第11話 火竜を一番旨く倒す方法
魔物襲来を告げる警鐘が鳴り続けるなか、冒険者ギルドの前へ集められた人々は、誰もが自分の不安を隠すために、必要以上に大きな声を出していた。
「北街道の荷馬車は西門へ回せ! 東門から入れるな、火竜が街道沿いに飛んでくる!」
「井戸の水を全部使ったら、そのあと火事をどうするんだ!」
「だから飲み水用の樽へ手を出すなと言っている! 消火用は共同浴場と染物工房から運べ!」
「南壁の避難所が足りません! 貧民街から来た人たちを入れる場所が――」
「ギルド地下へ回せ! 酒樽を外へ出せば、あと二十人は入る!」
「酒樽を出すなら、割るなよ! あれは店の財産だ!」
「町が焼けるかもしれないときに、酒の心配をするな!」
「町が残っても店が潰れたら、俺は首を括るしかないんだよ!」
怒鳴り声と足音、馬の嘶き、泣き出した子供の声が、石造りの広場でぶつかり合っている。
誰もふざけてはいなかった。
それぞれが、自分にとって失えないものを守ろうとしている。
町全体を守る立場のガルドにとっては人命が最優先でも、酒場の主人にとっては、家族を食わせる店の財産も命と同じくらい重い。避難する住民からすれば、家へ置いてきた金や、病気の親や、飼っている家畜を簡単に諦めることはできない。
正しい命令を一度出せば、全員が同じ方向へ動くほど、人間は単純ではなかった。
「ガルド!」
蓮司が広場へ駆け込むと、指示を出していたガルドが振り向いた。
「遅いぞ、料理人!」
「寝ていた」
「こんなときに、よく眠れたな!」
「眠れと言われたからな」
「今、その律儀さを褒める気にはなれん!」
ガルドは広場に広げられた町周辺の地図を指した。
北東の山道。
火山地帯から北街道へ降りる一本道。
その途中へ、赤い石が三つ置かれている。
「先行していた討伐隊が、山裾で接触した。弓兵一人が火傷、前衛二人が負傷。火竜は右の翼膜へ矢を受けたが、飛行にはほとんど影響がない。現在は北街道沿いに南下中だ」
「なぜ巣を離れた」
「分からん。若い火竜は縄張りを広げることもあるが、今回は動きがおかしい。荷馬車や家畜を襲いながら、ほとんど食っていない」
「食わないのに襲う?」
「興奮している。口から火を漏らし、岩へ何度も身体を擦りつけているそうだ」
蓮司は地図ではなく、負傷者を運び込んでいる治療所の方向を見た。
「最初に接触した奴へ話を聞きたい」
「時間がない」
「状態を知らずに戦えば、余計に時間がかかる。火竜の動きが普段と違うなら、原因がある」
「料理人が、魔物の病気まで診るつもりか」
「料理人は、食材の状態を見る。興奮し、体温が上がり続けているなら、普通に倒しても肉が硬くなる」
「町が焼かれようとしているときに、それを言えるお前の神経が信じられん」
「だから、まず町を守る。そのうえで、できるだけ旨く倒す」
「順番を間違えるなよ」
「分かってる」
「お前の分かっているは、半分くらいしか信用できん」
ガルドはそう言いながらも、治療所へ向かう道を空けた。
仮設の治療所には、煤で顔を黒くした冒険者たちが寝かされていた。
右腕へ火傷を負った若い弓兵。
盾ごと吹き飛ばされ、脇腹を押さえる大男。
髪の先を焼かれた女斥候。
蓮司は女斥候の前へしゃがんだ。
「火竜へ一番近づいたのは、お前か」
「そうだけど……誰?」
「料理人だ」
「今、料理人へ話している時間はないんだけど」
「そいつが、包丁一本で白角鹿と岩鎧猪を倒した変人だ」
