第10話 一人で百人分を作るな
料理勝負まで、あと三日。
その短い時間で、火竜の脂に負けない味噌を探し、麺の配合を決め、スープの土台を作り、食材の安全性を確認し、原価を計算し、当日の審査員へ何杯出すのかまで把握しなければならないと分かった時点で、蓮司は《異世界麺処・蓮》の通常営業を二日間休むことに決めた。
決めた、と言っても、最初から本人が素直に休業を提案したわけではない。
「昼だけなら営業できる」
開店前の小屋で、蓮司はかなり真剣な顔をして言った。
「朝のうちに勝負用の仕込みをして、昼は十八食だけ売る。営業が終わったら試作へ戻ればいい」
「駄目です」
リーゼが即答した。
「なぜだ」
「なぜ、と聞けることが不思議です。市場で食材を探し、冒険者ギルドで火竜討伐の相談をし、試作を行いながら、通常営業まで続ければ、蓮司がどこかで睡眠を削ることは目に見えています」
「夜に六時間寝ても、十分時間はある」
「その六時間を、本当に眠るのですか」
「眠る」
「一度も起きずに?」
「鍋の状態による」
「すでに眠る気がないではありませんか」
蓮司は黙った。
小屋の入口では、休業を知らせる木札を抱えたミーナが、どちらが勝つか見物するように二人を見比べていた。
「店主、休んだほうがいいと思う」
「お前まで何だ」
「勝負に負けたら店がなくなるんでしょう。二日間の売上より、店がなくならないほうが大事じゃない?」
「それはそうだが、休めば、昨日来た客が次も来なくなるかもしれない」
「木札に理由を書けばいいです」
リーゼが言った。
「料理勝負の準備のため二日間休業し、三日後に中央広場で営業を再開すると伝えます。昨日の客にはオルドさんからも話してもらいましょう」
「休んでいる店へ客が戻る保証はない」
「営業を続けながら味を落とすほうが、戻らなくなります」
「今の味は落とさない」
「それをするために、蓮司が無理をするのでしょう」
リーゼは語気を強めなかった。
怒鳴られるより、その静かな言い方のほうが逃げ場がなかった。
「蓮司は、料理の味を守ることと、自分が働き続けることを、同じものだと考えすぎています。店主が厨房へ立つことは大切ですが、店主が倒れないことは、もっと大切です」
「二日くらいで倒れない」
「前の世界でも、毎日そう考えていたのではありませんか」
「毎回、死んだ話へ戻すな」
「戻します。蓮司が忘れようとするたび、何度でも戻します」
リーゼは本気だった。
蓮司も、それ以上は言い返さなかった。
結局、二日間の休業が決まり、ミーナが入口へ木札を掛けた。
文字を読めない者にも分かるよう、木札の下には、蓮司の案で炎を吐く竜と丼の絵が描かれている。
ただし絵を描いたのは蓮司ではなく、リーゼだった。
蓮司が描いた竜は、ミーナから「羽の生えた痩せた豚」と評され、丼に至っては「割れた壺を埋めている墓標に見える」と言われたためである。
「味には関係ない」
「看板は、食べる前に見るものです」
「料理人に絵まで求めるな」
「下手なことではなく、下手なのに自分でやろうとすることを問題にしているのです」
「絵まで人に任せていたら、何もできなくなるだろ」
「蓮司は、少し任せたくらいで何もできなくなるほど、仕事が少ないのですか」
返事に詰まり、蓮司は黙って市場へ向かった。
◇
ラグナの中央市場は、朝の鐘が鳴る前から騒がしかった。
荷馬車から野菜の籠を下ろす商人。
魚のえらを開き、鮮度を客へ見せる行商人。
香辛料を量り売りする老婆。
生きたまま籠へ詰められた鳥。
樽で運ばれる豆や小麦。
食材の匂い、汗の匂い、家畜の匂いが混じり、前世の豊洲市場とはまるで違う荒っぽい熱気を作っている。
蓮司は立ち止まるたびに、豆を噛み、塩を舐め、野菜の断面を指で押した。
「店主、買わないものまで食べるの、やめたほうがいいよ」
ミーナが小声で言った。
「試食用に出されているものだ」
「さっきの豆屋さん、すごく嫌な顔してた」
「生で食うとは思わなかったんだろ」
「普通は煮る豆です」
リーゼが補足する。
「生で食べれば腹を壊す種類もあります。能力で安全だと分かるとしても、せめて店の人へ確認してください」
「食材鑑定だけで決める気はない。味を見るには、少し噛む必要がある」
