第12話 火竜味噌ラーメン
火竜を仕留めた日の夜、《異世界麺処・蓮》の厨房には、普段とは異なる匂いが満ちていた。
鉄を熱したときに似た乾いた香り。
獣脂の甘さ。
焦げた薪や火山岩を思わせる、鼻の奥へ残る熱。
それらが火豆味噌の強い発酵香と重なり合い、小さな石造りの作業小屋は、料理店というよりも、何か危険な錬金術を行う工房のようになっている。
「熱い!」
ミーナが短い悲鳴を上げ、木匙を鍋へ落とした。
「触るなと言っただろ」
「触ってないわよ! 混ぜてただけなのに、脂が跳ねたの!」
「火竜の脂には、火の魔力が残っている。普通の脂と同じつもりで扱うな」
「それを先に、もっと大きな声で言って!」
「三回言った」
「三回とも、店主が難しい説明を長々としてる途中だったから、どこが大事なのか分からなかったの!」
「全部大事だ」
「そういうところ!」
ミーナは涙目になりながら、火傷をしていないか自分の手を確かめた。
幸い、脂は手袋の表面へ一滴ついただけで、皮膚には届いていない。
それでも革手袋には小さな焦げ跡が残っていた。
「本番で客へ跳ねたら、大変ですね」
リーゼが鍋を覗き込みながら言った。
「提供する前に、脂へ残る火の魔力を安定させる必要があります。今のままでは味以前の問題です」
「分かってる」
「その返事を、先ほどから何度聞いたでしょう」
「回数を数える暇があるなら、麺を見ろ。乾き始めてる」
「蓮司」
「何だ」
「私たちは、店へ戻ってから一度も座っていません」
「座ったら、料理勝負へ間に合わない」
「そう言うと思いましたので、先ほどガルド支部長と約束してきました」
「何を」
「夜中の鐘が鳴ったら、三人とも一刻休むことです。守らない場合は、冒険者ギルドの職員が厨房から蓮司を運び出します」
「俺の店だぞ」
「ギルドから借りている建物です」
「ガルドに、そんな権限はない」
「建物の貸し主として、火災や過労死を防ぐ権限はあるそうです」
「過労死まで契約へ入ってるのか」
「先ほど追加しました」
蓮司は包丁を止め、リーゼを見た。
「勝手に契約を変えるな」
「店主が勝手に死なないようにするためです」
「死なない」
「それは昨日、約束できないと認めたでしょう」
リーゼは少しも目を逸らさなかった。
隣ではミーナが、大きく何度も頷いている。
「店主が休まないなら、あたしも休まないからね」
「お前は寝ろ」
「嫌」
「子供は睡眠が必要だ」
「大人は必要じゃないの?」
「必要だ」
「だったら店主も寝て」
二人の言い分は正しかった。
正しいからこそ、腹が立つ。
だが、腹が立つことと、聞かなくてよいことは別だと、昨日ようやく認めたばかりだった。
「一刻だけだ」
「一刻半です」
リーゼが訂正する。
「増やすな」
「蓮司は、休憩時間を短く申告する傾向があります。最初から少し長く設定します」
「一刻」
「一刻半」
「間を取って、一刻と四半刻」
「その細かい交渉は何なのですか」
「店主とリーゼ、昨日からずっと同じ話してる」
ミーナが呆れた声を出した。
「一刻半休めばいいでしょう。起こすのは、あたしがやるから」
「お前も寝るんだ」
「順番に寝ればいいじゃない」
「三人で一緒に休みます」
リーゼが言った。
「誰か一人が起きていれば、結局その人が仕事を始めますから」
視線が蓮司へ集まる。
「なぜ俺を見る」
「心当たりがないのですか」
「……分かった。一刻半だ」
蓮司が折れると、ミーナが得意そうに尻尾を立てた。
「店主に休ませる仕事も、ずいぶん上手になったでしょう」
「料理より上達が早いな」
「褒めてる?」
「半分は」
「残りは?」
「人へ命令することだけ、覚えるのが早すぎる」
「店主に似たのよ」
「一緒にするな」
言い返しながらも、蓮司は炉の火を弱めた。
◇
火竜の解体で、食用にできる部位は予想より少なかった。
焔蛭の毒と、崩壊した竜核から漏れた魔力が回った部分は、色も臭いも悪く、すべて切り分けて処分した。
特に胸と首の一部は、料理へ使える状態ではなかった。
その一方で、腹部から背中にかけての脂と、後脚の肉、肋骨の一部は、冷泉草の水で温度を調整しながら血抜きをしたことで、良好な状態を保っていた。
火竜の脂は、常温でも溶けない。
赤みを帯びた半透明の塊で、指先を近づけるだけで微かな熱を感じる。
