第14話 国王は温かい料理を食べられない
国王のためのラーメンを考え始めた翌朝、蓮司は、自分の店の厨房から追い出された。
正確には、厨房へ入ることそのものを禁じられたわけではない。
王都へ持っていく料理の試作をするため、炉の右半分と小さな作業台一つは使ってよい。しかし、店の営業に使う寸胴、麺、生肉、タレ、器には触れてはならないという線引きを、リーゼが石床へ白い粉で描いたのである。
「何だ、これは」
早朝の厨房へ入った蓮司は、炉の前を縦に分ける白線を見下ろした。
「境界線です」
リーゼは、毒牙鼠の肉を洗いながら平然と答えた。
「右側が、蓮司の王都用試作区画。左側が、本日の営業用厨房です」
「俺の厨房だぞ」
「現在の貸借契約では、《異世界麺処・蓮》が使用者となっており、蓮司個人の所有物ではありません」
「誰が、そんな屁理屈を教えた」
「ベルトランさんです」
「よりによって、あいつか」
「昨日、正式な営業許可証を届けに来た際、店主と店は法的には別の扱いになると説明されました。従業員が安全に働くため、担当区画を分けることにも問題はないそうです」
蓮司は店の入口を見た。
正式許可証を持ってきたベルトランは、必要事項を説明するとすぐに帰った。
負けた腹いせに許可を遅らせることも、設備条件を過剰に増やすこともしなかった。その代わり、書類の一字でも間違えれば差し戻すという顔で、リーゼへ帳簿と衛生規則の束を渡している。
敵としては嫌な男だったが、仕事相手としても十分に面倒だった。
「白線から、こちらへ手を伸ばさないでくださいね」
ミーナが、毒牙鼠の皮を剥ぐための小さな包丁を握りながら言った。
蓮司が昨夜研いだものだ。
「持ち方が硬い」
「まだ始めてもいないのに、口を出さないで!」
「指へ力が入りすぎてる。刃が滑ったとき、止められない」
「店主が一緒に処理するって言ったでしょう」
「一緒にやる。見ているだけとは言ってない」
「口だけなら、境界線の向こうからでも出せますね」
リーゼが冷静に言う。
「ただし、危険がないかぎり包丁を取り上げない。昨日の約束です」
「分かってる」
「返事をするとき、なぜ少し不満そうなのですか」
「危険かどうかは、俺が判断する」
「私も確認します。毒腺を一度外せたからといって、すべて蓮司にしか分からないわけではありません」
「二頭目で失敗しただろ」
「外す肉を多く取りすぎただけで、毒腺は傷つけていません」
「食える肉が減った」
「最初から、蓮司と同じ歩留まりを求めないでください」
リーゼは言い返しながら、処理済みの頭部を指で示した。
「前回は、毒腺の周囲を指二本分ほど大きく切りました。今回は指一本分にします。それでも安全を優先します」
「それでいい」
「今、認めましたね」
「安全を優先する判断は、間違ってない」
「では、もう少し嬉しそうに言ってください」
「なぜだ」
「蓮司から仕事を教わっていると、正解したのか、次の瞬間に包丁を取り上げられるのか、表情だけでは分からないのです」
「料理は、俺の顔を見て作るものじゃない」
「教わる側は、教える人の顔も見ます」
蓮司は反論しようとして、やめた。
自分は食材しか見ていなかった。
前の店でも、相馬たちが自分の顔色を見ていたことへ、気づいていなかったのかもしれない。
「大丈夫だ」
蓮司はミーナへ言った。
「刃先を毒腺の外へ向けたまま、ゆっくり引け。途中で止まってもいい。無理に一度で切ろうとするな」
「店主が隣にいると、余計に緊張する」
「では、離れるか」
「それはそれで不安」
「面倒だな」
「誰の店員だと思ってるの」
ミーナは舌を出し、毒牙鼠の顎へ包丁を当てた。
刃が入る。
途中で一度止まる。
蓮司は手を出さなかった。
「そこから、肘を少し引け」
「これくらい?」
「もう少し浅く」
「浅くって、どっちへ?」
「刃先を外へ倒す」
「こう?」
「そうだ」
毒腺が周辺の肉ごと外れる。
