旅の始まり、農家の老人
世界が目を覚ます。
朝陽に照らされた宮殿は、まだ寝静まっていた。
今日、色歌と小春は小さな旅に出る。
宮殿を出た二人は、清々しい朝の空気を吸い込んだ。
「行きましょうか」
海に向かって伸びる長い坂道をゆっくり下って行く。
「まずはどこに行きますか?」
「近所の農家と、お世話になっている呉服屋さん。あと、夏祭りの時に使ったお面を作ってくれた面工房に顔を出そうと思います。その道中で会った人にも、積極的に声をかけていきましょう」
木々に囲まれた道を抜けると、田園風景に出会った。
幼少期に珠景姫と駆け回った場所であり、どこかへ行く際には必ず通る道でもある。
まずはこの地区で農家を営む人達に声をかける予定だ。
「あの、色歌さん。お話を聞きに行く時、どういう風に声をかけたら良いですか? あんまり人に話しかける事がないので、その……ちょっと分からなくて」
「なるほど……では、私がお手本を見せるので、真似してみてください」
小春の不安を払拭する為にも、まずは見て学んでもらう事にした。
畦道で作業をしている老人を見つけた色歌は、大きく手を振って駆け寄って行く。
「おはようございます! 色歌ちゃんですよー!」
やって気がついた。
もう私は十七歳だ。
しかも、相手は見知らぬ御老体であり、この挨拶の本質が伝わる可能性も低い。
老人との距離が近づくにつれ、気まずくなる未来も迫ってくる。
足を止めれば意気地無し。振り返れば後悔間違いなし。
このまま突き進むしかなかった。
「……んぉんだ。あっからどすてんだ、あっはっは!」
色歌の挨拶を受け取った老人は、陽気な笑い声を響かせる。
何て言ったのか、全く聞き取れなかった。
互いの顔が見える位置で色歌は足を止め、再び老人に声をかける。
「珠景姫の侍女・神島色歌です。農家の方ですか?」
「あそんだぁ、こめづごってらまんでさ、こっしでかんれくだ」
「……すみません。もう一度、言っていただけます?」
「あぁいよ。だこりゃさ、くくどこめづってらまんでさ、こっしでかんれくよ」
「ここでお米を作っていて、今年で還暦になるそうです」
色歌を追って来た小春の言葉を聞いて、老人は嬉しそうに頷いた。
「ほろ、ひゃがねべ。どこらうもけしゃばろんのせ」
「歯が無いので、上手く喋れないそうです」
「……何で聞き取れるんですか?」
「祖父も歯が無かったので」
どこか嬉しそうに小春は教えてくれた。
「……ここは小春にお任せしても良いですか?」
「お任せください」
島民に聞きたい内容は、既に共有してある。
色歌は少しだけ離れた場所に移動して、真面目に仕事をする小春を見守った。
それから、数分後。
老人に一礼した小春は、色歌の方へと戻って来た。
「代わりに聞いてくれて助かりました。ありがとうございます」
「お役に立てて嬉しいです」
「ちなみに、どんな事を言ってました?」
「『歯が無いと大変だぞ。歯は大切にな』と語っていました」
「……他には?」
「『膝と腰が痛いのは、本当に辛い。身体を労って生きろ』と教えていただきました」
「えっと……小春さん。長姫制度の話は聞きました?」
小春は口を閉ざして視線を落とす。
「忘れたんですね」
「昨日のことも覚えていませんでした」
「あ、忘れたのはあの人ですか」
小春は笑いを堪えながら頷く。
その姿を見ていたら、色歌も笑いが込み上げて来た。
互いに黙ったことで生まれた沈黙が悪戯し、二人は耐えきれずに笑い出す。
農家の老人に手を振って、二人は再び歩き出した。
青田風に揺れる稲を眺めながら、次の目的地へと向かう。
会話の無い時間が続くなか、先に口を開いたのは小春だった。
「ところで、色歌さん」
「何です?」
「あれを、私もやるんですか……?」
あれ。お手本として見せたあの挨拶。
脳内で再生された音声によって、色歌は頭を抱えたくなった。
「……いつも通りの丁寧な挨拶を推奨します」
「小春ちゃんですよー」
「え、意外と意地悪ですね」
「可愛いですか?」
「それ私のやつ!」
驚いた表情の色歌を見て、小春は悪戯っ子のような笑みを浮かべる。
いつもは涼しげな顔で過ごしている小春だが、小鈴と一緒に居る時は素直に笑う事も多かった。珠景姫と過ごした僅かな時間も、楽しそうにしていた記憶がある。
本当は感情豊かな子なのかもしれない。
自分が心を開いた人にだけにしか、素直な表情は見せないのだろう。
隣で笑う小春を見ていると、不思議と心が温かくなる。
自分にも心を開いてくれている事が、素直に嬉しかった。