そのまま火へかければ、一気に燃え上がった。
水を加えれば、激しく弾けた。
弱火で少量ずつ溶かし、冷泉草の汁を染み込ませた布で濾過しても、火の魔力は完全には消えない。
「消す必要はない」
蓮司は三度目の精製を終えた脂を見ながら言った。
「火竜の脂から、火の性質を全部抜けば、ただの癖の強い脂になる。問題は消すことではなく、暴れないようにすることだ」
「どうするの?」
ミーナが少し離れた場所から尋ねる。
一度脂が跳ねてから、鍋へ近づこうとしない。
「火豆味噌と合わせる」
「味噌にも、火の魔力があります」
リーゼが指摘する。
「強いもの同士を合わせれば、余計に暴れるのでは?」
「同じ火でも性質が違う。火竜の脂は、外へ広がろうとする熱だ。火豆味噌は、発酵の中へ熱を閉じ込めている」
「それを合わせれば?」
「うまくいけば、味噌が脂の魔力を抱え込む。失敗すれば鍋が燃える」
「最後の一言を、そんな平然と言わないでください」
「だから少量ずつ試す」
蓮司は小さな鉄鍋へ、精製した火竜脂を一匙だけ入れた。
弱火で溶かす。
赤い光が、液体の中で揺れる。
そこへリーゼとミーナが選んだ、酸味のある味噌ダレを少量加える。
じゅ、と音がした。
三人が一斉に身を引く。
しかし燃え上がらない。
脂の赤い光が味噌へ混じり、激しく動いていた魔力が、次第に小さくなる。
「入った」
蓮司が呟く。
「何が?」
「火が味噌の中へ入った」
「言い方が、ほとんど錬金術師です」
「料理だ」
木匙で混ぜる。
味を見る。
舌へ載せた瞬間、塩気と発酵香が広がり、そのあとから強い熱が追いかけてきた。
辛いのではない。
熱い。
だが火傷するような熱ではなく、冷えた身体の内側へ炭を一つ入れられたような、長く残る温かさだった。
火竜脂の獣臭さは、火豆味噌に負けている。
赤実の酸味が、後味の重さを切る。
「悪くない」
「美味しいではなく?」
リーゼが尋ねる。
「まだ脂が強い。スープへ入れたとき、麺と具まで全部同じ味になる可能性がある」
「なら脂を減らす?」
ミーナが言う。
「減らす方法もある。だが、この料理の中心は火竜だ。減らしすぎれば、火竜を使う意味がなくなる」
「ではスープを強くするのですか」
「骨を使う」
火竜の肋骨。
それだけでは、魔力と焦げた香りが強すぎる。
そこで白角鹿の骨を合わせる。
白角鹿の澄んだ甘みと、冷気を含む魔力。
火竜の強い熱と、荒々しい旨味。
反対の性質を持つ二つの骨を、同じ寸胴で煮る。
「喧嘩しない?」
ミーナが不安そうに尋ねた。
「する」
「するの?」
「最初はな。その喧嘩を、どこで止めるかを見る」
「味も、人間も同じですね」
リーゼが言った。
「私と蓮司のようです」
「どちらが火竜だ」
「蓮司でしょう」
「どう考えてもリーゼでしょ」
ミーナが口を挟む。
「怒ると怖いし、尻尾もあるもの」
「ミーナ」
「何?」
「味噌ダレの壺を見ていてください」
「話を逸らした」
「仕事です」
「耳、赤くなってる」
「火のそばにいるからです!」
騒がしい。
だが、その声を聞きながら作るスープは、前世で一人きりで仕込んでいた深夜の寸胴より、どこか安定しているように見えた。
火竜骨の泡立ちが強くなれば、リーゼが火を弱める。
白角鹿の香りが消えそうになれば、ミーナが先に気づく。
蓮司は全体を見て、何を足し、何を引くか決める。
「店主」
ミーナが鍋を覗き込んだ。
「さっきより、甘い匂いが減った」
「火竜の脂が浮き始めたな。灰汁と一緒に取りすぎるな。赤い粒だけを残せ」
「どれが脂で、どれが灰汁か分かりにくい」
「動きを見ろ。灰汁は表面へ固まり、脂は光って広がる」
「これ?」
「それは脂だ」
「これは?」
「灰汁」
「難しい!」
「最初から簡単なら、誰でもできる」
「それ、店主が人へ任せたくないときに使ってた言葉でしょう」
蓮司の手が止まった。
「……そうだな」
「じゃあ、もう一度教えて」
「ああ」
蓮司は木匙を取り上げなかった。
ミーナの手を横から支え、表面へ浮かぶものの違いを一つずつ説明した。
◇
中央広場には、朝から人が集まっていた。
商業ギルドが設けた料理台は二つ。
一方には《異世界麺処・蓮》。
もう一方には、王都の料理学校を示す金色の旗が立っている。