後ろからガルドが説明する。
「変人まで加える必要はない」
「事実だろう」
女斥候は、蓮司の腰の包丁を見てから、疲れた顔で息を吐いた。
「何を知りたいの」
「匂い。火竜の呼吸。身体を擦りつけていた場所。それから、何を襲って、何を食わなかった」
「匂いなんて、煙と硫黄よ」
「腐った匂いや、薬草の匂いは」
「……そういえば」
女斥候は眉を寄せた。
「火竜が岩へ首を擦りつけたとき、甘ったるい臭いがした。焼けた果物みたいな、気持ちの悪い匂い」
「首のどこだ」
「鱗の隙間。顎の下から胸の上くらい。赤黒いものが膨らんでいた」
「傷か」
「分からない。近づこうとしたら、火を吐かれた」
「襲われた荷馬車は」
「一台は岩塩。もう一台は薬草。家畜は山羊が三頭。どれも焼かれただけで、ほとんど食われていない」
「薬草の種類は」
「火山地帯から運んできた乾燥薬草。たしか、熱病に使う冷泉草と、傷薬用の月白苔」
蓮司は立ち上がった。
「火竜は怒っているんじゃない。苦しんでる」
「何が分かった」
ガルドが尋ねる。
「顎の下に何かがいる。寄生虫か、膿がたまっているのかは分からないが、熱を持って痒いか痛い。岩へ擦りつけ、冷泉草を積んだ荷馬車を襲ったのも、その匂いに反応した可能性がある」
「薬草を食うつもりだったと?」
「食わずに焼いたなら、自分でも何を求めているか分かっていない。興奮と痛みで、近づくものを全部敵だと思ってる」
「なら、治療すれば大人しくなるのですか」
リーゼが追いつき、二人の会話へ加わった。
息を切らしている。
後ろにはミーナもいた。
「避難しろと言っただろ」
「ギルドの地下まで、店の食材と帳簿を運びました。ミーナを置いて、私だけ戻ってきたのではありません」
「自分も戻るって言ったの!」
ミーナが蓮司を睨んだ。
「店主が、一人で勝手に前へ出ないか見張る役目があるもの」
「危険だ」
「だから、前には出ない。匂いを嗅ぐだけなら、遠くからでもできる」
「火竜の煙を吸えば倒れる」
「風上にいればいいでしょう」
「簡単に言うな」
「店主が一番簡単に危ないことを始めるくせに!」
「今は喧嘩している場合ではありません」
リーゼが二人を止め、それから蓮司へ向き直った。
「火竜の顎の下に異常があるという推測は、私もあり得ると思います。竜種は魔力の強い寄生生物に狙われることがあります。鱗の隙間へ入り、血と火属性の魔力を吸う《焔蛭》なら、繁殖した際に赤黒く膨らんで見えるでしょう」
「取れば助かるのか」
「少数ならば。ただ、放置されて増えた場合、宿主は常に高熱と痛みに襲われます。理性を失い、やがて自分の炎で内臓まで焼けることもあります」
「それで巣を離れたのか」
ガルドが地図を見下ろした。
「治療して山へ戻せるなら、それが一番被害は少ない」
「簡単ではありません」
リーゼは厳しい顔をした。
「焔蛭は、火竜の魔力を吸っている間、鱗より高い耐火性を持ちます。火竜を押さえ、顎の下へ近づき、一匹ずつ外さなければならない。興奮した火竜を生かしたまま行うには、討伐以上の危険があります」
「麻痺毒は」
蓮司が尋ねる。
「通常の毒は、火竜の体温で分解されます」
「冷泉草は?」
「一時的に体温と火の魔力を下げます。ただし必要な量を飲ませるか、傷へ直接当てなければ――」
「飲ませる」
「どうやってです」
蓮司は女斥候へ向いた。
「焼かれた岩塩は、まだ街道にあるか」
「荷馬車が横倒しになっていたから、残っていると思う」
