悪夢
肌に感じる母の温もり。
もう何年も感じていない温かさは懐かしくて、どこか切ない。
母である咲月姫と過ごせた時間は短かった。
幼少期。咲月姫は宮殿に住み、珠景姫と色歌は神島家の屋敷で暮らしていた。
宮殿に遊びに行かないと、母に会う事は出来ない。
それが私達の日常だった。
ただでさえ、母と過ごす時間が少ない姉妹に、運命は残酷な追い打ちをかける。
色歌が七歳になった年、咲月姫はこの世を去った。
母の愛を感じる事はもう二度と叶わない。
だから、これは夢だ。
弱った心が作り出した淡い幻想。
居心地が良くなる前に、目を覚ます必要がある。
でも、現実世界に戻ったところで、私の大好きな家族は一人も居ない。
母さんと姉さんは、もう生きていないのだ。
このまま眠り続ければ、二人が居る世界へと行けるかもしれない。
そんな事まで考え始めてしまい、色歌は夢の底へと溺れていく。
すると、咲月姫と珠景姫の姿が見えてきた。
大好きな二人を見つけた色歌は、笑みを浮かべて近づいていく。
声をかけようと手を伸ばした時、二人は姿を消した。
そして、代わりに大扇が姿を現す。
大扇は母と姉の私物を地面に投げつけると、壊れた物を踏み潰した。
その光景は、珠景姫の絵を燃やされた時と酷似していた。
悪夢だと分かっていても、色歌の身体は目覚めようとしない。
何も出来ずに立ち尽くしていると、大扇はある物を色歌に見せた。
『珠景姫と色歌のツーショット写真』
最後に姉妹で撮った一枚は、色歌の心を支える宝物だ。
珠景姫の姿を残した唯一の写真でもあり、その価値は計り知れない。
大扇は不敵な笑みを浮かべると、色歌の前でその写真を破り捨てた。
裂かれた姉妹の景色が、無惨に散っていく。
「やめてっ!」
色歌の悲痛な叫びが響き渡る。
悪夢から解放された。
意識が現実世界に馴染んでいく。
乱れた呼吸を整えながら、色歌はゆっくりと身体を起こした。
全身に嫌な汗をかいていて、少しだけ気持ち悪い。
自室の布団で眠っていた事に気づいた色歌は、安堵の息を漏らす。
ここで寝た記憶が無く、どれだけ眠っていたのかも分からない。
障子の向こうは薄暗くて、夜を迎える時間帯なのだろう。
「色ちゃん? 大丈夫?」
優しい声と共に、ゆっくりと障子が開く。
夜に染まり始めた夕空を背に、舞風が部屋に入って来た。
布団の横に腰を下ろした舞風は、色歌に水の入った湯呑みを手渡す。
「ありがとうございます」
貰った水で乾いた喉を潤していく。
舞風と会った事で、悪夢に怯えた心も少しだけ落ち着いた。
「怖い夢でも見た?」
「……悪夢でしたね。本当、嫌な夢でした……」
未だに状況を理解出来ていない色歌は、舞風に問いかける。
「あの……私は……」
「色ちゃんは、気を失って倒れちゃったの」
「……ずっと意識を失っていたって事ですか?」
「うん。双子ちゃんと交代で傍に居たんだけど、ずっと目を覚まさないから心配したよ。意識が戻って、本当に良かった」
舞風は安堵の笑みを浮かべる。
「あの後の事、聞いても良いですか?」
「えっと、どこから話したら良いかな……風ちゃんが来た事は覚えてる?」
「はい。あの人に叩かれた事も、風瑚さんが来てくれた事も覚えています。炎から遠ざけられた辺りから、記憶が無いですね」
「そっか。意識を失った色ちゃんはこの部屋に運ばれて、傷を負ったお父さんは軽い手当をした後に本州の病院へと向かったの。大怪我では無かったらしいけど、本人の希望ですぐに島を出て行ったみたい。だから、今は居ないんだ」
「もう帰って来なくて良いです」
本音を吐露した色歌は、一つの疑問を投げかける。
「風瑚さんは、どうなったんですか?」
「風ちゃんは……無事だよ。大丈夫。元気元気っ!」
いつになく不自然な舞風の口調に、色歌は疑いの目を向ける。
「隠さずに教えてください」
「あぁ、えっと……離婚する事になった。そして、今は実家で謹慎中……」
「え」
「一応、色ちゃんのお父さんは御三家当主の一人だし、刃物で傷つけたとなれば、流石に重い処分は免れないよ。それに、男尊女卑の世の中じゃ、正義の行動さえも悪に書き換えられちゃう」
色歌のせいで、風瑚は離婚する事になった。
自由に暮らす環境を奪われ、実家で謹慎する日々を送る事になる。
神島家の親子喧嘩が、風瑚の人生を変えてしまったのだ。
「……すみません。私がもっと冷静に対処していれば……」
「色ちゃんは悪くないよ。そもそも、姫ちゃんの絵を燃やし始めたお父さんが悪いし、風ちゃんも自分の意思で助けに行ったんだから」
それにね。と舞風は続ける。
「風ちゃん的には良かったと思うよ。元々、政略結婚で上手くいってなかったし、『一人になれて清々したわ』って言ってたもん」
「でも……」
「もしもの時には私がいるから大丈夫。色ちゃんは、お姉ちゃんとの約束の為に生きて」
「はい。ありがとうございます」
二人の会話が落ち着いてから間もなくして、舞風と交代する為に小春がやって来た。
目を覚ました色歌を見て驚いた後、ホッとしたように表情を緩める。
「じゃあ、交代だね。後は春ちゃんに託した」
「お任せください」
色歌の傍に居る役割を引き継いだ小春は、凛々しい表情を見せた。
頼もしい十歳の少女の頭を優しく撫でた後、舞風は帰路に着いた。
心身が落ち着いた色歌は、廊下に出て外の世界を眺める。
秋の夜空と目が合った。