袋は破れていない。
ミーナは包丁を置き、息を吐いた。
「できた」
「ああ」
「それだけ?」
「よくできた」
今回は間を置かなかった。
ミーナは一瞬だけ驚き、それから誇らしそうに猫耳を立てた。
「もう一頭やる」
「先に手袋を替えろ。毒腺へ触れた可能性がある」
「分かってる」
「手を洗ってからだ」
「分かってるってば!」
リーゼが笑いながら、新しい手袋を渡した。
「教える側も、少しずつ上達していますね」
「俺が包丁を持ったほうが、三倍は早い」
「それを口へ出さずにいられれば、さらによかったのですが」
「事実だ」
「その三倍の速度で一人だけ働き、最後に倒れれば、店全体では遅くなるのです」
蓮司は何も答えず、白線の右側へ移った。
自分へ与えられた小さな作業台には、王室侍従セドリックが置いていった書類が積まれている。
国王の食事手順。
毒見の順番。
料理が完成してから王の前へ運ばれるまでに、どれほどの人間と場所を通るのかが、リーゼの翻訳によってまとめられていた。
最初に、使用する食材を検査官が確認する。
毒草、腐敗、呪術的な印がないか。
次に、調理器具と料理人の身体検査。
料理中は、王宮厨房の監視役が立ち会う。
完成後、調理した料理人が一口。
続いて、厨房所属の毒見役が一口。
料理を蓋付きの保温容器へ移し、王の食卓を管理する侍従府へ運ぶ。
そこで二人目の毒見役が一口。
一定時間、体調へ異常が出ないか観察する。
最後に、国王付き侍従が見た目と匂いを確認し、ようやく食卓へ並ぶ。
「これでは、冷める以前の問題だな」
蓮司は紙を見ながら呟いた。
「何がです?」
リーゼは肉を洗う手を止めずに尋ねた。
「同じ一杯を三人が食う。最初の毒見で麺が減り、二度目で具の位置が崩れる。保温箱へ移すときにも、器を変える可能性がある」
「王室の器へ盛り替える決まりだそうです」
「最悪だ」
「国王陛下の器へ、最悪という言葉を使わないでください」
「器の価値ではない。盛り替えれば、麺とスープの比率が変わる。どれだけ温度を保っても、麺はスープを吸い続ける。半刻待てば、別の料理だ」
「では、やはり麺とスープを別にして運びますか」
「スープだけ毒見する?」
「麺も別に毒見し、国王陛下の前で合わせる」
「合わせる人間が、最後に毒を入れる可能性を疑われる」
「透明な器を使い、全員が見ている前で?」
「毒は色がつくとは限らない。粉でも液体でも、手順の最後に触れる人間が一番疑われる」
「自分が疑われることを心配しているのですか」
「違う。疑われる工程は認められないと言ってる」
リーゼは毒牙鼠の肉を桶へ入れ、手を洗った。
それから白線の手前まで来る。
「国王陛下と毒見役が、同時に食べる方法しかないと?」
「ああ」
「認められないでしょうね」
「だから、制度から変える必要がある」
「会ったこともない国の料理人が、王宮へ入った初日に、二十七年間続く毒見制度を変えろと言うのですか」
「料理を変えずに食わせられないならな」
「そこで別の料理を考える、とはならないのですね」
「国王が求めたのは、温かい一杯だ。冷めても食える料理を作ることではない」
「食事へ関しては、恐ろしいほど言葉どおりに受け取りますね」
「注文だからな」
リーゼは書類へ視線を落とした。
「ですが、毒見制度にも理由があります。二十七年前、国王陛下が王太子でいらした頃、食事へ毒を入れられた事件があったそうです」
「セドリックが言っていたのか」
「この資料に、毒見手順が厳格化された経緯として書かれています」
蓮司には文字が読めない。
リーゼが該当部分を指し、読み上げた。
「当時、王位継承を巡って王宮内で派閥争いがあり、王太子殿下の夕食へ遅効性の毒が混入されました。毒見役が先に倒れたことで、殿下は口にせずに済んだ。しかし毒見役は、三日後に亡くなった」
「国王は、その場にいたのか」
「はい。毒見役が苦しみ、亡くなるまで、何度も見舞ったと記されています」