その旗の下で準備をしていたのは、三十五歳ほどの長身の男だった。
金色に近い茶髪を後ろへ撫でつけ、白い料理服には汚れ一つない。包丁、鍋、匙、香辛料入れが、寸分違わず整然と並べられている。
「彼がアルバート・グランシェフです」
リーゼが小声で説明した。
「王都の宮廷厨房で副料理長を務め、現在は各地の料理人を指導しているそうです。貴族向けの宴席料理では、王国でも五本の指に入ると言われています」
「五本の指か」
「緊張しませんか」
「指が何本でも、料理を作る手は二本だろ」
「そういう意味ではありません」
「分かってる」
アルバートは蓮司たちへ気づくと、手を拭き、真っ直ぐ歩いてきた。
ベルトランとは違い、相手を見下すような笑みはない。
ただし、視線は厳しかった。
「あなたが神谷蓮司か」
「ああ」
「アルバート・グランシェフだ。今回、商業ギルドから勝負料理の依頼を受けた」
「ベルトランの部下か」
「違う。報酬を受け、料理を作る。それだけだ」
「事情は聞いてるのか」
「聞いている。魔物肉の流通と、営業許可を巡る争いだそうだな」
「納得してるのか」
「私は料理人だ。商業規則を決める立場ではない。ただ、ベルトラン殿から、捨てられた魔物肉を使う料理人の未熟さを、料理で証明してほしいと頼まれた」
「それで受けた?」
「捨てられた材料であろうと、料理の価値は作り手が決める。食べる前から未熟だと断じる依頼には、正直なところ、あまり気が進まなかった」
少し離れた場所にいるベルトランの表情が、僅かに険しくなる。
「それでも受けた理由は」
「君の料理を食べてみたかった」
アルバートは真顔で答えた。
「白角鹿、毒牙鼠、岩鎧猪。これまで食材と見なされなかったものを、客が金を払う料理へ変えた。料理人であれば、興味を持つのが普通だろう」
「食ってから勝負を決める気か」
「勝負の前には食べない。公平ではないからな」
「堅い男だな」
「君には言われたくない」
初対面のはずなのに、アルバートは即座に言い返した。
蓮司は少しだけ口元を緩めた。
「何を作る」
「金冠牛の腿肉を赤葡萄酒と香草で煮込み、陽麦と卵で作る薄焼きパンへ包む。付け合わせは根菜の乳煮だ」
「旨そうだな」
「……素直に言うのだな」
「料理に罪はない」
「ベルトラン殿から、君は相手を怒らせる言葉しか使えないと聞いていた」
「相手による」
「私へは?」
「まだ分からない」
「そうか。では、料理のあとで聞こう」
アルバートは自分の料理台へ戻っていった。
「嫌な人ではなさそうですね」
リーゼが言う。
「ああ。だから厄介だ」
「悪人でなければ勝ちづらいのですか」
「相手が不味いものを作るなら、勝って当然だ。旨い料理を作る相手へ勝つほうが難しい」
「ですが、蓮司は嬉しそうです」
「料理人だからな」
審査員は十人。
貴族代表二名。
商人代表二名。
冒険者代表二名。
鉱夫代表二名。
貧民街代表二名。
料理を作った者の名前は伏せられ、同じ白い器へ盛りつけられる。
最初の審査は味。
次に原価、安全性、継続性。
両方を合わせ、勝敗を決める。
「始め!」
鐘が鳴った。
◇
アルバートの動きは速かった。
速いが、乱れがない。
金冠牛の肉へ均等に焼き色をつけ、赤葡萄酒を加えた瞬間、炎を上げて余計な酒気だけを飛ばす。香辛料を入れる順番にも迷いがなく、卵を混ぜた陽麦生地は、同じ厚さへ次々と延ばされていく。
「綺麗」
ミーナが見惚れるように呟いた。
「見てる暇があるなら、器を温めろ」
「少しくらい見てもいいでしょう」
「相手の技術を見るのも勉強です」
リーゼがミーナを擁護した。
「では、手を動かしながら見ろ」
「無茶を言う」
蓮司たちも仕上げへ入る。
火竜と白角鹿の合わせスープ。
火豆味噌、甘根菜、赤実を使った味噌ダレ。
精製した火竜背脂。
太めに切った陽麦麺。
具には火竜の後脚肉を使う。
火竜肉は、そのまま焼けば硬い。
前夜から、冷泉草の汁と白角鹿のスープへ漬け、低い温度で長時間煮た。
最後に味噌ダレを塗り、表面だけを炙る。
「火竜脂、入ります」
リーゼが声を出す。
「一杯へ半匙。多くするな」
「分かっています」
「器ごとに赤い石を置け」
「普通味しかないのに?」
ミーナが尋ねる。
「数を間違えないためだ。火竜脂の入っていない器を出せば、料理が変わる」
