は中止だろう。
予約していた客もいる。
限定の塩ラーメンを楽しみにしている常連もいる。
「スープ……火を」
火を止めなければ。
意識がなくなれば、鍋が煮詰まる。
最悪の場合、火事になる。
蓮司は歯を食いしばり、肘を床へ立てた。
寸胴鍋まで、ほんの二歩。
普段なら何でもない距離だった。
だが、今は厨房の端から端までより遠く感じる。
「くそ……こんなことで、店を」
床へ落ちた汗が、頬の横に小さな染みを作った。
苦しかった。
怖かった。
死にたくないと思った。
店を始めてから、まともな休みなどほとんど取っていない。
旅行にも行かなかった。
恋人ができても、仕事を優先して愛想を尽かされた。
家族から連絡が来ても、忙しいからと短い返事だけで済ませた。
それでも、後悔などしていないつもりだった。
自分が選んだ道だ。
旨いラーメンを作りたかった。
客が丼を空にし、店を出る前に小さく「旨かった」と漏らす、その瞬間を見たかった。
ただ、それだけだった。
しかし、本当にそれだけでよかったのか。
相馬たちと、一度くらい店を閉めて酒を飲んでもよかったのではないか。
仕込みを誰かに任せ、客として自分の店のラーメンを食べてもよかったのではないか。
店を守るために生きていたつもりで、いつの間にか、店に自分の人生を食わせていただけではないのか。
「……まだだ」
声が掠れた。
「まだ、完成してない」
蓮司が求めていた究極の一杯は、まだできていない。
毎日少しずつ味を変え、骨の種類を変え、水を変え、塩を変え、それでも届かなかった。
あと一歩だと思った日もある。
だが翌日になれば、もっと旨い味があるはずだと考え直した。
一生かけても完成しないのかもしれない。
それでもよかった。
完成しないからこそ、明日も厨房に立てる。
蓮司はもう一度、腕へ力を込めた。
指先が床を滑る。
身体は動かなかった。
視界が暗くなる。
最後に見えたのは、湯気を上げ続ける寸胴鍋だった。
せめて、火だけでも止めたかった。
それから相馬に、丸鶏だけではなく、明日の麺の加水率についても伝えておきたかった。
それから――。
「腹……減ったな」
自分でも、なぜそんな言葉が出たのか分からなかった。
次の瞬間、厨房の音も、胸の痛みも、すべてが遠ざかった。
◇
頬に触れる感触が冷たかった。
硬い厨房の床ではない。
湿っていて、少し柔らかく、土と青臭い草の匂いがする。
蓮司は薄く目を開けた。
「……何だ、これ」
視界いっぱいに、緑色の葉が広がっていた。
枝の隙間から淡い光が差し込み、見たこともないほど大きな蝶が、青い羽を輝かせながら飛んでいる。
蓮司はゆっくりと身体を起こした。
胸の痛みは消えていた。
息苦しさもない。
左腕も動く。
恐る恐る胸へ手を当てると、心臓は規則正しく脈打っていた。
「病院……じゃないな」
周囲を見渡す。
どこまでも続く森だった。
幹が人の胴ほどもある巨木が並び、その根元には赤や紫の奇妙な花が咲いている。遠くから鳥の声が聞こえるが、どの鳴き声も蓮司の知っている鳥とは微妙に違った。
そして、何よりおかしいのは自分の身体だった。
腕が若い。
長年の火傷や包丁傷は残っているものの、皮膚には張りがあり、重かった腰も痛まない。試しに立ち上がってみると、身体が驚くほど軽かった。
着ている服も、黒い調理着ではなかった。
粗末な麻のシャツと茶色いズボン。
腰には見慣れない革袋が下がっている。
「心臓発作を起こして、目が覚めたら森の中で若返っていた……か」
蓮司は自分で口にし、顔をしかめた。
「仕込みのしすぎで、とうとう頭まで煮えたのか」
夢かもしれない。
あるいは、死ぬ間際に脳が見せている幻覚なのかもしれない。
だが、土の冷たさも、風が頬を撫でる感触も、あまりに生々しかった。
蓮司が状況を整理しようとしていると、腹の奥から盛大な音が鳴った。
森の静けさの中で、それはひどく間抜けに響いた。
「……死にかけても腹は減るのか」
革袋を探る。
中に入っていたのは、小さな水筒と数枚の銅貨、それから鞘に収まった一本の包丁だった。
蓮司は包丁を抜いた。
刃渡り二十一センチほどの牛刀に似ている。
柄の形も、刃の重さも、長年愛用していた包丁とほとんど同じだった。
試しに親指の爪へ刃を当てる。
研ぎは悪くない。
「包丁だけ持たされて、食材は現地調達しろってことか。ずいぶん雑な待遇だな」
誰に対する文句なのか、自分でも分からない。
それでも、包丁を握ると少しだけ落ち着いた。
厨房がどこにあるのかも分からず、火も鍋も調味料もないが、包丁があるなら何もできないわけではない。
水筒の水を一口だけ飲み、蓮司は木々の間へ視線を向けた。
まずは水場を探す。
食べられる植物や小動物がいれば確保する。
できれば火を起こし、安全な場所で夜を越す。
異常な状況のわりに、考えていることは妙に現実的だった。
もっとも、蓮司にとっては泣き叫ぶより、食材と調理環境を確認するほうが自然だった。
そのとき、右手の茂みが揺れた。
蓮司は包丁を逆手に持ち、音のした方向へ身体を向ける。
重い足音。
枝が折れる。
茂みの奥から現れたのは、鹿に似た生き物だった。
ただし、蓮司の知る鹿とは明らかに違う。
牛ほどもある巨大な身体。
雪のように白い体毛。
頭から伸びた二本の角は半透明で、内側に淡い青色の光が流れていた。
その口元からは白い息が漏れ、足を踏み出すたびに地面の草が薄く凍りつく。
どう見ても、普通の鹿ではない。
鹿は蓮司を見つけると、低く唸った。
頭を下げ、光る角をこちらへ向ける。
あれに突かれれば、若返った身体も簡単に貫かれるだろう。
逃げるべきだった。
少なくとも、まともな人間ならそう考える。
だが蓮司は逃げなかった。
白い体毛の下で動く筋肉を見た。
太い四肢を見た。
大きく張り出した胸郭と、体格のわりに引き締まった腹を見た。
そして何より、あの巨体を支えている骨を想像した。
鹿の骨は、処理さえ間違えなければ上品な出汁が出る。
脂は少なく、香りは繊細で、火を強くしすぎると雑味が出る。肉には独特の鉄臭さがあるが、血抜きを丁寧に行い、香草と合わせれば旨味へ変えられる。
目の前の生き物が普通の鹿ではないとしても、骨格の基本まで別物とは限らない。
あの青白い角。
吐息で草を凍らせる力。
体内に蓄えられた何らかのエネルギーが、肉や骨の味へどう影響するのか。
恐怖より先に、料理人としての好奇心が湧いた。
「鹿骨なら、まず塩だな」
蓮司は包丁を構えた。
白い鹿が地面を蹴る。
巨体が、凍りついた草を蹴散らしながら一直線に迫ってきた。
蓮司はその動きを見据えながら、ほんの少しだけ口元を上げた。
「悪いが、こっちも腹を空かせてるんだ。死んだばかりの人間に遠慮しろとは言わないが、せめて旨い出汁くらいは取らせてもらうぞ」
異世界での最初の仕入れが、始まった。