「それで毒見を減らせなくなった?」
「おそらく」
制度を厳しくしたのは、王が自分の命だけを守りたかったからではない。
誰かが自分の代わりに毒を食べ、死ぬ。
その恐怖を忘れられないから、検査を増やし、何人もの人間へ責任を分けた。
だが責任を分けた結果、毒見をする人数は増えている。
「矛盾してるな」
「人間は、恐怖を避けるために作った仕組みによって、別の恐怖を増やすことがあります」
「お前もか」
リーゼは少し黙った。
「何の話です」
「味覚を失ってから、食事へ誘われることを断っていた。相手へ気を遣わせたくなかったからだろ」
「……はい」
「一人で食うようになって、余計に食事が作業になった」
「そうですね」
「国王も、毒見役を死なせたくなくて制度を増やし、結果として、毎食何人も先に食わせるようになった」
「似ていると?」
「恐怖から逃げるため、逃げた先で別のものを失ったところはな」
リーゼは書類を見つめた。
「では、蓮司はどうしますか。国王陛下へ、“昔の毒見役が亡くなったことを気にしすぎです”と言うのですか」
「そんなことを言って、恐怖が消えるなら簡単だ」
「珍しく慎重ですね」
「料理以外の気持ちは、火加減を変えるようにはいかない」
「料理なら、すべて火加減で解決できるような言い方ですね」
「火加減だけではない。塩も水も時間も要る」
「そういう意味ではありません」
ミーナが二頭目の処理を終え、二人の近くへ来た。
「王様は、自分より先に誰かが食べるのが嫌なの?」
「嫌というより、怖いのだと思います」
リーゼが答える。
「昔、王様の代わりに毒を食べた人が死んだから」
「じゃあ、毒見をやめればいいのに」
「今度は、国王陛下ご自身が毒を食べるかもしれません」
「難しいね」
「そうだな」
蓮司は紙の上へ、二つの器を置いた。
一つには水。
もう一つは空。
「同じ鍋から、国王と毒見役へ同時に出す」
「一杯を分けるのですか」
「二杯作る。同じ麺、同じスープ、同じ具。目の前で同時に盛る」
「どちらか一方に毒を入れる可能性は?」
「盛りつける人間は俺一人。左右の器を、毒見役に選ばせる」
「選ばなかったほうを国王陛下へ?」
「ああ。入れ替えられて困るなら、盛ったあとに毒見役が選ぶ。俺にも、王宮にも、どちらを国王が食うか分からない」
「ですが、毒が遅れて効く場合は?」
「同時に食えば、国王も危険だ」
「駄目ではありませんか」
「だから、事前の食材検査と調理監視は残す。完成後だけ、待たない」
「毒見役は安全確認ではなく、同じ危険を負うだけになります」
ミーナが不満そうに言う。
「それ、王様も嫌なんじゃない?」
「そうだな」
蓮司は水の入った器を見た。
国王は、自分と同時に毒見役が苦しむ可能性も受け入れないだろう。
「では、毒見役本人が料理を作れば?」
ミーナが言った。
「何?」
「毒見する人が最初から一緒に作るの。店主が変なものを入れてないか、ずっと見て、最後は自分で器へ入れる」
「調理技術がなければ、麺を上げられない」
「店主が教える」
「王宮へ着いてから短時間で?」
「三日でリーゼへ教えたでしょう」
「今も完全ではない」
「でも、お客へ出してる」
ミーナは当然のように言った。
「毒見する人が、店主と一緒に同じ鍋を見て、自分の手で王様の分を作れば、あとから毒を入れたって疑わなくて済むんじゃない?」
蓮司は考えた。
毒見役を、完成後に料理を口へ入れるだけの人間にしない。
調理へ参加させる。
食材の確認から、麺の茹で上げ、盛りつけまでを一緒に行う。
それでも完全ではない。
目を盗んで毒を入れる可能性は残る。
だが王宮の監視役と毒見役が、調理の全工程へ関われば、完成後に半刻待つ必要を減らせるかもしれない。
「悪くない」
「本当?」
「ああ。ただし、毒見役へ麺上げまで教える時間が要る」
「では、王都へ行くまでに、誰へでも教えられる手順を作りましょう」