「十杯全部に入れるんでしょう」
「だから十個の石を、入れ終わったら外す」
「面倒」
「間違えるよりいい」
ミーナは文句を言いながら、器の横へ石を置いた。
麺が茹で上がる。
リーゼが湯切りをする。
以前より力の抜けた、滑らかな動きだった。
「蓮司」
「何だ」
「麺を上げます」
「一本食え」
「もう食べました。少し硬めですが、器でスープを吸えばちょうどよくなります」
「なら上げろ」
蓮司は横から手を出さなかった。
ミーナも、指示を待たず、順番どおり器を並べていく。
味噌ダレ。
スープ。
麺。
火竜肉。
清流葱。
最後に赤い火竜背脂を載せる。
背脂はスープの表面でゆっくり溶け、赤い光を細い筋のように広げた。
立ち上る香りは強い。
味噌の深さ。
火竜脂の甘さ。
白角鹿の澄んだ香り。
炙った肉の焦げ。
それらが一つにまとまりながら、湯気の中に僅かな火の粉を思わせる赤い光を含んでいる。
「火竜背脂の灼熱味噌ラーメン」
蓮司は呟いた。
「完成だ」
「完成したのは、三人で、です」
リーゼが言った。
「ああ」
「聞き返さないのですね」
「三人で作った」
ミーナの尻尾が、嬉しそうに動いた。
◇
最初にアルバートの料理が審査員へ運ばれた。
金冠牛の煮込みを包んだ薄焼きパンは、ナイフを入れると、中から濃い香りと肉汁をあふれさせた。
肉は柔らかい。
赤葡萄酒の酸味と甘み。
香草の複雑な香り。
付け合わせの根菜も滑らかで、煮込みの強い味を受け止める。
審査員たちの表情が変わった。
「これは見事だ」
貴族代表が感嘆する。
「肉の臭みが一切ない」
「パンへ包んであるから、鉱山へ持っていくこともできそうだな」
鉱夫代表も褒めた。
アルバートは喜ぶでもなく、黙って審査員の反応を見ている。
「強いな」
蓮司が言う。
「負ける?」
ミーナが不安そうに尋ねる。
「食わせる前に負けた顔をするな」
「でも、みんな美味しいって」
「実際、旨いだろう」
「相手を褒めて、どうするの」
「相手が旨いものを作ったからといって、こっちの味が変わるわけじゃない」
次にラーメンが運ばれる。
見慣れない料理。
赤い脂の浮く汁。
二股叉で持ち上げると長く伸びる麺。
審査員たちは、食べ方から迷った。
「器へ口をつけても構いません」
リーゼが説明する。
「最初にスープを一口。そのあと麺を食べてください。音を立てても、誰も笑いません」
貴族代表の一人が、眉を寄せた。
「食事中に音を立てるのか」
「麺をすすることで、香りと空気が一緒に口へ入り、味を強く感じられます。ただし、静かに食べたい方へ強制するものではありません」
最初の一口。
スープを含んだ審査員たちの肩が、揃って僅かに動いた。
強い味噌味。
その奥に、火竜の熱。
舌が焼けるのではなく、飲み込んだあと、腹の中から身体が温まる。
太い麺を噛めば、陽麦の甘みが出る。
スープを吸いながらも、麺そのものの味が消えていない。
火竜肉は、外側に香ばしい味噌の焦げを持ち、内側は柔らかい。
「辛いのではないな」
商人代表が呟いた。
「だが、汗が出る」
「これを冬の鉱山で食ったら、たまらんな」
鉱夫代表が麺をすすった。
最初は音を立てることへ抵抗していた貴族代表も、周囲を見て、恐る恐る麺を口へ運ぶ。
一本落とす。
眉を寄せる。
もう一度巻き直す。
「食べにくい」
「そこは改善点だ」
蓮司が即座に答える。
「審査中ですよ」
リーゼが小声で止めた。
「事実だ」
「黙っていてください」
貧民街代表として選ばれたのは、薪運びを手伝った狼獣人の老人と、幼い妹を背負ってきた少年だった。
少年は、火竜肉を見つめた。
「これ、あの竜の肉なの?」
「ああ」
「町を焼こうとした竜?」
「病気で苦しんでいた。町を襲おうとしていたことも、苦しんでいたことも、どちらも本当だ」
「怖くないの」
「料理人が怖がって出さなければ、客はもっと怖いだろ」
少年は肉を一口食べた。
しばらく噛み、飲み込む。
「美味しい」
「そうか」
「妹にも食べさせたい」
「年齢と身体の状態を見て、火竜脂は減らす必要がある。今日のままは出せない」
「じゃあ、店で作って」
「店が残ればな」
少年は器を抱えた。
「だったら、こっちに入れる」
「味で決めろ」
「味も、こっちが好きだよ」
審査員たちは、どちらの料理も食べ終えた。
