民宿と孫娘
紫陽花が美しい季節。
屋根を叩く雨音を聞きながら、色歌は中庭を眺めていた。
現代の世界に、姫と侍女が暮らした宮殿は存在しない。
中庭の中心で四季を語ってくれた桜の木も、過去の思い出になった。
珠景姫が生きた時代の名残は、時代の変遷と共に消えてしまったのだ。
宮殿があった場所には、神島家の自宅が建っている。
色歌が営む『民宿かみしま』としての役割も担う建物は、宮殿と同じコの字型をした平屋建ての屋敷だ。
形は同じだが、一つだけ違う点がある。
珠景姫の部屋だった場所には、家族と宿泊客を迎える立派な玄関が出来た。
民宿を始める際に、色歌が唯一こだわったのが玄関の位置だ。
今の玄関は、松浦坂商店街から坂を上って来た場所にあり、宿泊客が利用しやすいという利点がある。加えて、御神体がある地区への部外者の侵入を防ぐ目的もあるのだ。
しかし、この場所に玄関を作った一番の理由は別にある。
長姫制度に縛られていたあの頃。
珠景姫は宮殿での生活を強いられ、ずっと自室で過ごしていた。
自由に外に出て、自分らしく生きる。
そんな人生を求めて、姉さんは長姫制度の無い世界へ私達を導いてくれた。
もしも、姉さんが帰って来たら――
今度は何にも縛られず、好きな場所へと向かって欲しい。
自分らしく生きて、幸せな表情で帰って来て欲しいのだ。
珠景姫が居た場所に『どこへでも行ける扉』を作りたい。という色歌の譲れない思いによって、今の場所に玄関が移された。
御神体、小さなトンネル、民宿、松浦坂商店街、鈴鳴海岸。
珠景姫が眠る場所から島の玄関口まで続く一本道。
いつか、この道を通って、姉さんが行きたい場所に向かって欲しい。
そんな事を、お婆ちゃんになっても思い続けている。
今も変わらず、大好きだから――
「よっこいしょ。っと」
ゆっくりと立ち上がり、色歌は厨房へと向かう。
もうすぐ、孫が帰ってくる時間だ。
夕飯の支度をしながら孫の帰りを待つ。
いつからか、それが色歌の日課になっていた。
今日は宿泊客が居ない為、家族が食べる分だけを作っていく。
一度は家族を失ったが、結婚して新しい家族が出来た。
宮殿での仕事を中心に生きていた色歌は、二十代後半に二人の娘を授かる。
気分屋で口達者な長女、弥栄。
内気でお淑やかな次女、 史深。
結婚してお母さんになった娘達は、それぞれ育児に励んでいる。
最初に嫁に行ったのは、次女の史深だった。
嫁ぎ先は、侍屋敷家。舞風の三男と結ばれたのだ。
御三家同士での結婚は前例が無く、長姫制度が無い世界を象徴している。
まさか、自分達の子供が結婚するとは思わず、結婚式の際には舞風と笑いあった。
色歌と舞風。
侍女から母になった二人を、再び繋いでくれた子供達には感謝しかない。
長女の弥栄が結婚したのは、三十代になってからだった。
出産後も一緒に暮らしながら、今日まで民宿を手伝ってくれている。
そんな弥栄の一人娘であり、色歌の孫娘。
明日香が帰って来た。
「ただいまー。ねぇ、雨降り過ぎなんだけど。ほんと、最悪」
雨で濡れたショートヘアの黒髪をタオルで拭きながら、明日香はため息をこぼした。
高校三年生の明日香は、奥島高校の制服であるセーラー服を着ている。
傘を差して歩かずに、雨を浴びながら自転車で帰って来たのだろう。
「先にお風呂入っておいで。その間に、ご飯を作っておきますから」
「はーい。あ、聞いてよ。今日、先輩がさ――」
「濡れたままご飯食べるんですね。分かりました。今準備するので座ってください。椅子は濡らさないように座ってくださいね。少しでも濡らしたら、乾くまで座って――」
「あぁ、はいはい。今行きますっ! すぐ行きますよー」
早口で捲し立てる色歌から逃げるように、明日香は厨房を出て行った。
一人になった色歌は笑みを浮かべ、夕食作りを再開する。
孫と一緒に食事を楽しみたい。その一心で。




