奥汐咲温泉
夜空の下、牛が足を止めた。
大きな欠伸をしながら、青年が眠そうな声で呟く。
「着いたぞぉ」
荷車から降りると、大きな建物が二人を出迎えてくれた。
奥汐咲温泉 優海の郷。
山の奥にある温泉だが、宿泊が出来るのはこの旅館だけだ。小さな日帰り温泉施設が数カ所あるようだが、多くの客は優海の郷に宿泊しながら利用するらしい。
汐咲の町からも距離がある為、ここまで来るのは一苦労だ。
「おーい、早く行こうぜ。温泉入るんだろ?」
「あなたも泊まるんですか?」
「泊まるも何も俺の家だ」
「え」
「この旅館を営むのは、俺の親父なんだよ。長男が後継者で、次男の俺は旅館の畑と雑務を任されている訳。だから、俺の家で合ってるだろ?」
淡々と説明をしてくれた青年に、色歌は驚きの表情を見せる。
すると、青年は笑みを浮かべた。
「ここの次男だと知って態度を改める気か? 今なら許してやるぞ」
「あ、それは無いです」
「無いのかよ! 少しは考えろ」
「考えた結果、今日の宿泊料金を安くしてもらおうかと」
「ん……はぁ!? 何で! え、何で何で何で」
大きな声を出した青年は、目を見開いたまま立ち尽くす。
「不快な思いをさせられたので、そのお詫びに」
「何でお前が決めるんだ」
「だめですか?」
色歌は可愛い顔を作って、軽く首を傾げて見せる。
長い髪がふわりと揺れた。
「……わーったよ。特別だからな」
「ありがとうございます。ほら、小春もお礼を言いましょう」
「ども」
小春が初めて放った言葉は、あまりにも短かった。
たった二文字。感謝の言葉が夜の空気と戯れる。
「……ふふっ、あははっ」
笑いを堪える事は出来なかった。
そんな色歌を見つめ、小春と青年も表情を緩める。
「温泉、楽しみですね」
旅館へと歩き出す色歌の足取りは、疲れを忘れたように軽かった。
青年の交渉によって、特別に宿泊料金が半額となった。
旅館の二階にある個室へ案内された二人は、荷物を置いて浴場へと向かう。
今日は女性の宿泊客が他には居ないようで、女湯はいつでも貸切らしい。
汗をかいた身体を洗い流した後、二人は露天風呂へと直行した。
篝火の灯りが揺れる水面に足先を触れさせ、ゆっくりとお湯に浸かる。疲れた身体を包み込むお湯の温もりが心地良くて、色歌と小春は気の抜けた声を漏らす。
「ふわぁ、最高ですねぇ」
「ですねぇ」
星空見上げながら入る露天風呂は格別で、至福のひとときを与えてくれる。
見知らぬ土地を歩く緊張感からも解放され、二人の心も安らぐ。
「色歌さん」
「何です?」
「栄一さんとは、どうなんですか?」
「なっ、何ですか、急に?」
「お付き合い出来そうです?」
青年の前で一言しか喋らなかったのに、二人きりの環境になれば良く喋る子だ。
人見知りをする小春だが、心を許した相手の前ではいろんな表情を見せる。
「……さ、最近はあんまり話せていないので、特に進展もないです」
動揺する色歌を見て、小春は楽しそうな表情で笑う。
「なるほどなるほど。栄一さんのどんな所が好きですか?」
「いやあの……えっと、かっこよくて、優しくて、清潔感があって、一緒に居るだけで幸せを感じられるというか……はい、そんな感じです……これで良いですか?」
口元は緩み、顔も熱くなる。
温泉を楽しむ前に、のぼせてしまいそうだ。
「色歌さんは、栄一さんの何になりたいんです?」
「何にというのは……?」
「どんな関係になりたいですか? って意味です」
「……お、お嫁さんになりたいです」
「きゃははっ、良いですね」
色歌を手玉に取る小春は、もはや別の人格になってしまっている。
質問攻めによって心の砦が陥落する前に、色歌も反撃に転じる。
「小春は好きな人居ないんですか?」
「いません」
「結婚願望は?」
「あります」
「どんな人と結婚したいんですか?」
「おじいちゃんみたいな人」