「その結果、売り物を買わずに噛み、吐き出して歩く不審者になっています」
「代金は払った」
「豆一粒へ銅貨一枚を置いたせいで、余計に怖がられていました」
目的は味噌に近い発酵調味料である。
火竜の脂は、おそらく強い香りと熱属性の魔力を持つ。
塩味や澄んだスープでは、脂の力に負ける。
豆を発酵させた味噌なら、香りと旨味を重ね、脂を受け止められる可能性があった。
「発酵させた豆の調味料、ですか」
リーゼは市場の案内板を確かめた。
「東方商人が扱う《豆醤》か、鉱山地方で作られる《火豆味噌》が近いかもしれません」
「味噌があるのか」
「味噌と呼ばれているだけで、蓮司が知るものと同じかは分かりません。火豆を塩漬けにして、洞窟の中で発酵させた保存食です」
「どこで売ってる」
「あちらの発酵食品通りですが――」
リーゼは言葉を切った。
通りの入口には、商業ギルドの紋章を掲げた札が立っている。
その近くにいた商人が、蓮司たちの姿を見つけた途端、露骨に顔を背けた。
「ベルトランの指示か」
「可能性はありますね」
最初の店では、話しかける前から店主が首を振った。
「悪いが、お前には売れん」
「理由は」
「商業ギルドから、衛生監査中の店へ食品を卸すなという通達が来ている。問題が起きれば、売った側まで責任を問われる」
「代金を先に払っても?」
「金の話じゃない。商売を続けられなくなる」
「そうか」
蓮司は言い争わず、その場を離れた。
ミーナが不満そうに店を振り返る。
「もっと怒ると思った」
「店主を怒鳴っても、味噌は手に入らない」
「でも、ベルトランが意地悪してるんでしょう」
「商人にも生活がある。商業ギルドへ逆らって店を閉められたら困るのは、あの人だ」
「じゃあ諦めるの?」
「別の店を探す」
二軒目も断られた。
三軒目では、店の奥に商品があることすら否定された。
四軒目の老婆は、周囲を気にしながら小声で言った。
「売ってやりたいが、孫が店を継いだばかりでね。今、商業ギルドへ目をつけられるわけにはいかないんだよ」
「分かった」
「悪く思わないでおくれ」
「商売を守るのは当然だ」
蓮司が素直に引き下がると、老婆はかえって申し訳なさそうな顔をした。
「ただ、北門の外にいるドワーフなら、商業ギルドと喧嘩をして、今も自分で味噌を作っているよ」
「店か?」
「鍛冶屋だ」
「なぜ鍛冶屋が味噌を作る」
「酒のつまみにするためさ。名前はドルガン。口も性格も悪いが、あんたより少しは話が通じると思うよ」
「俺と会ったばかりだろ」
「あんた、食材以外の話になると、急に面倒そうな顔をするじゃないか」
老婆にまで見抜かれ、蓮司は少し不機嫌になった。
◇
北門近くの鍛冶工房《赤槌堂》は、遠くからでも場所が分かった。
建物の煙突から黒煙が上がり、金属を打つ音が通りへ響いている。
中へ入ると、背丈は低いが、横幅のあるドワーフが、真っ赤に熱した鉄を巨大な槌で叩いていた。
白髪交じりの髭は胸まで伸び、左眉の上には古い火傷の跡がある。
「依頼なら札へ書け。急ぎは三倍、値切る奴は五倍、気に入らん奴は十倍だ」
ドルガンは振り返らずに言った。
「味噌を売ってくれ」
槌の音が止まった。
「帰れ」
「まだ値段も聞いてない」
「ここは鍛冶屋だ。食料品店じゃねえ」
「火豆味噌を作っていると聞いた」
「誰からだ」
「市場の老婆」
「あの婆さん、余計なことを」
ドルガンは鉄を水へ入れ、激しい蒸気を上げた。
それから蓮司を頭から足先まで眺め、腰の包丁へ視線を止める。
「お前が、魔物を食う料理人か」
「食えるようにする料理人だ」
「同じだ」
「違う」
「面倒な奴だな」
「よく言われる」
「その返事で会話を終わらせるな。自覚があるなら直せ」
「味噌を見せてくれ」
「話を聞け!」
ドルガンは怒鳴ったが、工房の奥から小さな壺を持ってきた。
蓋を開けると、赤褐色の塊が現れる。
香りは味噌に近い。
ただし、焦げた麦、発酵した豆、燻製のような煙の匂いが強く、鼻の奥へ僅かな刺激を残した。
「舐めていいか」
「待てと言っても舐める顔をしてるな。少しだけだぞ」
蓮司は指先へ取り、舌へ載せた。
塩気が強い。
すぐに辛みが来る。