「冷泉草も?」
「樽の半分は燃えた。でも、後ろの荷台に残っているはず」
「ガルド。岩塩と冷泉草を回収する隊を出してくれ」
「火竜が近くにいる」
「だから少人数で、足の速い奴を。無理なら諦める」
「何を作るつもりだ」
「餌だ」
「さっき、火竜は何も食わないと言っただろう」
「岩塩の荷馬車を襲ってる。火竜は火の魔力を維持するため、鉱物を舐めるんじゃないか」
リーゼが考え込む。
「若い火竜は、火山岩や塩分を含む土を食べます。特に体内の魔力が乱れたときは、岩塩を求めることがあります」
「冷泉草を岩塩へ混ぜる。匂いが弱いなら、火豆味噌も使う」
「料理勝負用に買った味噌を?」
ミーナが目を丸くした。
「店と町が焼けたら、勝負どころじゃない」
「全部使うの?」
「必要なだけだ」
言葉へ出したあと、蓮司は一瞬だけ迷った。
銀貨二枚。
手に入れた唯一の小壺。
三日後ではなく、もう明日に迫った料理勝負。
ここで使い切れば、勝負用の味噌ダレを作れない。
だが町を守れなければ、店も勝負も残らない。
「使おう」
リーゼが言った。
蓮司の迷いを見抜いたらしい。
「ドルガンさんへ事情を話せば、もう一度売ってくださるかもしれません。怒鳴られるとは思いますが」
「売ってくれなければ?」
「そのときは、別の料理を考えます」
「火竜味噌ラーメンを作ると決めた」
「食材より先に、人を守ると、つい先ほど蓮司自身が言いました」
「ああ」
蓮司は頷いた。
「小壺を持ってきてくれ」
「店主」
ミーナが蓮司の服を掴んだ。
「本当に、町へ入る前に止められる?」
「分からない」
「そこは、止めるって言ってよ」
「根拠のない約束はしない」
「分かってるけど……今は少しくらい、言ってほしかった」
ミーナの手が震えていた。
いつものように強く言い返しているが、怖いのだ。
店がなくなること。
また食事も寝る場所もない生活へ戻ること。
せっかくできた居場所が、炎で消えること。
「止める」
蓮司は言った。
「絶対とは言えない。だが俺一人ではなく、ここにいる全員で止める。そのために、お前にも仕事を頼む」
「何をすればいい?」
「風向きを見ろ。煙と火竜の臭いが、どこへ流れるか教えてくれ。火竜の体温が下がれば、匂いも変わるはずだ」
「分かるかな」
「お前に分からなければ、ほかの誰にも分からない」
「それ、褒めてる?」
「頼りにしてる」
ミーナの耳が僅かに上がった。
「じゃあ、やる」
「前へ出るな」
「店主もね」
「善処する」
「それは禁止の返事でしょう!」
◇
火竜を迎え撃つ場所には、北門から半刻ほど離れた、使われなくなった石切り場が選ばれた。
両側を高い岩壁に挟まれ、中央には荷馬車が三台並べられるほどの広さがある。
町へ続く街道から少し外れているため、火竜を誘導できれば、市街地へ炎が飛ぶ危険を減らせる。
ただし誘導に失敗すれば、火竜はそのまま北門へ向かう。
「第一班は街道で注意を引き、石切り場へ誘導する。弓は翼膜だけを狙え。頭と胸へ撃つな」
ガルドが冒険者たちへ指示を出す。
「第二班は岩壁の上から縄を落とし、翼と後脚を拘束する。縄には月白苔の水を染み込ませてあるが、長くは持たん。第三班は水樽を待機させ、火竜が石切り場へ入ったら一斉に冷却する」
「水を正面からかけるな」
蓮司が付け加えた。
「顔へ大量の水を当てれば、驚いて火を吐く。背中と翼の付け根からだ。体温を落としすぎても暴れる。蒸気の色と、鱗の赤みを見ながら止める」