リーゼが言った。
「蓮司の感覚だけに頼らず、湯の量、麺の量、茹で時間、火力を記録する。王宮の毒見役が、短い訓練で同じ作業を行えるようにします」
「同じ味にはならない」
「最初から蓮司と同じにはなりません。ですが、毒見役が作業へ加われば、その人は先に毒を食べる犠牲ではなく、料理を完成させる一人になります」
「気持ちの問題か」
「大切でしょう」
「味には――」
「関係あります」
リーゼは断言した。
「国王陛下が、毒見役へ自分の代わりに危険を負わせていると感じて食事を楽しめないのであれば、毒見役が自分の意思で料理へ参加し、同じものを一緒に作ったと分かることは、味を感じるためにも必要です」
「食べる前の気分で、味は変わるからな」
「蓮司も認めるのですね」
「前の店でも、喧嘩をして来た客は、いつもより塩辛く感じたと言うことがあった。疲れている客は、濃い味を旨いと言う。気持ちと身体を完全には分けられない」
「なら、国王陛下が安心して食べられる方法も、料理の一部です」
蓮司は頷いた。
「手順を作る」
「私が書きます」
「ミーナは?」
「毒見役へ教える練習をする」
「なぜ、お前が教える」
「店主より優しく教えられる」
「自信があるな」
「失敗したばかりだから、何が分からないか分かるもの」
それは、蓮司にはない強みだった。
何年も当たり前に行ってきた作業ほど、初心者がどこで止まるか分からない。
「では、毒見役役をやれ」
「役って?」
「俺が、王宮で作る麺を説明する。お前は、分からないところを全部聞け。分かったふりをするな」
「簡単ね。店主の説明、だいたい分かりにくいもの」
「そこまで言うか」
「今日は店員じゃなくて、毒見役だから遠慮しない」
ミーナは胸を張った。
「では、まず陽麦粉一人前へ、塩水を――」
「一人前って、どのくらい?」
「この木椀、一杯だ」
「椀が変わったら?」
「同じ椀を使う」
「王宮に、この椀を持っていくの?」
「持っていく」
「割れたら?」
「予備を作る」
「同じ大きさにできる?」
「職人へ頼む」
「最初から秤を使ったほうがよくない?」
いきなり核心を突かれた。
「秤は、まだ店にない」
「王宮にはあるのでは?」
リーゼが言う。
「王国最高の設備だと、セドリックさんが言っていました」
「王宮の秤が正確か、俺が確認する」
「何でも疑いますね」
「道具の差で味が変わる」
「では、王都へ行く前に基準となる重さを作りましょう。硬貨は、王国全土で同じ重さに調整されています。銀貨十枚分を基準にすれば、どの秤でも確認できます」
「リーゼ」
「何です」
「役に立つな」
不意に言われ、リーゼが瞬きをした。
「もう一度、言っていただけますか」
「聞こえただろ」
「褒める練習です」
「役に立つ」
「もう少し」
「かなり助かってる」
「はい。それで十分です」
リーゼは満足したように、手順書へ書き始めた。
◇
昼の鐘が鳴る前、《異世界麺処・蓮》の六席は埋まっていた。
今日の営業を担当するのは、リーゼとミーナ。
蓮司は白線の右側で、王宮用の手順を考える。
店の料理へは手を出さない。
約束だった。
「一杯目、麺を入れます」
リーゼが声を出す。
「湯の温度は?」
蓮司は反射的に尋ねた。
「蓮司」
「確認だ」
「こちらの鍋を見ない約束です」
「音だけで、沸騰が少し弱いと分かった」
「薪を一本足しました」
ミーナが答える。
「店主は、自分の仕事をして」
「分かってる」
「もう三回、こちらへ話しかけています」
「客へ出す前だからだ」
「客へ危険があると判断しましたか」
「そこまでではない」
「では、黙ってください」
自分の店で黙れと言われる日が来るとは思わなかった。
客席にいたオルドが、面白そうに笑っている。
「店主、今日はずいぶん肩身が狭いな」
「店員が偉くなりすぎた」
「育てたのは、あんただろ」
「まだ三日だ」
「三日で店主を黙らせるなら、大したもんだ」