味だけの投票。
十票のうち、アルバートの料理が四票。
蓮司たちのラーメンが六票。
僅差だった。
「味だけなら、悪くない勝負だ」
アルバートは結果を見て、穏やかに言った。
「悔しくないのか」
「悔しいに決まっている」
アルバートは蓮司を睨んだ。
「私の料理は完成していた。火加減も、肉の柔らかさも、香りの順序も、狙ったとおりだ。それでも六人が君の料理を選んだ。その理由を、帰るまでにすべて考える」
「なら、次はもっと強いな」
「君も、今の味のままでは勝てないぞ」
「分かってる」
「そういう相手に出会えたことだけは、ベルトラン殿へ感謝しよう」
ベルトランは、明らかに面白くなさそうな顔をした。
「まだ最終結果ではない。原価と安全性、継続性が残っている」
アルバートの料理は、一皿あたり銀貨に近い原価だった。
金冠牛。
赤葡萄酒。
香辛料。
卵。
乳製品。
どれも質がよく、その分、値段も高い。
対してラーメンは、火竜という希少素材を使用している。
単純に考えれば高価になる。
しかし火竜は討伐依頼の対象であり、牙、鱗、翼膜、魔石を売った収入によって、肉や骨の処理費を補える。
すべてのラーメンに火竜を使い続けられるわけではない。
だが、今回の料理を、通常の猪や鳥の脂へ置き換えることは可能だった。
「火竜は、今回限りの特別な一杯だ」
蓮司は審査員へ説明した。
「だが、骨と肉を正しく処理し、麺とスープへする方法は、ほかの魔物にも使える。毎日、火竜味噌ラーメンを出すとは言わない。毎日仕入れられる食材で、その日の一杯を作る」
「同じ料理を出さない店ということか」
商人代表が尋ねる。
「看板の塩ラーメンは残す。食材が安定すれば、同じ味を出す。だが魔物食材は、個体も季節も違う。無理に全部を同じ味へ押し込めれば、良い部分を殺す」
「客は、昨日と同じものを求めるのでは?」
「求める。だから同じものを出す努力はする。ただし、同じにできないことを隠さない。今日の鹿は脂が少ない。今週の鼠は香りが強い。客へ説明して、調整する」
「随分と手間がかかる商売だ」
「料理屋だからな」
安全性については、老薬師と冒険者ギルドの解体責任者が証言した。
焔蛭の毒が回った部分は廃棄。
竜核周辺も使用していない。
脂は冷泉草と火豆味噌で魔力を安定させ、事前の少量試食でも異常は出ていない。
「ただし」
老薬師が指を立てた。
「この料理は、誰でも真似してよいものではないよ。火竜脂の精製を間違えれば、鍋ごと燃える。処理者の認定と、調理場の耐火設備が必要だ」
「同意する」
蓮司は答えた。
ベルトランが眉を上げる。
「商業ギルドの管理を拒んでいたのではなかったか」
「独占と高値を拒んだ。安全管理は必要だ」
「その違いを、誰が決める」
「商業ギルドだけでも、俺だけでもない。冒険者ギルド、薬師、料理人で決める」
「面倒な仕組みになるぞ」
「命へ関わるものを、簡単な仕組みで済ませるな」
ベルトランは口を閉じた。
最終投票が行われる。
結果が読み上げられる直前だった。
中央広場の西側から、甲高い破裂音が響いた。
一度。
続いて、窓硝子が割れる音。
「火事だ!」
誰かが叫ぶ。
西通りにある染物工房の屋根から、黒煙が上がっていた。
火竜襲来の際、飛んできた火の粉が屋根裏の梁へ入り、表面だけ消えたように見えながら、内部で燻り続けていたのだろう。
朝の風で火が広がり、染料油を置く倉庫へ移った。
「中に人がいる!」
「二階で子供が働いている!」
広場にいた人々が一斉に動き出す。
ガルドが冒険者たちへ怒鳴った。
「水を運べ! 風下の建物を壊し、延焼を止める! 盾持ちは中へ入るな、染料油へ火が回れば爆発するぞ!」
「でも子供が!」
「何人いる!」
「三人! 裏の階段が燃えて下りられない!」
蓮司は火事を見た。
熱。
煙。
火竜との戦いを終えたばかりで、消火隊も疲れている。
そのとき、先ほどラーメンを食べた鉱夫代表が、不思議そうに腕を見た。
「熱くない」
「何がだ」
オルドが尋ねる。
「いや、熱いには熱い。でも昨日、鍛冶場で火へ近づいたときより、ずっと平気だ」
頭の奥へ、情報が浮かんだ。
《一杯入魂・発動》
火竜背脂の灼熱味噌ラーメン。
火炎耐性。
体温維持。
疲労軽減。
「ガルド!」
蓮司は叫んだ。