唐辛子のような辛さではなく、発酵した火豆が持つ魔力由来の熱が、舌から喉へゆっくり広がる。
そのあとに豆の深い旨味と、洞窟熟成らしい土の香りが残った。
「使える」
「何にだ」
「火竜の脂と合わせる」
ドルガンの顔から、呆れが消えた。
「火竜?」
「三日後の料理勝負で、火竜味噌ラーメンを作る」
「火竜を倒してから言え。若い個体でも、鉄級冒険者が包丁一本で触れる相手じゃねえ」
「一人では行かない」
「ほう」
「冒険者ギルドへ協力を頼む。俺は肉と脂を傷めず倒す方法を考える」
「だったら、なぜ俺の味噌が必要だ」
「火豆味噌だけでは塩気と熱が強すぎる。甘みを足し、脂と合わせても香りが尖らないよう調整する必要がある。お前が何年発酵させたか、豆と塩の割合、熟成中の温度も知りたい」
「買いに来た客が、作り方まで聞くのか」
「安定して料理を作るためだ」
「企業秘密って言葉を知らんのか」
「教えたくない部分はいい。ただ、毎回味が変わるなら、買えない」
ドルガンは蓮司を睨んだ。
蓮司も目を逸らさない。
やがてドワーフは、鼻を鳴らした。
「気に入らん」
「そうか」
「だが、味見もせず褒める奴よりはましだ。小壺一つ、銀貨二枚」
「高い」
「火豆を育て、三月発酵させ、毎日壺の機嫌を見てる。安くなる理由があるか」
「量を増やせば?」
「最初から値切るな」
「継続して買いたい」
「料理勝負で店が残ったら考える」
「では小壺一つ買う」
「素直に払うのか」
「価値がある」
蓮司が銀貨を渡すと、ドルガンは少しだけ機嫌をよくした。
「火竜の脂を手に入れたら、俺にも一杯持ってこい」
「金は取る」
「味噌を売っただろう!」
「味噌の代金は払った」
「本当に可愛げがねえな!」
「旨くなければ、代金は返す」
「そこは、必ず旨くするくらい言え!」
「必ずとは言わない。初めて扱う食材だ」
ドルガンはしばらく蓮司を睨み、それから豪快に笑った。
「面白え。持ってこい。旨かったら、お前の包丁を見てやる」
「包丁は問題ない」
「刃こぼれしてるぞ」
蓮司が包丁を見る。
岩鎧猪の岩皮へ弾かれた部分に、僅かな欠けがあった。
手入れはしていたが、前世の包丁ほど良い鋼ではない。
「勝負が終わったら頼む」
「代金は取る」
「当然だ」
ミーナが工房を出たあと、小声で言った。
「二人とも似てる」
「どこがだ」
「面倒なところ」
「一緒にするな」
「会ってすぐ、お互いの仕事の文句を言って、最後には次も会う約束をしてたでしょう」
「仕事の話をしただけだ」
「蓮司は、仕事の話しかできないのですか」
リーゼが尋ねる。
「必要な話はした」
「では、私たちと食事以外の話をしたことは?」
蓮司は考えた。
すぐに答えが出なかった。
「今は料理勝負がある」
「都合が悪いと、すぐ料理へ逃げますね」
「二人で同じことを言うな」
◇
その日の午後、冒険者ギルドで、火竜討伐隊への参加交渉が行われた。
依頼の対象は、火山地帯に棲みついた若い火竜。
成竜ほど巨大ではないが、火炎の息と鋭い爪を持ち、推奨等級は銀級以上。すでに山道で荷馬車二台が焼かれており、放置すれば町の交易へ大きな被害が出る。
「鉄級のお前を、前衛として入れることはできん」
ガルドは最初に断言した。
「前衛へ出る気はない」
「珍しいな」
「料理勝負までに怪我をしたくない」
「そこか」
「それに、火竜を興奮させすぎると、体温が上がって肉が硬くなる可能性がある」
「やはり、そこか」
討伐隊は、銀級冒険者三人、銅級五人、弓兵二人、治療師一人。
蓮司は解体と弱点の観察を担当し、ガルドの指示なく前へ出ないことを条件に同行を許可された。
「リーゼは?」
蓮司が尋ねる。
「怪我人だ。連れていけん」
「もう歩けます」
リーゼが反論した。
「歩けることと、火竜相手に戦えることは別だ」
ガルドは首を振る。
「竜血過多症が出れば、味方まで巻き込む可能性がある。悪いが、討伐隊の命を預かる立場として許可できん」
リーゼの表情が固まった。
「分かりました」
返事は冷静だった。
だが膝の上へ置いた拳が、強く握られている。
蓮司は口を挟みかけた。
しかし、何を言えばいいか分からない。
病気だから危険だというガルドの判断は、間違っていない。