「黙って食え」
「まだ出てねえよ」
オルドの前へ、最初の一杯が置かれた。
毒牙鼠の塩ラーメン。
見た目は蓮司のものと似ている。
だがスープの表面には、黒く焦がした清流葱の油が僅かに浮いていた。
「これは何だ」
蓮司が思わず尋ねる。
「焦がし葱です」
ミーナが答えた。
「清流葱の端が余ったから、岩鎧猪の脂で焼いた」
「昨日、そんなものは教えてない」
「捨てるのがもったいなかった」
「焦がしすぎれば苦くなる」
「味見した」
「誰が」
「二人で」
蓮司はリーゼを見る。
「苦みはありますが、スープの甘みと合う範囲だと判断しました」
「客へ出す前に、俺へ――」
言いかけて、止まった。
俺へ確認しろ。
それでは結局、すべての最終判断を自分が持つことになる。
「材料は安全か」
「はい。使用量も記録しました」
「客へ、俺のラーメンとは味が違うと説明したか」
「入口の品書きへ、“本日はミーナとリーゼの焦がし葱塩ラーメン”と書いてあります」
「なら、出せ」
「もう出しています」
オルドが、スープを飲んだ。
蓮司は見ないつもりだった。
しかし気になる。
王宮用の書類へ目を落としても、客が木匙を動かす音が耳へ入る。
「どうだ」
結局、聞いた。
「店主は、今日は作ってないんだろ」
「店の料理として聞いてる」
「少し苦い」
ミーナの耳が下がった。
「やっぱり?」
「だが嫌な苦さじゃない。昨日の塩ラーメンより、鉱山帰りにはこっちのほうがいいな。焦げた匂いが、焚き火の飯みたいで落ち着く」
「本当?」
「ああ。ただ肉は、もう少し厚いほうがいい」
「それは、材料費が増えます」
リーゼがすぐに答える。
「肉増しを頼んでください」
「店主より商売人だな」
「店を続けるには必要です」
オルドは笑い、麺を食べ始めた。
ほかの客も器へ顔を近づける。
「こっちのほうが香りが強いな」
「店主のは、もっと澄んだ味だった」
「俺は今日のも好きだ」
「少し苦いから、子供にはどうだろう」
意見は分かれた。
全員が蓮司の味より旨いと言ったわけではない。
逆に、全員が劣るとも言わなかった。
別の一杯として食べている。
「店主」
ミーナが、空いた器を片づけながら尋ねた。
「怒らないの?」
「何にだ」
「勝手に焦がし葱を入れたこと」
「安全を確認し、客へ説明したなら、怒る理由はない」
「味が違う」
「違うな」
「店主のより、不味い?」
蓮司は答える前に、自分用として残されていた小さな器を取った。
「食ってから言う」
「食べるの?」
「客としてな」
「銅貨六枚」
ミーナが手を出した。
「店主からも取るのか」
「店の売上でしょう」
「まかないではないのか」
「今日は試食する客なんでしょう」
「細かいな」
「誰に似たと思ってるの」
蓮司は革袋から銅貨六枚を出した。
リーゼが驚く。
「本当に払うのですか」
「客として食うならな」
六枚を板の上へ置く。
ミーナは嬉しそうに銅貨を数え、帳簿の横へ置いた。
「焦がし葱塩ラーメン、一杯」
リーゼが作る。
ミーナが焦がし葱油を加える。
二人の動きは、まだ遅い。
一つの器を完成させるまで、蓮司なら半分ほどの時間で済む。
それでも、手を出さなかった。
器が置かれる。
「お待たせしました」
蓮司はスープを飲んだ。
焦がし葱の苦みが最初に来る。
少し強い。
だが白角鹿の骨が持つ甘さと、毒牙鼠の淡泊な肉に、香ばしさが加わっている。
香味油の温度が低かったため、香りが少し重い。
麺の茹で加減は悪くない。
肉は切り方に差がある。
「葱を、あと半息早く火から外せ」
蓮司は言った。
「やっぱり焦げすぎ?」
「少しな。油へ移す温度も高い。今のままでは、後半の客ほど苦くなる」
「では、次は弱火で?」
「最初だけ強火。色がついたら火から離して、余熱で油へ香りを移す」
「分かった」
「麺は悪くない。少し太さが違うが、茹で上がりは合ってる」
リーゼが緊張した表情を緩める。
