牛と青年
夕陽色に染まる景色に、ひぐらしの声が溶けていく。
奥汐咲温泉を目指して歩いているが、未だに辿り着けていない。
朝から長い距離を歩いて来た二人の足も、そろそろ限界が近づいていた。
「小春。大丈夫ですか?」
「はい。まだ頑張れます」
温泉までの距離が分からない以上、ひたすら歩き続けるしかない。
おばあさんに詳しい情報を聞いておくべきだったと、後悔しながらも前に進む。
「こんな時間に可愛い女の子が二人……おいお前ら、どこ行くんだ?」
突然声をかけられた二人は、立ち止まって声の主を探す。
すると、道沿いの畑から一頭の牛が姿を現した。
「おい、聞いてんのか?」
「牛が……」
「牛さんが……」
「「喋った」」
二人の困惑した声が重なる。
「んな訳ねぇだろ! 俺だ俺」
声の主を探すと、牛が曳く荷車の上に一人の青年が乗っていた。
大柄の青年は逞しい腕を組んで、色歌と小春の事を見下ろす。
「お前ら……どこまで行くつもりだ?」
「奥汐咲温泉の方に向かっていました」
「何の為に?」
「温泉に入りたいので。あと、宿泊場所も探しています」
青年は畑の方を指さして、二人の視線を誘導する。
「奥に底なし沼とも言われる腐った水溜りがあるから、そこで入浴すると良い。あとそこにある物置小屋を使って寝て良いぞ。快適とは無縁な夜に出会えるさ」
にやりと笑う青年を見て、色歌はため息を漏らす。
「ご親切にありがとうございます。あまりにも馬鹿すぎて、疲れも吹き飛びました。おかげでまだ歩けそうです。感謝です、感謝。では失礼しますね。今度、底なし沼の湯加減を教えてください。生きていれば、の話ですけど。それでは」
早口で捲し立てて、色歌は再び歩き出した。
小春もべーっと舌を出して、色歌の後を追って歩き出す。
「冗談だ冗談」
「あなたの事ですか?」
牛を置いて追いかけて来た青年に、冷たい視線を向ける。
「辛辣だなぁ、おい」
「謝る気が無いなら、その牛と仲良く遊んでいてください。あなたにかまってあげる程の体力は残っていないので」
「……わーったよ」
青年は二人の前に出ると、地面におでこを擦り付けるような勢いで土下座して見せた。
「お疲れのところ、お時間と労力を奪ってしまい、すみませんでしたー」
「はい」
一言で対応した色歌は、土下座する青年の横を通り抜ける。
「おいおい、待ってくれって」
「あーもう、何なんですか!」
青年の声を背中で受け取ってしまい、色歌は足を止めて後ろを振り返る。
すると、安堵の表情を浮かべた青年がゆっくりと歩いて来た。
「詫びのしるしに、温泉まで送ってやるから。荷車の後ろに乗って良いぞ」
「あなたのお詫びという形で乗せてもらうので、後からお礼を要求しないでくださいね。あと、私達に触れる事は絶対にしないように。良いですか?」
「お、おう……」
「では、よろしくお願いします」
色歌は軽く頭を下げた後、青年の背景に目を向ける。
「ところで、良いんですか?」
「何が?」
「あなたの牛、どこかへ行きましたけど」
「へぁ? あっ! おい、どこ行くんだ!」
牛は荷車を曳いたまま、汐咲の町へと続く坂道を下っていく。
呑気に離れていく牛を必死に追いかける青年と、その姿を眺めて笑う二人の侍女。
姫奥島は今日も平和だ。
数分の時が過ぎ、青年は牛を連れて戻って来た。
逞しい腕で汗を拭った青年は、荷車の後方を指差す。
「待たせたな。後ろに乗ってくれ」
牛が曳く荷車の後ろに、色歌と小春は並んで腰掛けた。
進行方向に背を向けて座った二人は、ここまで歩いて来た道を眺める。
もう汐咲の町は見えなかった。
綺麗な海も、木々の向こうに隠れてしまっている。
「出発するぞ」
二人を乗せた荷車がゆっくりと動き出す。
牛の歩く速さに合わせて進む荷車は、思っていたよりも乗り心地が良かった。
ここまで頑張って来た足を休めながら、牛車に揺られ続ける。
隣に座る小春に目を向けると、可愛らしい欠伸をしていた。
「疲れましたね」
小春は口元を両手で隠して頷く。
夕陽色に染まる景色を眺めながら、色歌は今日の旅を振り返る。
歯の無い老人、呉服屋の娘、お面職人、腰の曲がったおばあさん、牛と青年。
印象深い人達との出会いを思い出し、充実した一日を過ごせた事に気づく。
「今日は出会いと発見の連続でした」
多種多様な意見を聞くなかで導き出した答えを、小春にも伝える。
「私達は宮殿という小さな世界で育ったので、時代の流れに取り残されている事を知らなかったんです。先代の咲月姫がどれだけ愛されていたかも、島民にとって長姫制度は既に他人事だった事すら知らなかった」
夕空を見上げ、色歌は告げる。
「変わらなきゃいけなかったのは、私達の方みたいです――」
珠景姫が作ってくれたきっかけは、島民の心を動かす事が目的じゃない。
時代の変革を恐れていた御三家に現実を突きつけ、前に進ませる為のものだ。
三年の時を経て、珠景姫の命の意味が問われる。