だからといって、リーゼが傷つかないわけではない。
「リーゼには、店の仕込みを頼む」
蓮司は言った。
「同情ですか」
「違う。火豆味噌の調整と、麺の試作を任せたい」
「蓮司がいない間に?」
「ああ」
「配合は、蓮司が決めるのではないのですか」
「基本の配合は作る。そこから、火豆味噌の塩気を抑える材料を探してくれ。市場で買った甘根菜と、白角鹿の骨髄脂を少量ずつ試す。ミーナは匂いの違いを見る」
リーゼは蓮司をじっと見た。
「重要な仕事ですね」
「重要だから頼む」
「失敗したら?」
「捨てる前に、なぜ失敗したか残してくれ。帰ったら俺も確認する」
「作り直すのではなく?」
「作り直すかどうかは、三人で決める」
リーゼの拳から、少し力が抜けた。
「分かりました」
「本当に任せていいのか?」
ガルドが蓮司へ尋ねる。
「任せる」
「顔は心配そうだぞ」
「心配はする」
「信用してないのか」
「信用していることと、心配しないことは別だろ」
リーゼが僅かに微笑んだ。
「その言葉は覚えておきます。蓮司が戻ってきたとき、私の仕込みへ細かく文句をつけたら使います」
「文句は言う。間違っていれば直す」
「そこは変わらないのですね」
「変える必要がない」
役割は決まった。
翌朝、蓮司が火竜討伐へ同行する。
リーゼとミーナは店に残り、味噌ダレと麺の試作。
夜は三人で結果を確認し、翌日の仕込みへ移る。
綺麗に分担できた。
少なくとも、その時点では。
◇
問題は、その夜に起きた。
蓮司は、眠れなかった。
寝台へ横になっても、火豆味噌の塩気、白角鹿の骨髄脂の甘み、火竜の脂の量、麺へ混ぜる水分、審査員の人数、当日の提供時間が次々に頭へ浮かぶ。
明日は火竜討伐。
食材が手に入らなければ、料理そのものを変更しなければならない。
討伐に成功しても、脂の癖が予想と違えば、味噌ダレを一から作り直す必要がある。
眠らなければならない。
分かっている。
それでも目を閉じるほど、考えが増えた。
「配合だけ、確認するか」
蓮司は寝台を抜け出した。
一度だけ。
火豆味噌と甘根菜を合わせ、味の方向だけ確かめる。
それが終わったら眠る。
小屋へ入り、炉へ小さな火を起こした。
火豆味噌を一匙。
甘根菜をすり潰したものを半匙。
湯で伸ばし、味を見る。
「甘みが浮くな」
もう少し煮る。
焦がさないよう、弱火で水分を飛ばす。
味を確かめる。
「今度は、後味が重い」
白角鹿の骨から取った澄んだスープを加える。
もう一度。
塩気が薄まった。
火豆味噌を少し足す。
香りが強くなる。
青酔茸を乾燥させた粉を、ほんの僅か入れてみる。
「違う」
捨てる。
もう一度作る。
一度だけのはずだった。
気づけば、作業台には五つの小鉢が並んでいた。
外は暗い。
まだ夜中だ。
眠る時間はある。
「あと一つ」
六つ目。
骨髄脂を少量溶かし、火豆味噌と合わせる。
香りはまとまった。
だが火竜の脂が入れば、さらに重くなる。
酸味が必要かもしれない。
市場で買った赤実を刻む。
煮る。
味を見る。
悪くない。
「これなら――」
「何をしているのですか」
背後から聞こえた声に、蓮司の肩が僅かに動いた。
入口にリーゼが立っていた。
寝巻きの上へ外套だけを羽織り、銀色の髪も結んでいない。普段より幼く見える姿なのに、その表情は少しも柔らかくなかった。
「起こしたか」
「答えてください」
「配合を確認していた」
「眠る約束でした」
「眠れなかった」
「だから厨房へ来たのですか」
「少しだけ試せば、頭が落ち着くと思った」
リーゼは作業台の小鉢を数えた。
「少しだけで、七種類も作るのですね」
「今のが一番いい」
「時間は分かっていますか」
「夜明けまで、まだ二刻以上ある」
「明日は火竜討伐です」
「分かってる」
「分かっている人が、睡眠を削って試作をするのですか」
リーゼの声は震えていた。
怒っているからだけではない。
怖がっていた。
「二刻寝れば、動ける」
「動けるかどうかを聞いていません」
「では何だ」
「前世と同じ死に方をするつもりですか」
その言葉は、蓮司の胸へ真っ直ぐ突き刺さった。
「大げさだ」
「何が大げさなのです」
「一晩、少し寝る時間が減るだけだ」