「肉は、切る方向が一枚だけ逆だ。筋へ沿って切ってるから、硬い」
「どれです?」
「俺が食った」
「確認できませんね」
「次の肉を見れば分かる」
「ほかには?」
「スープの塩気は、俺より薄い」
「薄すぎますか」
「焦がし葱を使うなら、このくらいでいい。塩を増やせば苦みまで強くなる」
ミーナが、じっと蓮司を見る。
「美味しい?」
「改善するところはある」
「それは聞いた」
「旨い」
「店主のラーメンより?」
「比べる必要はない」
「逃げた」
「俺が作るなら、違う味にする。だがこれは、お前たちの一杯として旨い」
ミーナの顔が、ゆっくり笑顔へ変わった。
リーゼも、力を抜くように息を吐く。
「ありがとうございます」
「客から金を取ったんだ。礼より、次も同じ味を出せ」
「はい、店主」
初めて、自分の店で、自分以外の人間が作ったラーメンを客として食べた。
少し苦い。
麺も不揃い。
直すところは多い。
それでも、店は自分が鍋へ触れなくても動いた。
安心した。
同時に、胸の奥が少し寂しかった。
その両方がある。
「どんな顔をしているのですか」
リーゼが尋ねた。
「分からない」
「嬉しいのですか」
「ああ」
「寂しい?」
ミーナが続ける。
「少しな」
「面倒ね、店主」
「人間だからな」
「今までなら、“料理人だから”って言ってたのに」
「料理人の前に、人間だったらしい」
オルドが隣の席から笑った。
「死んでから気づくことが多すぎるな、あんた」
「うるさい。麺が伸びるぞ」
◇
営業を終えたあと、三人は王宮用の試作へ戻った。
まず試したのは、火竜脂を薄く塗った蓋付きの器。
白角鹿の角を削った内器へ熱いスープを入れ、火竜脂を練り込んだ外器で包む。
半刻後。
スープの温度は、普通の器より高く保たれていた。
しかし麺は完全に伸びている。
「温かいけど、不味い」
ミーナが一口食べ、顔をしかめる。
「麺が、濡れた布みたい」
「食べ物へ、そういう例えを使わないでください」
リーゼも試食する。
「確かに、これは出せませんね。温度だけ保てても、麺は戻せない」
「次だ」
二つ目は、麺へ火竜脂を僅かに練り込んだ。
麺自体が熱を保てば、スープを吸う速度も変わる可能性を考えた。
結果、麺は熱を持ちすぎ、茹で湯へ入れた瞬間に表面が崩れた。
「失敗」
ミーナが言う。
「見れば分かる」
「店主も失敗するのね」
「何度もしてる」
「でも、失敗するとき、少し楽しそう」
「うまくいかない理由が分かれば、次へ進める」
三つ目は、茹でた麺を白角鹿の冷気で一度締め、表面へ薄い油膜を作ってから、温かいスープへ入れる方法。
半刻後。
麺の中心は残った。
だが油膜のせいで、スープの味が麺へなじまない。
「食べられますが、別々に口へ入ってくる感じがします」
リーゼが言った。
「スープはスープ、麺は麺ですね」
「駄目だ」
「これも?」
「ラーメンは、麺へスープが絡んで一つになる。吸わないようにするだけでは意味がない」
四つ目。
麺を短くし、吸う水分量を減らす。
失敗。
五つ目。
麺を太くし、中心へ硬さを残す。
半刻後にも食感は残ったが、外側がふやけ、中心だけ硬い。
六つ目。
団子状にして、食べる直前にほぐす。
「もうラーメンではない」
蓮司自身が却下した。
作業台へ、失敗した器が並ぶ。
ミーナは四つ目の麺をまかないとして食べながら、頬を膨らませていた。
「全部失敗?」
「今のところな」
「王様には、ラーメンを出せない?」
「この方法では出せない」
「やめるの?」
「やめない」
「でも半刻置いたら、絶対伸びるんでしょう」
「ああ」
「だったら、置かなければいいじゃない」
「だから毒見制度を――」
「制度を変える前に、毒見を終わらせれば?」
ミーナが言った。
「何を言ってる」
「王都へ行く前に、王様の分を毒見するの」
「四日後に食う料理を、今から?」
