(33)自殺二秒前だった男
【 真田 理人の場合】
--カロンッ。
真田の扉を開ける動きに合わせ、カウベルの独特な音色が響いた。ここは、橙色のランプが目印の珈琲店だ。
「いらっしゃいませ。一名様ですか? お好きな席へどうぞ」
黒縁眼鏡をかけた秀麗なマスターがカウンターからこちらに向かって微笑んでいる。
「いえ、五人なんですが……」
真田は店内を見渡した。
L字のカウンター席が五つと、四人掛けのテーブル席が二つ。カウンター席の左端に男性が一人、テーブル席の一つには女性が一人座っている。
「すみません。またの機会にします」
五人では座れそうにない為、真田が店を出ようと踵を返したその時、テーブル席の女性に呼び止められた。
「私が席を移動します」
女性が上着を持って立ち上がる。
「宜しいのですか?」
「はい。私は一人ですから、カウンター席でも問題ありませんので」
「有り難うございます」
真田と同年代だと思われるその女性は、ふんわりとしたウェーブの掛かった長い髪をしている。全体的に優しい雰囲気をまとっており、話す声も穏やかだった。
常連なのか。カウンター席へと移動した女性は、マスターと気さくに話をしていた。
「では、テーブル席に三人と二人に分かれて座らせて頂きます」
真田はマスターと女性にそう告げて、店の外で待っている四人を呼んだ。
「うわ〜。幻想的な雰囲気! 素敵ですね、真田先生」
先頭で店へと入ってきた美空が、瞳を輝かせている。店内は、天井まで伸びた備え付けの書棚が左右の壁際にあり、洋書とランタンがいくつも並べられている。
ランタンは火を使ったものではなく、中に電球があるようで燃える心配はなさそうだった。
「だろ? 窓から少し見える店内が気になって、ずっと入ってみたいと思っていたんだ」
嬉しそうな美空の隣で、雨宮がこっそりと美空に耳打ちする声が真田の耳にも聞こえた。
「いつもちょいダサな真田先生らしくない、オシャレなお店だね」
「あーまーみーやー。聞こえてるぞ」
「あ、褒めてますから! 顔はイケメンなのに服が微妙にダサい真田先生。俺、大好きなんで!」
恩師と言いつつ軽口を叩いてくる教え子に苦笑する。けれど、雨宮が誰にでも懐くタイプの人間ではないと知っているので、これも雨宮なりの信頼の証だろうと真田は納得していた。
「本当に素敵なお店ですね」
二人の後ろから入ってきた初音も店内を見渡し声を弾ませている。そして片側のテーブル席へ腰を下ろしていた。その正面に座った真島が、彼女の嬉しそうな表情を満足そうに見つめている。
もう一方のテーブル席に、雨宮と美空、そして真田の三人で座る事にした。雨宮と美空は隣同士に並んで、仲良くメニューを見つめている。
『真田先生! 美空ちゃんと付き合う事になりました!』
雨宮からそんな連絡をもらったのは、三ヶ月程前になるだろうか。楽しそうな元教え子たちを眺めていると、こちらまで幸せな気分になってくる。
そして今日は、初音と真島の二人から報告したい事があると言われ、先程まで小町の家に全員集合していた。
そこで、二人から結婚するという報告を受けたのだ。その後、水寺家からの帰りに五人でお茶でもしようという事になりここを訪れていた。
「二人とも嬉しそうでしたね」
初音から結婚の報告を受けた小町と健次郎は、涙を流して喜んでいた。
「はい。初めて家に伺ったあの日から、お二人ともすごく優しくして下さって……。自分に祖父母ができるなんて、まだ夢のようです」
初音は小町と健次郎の二人から、自分たちに万が一の事が会った時は、家やその他の財産を相続して欲しいと頼まれたそうだ。
「私の朧げな記憶だけでしたので、万が一、記憶違いなんて事があったらと思って……。お二人と私のDNA鑑定を申し出ました」
そして、正式に血縁関係が証明された。
初音の正面に座っている真島も、「良かったですね。日比野さん」と自分の事のように喜んでいる。
「そう言えば……。真島先輩はまだ敬語なんですね?」
雨宮が隣のテーブルを覗き込むようにして、相変わらず初音の事を『日比野さん』と呼び敬語で話している真島に突っ込みを入れる。
