汐咲の港町
目指していた港町が見えてきた。
海湾に沿うように建物が立ち並び、その向こうには小さな山が佇んでいる。
澄んだ青空。光を照り返して輝く海。深緑に覆われた山。
夏が似合う景色へと、船が近づいていく。
島一番の漁獲量を誇る汐咲湾の港へ、二人は降り立った。
「まずは、ご飯を食べる場所を探しましょうか」
初めて訪れた汐咲の町をゆっくりと歩いていく。
潮の香りが漂う町は不思議と静かで、人の気配も感じられない。
「誰も居ませんね」
これでは聞き取り調査どころか、昼食を済ませる事も出来ない。
知らない土地を彷徨う事を避ける為に、玄関戸を開けている家を訪ねてみる事にした。
玄関戸を軽く叩き、大きな声を発する。
「すみません。誰かいらっしゃいませんか?」
色歌の声が響いた後、家の奥から物音が聞こえた。
玄関前で待っていると、腰の曲がったおばあさんがゆっくりと姿を現した。
色歌と小春がお辞儀をすると、おばあさんは嬉しそうに微笑む。
「若いお客さんだねぇ。珍しいこと」
玄関先まで出てきてくれたおばあさんは、置いてあった木箱の上に腰を下ろす。
「今は私しか居ませんけど、何かご用でしたか?」
「お呼び立てしてすみません。近くにお食事を頂ける場所はありますでしょうか? 町を歩く方に聞こうと思っていたのですが、一人も見当たらなくて……」
「この時間は漁に出たり、他の町に出向いている人が多いからね。夜になれば賑わうお店も、この時間はどこもやってないねぇ」
「そうなんですね……教えていただき、ありがとうございました」
色歌が頭を下げると、小春も同じように頭を下げた。
そして、行く宛ても無いまま歩き出す。
「良かったら、うちで食べていくかい?」
おばあさんの声が、色歌を引き止める。
「……良いんですか?」
「ええ。狭い家だけど上がってって。今準備するから」
おばあさんは、ゆっくりと家の中に戻って行く。
残された色歌と小春も、その後を追うように中に入った。
「「お邪魔します」」
二人を居間に案内した後、おばあさんは台所に行ってしまった。
手伝おうと思ったが、見透かされたように『座ってて』と言葉を残された。
線香の香りがする和室には、一つの家族が生きた歴史が刻まれている。
傷の入った家具。穴が開いたままの障子。無造作に積まれた日焼けした本。部屋の端で干されている古い着物。畳の上に転がる徳利。料理が並ぶのを待つちゃぶ台。
御三家に生を亨けなければ、こうした環境で生まれ育ったのだろう。
そんな事を考えていたら、おばあさんが二つの丼鉢を持って戻って来た。
「お待たせ。余り物で作った物だけど、腹の足しにはなるはずよ」
ちゃぶ台に置かれた丼鉢を見て、色歌は目を輝かせる。
白米の上には、タコ、ヒラメ、エビの刺身が盛り付けられていた。
「ありがとうございます! 有り難く頂きます」
「あら、醤油が無いね。今持ってくるから」
おばあさんは再び台所に向かうと、醤油と自分の丼鉢を持って戻って来た。
三人で小さなちゃぶ台を囲い、手を合わせて食材に感謝を告げる。
「「「いただきます」」」
まずは醤油をかけずに、海の幸を口へと運ぶ。
食材が持つ本来の味を堪能した色歌は、思わず笑みをこぼす。
「このお刺身最高ですね! 凄く美味しいです」
黙々と食べているも小春、いつになく幸せな表情で食事を楽しんでいる。
「喜んでもらえて良かった。ゆっくり食べてね」
嬉しそうに微笑んだ後、おばあさんも昼食を取り始める。
会話もせず食事を楽しんでいたら、あっという間に丼鉢は空になった。
美味しい海の幸と白米は、色歌の活力へと姿を変える。
食べ終えた色歌を見て、おばあさんは話を切り出す。