冒険者の一人が顔をしかめた。
「料理人の指示で火竜と戦う日が来るとは思わなかったぜ」
「嫌なら、肉が硬くなっても普通に倒せ」
「町を守る話じゃなかったのか」
「守る。だが同じように倒すなら、旨いほうがいい」
「緊張してるのが馬鹿らしくなってきた」
「緊張はしておけ。死ぬぞ」
「急に怖いことを言うな!」
笑いが起きた。
不安が消えたわけではない。
それでも、張り詰めすぎて動けなくなるよりはよかった。
石切り場の中央には、回収した岩塩を砕き、冷泉草と火豆味噌を練り合わせた大きな塊が置かれている。
見た目は、灰色がかった赤い団子。
匂いは強烈だった。
「これ、料理なの?」
ミーナが鼻を押さえた。
「餌だ。旨くする必要はない」
「料理人が、そんなことを言っていいのですか」
リーゼも少し離れて立っている。
「食わせる相手の状態による。今の火竜は、味を楽しむ余裕がない」
「それでも塩分が強すぎませんか」
「全部食わせるつもりはない。舐めて、冷泉草が口へ入ればいい」
「火竜が見向きもしなければ?」
「別の方法へ切り替える」
「次の方法は」
「考えてある」
「最初から教えてください」
「冷泉草を煮出した水を、弓で傷つけた翼膜へかける。痛みで暴れる可能性があるから、最後の手段だ」
「その次は?」
「討伐へ切り替える」
リーゼの表情が曇った。
「治療を諦めるのですね」
「町へ近づくならな」
「分かっています。ですが……竜種を、できれば助けたいと思う私は、判断を鈍らせるでしょうか」
「鈍る」
蓮司は率直に答えた。
リーゼの顔が僅かに強張る。
「だが、助けたいと思う人間が一人もいなければ、最初から殺す方法しか考えない。お前が治療の可能性を教えたから、今の作戦がある」
「それでも、最後には倒す判断を?」
「俺がする」
「蓮司が?」
「ガルドは町全体を見なければならない。お前は竜人だから、迷う。俺は食材として見られる。生かすほうが危険だと判断したら、俺が言う」
「嫌な役目を、自分だけで引き受けるつもりですか」
「また、その話か」
「大切な話です」
「では、俺が判断し、ガルドが決める。それでいいか」
リーゼは少し考え、頷いた。
「はい。二人で判断してください」
遠くから、角笛が鳴った。
一度目。
火竜を確認。
二度目。
誘導開始。
冒険者たちが一斉に配置へつく。
ミーナは風上の岩陰。
リーゼは石切り場の入口近くに設けた伝令位置。
蓮司はガルドとともに、中央の岩塩餌から少し離れた場所へ立った。
「お前、本当に武器は包丁だけか」
ガルドが尋ねる。
「ああ」
「火竜の鱗へ通ると思うのか」
「通らない。鱗を切る気はない」
「何を切る」
「焔蛭。駄目なら、顎の下の血管だ」
「そこまで近づくのか」
「押さえられればな」
「押さえられなかったら?」
「近づかない」
ガルドが横目で蓮司を見る。
「少しは学んだらしいな」
「昨日、長い説教を受けた」
「誰からだ」
「二人から」
「一人より増えてるじゃないか」
「店員を増やすと、説教も増えるらしい」
地面が揺れた。
最初は遠い雷のようだった音が、急速に近づいてくる。
岩壁の向こうから、火の粉が舞い上がった。
「来るぞ!」
誰かが叫ぶ。
次の瞬間、街道を曲がった巨大な影が姿を現した。
火竜。
若い個体と聞いていたが、翼を広げれば小屋の屋根二つ分はある。
赤黒い鱗。
長い首。
地面を抉る四本の脚。
翼膜には矢が一本刺さり、穴の周囲が焼け焦げている。