「ラーメンを食べた者に、火への耐性が出ている!」
「確かなのか!」
「能力に表示された。ただし無傷になるわけじゃない。炎へ直接入れば焼ける!」
「効果は、どの程度だ!」
「分からない!」
「肝心なところが分からんのか!」
「初めて作った料理だ!」
ガルドは一瞬だけ迷った。
「食った者で、救助へ入れる奴は!」
冒険者代表の二人、鉱夫代表の二人、オルド、そしてアルバートが前へ出た。
「アルバート、お前まで食べたのか」
ベルトランが驚く。
「料理人が、勝負相手の料理を食べずに帰れるか」
「審査が終わる前に?」
「提供が終わったあと、鍋の残りを一口もらった」
「勝手なことを!」
「今は、その勝手が役に立つ」
アルバートは上着を脱ぎ、水を被った。
「蓮司。効果があるなら、残ったスープを救助隊へ出せ」
「麺まで食べなければ発動しない可能性がある」
「なら麺を出せ」
「残りは、十五食程度だ」
「十分だ。全員を火へ入れる必要はない」
蓮司はリーゼとミーナを見た。
言葉を交わさなくても、二人は動いた。
「器を並べます!」
「麺、十五!」
「今から茹でて間に合うのか!」
ガルドが焦る。
「細麺なら早い」
「勝負用の太麺しかないでしょう」
リーゼが言う。
「切る」
蓮司は残った生麺を作業台へ置き、包丁を入れた。
太い麺を、半分の長さへ。
完全な一杯ではない。
見栄えも悪い。
だが今は、食べやすさと速さが必要だった。
「火竜肉は載せない。脂とスープ、麺だけだ」
「効果が弱くならない?」
ミーナが尋ねる。
「火炎耐性の中心は脂だ。火竜肉は旨味と栄養だが、今は食べる時間がない」
「料理人が、味を後回しにするのですね」
リーゼが言う。
「客の目的が違う。今は救助へ入るための一杯だ」
十五杯が並ぶ。
救助へ向かう者たちは、立ったまま麺を食べた。
「熱い!」
「熱いのを食えば火に強くなるって、何の冗談だ!」
「文句を言う暇があったら飲み込め!」
ガルドが怒鳴る。
「麺は噛め! 喉へ詰まらせたら、火へ入る前に死ぬぞ!」
「支部長が、ラーメンの食い方を指示してる!」
「笑うな!」
最後の一口を飲み込んだ者たちの身体へ、淡い赤い光がまとわりついた。
肌が燃えるのではない。
熱を外へ押し返す薄い膜のようなものが現れる。
「行くぞ!」
ガルドを先頭に、救助隊が工房へ向かった。
蓮司も続こうとする。
リーゼが腕を掴んだ。
「どこへ行くのです」
「中の状況を見て――」
「火を消す技術はありますか」
「ない」
「建物の構造は?」
「知らない」
「なら、厨房へ残ってください」
「だが」
「蓮司は一杯を作り、救助隊へ力を渡しました。次は、火を知る人たちの仕事です」
昨日までなら、振り切って向かったかもしれない。
自分も何かしなければならない。
自分だけ安全な場所へ残ることが許せない。
そう考えただろう。
だが、役割を分けると決めた。
「……分かった」
蓮司は残ったスープを確認した。
「追加が必要なら、あと五杯は出せる。水と冷泉草も準備する」
「はい」
三人は厨房へ残った。
火のそばへ行かないからといって、何もすることがないわけではない。
救助から戻った者へ飲ませる水。
火傷を冷やす布。
煙を吸った者へ出す、脂の少ない白角鹿のスープ。
次々に用意する。
やがて工房の二階窓から、子供が一人ずつ救い出された。
一人目。
二人目。
最後の一人は、アルバートが背負って出てきた。
髪の一部が焦げ、腕には火傷がある。
それでも子供は無事だった。
広場へ歓声が上がる。
「全員救出!」
ガルドの声が響いた。
火炎耐性があっても、救助隊は無傷ではない。
服は焼け、肌も赤くなり、煙を吸って咳き込んでいる。
だが通常なら近づけない熱の中を進み、子供たちを連れ出した。
「水を飲め」
蓮司は戻ってきたオルドへ水袋を渡した。
「一気に飲むな」
「この言い方、前にも誰かへしてたんだろ」
オルドが咳をしながら笑う。
「最初の客にな」
リーゼが答えた。
「言われなくても分かると反論して、一気に飲もうとしました」
「余計なことを言わないでください」
「自分で言っただろ」
「今は、そういう話ではありません!」
緊張が解けたのか、周囲から笑い声が漏れた。
火は、広場の建物へ燃え移る前に止められた。
◇