「前の世界でも、毎回そう言ったのではありませんか。今日だけ、あと一時間だけ、この仕込みだけ。それを繰り返した結果、厨房で死んだのでしょう」
「今は身体も若い。能力もある」
「だから死なないと?」
「そこまでは言ってない」
「では、なぜ自分だけは大丈夫だと思えるのです!」
リーゼの声で、奥の部屋からミーナが顔を出した。
寝ぼけた目を擦りながら、作業台の小鉢を見る。
「店主、何してるの」
「試作だ」
「三人でやるって言ったでしょう」
「配合の土台だけは、俺が作る必要がある」
「どうして」
「二人には、まだ味噌ダレの完成形が分からない」
「店主だって、火竜の脂を食べたことないんでしょう」
「だから予測する」
「その予測を、あたしたちへ話せばいいじゃない」
ミーナの声から眠気が消えた。
「昼間、店主は、あたしに匂いを見ろって言った。リーゼには味噌の調整を任せるって言った。なのに寝たあとで、一人で完成させようとしてる」
「完成させてはいない」
「同じよ!」
ミーナは作業台を叩いた。
小鉢の一つが揺れ、味噌ダレが縁からこぼれる。
「任せるって言えば、任せたことになると思ってるの? 簡単な仕事だけ渡して、大事なところは全部自分でやるなら、あたしたちは店員じゃない。店主が一人で働くのを見てるだけでしょう!」
「そんなつもりはない」
「つもりの話じゃない!」
ミーナの目に、涙が浮かんでいた。
本人は気づかれたくないのか、乱暴に袖で目元を拭う。
「あたし、今日、何度も匂いを覚えた。味噌を少しずつ混ぜて、どれが甘いか、どれが臭いか、間違えないようにした。店主が任せるって言ったから、ちゃんと役に立とうと思った。でも店主は、あたしたちが寝たあとで、全部やり直すのね」
「やり直してはいない。明日の作業へ使う土台を――」
「同じです、蓮司」
リーゼが遮った。
「私たちが遅いから、失敗するかもしれないから、結局は自分が先に答えを作っておきたいのでしょう」
「料理勝負まで時間がない」
「時間がなければ、約束を破ってよいのですか」
「店が懸かっている」
「その店は、誰の店ですか」
蓮司は答えようとした。
三人の店だ。
数日前、自分でそう言った。
だが今の行動は、その言葉とまるで合っていなかった。
「蓮司が一人で始めた店です」
リーゼは続けた。
「最初の一杯を作ったのも、魔物を食材に変えたのも蓮司です。それは否定しません。ですが今は、ミーナが掃除と接客をし、私は麺と帳簿を手伝い、客たちも店が続くことを待っています」
「分かってる」
「いいえ。分かっていません」
「分かってると言ってるだろ」
「分かっているなら、なぜ一人で厨房へ立っているのです!」
言い返す声が、思ったより強くなった。
「俺がやらなければ間に合わないからだ!」
小屋の中が静まり返る。
言ってから、しまったと思った。
だが言葉は戻らない。
ミーナの耳が伏せられた。
リーゼはしばらく蓮司を見つめ、静かに尋ねた。
「つまり、私たちでは間に合わないと?」
「今の技術では、全部は任せられない」
「それは事実でしょう」
リーゼは意外にも否定しなかった。
「私は料理人ではありません。ミーナも、つい数日前まで調理場へ立ったことすらなかった。蓮司より遅く、失敗も多い。それは分かっています」
「なら――」
「ですが、蓮司は、私たちが失敗する時間を最初から奪っています」
リーゼは作業台へ並んだ小鉢を見た。
「任せて失敗されるより、自分がやったほうが早い。蓮司の言うことは正しいのでしょう。今日の一回だけを見れば」
相馬が言っていた。
店長の“まだ早い”は、いつ終わるんですか。
その言葉が、遠い前世から聞こえてくる。
「前の店でも、同じだったのではありませんか」
リーゼの声は穏やかだった。
それでも蓮司には、逃げられなかった。
「従業員へ仕事を任せた。けれど遅ければ取り上げ、失敗しそうなら自分でやり、重要な仕事は“まだ早い”と言って渡さなかった。それで皆が育たないことを、また自分が働く理由にした」
「……相馬にも似たことを言われた」
「その方は、最後まで蓮司を止めようとしたのでしょう」
「ああ」
「それでも蓮司は、死んだ」
言葉が重かった。
「私たちにも、同じものを見せるつもりですか」
「何をだ」