口の隙間から炎が漏れ、息を吐くたび、街道の草が黒く焼けた。
そして顎の下から胸へかけて、赤黒い葡萄の房のようなものがいくつも張りついていた。
「焔蛭です!」
リーゼが叫ぶ。
「多すぎる……あれでは、火竜自身の魔力が尽きるまで止まりません!」
先行する冒険者たちが石切り場へ駆け込む。
火竜は、その背を追ってきた。
「餌の匂いに気づくか」
蓮司が見守る。
火竜の頭が動いた。
鼻先が岩塩餌の方向へ向く。
一歩。
二歩。
人間ではなく、餌へ近づく。
「いける」
ガルドが低く呟いた。
そのときだった。
岩壁の上で待機していた若い弓兵が、足を滑らせた。
石が一つ落ちる。
火竜の頭へ当たった。
弓兵は恐怖のあまり、指示を待たずに矢を放った。
「待て!」
矢は翼膜ではなく、火竜の右目の上へ当たった。
鱗に弾かれ、傷にはならない。
だが火竜の注意は、完全に岩壁の上へ向いた。
口が開く。
喉の奥が白く光る。
「伏せろ!」
ガルドの声と同時に、炎が噴き出した。
岩壁の上を火の波が舐める。
弓兵たちは身を伏せたが、一人の外套へ火がついた。
「水!」
「今使えば、作戦が――」
「人が先だ!」
蓮司が怒鳴った。
水樽の一つが弓兵へ向けて放たれる。
火は消えた。
しかし火竜は完全に興奮し、岩塩餌を無視して暴れ始めた。
尾が振られ、石切り場の壁へ激突する。
岩片が雨のように降る。
「第一案は失敗だ!」
ガルドが剣を抜いた。
「拘束へ移る! 縄を落とせ!」
岩壁の上から、月白苔の水を染み込ませた太い縄が投げられる。
一本が翼へ絡む。
二本目が後脚へ巻きつく。
冒険者たちが滑車を使い、一斉に引く。
火竜の身体が傾いた。
だが火竜は咆哮し、翼を強く羽ばたかせた。
縄が焼け始める。
「持たない!」
「水を背中へ!」
樽の水が浴びせられ、白い蒸気が上がる。
火竜の鱗が、赤から黒へ変わる。
体温は下がっている。
だが痛みと恐怖で、暴れ方はさらに激しくなった。
「店主!」
風上の岩陰から、ミーナが叫んだ。
「甘い臭いが強くなった! さっきより、すごく気持ち悪い!」
「焔蛭が血を吸って膨らんでる」
蓮司は火竜の顎を見る。
興奮するほど体温と魔力が上がり、焔蛭も活性化する。
このままでは寄生虫を取る前に、火竜自身が焼け死ぬ。
「リーゼ!」
「はい!」
「竜種は、どこへ触れられるのを一番嫌う!」
「尾と翼の付け根です!」
「逆に、弱ったときに守ろうとする場所は!」
「喉です。竜核と大きな血管があります!」
「顎を地面へつけさせる方法は」
「優位な竜の威圧を受けたときか、呼吸を奪われたときですが――」
リーゼは言葉を止めた。
蓮司が何を求めているか、気づいた顔をする。
「私に、竜威を使えと言うのですか」
「できるか」
「今の身体では、火竜を完全に従わせるほどの力はありません。それに竜血過多症が出れば、私も――」
「完全に従わせなくていい。一瞬、こちらへ意識を向けて、頭を下げさせるだけだ」
「危険すぎる!」
ガルドが反対した。
「竜人娘を火竜の正面へ出す気か!」
「正面には出さない。岩壁の上からだ」
「それでも炎が届く!」
「水樽を一つ残している。リーゼへ向けられたら、壁を作る」
リーゼは火竜を見た。
赤黒い焔蛭。
痛みに狂う同じ竜種。
そして町へ続く道。
「やります」
「無理なら――」
「蓮司」
リーゼが強い声で遮った。
「私へ任せるのでしょう」
その言葉に、蓮司は口を閉じた。
「ああ。頼む」