料理勝負の最終結果が発表されたのは、火事が収まり、負傷者の治療が始まったあとだった。
結果は、《異世界麺処・蓮》の勝利。
味で六対四。
原価と継続性で、蓮司側が優位。
安全性については条件付き。
魔物肉の処理は認定制とし、冒険者ギルド、薬師組合、商業ギルド、料理人の共同管理とする。
商業ギルドによる独占買い取りは認められない。
同時に、冒険者ギルドが処理前の魔物肉を、無制限に無料で引き渡すことも禁止される。
廃棄費用、処理費、素材価値を基に、透明な買い取り価格を設ける。
「完全に、お前の望みどおりではないぞ」
ベルトランが言った。
「無料で食材を受け取ることはできなくなる」
「構わない」
「昨日まで廃棄物だったものへ、金を払うことになる」
「冒険者が命を懸けて倒し、解体する人間が手間をかける。食材として価値があるなら、金を払うのは当然だ」
「では、なぜ私の提案を拒んだ」
「値段と仕組みを、お前一人で決めようとしたからだ」
「私一人ではない。商業ギルドだ」
「同じ立場の人間だけで決めるなら、一人と変わらない」
ベルトランは不機嫌そうに口を閉じた。
負けた。
それでも、すぐに自分が悪かったと認められるほど、人間は素直ではない。
「店の営業許可は」
蓮司が尋ねる。
「安全設備の改善を条件に、正式許可を出す」
「改善は何が必要だ」
「耐火炉。毒物処理用の作業台。食材と毒腺を別に保管する箱。客へ原材料を説明する掲示」
「金がかかるな」
「安全は無料ではない」
「それは認める」
蓮司が素直に答えると、ベルトランは意外そうな顔をした。
「言っておくが」
ベルトランは声を低くした。
「私は、貧しい者が嫌いなのではない」
「そうは見えなかった」
「貧しい者へ安い食事を与えるだけで、自分が正しいと思い込む者が嫌いなのだ。無償で食事を配り、喝采を浴び、金が尽きれば姿を消す。あとには、以前より大きな失望だけが残る」
ミーナの表情が僅かに動いた。
「過去に、何かあったのですか」
リーゼが尋ねる。
「話す必要はない」
「なら聞かない」
蓮司は答えた。
「ただ、俺も無料で配り続ける気はない。店員へ給料を払い、食材へ金を払い、客から代金を取る。払えない奴には仕事を頼む。全部うまくいくとは言わないが、途中で消えない方法を探す」
「理想論だ」
「だから店を続けて証明する」
「続かなければ?」
「お前が笑えばいい」
「……随分と腹の立つ男だな」
「よく言われる」
「その返事も腹が立つ」
ベルトランは踵を返した。
「明日、許可証を届ける。設備費用については、火災救助への貢献を理由に、町から一部補助が出るだろう」
「手を回したのか」
「町の会議へ、事実を報告しただけだ」
ベルトランは一度も振り返らなかった。
完全に和解したわけではない。
それでも、最初に店を閉めると言いに来たときとは、僅かに違っていた。
「次は負けない」
別の声がした。
アルバートだった。
救助の際に負った腕の火傷へ、包帯を巻いている。
「料理勝負の話か」
「当然だ。今回は君の料理が、審査員の求めるものへ合っていた。だが私の料理が劣っていたとは、今も思っていない」
「俺も、お前の料理は旨いと思った」
「ならば次は、味だけで決めよう」
「原価を無視するのか」
「……君は、なぜ勝負の誘いへ、すぐ現実的な話を持ち込む」
「店を続けるからだ」
「宮廷料理にも予算はある!」
「では、次は同じ予算で作る」
「よいだろう。受けて立つ」
「誘ったのはお前だろ」
「細かい男だな!」
「料理人は細かい」
アルバートは怒りながらも、楽しそうだった。
「近いうちに、君の店へ食べに行く」
「金は取る」
「分かっている!」
「席は六つだ。予約はない」
「宮廷料理人を並ばせるつもりか」
「先に来た客からだ」
アルバートは何か言い返そうとしたが、最後には諦めたように笑った。
「本当に、面倒な店だ」
「味には関係ない」
「いや。おそらく関係している」
その言葉の意味を蓮司が尋ねる前に、アルバートは去っていった。
◇
料理勝負と火災救助が終わった夕方、《異世界麺処・蓮》の前には、これまでで一番長い行列ができていた。
「今日は、もう営業しないと言ってるでしょう!」
ミーナが列へ向かって叫ぶ。
「店主もリーゼも、昨日からほとんど寝てないの! 火竜ラーメンも、残りは救助隊へ出したからない!」