「止めても聞かず、一人で働き、最後には倒れる姿です」
「倒れない」
「約束できますか」
蓮司は口を開きかけ、閉じた。
絶対に倒れない。
そんな約束はできない。
人間は病気にもなり、怪我もする。
火竜を相手にするなら、なおさらだ。
「約束できないでしょう」
「誰にもできない」
「そうです。だから、倒れないようにするのです。皆で働き、誰か一人が無理をしていたら止める。そのための仲間ではないのですか」
仲間。
蓮司は、その言葉を自分へ当てはめたことがなかった。
従業員。
助手。
客。
取引先。
役割で人を分け、その役割を正しく果たすことを求めた。
仲間という曖昧な言葉は、仕事へ持ち込むには甘すぎると思っていた。
だが、前の店で相馬たちが欲しかったのは、仕事の分担だけではなかったのかもしれない。
一緒に店を作っていると、認めてほしかった。
「俺は」
声がうまく出なかった。
「俺は、店をなくしたくない」
「私たちもです」
「勝負に負けて、ここまで作ったものが全部なくなるのが怖い。客が来なかった初日より、今のほうが怖い。ミーナへ毎日飯を出すと約束した。リーゼの味覚が戻る料理も探すと言った。それが俺の失敗で終わるなら、自分で全部やったほうが納得できると思った」
口にすると、ひどく身勝手だった。
「私たちの失敗で終わるのは、納得できないのですね」
リーゼが尋ねた。
「そうじゃない」
「いいえ。そういうことです」
「……そうかもしれない」
蓮司は認めた。
「自分で失敗するなら、自分を責めれば済む。誰かに任せて失敗したら、その相手を責めるか、自分が任せたことを後悔する。それが嫌だった」
「では、私たちに責任を負わせないために、一人で責任を抱えるのですか」
「ああ」
「優しいように見えて、随分と傲慢ですね」
「分かってる」
「分かっていなかったから、今こうなっています」
「今、分かった」
リーゼは何も言わず、蓮司を見た。
やがてミーナが、鼻をすすりながら尋ねる。
「店主は、あたしが失敗したら怒る?」
「怒る」
「やっぱり」
「だが、失敗した理由を一緒に考える。店の金や客の命に関わることなら、二度としないよう厳しく言う。俺も判断を間違えたなら謝る」
「店がなくなるくらいの失敗だったら?」
「三人で店を閉める」
「一人で?」
「三人でだ」
ミーナは少し考え、頷いた。
「じゃあ、やらせて」
「何を」
「この味噌。匂いを見る。甘根菜と合わせるのも、店主が作った七つを比べれば、どれが火竜の脂に合いそうか考えられる」
「火竜の脂は、まだない」
「だから予想するんでしょう。店主と同じように」
蓮司は作業台を見た。
七つの小鉢。
自分一人で正解を探そうとした跡。
「分かった」
蓮司は場所を空けた。
「一番左は火豆味噌と甘根菜。二つ目は、白角鹿の骨髄脂を足したもの。三つ目は赤実の酸味を加えた。四つ目以降は――」
「待ってください」
リーゼが止める。
「今、全部説明すれば、私たちは蓮司の考えたとおりにしか味を見られません。まず何が入っているか隠して、私とミーナで好みと理由を選びます。そのあと材料を教えてください」
「目隠しで味を見るのか」
「料理勝負も、身分と作り手を隠して審査するのでしょう。同じ方法で試しましょう」
「悪くない」
「また、珍しく素直ですね」
「正しいから採用する」
リーゼは小鉢へ番号をつけ、並びを入れ替えた。
ミーナが一つずつ匂いを嗅ぐ。
「これは熱い匂いが強い。食べたあと、鼻の奥が痛い」
「味は?」
「塩辛い。でも、あとから甘い。最初の一口は好きだけど、たくさん食べると疲れそう」
「分かるか」
蓮司が尋ねる。
「鼻がいいって、仕事になるんでしょう」
「ああ」
「じゃあ、ちゃんと聞いて」
叱られ、蓮司は黙った。
リーゼも味を見る。
「三番がよいと思います。最初は少し酸味を感じますが、味噌の重さが後へ残りません。火竜の脂が強いなら、このくらい切れがあったほうが食べ続けやすい」
「私は五番」
ミーナが言う。
「少し甘くて、匂いが丸い。子供はこっちのほうが好きだと思う」
「では、大人向けと子供向けで分けるか」
蓮司が呟く。
「料理勝負へ出すのは一種類です」
リーゼが言った。