「はい」
リーゼは岩壁へ続く階段を駆け上がった。
ガルドが冒険者たちへ指示を飛ばす。
「残った水樽を竜人娘の下へ運べ! 盾持ちは炎の方向を見ろ! 料理人、お前は何をする!」
「顎が下がったら、焔蛭を外す」
「一人でか」
「無理だ。刃物を扱える奴が、あと二人ほしい」
「ようやく最初から人を頼るようになったな!」
「説教はあとだ!」
女斥候と、肉屋出身だという冒険者が前へ出た。
「どこを切る」
「焔蛭と鱗の間だけだ。深く入れれば火竜の血管を傷つける。黒い口を潰すな。中の体液が傷へ入る」
「そんな細かいことを、暴れる竜の下でやるのか」
「嫌なら下がれ」
「ここまで来て、下がれるかよ」
岩壁の上へ立ったリーゼが、外套を脱いだ。
銀色の髪が熱風に舞う。
彼女は両手を胸の前へ置き、ゆっくり息を吸った。
「リーゼ・ドラグニールの名において命じます」
最初の声は、人間のものだった。
「頭を垂れなさい」
二度目の声に、低い響きが重なる。
空気が震えた。
リーゼの金色の瞳が細くなり、頬と首筋へ銀白色の鱗が浮かび上がる。
背後に、見えない巨大な竜が立ったような圧力が広がった。
火竜が動きを止めた。
赤い瞳が、岩壁の上のリーゼへ向く。
「今です!」
火竜が咆哮した。
喉の光が、リーゼへ向く。
「盾!」
冒険者たちが大盾を重ねる。
水樽が倒され、盾の前へ水の幕が作られた。
炎が直撃する。
水が一瞬で蒸気へ変わり、白い煙が石切り場を覆った。
リーゼの姿が見えなくなる。
「リーゼ!」
ミーナの悲鳴。
蓮司は駆け出しかけた。
だが、止まった。
今、自分が持ち場を離れれば、リーゼが作った隙が無駄になる。
「信じろ」
自分へ言い聞かせる。
蒸気の向こうから、再び声が響いた。
「私は、ここです!」
リーゼは立っていた。
片膝をつき、口元から血を流している。
それでも竜威を解いていない。
「痛みに負け、自分まで焼くつもりですか! あなたは竜でしょう! 少しは誇りを思い出しなさい!」
「病気の竜へ、ずいぶん厳しいな」
ガルドが呟く。
「自分へ言っているのかもしれない」
蓮司は答えた。
火竜の頭が下がった。
完全に従ったわけではない。
リーゼへ飛びかかろうと前脚へ力を入れたが、拘束された脚と翼が耐えきれず、顎を地面へ打ちつけた。
「行くぞ!」
蓮司たちは火竜の首元へ駆け寄った。
熱い。
冷却したあとでも、炉の前より熱い。
鱗の隙間へ張りついた焔蛭が、赤黒い身体を脈打たせている。
「右から外せ! 黒い口を鱗から剥がして、根元を切る!」
蓮司が最初の一匹へ包丁を入れた。
《厨房領域》の光が、焔蛭と火竜の皮膚の境界へ浮かぶ。
刃先を滑らせる。
焔蛭が剥がれ、地面へ落ちた。
女斥候が短剣で刺そうとする。
「潰すな!」
「でも動いてる!」
「塩へ入れろ!」
用意していた岩塩の桶へ、焔蛭を放り込む。
赤黒い身体が激しく縮み、動かなくなった。
「二匹目!」
肉屋出身の冒険者が刃を入れる。
「深い!」
蓮司が腕を掴み、角度を変えた。
「火竜の皮まで切るな!」
「暴れてるんだ、細かいことを言うな!」
「だから三人でやってる!」
火竜の首が動いた。
顎の下へいる三人が振り落とされそうになる。
「縄が切れるぞ!」
上から声がする。
「あと何匹だ!」
「見える範囲で八!」
「多すぎる!」
「数える暇があったら切れ!」
一匹。
二匹。
三匹。
火竜の血が、焔蛭の口跡から滲む。
甘く焦げたような臭いが弱まり始めた。