「二人は旅をしているのかい?」
色歌は自己紹介を済ませた後、この町を訪れた理由を話した。
そして、珠景姫の死や長姫制度に関する考えを聞きたいことも伝える。
おばあさんは少し考えた後、思いを語ってくれた。
「この町の人々は、あまり関心が無いかもね。昔の長姫は我儘だったし、御三家も横暴で身勝手だったから、不満を抱く人達も多かったけど……今はそうじゃないからねぇ。良くも悪くも、互いに干渉していない」
島全体に長姫の権力が及んでいた頃は、この地域の人々も長姫や御三家の動向に注目していたはずだ。
しかし、時代の変遷に伴い、長姫制度に翻弄される人の数は減少の一途を辿る。
御三家の目が届かなくなった町は、独立した自治活動が行えるようになっていった。
漁業の町として栄えている汐咲には、そうした歴史的背景があるらしい。
「咲月姫が島民に寄り添う統治をしてくれた事もあって、長姫や御三家に不満を抱く人々は激減したの。今の平和な暮らしがあるのは、彼女のおかげね」
島民の話を聞く度に、咲月姫の偉大さを思い知らされる。
長姫制度の話をして最初に出てくるのは、咲月姫の名前ばかり。
珠景姫の事を語ってくれる人は、宮殿と関わりがある人だけだった。
多くの島民は咲月姫の逝去と共に、長姫制度という特殊な文化から乖離していたのかもしれない。
珠景姫の死や長姫制度に関心を抱く人が少ないのは、既に他人事になっていたからだ。
あの夏に起きた前代未聞の大事件。
十七歳の若さで長姫に昇格し、島の未来を変える為に命を使った珠景姫。
その遺志を継ぎ、長姫制度を終わらせようと奮闘する侍女達。
今思えば、小さな箱の中で生きていたのだろう。
時代の流れに取り残されていたのは、私達の方だ――
色歌が思考を巡らせている間も続いていたおばあさんの話に、再び耳を傾ける。
「――長姫制度が無くても、多くの島民は変わらずに生活していけると思うよ。珠景姫が望んだ世界はすぐに実現出来る。頑張ってね」
励ましの言葉を受け取り、色歌と小春は頭を下げる。
「貴重なお話を聞かせていただき、ありがとうございました」
「こちらこそありがとうね。頑張る若い子を見て、私も元気をもらいました」
おばあさんは嬉しそうに微笑む。
「この後は、どこに向かうの?」
「近くの町まで足を伸ばそうと思っていましたけど、場所は特に決めていないです」
「山の奥に温泉があるの。奥汐咲温泉。少し遠いけど、そこに寄ってみたら?」
「温泉……行きましょう、色歌さん」
小春から期待の眼差しが向けられる。
計画を立てずに出てきたが、今日はどこかに宿泊しなければならない。
ここまでの移動で、足にも疲労が蓄積していた。
「奥汐咲温泉には、泊まれる所もあるんでしょうか?」
「一番大きな建物が、宿泊も出来る温泉だよ」
「分かりました。今日はそこでお世話になろうと思います」
奥汐咲温泉へ向かう事を決めた色歌は、小春に視線を戻す。
小春は目を輝かせながら、『やった』と嬉しそうに笑った。
「そろそろ行きましょうか。日が暮れる前には温泉に着きたいですし」
色歌が手を合わせたのを見て、小春も姿勢を正して手を合わせた。
昼食を作ってくれたおばあさんと、食材に感謝の思いを告げる。
「「ごちそうさまでした」」
「お粗末様でした」
食器を片付けに行った後、おばあさんは玄関先まで見送りに来てくれた。
最後に握手を交わし、二人は温泉を目指して歩き出す。
潮の香りが漂う汐咲の町を出て、山の奥にある奥汐咲温泉へ。
緩やかな坂道を少し上った辺りで、色歌は後ろを振り返る。
港町の向こうに広がる汐咲湾の海は、清々しいくらいに青く綺麗だった。