「違う。材料を全部、ここで食べる。麺の粉も、塩も、骨も、脂も。毒がないって確認して、王宮では、毒見役と一緒に作るだけ」
「王宮へ着いたあと、誰かが毒を入れる可能性は残る」
「だから毒見役が、ずっと一緒にいる」
「厨房へ食材を持ち込む前から?」
「王様の人を、ラグナまで来させる」
三人が黙った。
毒見役を、完成した料理の前だけへ置くから、半刻待つ必要が生まれる。
食材の仕入れ、運搬、保存、調理。
最初から最後まで毒見役が同行し、自分の目と手で安全を確認すれば、完成後に待つ時間を短くできる可能性がある。
だが、それには王室の毒見役を、今後ずっと蓮司たちへ同行させなければならない。
「一杯のために、王宮の人間を八日前から拘束するのか」
リーゼが考え込む。
「国王陛下の食事です。必要と判断されれば、あり得ない話ではありません」
「今いる近衛騎士か、セドリックにやらせる?」
ミーナが尋ねる。
「近衛騎士は、食材の状態が分からない」
「教えればいい」
「今から王都へ呼び戻した使者を、また戻せと?」
「伝令魔術で頼めば」
「間に合わない」
蓮司は失敗した麺を見た。
完成したラーメンを半刻置いて旨く保つ。
その方法へ固執していた。
だが、そもそも完成後に待つ必要をなくせばいい。
「毒見役を連れてくるのではなく、俺たちが毒見役になる」
「蓮司たちが先に食べ、半刻待つのですか」
「国王の前で作る料理と同じ材料を使い、同じ調理場で、先に一杯作る。それを俺たちと王宮の毒見役が食う」
「それから半刻待ち、二杯目を国王陛下へ作る?」
「ああ」
「国王陛下の分は作りたてですね」
「ただし、一杯目と二杯目が同じだと証明する必要がある」
「材料を、一杯目と二杯目で分けず、同じ鍋から使う」
リーゼが続ける。
「スープは一つの寸胴。タレも一つの壺。麺生地も一つ。毒見のあと、誰も食材へ触れないよう封印し、半刻後に同じものから国王陛下の一杯を作る」
「その間にスープは変わる」
「火を止めますか」
「止めれば温度が落ちる。煮続ければ煮詰まる」
「なら、《寸胴収納》へ入れる?」
ミーナが言った。
蓮司は眉を寄せた。
「能力へ頼りすぎたくない」
「でも店主にしかできない料理を、王様は食べたいんでしょう」
「俺が死んだら、二度と作れない仕組みになる」
「一回目は、それでもよいのではありませんか」
リーゼが言った。
「国王陛下の体調を確認し、何を食べられるか知るための最初の一杯です。今後も継続する必要があるなら、そのとき再現可能な方法を考える」
「最初から完成した仕組みを作ろうとするな、ということか」
「蓮司は、一杯を完成させる前に、店の将来すべてを決めようとしすぎます」
「将来を考えなければ、続かない」
「しかし、最初の一杯を出せなければ、続ける必要があるかどうかも分かりません」
そのとおりだった。
国王の身体を、まだ見ていない。
味覚があるか。
食欲不振が身体の病気か、心の問題か、魔力の異常か。
何も分からない。
それなのに継続的な治療食まで考えようとしている。
「一杯目を毒見用に作る。同じ鍋と材料を《寸胴収納》へ保存し、半刻後、国王の目の前で二杯目を作る」
蓮司は言った。
「今のところ、それが一番ましだ」
「王宮が能力の使用を認めるでしょうか」
「中を検査できないから嫌がるだろうな」
「では、また揉めますね」
「ああ」
「王都へ着く前から、気が重くなってきました」
「王室の使者も、同じことを思ってる」
ミーナは伸びた麺をすすりながら、首を傾げた。
「でも、王様に会って身体を見てから、違う料理にするかもしれないんでしょう?」
「ああ」
「だったら、どうしてラーメンの保存方法ばっかり考えてるの?」
「注文がラーメンだからだ」
「店主、真面目すぎて馬鹿になることがあるよね」
「何だと」
「食べられない人へ、注文どおり出しても食べられないでしょう。王様が脂を受けつけないなら、火竜味噌は駄目。麺を噛む力がなければ、太麺も駄目。最初に会って、話を聞かないと」