「店主!」
ミーナが叫ぶ。
「匂いが変わった! 甘いのが減って、鉄みたいな臭いになってる!」
「火竜自身の血だ。焔蛭は減ってる!」
六匹目。
七匹目。
最後の大きな一匹は、喉の中央近くへ食い込み、周囲の鱗まで黒く変色させていた。
「こいつが親だ」
蓮司は光の線を探す。
口が深い。
無理に引けば、血管を裂く。
「切れないのか!」
「先に吸いついている口を緩める」
「どうやって!」
蓮司は岩塩と冷泉草を混ぜた餌を一掴み取り、焔蛭の周囲へ押しつけた。
火竜の皮膚へ触れないよう、寄生虫だけへ塗る。
焔蛭の身体が縮んだ。
黒い口が、僅かに浮く。
「今だ!」
三人で刃を入れる。
最後の焔蛭が外れた。
同時に、火竜が大きく身体を震わせた。
拘束していた縄が切れる。
「離れろ!」
ガルドが蓮司の襟を掴み、後ろへ投げた。
火竜が立ち上がる。
翼を広げる。
冒険者たちが武器を構えた。
だが火竜は、すぐには炎を吐かなかった。
荒い呼吸。
顎の下から血を流し、赤い瞳で周囲を見回している。
「焔蛭は外した」
リーゼが岩壁から降りてくる。
「魔力が落ち着けば、山へ戻る可能性があります」
「近づくな」
蓮司が止めた。
「まだ理性が戻ったとは限らない」
火竜の視線が、リーゼへ止まった。
次に、中央へ残された岩塩餌へ向く。
一歩進む。
餌へ鼻を近づける。
舐めた。
冷泉草と岩塩が、舌へ入る。
火竜の呼吸が、僅かに落ち着いた。
「いける」
誰かが囁いた。
もう戦わずに済む。
その期待が、石切り場へ広がった。
だが次の瞬間、火竜の後脚が崩れた。
巨体が地面へ倒れる。
口から、黒い血が流れ出した。
「どうした!」
リーゼが駆け寄ろうとする。
蓮司は火竜の腹部を見た。
鱗の内側。
目には見えないが、《食材鑑定》の情報が浮かび始めている。
体温異常。
火属性魔力の枯渇。
内臓損傷。
焔蛭による長期寄生。
心臓周辺の魔力器官――竜核、崩壊進行。
「遅かった」
蓮司は言った。
「焔蛭を外しても、竜核が壊れ始めてる」
「治療は」
「分からない。俺の能力では、食材としての状態しか見えない」
「薬師を呼べば――」
「町まで運ぶ間に死ぬ」
火竜が苦しげに喉を鳴らした。
立とうとする。
後脚へ力が入らない。
そのたび、口から黒い血が増える。
リーゼは火竜の目の前へ立った。
「蓮司」
声が震えている。
「助けられませんか」
「俺には無理だ」
「料理で魔力を鎮めれば」
「口から飲み込める状態じゃない。竜核が崩れているなら、魔力を足しても逆に苦しませる」
「ですが」
「リーゼ」
蓮司は彼女の肩へ手を置いた。
「助けたい気持ちだけで、生かしておくのは違う」
リーゼの目に涙が浮かんだ。
「分かっています」
分かっている。
それでも、すぐに諦められるわけではない。
火竜は人を襲い、荷馬車を焼き、町へ危険をもたらした魔物である。
同時に、寄生虫に苦しみ、理性を失っていただけの一頭の竜でもある。
どちらか一方だけを見れば、判断は簡単だった。
両方を見るから、苦しい。
「ガルド」
蓮司が呼んだ。
「どう見る」
ガルドは火竜の呼吸と、黒い血を見た。
「町へ運ぶことはできん。ここで生かしておけば、苦しみが続く。再び暴れる可能性もある」
「なら、終わらせる」
「俺がやる」
「いや」
蓮司は包丁を握った。
「食材として受け取るのは俺だ。最後も俺がやる」
「また一人で責任を背負うのですか」
リーゼが尋ねた。
責める声ではなかった。