「間を取れば、どちらにも中途半端になる可能性があります」
「審査員には子供もいるのか」
「ベルトランとの契約では、貴族、商人、冒険者、鉱夫、貧民街から同数です。貧民街の代表に子供が含まれる可能性はあります」
「なら、脂の量で調整する。タレは三番を土台にして、火竜脂を少なくすれば、子供でも食べやすい」
「一杯ずつ変えるのですか」
「審査へ出す料理は同じにする。ただ、辛みと熱属性が強すぎる場合に備え、香味油を別添えにする方法もある」
三人で話す。
意見を出す。
途中で言い合いになる。
ミーナは甘みを増やしたがり、リーゼは後味の軽さを優先し、蓮司は火竜の脂が入った場合の変化ばかり考える。
一人で考えるより時間はかかった。
だが、自分では気づかなかった視点が増えた。
「三番を土台にする」
最終的に蓮司が決めた。
「ただし甘根菜を少し増やす。ミーナの五番ほど甘くはしない。赤実の酸味は煮詰めすぎず、最後に加える」
「店主が決めるの?」
「料理の最終責任は俺が持つ。ただ、二人の意見を使って決めた」
「それならいい」
「上からだな」
「仲間でしょう」
ミーナが言った。
蓮司は一瞬、返事に迷った。
「ああ」
今度は、きちんと答えた。
「仲間だ」
◇
味噌ダレの土台が決まったあと、リーゼが炉の火を落とした。
「では、眠ってください」
「あと、麺の加水率を――」
「明日です」
「討伐から戻ってからでは遅い」
「今から二刻眠り、夜明け前に起きれば、一刻だけ試作できます」
「一刻では足りない」
「では、討伐の出発時間を少し遅らせられないか、ガルド支部長へ相談します」
「隊を待たせるわけにはいかない」
「なら麺の試作を、私たちへ任せてください」
「味噌ダレに続いて?」
「一つだけ、最初の配合を教えてください。陽麦粉と水、塩の量。そこから三種類だけ作ります。水を多くしたもの、少なくしたもの、標準。蓮司が戻ってから選ぶ」
「生地の状態を見ず、数字だけで作るのは難しい」
「だから失敗する時間をください」
リーゼは、先ほどの言葉をそのまま使った。
「失敗しても、勝手に捨てません。蓮司が戻るまで残しておきます」
蓮司は迷った。
麺はラーメンの中心だ。
水分が一つ違えば、弾力も茹で時間も変わる。
だが、自分が討伐へ行く以上、すべてを抱えることはできない。
「分かった」
蓮司は作業板へ、三つの粉の山を作った。
「これが一人前の粉の量だ。標準は、この器の線まで水を入れる。多加水は指一本分上。低加水は指一本分下」
「秤が欲しいですね」
「勝負が終わったら買う」
「利益が出ればね」
ミーナが現実的なことを言う。
「水は一度に入れるな。最初に八割、残りは生地を見て加える。粉を握って、軽く固まり、指で触れば崩れるくらいが最初の目安だ」
「そこから、こねるのですね」
「急いで一つにまとめるな。水を全体へ回してからだ。ミーナは匂いだけではなく、生地の乾き方も見ろ」
「あたしもこねるの?」
「三種類作るなら、二人だけでは時間がかかる」
「店主もやる?」
「俺は寝る」
自分で言うと、少し不思議な響きだった。
リーゼが笑う。
「はい。ようやく正しい役割分担です」
「起きたら確認する」
「起きてすぐ厨房へ来る前に、水を飲み、何か食べてください」
「分かった」
「本当に?」
「今日は聞き返す回数が多すぎる」
「信用を取り戻す途中ですから」
それはもっともだった。
蓮司は寝台へ戻った。
まだ頭の中には、スープと麺と火竜のことが渦巻いている。
それでも小屋から聞こえる二人の声を聞きながら、目を閉じた。
「水、多くない?」
「一度に入れないでください。蓮司が八割と言っていました」
「八割って、どのくらい?」
「この線までの八割ですから……」
「文字の次は計算も教えて」
「私も料理の計算は、あまり得意ではありません」
「大丈夫かな」
「失敗する時間をもらったのです。まずやってみましょう」
不安だった。
すぐに起きて手を出したい。
それでも蓮司は、寝台から動かなかった。
やがて声が遠くなり、久しぶりに深い眠りへ落ちた。
◇
翌朝、蓮司が目を覚ますと、三種類の麺生地が布を掛けられ、作業台へ並んでいた。
一つは水が多すぎて、表面が柔らかい。
一つは乾きすぎて、端が割れている。