「それ、俺も気になってたな。日比野さんもまだ、『真島くん』って呼んでますよね」
真田も言葉を挟むと、二人が顔を見合わせ笑いながら理由を説明してくれた。
「僕ら社内恋愛で、しかも同じチームの先輩後輩でして……。それに当初は、日比野さんが僕の指導係でもあったので」
「プライベートで近しい間柄になると、部署異動させられるんです。もう少しこのコンビで仕事がしたくて、結婚が決まるギリギリまで会社では内緒にしようって二人で決めました」
「うっかり『初音さん』とか呼ばないように、それまでは名前と言葉遣いをそのままにしてたんです」
「なるほど」
話にひと段落がついたタイミングで、マスターが淹れたての珈琲を運んできた。
途端に、深い香りがテーブル席一体を包み込む。
「お待たせ致しました。コロンビアの中深煎りと、サントスの深煎りです」
五人とも珈琲に詳しくなかった為、注文前に色々と質問して決めたものだが、正直まだ、豆の名前を言われても良く分からなかった。
「ところでマスター。店の入り口にある、あの貼り紙は何ですか?」
気になっていた事を質問する。
「あれは、何か話したい事がある人に、気軽に話をして頂ければと思いまして……」
「話とは、何でもいいのですか」
「なんでも構いません。ただ、相談事であったとしても、何も解決は致しませんが……。名前も知らない相手だからこそ、気兼ねなく話せる事もあるかと思いまして」
真田が頷いていると、正面の美空も質問し始めた。
「それは予約制ですか?」
「いえ。ご来店の際に、カウンターの左端の席が空いていれば、すぐにでもお話を伺います」
マスターが、ピンッと指を伸ばした掌で座席を指し示す。思わず、五人揃ってその左端を見つめた。
そこには、全身黒のスーツ姿の青年が座っている。
一気に集中した自分への視線に気付いたのか、青年がビクリッと肩を揺らしていた。一瞬だけチラリッとこちらを振り返った青年は、短髪ではあるけれど長い前髪が瞳を半分以上覆い隠している。
「あの、僕も質問いいですか?」
今度は真島が身を乗り出して、マスターに問い掛けた。
「マスターは、この辺の事情に詳しそうですが、ラッキーキャットをご存知でしょうか?」
瞬間、カウンター席の青年が「ぐふっ」と珈琲を吹き出し咳き込みだした。
「だ、大丈夫ですかね……。あちらの方」
「問題ないかと」
心配する真田に比べ、マスターはこの状況をどこか楽しんでいるようにさえ感じる返答だ。
「あの黒猫の事は、もちろん僕も存じております。皆さんは、ラッキーキャットのおかげで、何かいい事があったのですか」
「ええ。ここにいる全員が見事に幸せを頂きまして、もっとちゃんとお礼を伝えたいので、また会えたらと思っているのですが……」
真田の言葉に、マスターはチラリとカウンター席を見つめると、「大丈夫ですよ。その気持ちは届いていると思うので」と呟いた。
「え?」
聞き返す真田の言葉には答えず、にこやかに一礼してマスターがカウンターの中へと戻って行く。
「ラッキーキャット様にも、結婚式に出席して欲しかったですねー。日比野さん」
真島と初音は、ラッキーキャットに指輪を咥えて、バージンロードを運んでもらえたらと、そんな願望を話している。
カウンター席の青年は、何故かラッキーキャットの話題になる度に咳き込んだり、カップを持つ手が震えたりと、どこか居心地が悪そうだった。
その度にマスターは、笑うのを堪えるかのようにうつむいて肩を揺らしている。
真田がしばらくカウンターの様子を見つめていると、始めに席を譲ってくれた女性が席を立ち、店を出るようだった。
女性に向かって真田は頭を下げる。女性も一礼して店を出て行った。
また、会えるだろうか。
不意にそんな思いが浮かび上がり真田は驚く。
女性に対してそんな風に思うのは、本当に久しぶりの感覚だ。
「ん?」
その時、自分が座っている座席の隣の椅子に、文庫本が乗っていたことに気付いた。
そこは、もともと彼女が座っていた場所だ。恐らく席を移動してくれた際に置き忘れたのだろう。
席を譲ってくれた女性がいた事を四人に告げて、真田は忘れ物を手渡すため、急いで珈琲店を飛び出し彼女を追いかけたのだった。