確認する声だった。
「一人ではない」
蓮司は答えた。
「ガルドが、終わらせるべきだと判断した。お前も、助からないことを理解している。俺は、最も苦しませず、肉と骨を無駄にしない場所へ刃を入れる。それぞれの役目だ」
リーゼは涙を拭い、頷いた。
火竜の頭へ近づく。
金色の瞳で、赤い瞳を見つめる。
「よく、耐えました」
彼女は竜語らしい、低く柔らかな声で何かを告げた。
火竜の瞼が僅かに下がる。
理解したのかどうかは分からない。
だが暴れることはなかった。
蓮司の視界へ、光の線が浮かぶ。
顎の下。
焔蛭が張りついていた傷のすぐ横。
太い血管と、脳へ続く神経の境目。
一息で終わらせられる場所。
「食わせてもらう」
蓮司は包丁を入れた。
火竜の身体が一度だけ震えた。
そのあと、長い息を吐く。
口から漏れたのは炎ではなく、僅かに温かい煙だった。
赤い瞳から光が消える。
石切り場に、重い静寂が訪れた。
歓声は起きなかった。
誰も勝った気分にはなれなかった。
それでも町は守られた。
負傷者は出たが、死者はいない。
火竜は、これ以上苦しまない。
「血抜きだ」
蓮司が言った。
声が掠れていた。
「すぐに始める。体温が高いままでは、肉へ火の魔力が回る」
「今すぐか」
ガルドが尋ねる。
「ああ。感傷に浸る時間は、あとで作る」
「分かった。人手は何人必要だ」
「最低十人。後脚を上げる滑車。冷泉草の水を、身体の下へ流す。急に冷やしすぎるな。腹を開く前に、竜核の状態を確認したい」
「俺は何をすればいい?」
肉屋出身の冒険者が尋ねる。
「前脚側の縄を固定してくれ。女斥候は、刃物と布を煮沸する準備。弓兵たちは、岩塩を集めろ。焔蛭へ触れたものと、食材へ使う道具を一緒にするな」
指示を出す。
誰かへ任せる。
返事を聞く。
分からない者には、もう一度説明する。
蓮司は、一人で火竜へ包丁を入れなかった。
「ミーナ」
「いる」
「匂いを見てくれ。甘い臭いが残っている部位は、焔蛭の毒が回っている可能性がある。印をつけて、食用と分ける」
「分かった」
「前へ出るが、火竜はもう動かない。それでも熱い。手袋をしろ」
「はい」
「リーゼ」
「私は、何を」
「竜核を見てほしい。竜人にしか分からない異常があるなら、教えてくれ。ただし無理なら――」
「やります」
リーゼは火竜の頭を一度撫でてから、立ち上がった。
「この竜を、無駄にしたくありません」
「ああ」
三人だけではない。
ガルド。
冒険者たち。
水を運んだ住民。
岩塩を回収した斥候。
炎を受け止めた盾持ち。
竜威を使ったリーゼ。
風と匂いを知らせたミーナ。
誰か一人が欠けても、火竜を町の外で止めることはできなかった。
「討伐じゃない、仕入れだ」
以前なら、蓮司はそう言って笑っただろう。
だが今は、その言葉を軽く口へできなかった。
仕入れとは、命が食材へ変わる場所に立つことだ。
そこには勝利だけではなく、苦しさも、失敗も、助けられなかった悔しさも残る。
「全部使う」
蓮司は静かに言った。
「肉も、骨も、脂も。この竜が生きていたことまで、一杯の中へ残す」
遠くで、町の警鐘が止まった。
代わりに聞こえてきたのは、火竜の身体を持ち上げるため、冒険者たちが声を合わせる掛け声だった。
料理勝負まで、残された時間は一日もない。
それでも蓮司は、火竜の前から逃げなかった。
究極の一杯を作る前に、料理人として果たさなければならない仕事が、まだ山ほど残っていた。