リーゼが小さく笑った。
「ミーナの言うとおりですね」
「分かってる」
「では、今夜はもう試作をやめましょう」
「なぜ、そうなる」
「現時点で必要なのは、国王陛下の身体と好みを確認する質問表。それから、王宮へ持っていく最低限の道具です」
「道具は最低限では足りない」
「持てる量には限界があります」
「王室の馬車だろ」
「だからといって、厨房を丸ごと運べません」
蓮司は作業台と炉、寸胴、麺台、包丁、食材棚を見回した。
王都の設備を信用できない。
だが、この店の設備をすべて持っていくこともできない。
「運べる厨房を作ればいい」
蓮司が呟く。
「はい?」
「馬車へ炉と麺台を積む。寸胴を固定し、食材も保存する。王宮へ着くまでに試作できるし、途中で必要なら料理も作れる」
「旅立ちまで、あと四日ですよ」
「ドルガンなら作れる」
「無茶を言って、怒鳴られる未来しか見えません」
「金は払う」
「お金だけでは、時間は増えません」
「火竜の素材がある」
「職人へ珍しい素材を見せれば、無理を聞いてもらえると思わないでください」
「聞くかどうかは、ドルガンが決める」
「今から行くの?」
ミーナが尋ねる。
「営業は終わった」
「夕方だよ」
「鍛冶屋は、まだ火を落としてない」
「今日は休むって、昨日約束したでしょう」
「一刻半休んだ」
「それは昨日!」
「今日も夜に休む」
「夜まで働くつもりでしょう!」
ミーナが蓮司の上着を掴む。
リーゼも出口の前へ立った。
「今からドルガンさんの工房へ行くことには反対しません。ただし、相談だけです。設計を始めても、夜中まで工房へ残らない。帰ったら食事をして眠る」
「時間がない」
「だからこそ、疲れた頭で必要な道具を選ばないでください。今の蓮司へ任せれば、使う可能性があるものを全部積もうとします」
「必要なものだけ選ぶ」
「青酔茸まで、王都へ持っていこうとしていた人が?」
「使える可能性がある」
「床から生えていた茸です!」
「乾燥すれば香りが――」
「持っていきません」
「決めるのは俺だ」
「三人で決めると約束しました」
「では多数決にするか」
「私とミーナが反対です」
「まだ聞いてないだろ」
「あたしも青い茸はいらない」
「二対一です」
「多数決が正しいとは限らない」
「自分から提案したのに!」
言い争いながらも、三人は閉店の片づけを終え、工房へ向かう準備を始めた。
国王の病気を、料理だけで治せるとは限らない。
むしろ、治せない可能性のほうが高い。
それでも、温かいものを温かいうちに食べる。
誰かと同じ食卓へ座り、旨い、不味いと遠慮なく口にする。
長く失われていたものを、一度だけでも取り戻すことはできるかもしれない。
「王様に、何を作るの」
ミーナが聞いた。
「まだ分からない」
「火竜味噌じゃないの?」
「身体を見てから決める」
「ラーメンは?」
「作る」
「どんな?」
「それを考えるため、厨房ごと王都へ運ぶ」
リーゼが深く溜息をついた。
「最初は、料理人一人と小さな荷物だけを王都へ招く予定だった王室が、厨房馬車まで連れてこられると知ったら、どのような顔をするでしょうね」
「必要なものなら仕方ない」
「王室側から見れば、蓮司が最も余計な荷物かもしれません」
「俺が行かなければ、料理を作れない」
「その一点だけで許されていることを、忘れないでください」
国王は、二十七年間、作りたての料理を食べていない。
ならば蓮司が最初に作るべきものは、病気を治す奇跡の薬ではない。
湯気が消える前に、客の前へ一杯を置くための厨房だった。
「ドルガンへ行くぞ」
「相談だけです」
「分かってる」
「荷物の一覧は、三人で作ります」
「分かってる」
「夜中まで働きません」
「それは、ドルガン次第だ」
「蓮司!」
古い作業小屋から、三人の声が夕暮れの通りへ響いた。
王都へ運ぶ鍋を巡る、次の喧嘩が始まっていた。