「塩ラーメンでいい!」
「毒牙鼠の肉も仕込んでない!」
「スープだけでも!」
「何もないものは、出せないの!」
普段なら、客が来ているのに閉めることを悔しがる蓮司も、今日は厨房へ立たなかった。
立てなかった、というほうが正しい。
緊張が切れた途端、全身へ疲労が押し寄せ、椅子へ座ったまま立ち上がれなくなった。
「ほら」
リーゼが呆れた声を出した。
「倒れないと言っていた人が、椅子から動けなくなっています」
「座ってるだけだ」
「立てますか」
「立てる」
「では立ってください」
「今は、立つ理由がない」
「立てないのですね」
「……少し休めば立てる」
リーゼは勝ち誇るでもなく、心配そうに蓮司の額へ手を当てた。
「熱はありません。魔力切れと疲労でしょう」
「飯を食えば戻る」
「今日、何を食べましたか」
「味見」
「それは食事ではないと、何度言えば覚えるのです」
「忙しかった」
「私もです。ミーナもです。それでも二人とも、朝に少し食べました」
「店主だけ、隠れて食べなかったの?」
行列を断って戻ってきたミーナが、腰へ手を当てる。
「隠れてない」
「食べてないことを言わなかった」
「聞かれなかった」
「子供みたいな言い訳しないで!」
「お前に言われたくない」
「今日はあたしが店主へまかないを出す」
「何を作る」
「昨日失敗した、柔らかい生地を焼いたやつ。リーゼと一緒に作った」
「あれは味が薄い」
「干し肉を挟む」
「塩気が強い。野菜も入れろ」
「食べさせてもらう人が、文句を言わないで!」
「料理の感想だ」
「まだ食べてないでしょう!」
ミーナが怒鳴る。
リーゼが声を上げて笑った。
少し遅れて、蓮司も笑った。
「何よ」
「いや。悪くないと思ってな」
「まだ作ってない」
「料理じゃない」
店の前の行列。
厨房にいる二人。
明日も店が開くと思っている客。
料理を勝手に作り始める店員。
「この店だ」
蓮司は言った。
「俺が作りたかったのは」
リーゼが静かに微笑んだ。
「究極のラーメンではなく?」
「それも作る」
「欲張りですね」
「料理人だからな」
ミーナが失敗した生地を炉へ運ぼうとした、そのときだった。
店の前にいた人々が、ざわめきながら道を空け始めた。
白い馬が二頭。
王国の紋章を掲げた馬車。
馬車から降りてきたのは、紺色の礼服をまとった五十代ほどの男だった。
胸には、王室侍従を示す銀の飾り。
その後ろには、近衛騎士が四人立っている。
「神谷蓮司殿は、こちらにいらっしゃいますか」
男が尋ねた。
蓮司は椅子へ座ったまま答えた。
「俺だ」
「立たなくてよいのですか」
「今は、立つ理由があるか」
「王室からの使者です」
「では、あるな」
蓮司は板へ手をつき、立ち上がろうとした。
脚へ力が入らず、身体が傾く。
リーゼとミーナが左右から支えた。
「立てないではありませんか」
「少し足が痺れただけだ」
「店主、今、倒れかけたよ」
「静かにしろ」
王室侍従は、三人のやり取りを見て、僅かに口元を緩めた。
「火竜を食材へ変え、その料理によって火災現場から人々を救った異世界の料理人。報告より、かなり変わった方のようですな」
「報告したのは誰だ」
「ラグナ領主、冒険者ギルド、そして王都の宮廷料理人アルバート殿です」
「あいつ、もう報告を送ったのか」
「伝令魔術による速報です。国王陛下は、あなたの料理に強い関心を示されました」
「王都まで店を出せという話なら断る。まだ、この店を始めたばかりだ」
侍従の眉が僅かに動いた。
「国王陛下の御意向を、聞く前に断るのですか」
「店を捨てて、すぐ王都へ来いと言うなら断る」
「蓮司」
リーゼが小声で止める。
「相手は王室の使者です。もう少し言葉を選んでください」
「では、どう言えばいい」
「大変光栄ですが、店の営業と食材管理について相談する時間をいただきたい、と」
「長い」
「必要な長さです」
侍従は咳払いをした。
「陛下も、あなたへ王都で店を開けと命じるおつもりではありません」
「では何だ」
男は姿勢を正し、正式な口調で告げた。
「異世界の料理人、神谷蓮司殿」
広場にいた人々が静まり返る。
「国王陛下のために、そのラーメンを作っていただきたい」
六席しかない小さな店へ、王から最初の注文が入った。