「冗談ですよね」
「本気ですけど」
「え」
水面に波紋が広がっていく。
湯の音色だけが響く静かな場所で、二人は見つめ合う。
そして、静寂に耐えきれず笑い出した。
夜空の下に咲いた笑顔の花を、月明かりが優しく照らし出す。
旅の思い出に花を添えるように――
濃い一日も、もうすぐ終わる。
既に消灯した宿泊部屋で、色歌は天井を見つめていた。
明日に備えて早く寝たいのに、どこか心が落ち着かない。
宮殿や屋敷以外の場所で夜を過ごすのは今日が初めてで、誰かと同じ部屋で寝るのも珠景姫と過ごしたあの夏以来だ。
普段と違う環境に置かれた身体が、疲労と睡魔に抗っている。
「小春。まだ起きていますか?」
「起きてます」
隣の布団に寝ている小春は、色歌の方に身体を向けた。
色歌は天井を見つめたまま告げる。
「明日、宮殿に帰ろうと思います」
「……旅はもう良いんですか?」
「今日一日で島民の意見を沢山聞けたので、旅の目的は十分に果たせました。予算的にもこれ以上遠くには行けないですし、宮殿に戻って次に進みましょう」
分かりました。と隣で小春が呟く。
明日の予定が決まると、会話は途絶えてしまった。
夜の静寂に包まれる部屋のなかで、色歌は話題を探し始める。
心が落ち着かない限り、今日は眠れそうにない。
眠れずに朝を迎える事だけは、何としても避けたいのだ。
静かな空気に寄り添うように、色歌は小さな声で問いかける。
「……どうして、一緒に来てくれたんですか?」
色歌の素朴な疑問に、小春は穏やかな表情で答える。
「いつまでも、子供で居たくなかったので」
視線を天井に向けて、小春は語り出した。
「姫様と過ごせた最後の夏、私は十歳でした。あの頃は今よりも分からない事だらけで、侍女として生きるだけでも精一杯だったんです。姫様が亡くなった時も、現実を受け入れたくなくて、ずっと泣いていました」
でも。と小春は続ける。
「色歌さんは違ったんです。一番辛いはずなのに、誰よりも冷静に行動していました。混乱する私達に寄り添ってくれて、大人達への説明もちゃんとこなして……泣かずに前を向く姿は、子供らしくありませんでした。大人だったんです」
「……お別れの時間を取れた私には、何も知らずにあの日を迎えた人達を支える責任がありました。冷静に行動出来たのは使命感に突き動かされていたからで、涙が出なかったのも前日に沢山泣いていたからです…… 小春が思っているほど、私は凄くないですよ」
色歌の言葉に、小春は小さく首を振った。
「誰かの為に頑張れる人は、凄いです」
返す言葉が無かった。
隠れた心の傷を癒すように、小春の言葉が沁み渡る。
涙が込み上げて来た。
「あの夏、私が憧れた色歌さんと同じ歳に、もうすぐなるんです。ずっと頑張ってきた色歌さんを支える為に、私も大人になりたい。少しでも成長したくて、挑戦の一歩を踏み出しました」
それに。と言葉を繋げる。
「色歌さんと一緒にお出かけしたかったので」
小春は色歌の方に視線を戻すと、あどけない笑顔を見せた。
その可愛い顔を目に焼き付けたくて、色歌も小春に目を向ける。
涙で視界がぼやけてしまい、小春の顔は良く見えなかった。
目に溜まった涙を流さないように、色歌は静かに目を閉じる。
「……ありがとう……」
素直な想いを吐露した色歌の心は、落ち着きを取り戻していた。
慣れない環境による緊張も解れ、身体も疲労と眠気を受け入れ始める。
小さな欠伸をした後、色歌は少しだけ目を開いた。
はっきりとは見えないが、隣には綺麗な顔立ちの少女が寝ている。
微睡の中で、色歌は穏やかな声で呟く。
「おやすみ……姉さん」
「おやすみ、色歌。――夢の世界で会おうね」
遠くから聞こえた声はどこか幼くて、不思議なくらい優しかった。
或る夏の一日は、こうして幕を閉じた。
希望に満ちた明日を迎える為に――