標準として作られたものは、こね方にむらがあり、表面も完全には滑らかでない。
どれも完成とは言えなかった。
「どう?」
ミーナが不安そうに尋ねる。
「正直に言ってよ。褒めるために嘘をついたら怒るから」
蓮司は一つずつ指で押し、切断面を確かめた。
「多加水は、水を最初に入れすぎた。あとから粉を足したから、場所によって硬さが違う」
「やっぱり失敗?」
「このまま麺には使えない。だが、薄く延ばして焼けば、まかないになる」
「捨てなくていいの?」
「食えるものまで捨てない」
次を見る。
「低加水は、こねる前の水回しが足りない。表面だけ押しても、中の粉がつながらない」
「はい」
リーゼが真剣に聞く。
「標準は、一番ましだ。まだむらはあるが、一晩寝かせたことで水が回ってる。もう一度こね直し、少し休ませれば使える」
「では、勝負用に?」
「試しに麺へして食う。火竜脂に合わせるなら、もう少し太くしたい」
「全部駄目ではなかったのですね」
「最初から全部うまくできると思ってたのか」
「思ってはいません。ただ、蓮司が黙って生地を触っている間、自分たちが余計なことをしたのではないかと、不安になりました」
「余計じゃない」
蓮司は標準生地を持ち上げた。
「俺一人なら、三種類を同時に試す時間はなかった。失敗した二つも、どこまで水を変えると駄目になるか分かった」
「役に立った?」
ミーナが尋ねる。
「ああ。よくやった」
今度は間を置かなかった。
ミーナの尻尾が立つ。
リーゼも少し驚き、それから笑った。
「少しずつ上手になっていますね」
「何がだ」
「人を褒めることが」
「料理より難しいな」
「では、もっと練習してください」
蓮司は麺生地を置き、火竜討伐へ向かう準備をした。
包丁。
血抜き用の布。
毒や魔力を遮断する革手袋。
《寸胴収納》の空き。
そして、リーゼとミーナが書いた、火竜から優先して確保する部位の一覧。
「背脂、肋骨、腿肉、心臓。舌も、できれば持ち帰る」
「舌まで食べるの?」
ミーナが嫌そうな顔をする。
「牛や豚の舌は旨い」
「火竜は牛でも豚でもない」
「だから確かめる」
「目玉は?」
「食える可能性はあるが、今回は時間がない。あとで調べる」
「あとがある前提なのですね」
リーゼが呆れる。
「最初の一頭で、全部分かるわけがない」
「次も狩るつもりですか」
「旨ければな」
蓮司が小屋を出ようとしたとき、町の警鐘が鳴った。
一度。
二度。
三度。
市場火災ではない。
魔物襲来を知らせる、重く長い鐘だった。
通りの人々が足を止め、北東の空を見る。
遠くに、黒い煙が上がっている。
冒険者ギルドの方向から、伝令の男が駆けてきた。
「緊急事態だ! 火山地帯の火竜が巣を離れた! 北街道の討伐隊が接触したが、止められず、火竜はラグナ方面へ向かっている!」
蓮司は伝令の腕を掴んだ。
「距離は」
「この速さなら、半日もない!」
「料理勝負は明日です」
リーゼが低く言う。
「ああ」
「それでも行くのですね」
「町へ来るなら、店に残っても戦いになる」
蓮司は二人を見た。
「ミーナ。店の食材と金を持って、ギルドの地下倉庫へ避難する。勝手に戻るな」
「店主は?」
「火竜を止める」
「一人で?」
「一人では行かない」
今度は、迷わず言えた。
「リーゼ。ガルドに、討伐隊の残った戦力と町の防衛配置を確認してくれ。お前は戦えなくても、火竜の習性を知っている。俺より役に立つ」
「分かりました」
「それから、二人とも」
蓮司は一度、言葉を選んだ。
「俺が勝手に前へ出ようとしたら、止めてくれ」
ミーナとリーゼが同時に目を見開いた。
「自分から頼むのですね」
「必要だからだ」
「料理人は素直じゃないと、昨日のドルガンさんへ教えてあげたいですね」
「今は行くぞ」
警鐘が鳴り続ける。
北東の空へ上がる煙は、先ほどより濃くなっていた。
料理勝負の食材として狩るはずだった火竜が、今度は町そのものを食い尽くそうとしている。
蓮司は包丁を腰へ差し直した。
「討伐じゃない、仕入れだと言いたいところだが」
その表情から、料理人としての好奇心が消える。
「まずは、客と店を守る」
三人は、それぞれの役割を持って走り出した。




