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(34)自殺二秒前だった男②


 彼女は、何を読んでいたのだろう。


 真田の手に握られた文庫本には、ラベンダー色の綺麗なブックカバーが付いている。

 彼女が店を出てすぐに忘れ物に気付けた事もあり、少し走っただけで雑踏の中にその姿を見つける事ができた。


「あの、すみません!」


 真田の呼び声に、彼女が振り返る。

 真田を見つめ、なぜ呼び止められたのだろうと不思議そうな表情を浮かべていた。


「これ、あなたの本じゃないですか」


 真田が文庫本を差し出すと、「あ」っと女性が声を上げる。


「私のです。うっかり置き忘れていたんですね。わざわざ追いかけて下さって有り難うございます。考え事をしていて、カウンター席に移ってからは、本の存在を忘れていました……」


 文庫本を受け取りながら、女性が恥ずかしそうにうつむく。


 最初に感じたものと同じ、柔らかな雰囲気とその声に、癒しのようなものを感じて真田は口元を綻ばせた。


 前の学校で、生徒からひどい濡れ衣を着せられる事態となり、一番信じて欲しかった婚約者にまで真田は疑いの目を向けられた。

 

 黒猫がくれたきっかけで小町を救う事ができ、なんとか生きる活力を取り戻す事ができたが、それ以後は女性に対して苦手意識が芽生えてしまい、もうずっと恋ができずにいる。


 そんな真田の中に、忘れてしまいそうだった感情の芽が、小さく顔を出したような温かさが胸の奥に広がった。


 忘れ物を届けるという目的はすでに完了している。けれど、名残惜しくて動き出せないでいた。


「あの……」


 その時、女性の方が真田に向かって言葉を掛けた。


「……あの」


 何度か躊躇して言葉を止め、けれど意を決したように続きを声にする。



「先生と呼ばれてらっしゃるのが聞こえたのですが、教師を、されているのですか?」



 その問いは、先程までの柔らかな声と違い、ひどく思い詰めたような響きをしている。


「はい。高校の教師を……。同じテーブルに座っていた二人が卒業生で、私の事を先生と呼んでいます」

「そうなんですね。卒業生と一緒に珈琲店に来るなんて、生徒と仲が良いんですね」


 そう言って、彼女がどこかぎこちない笑顔を浮かべた。


「羨ましいです」


 そして、聞き逃してしまいそうな程の小さな呟きを漏らす。


「あなたも、教師を?」


 真田の問いに、彼女がうなずいた。


「でも、もう自信がなくて」


 進学校の特進クラスを受け持っていた彼女は、励まし、鼓舞する姿勢で、熱意を持ってクラスの生徒達と接してきたと話した。


 ある日。そんな彼女のクラスで、優秀な一人の生徒が不登校になったという。


「クラスで一番の成績優秀な生徒でした。二学期に入って、思うように成績が伸びず悩んでいて、私はずっと励ましの声を掛けていたのですが……」


 その生徒の両親から学校にクレームが入った。


「先生の指導の言葉に、娘が傷付いたと言っていると、母親が突然学校に怒鳴り込んで来ました」


 しかし、彼女が生徒を叱責したり、声を荒げて指導をした事実はなく、そんなやり取りを見かけた生徒が一人もいない事から、学校が彼女に何か処分を下す事はなかった。


 生徒の親にも、調査結果を教頭から報告し、ひとまずは母親の怒りもおさまったようだが、その生徒は結局、今も不登校となっているとの事だった。


「生徒から直接理由を聞けないままなので、本当の事は何も分かりません。でももしかすると、生徒には私の励ましが苦しかったのかもしれないと、そんな風に思えて」


 学校に来る事ができなくなってしまった生徒への罪悪感。そしてこの先も、自分の言葉一つで簡単に生徒達の未来が変わってしまう事があるという恐怖。

 その時から、彼女は生徒に何も言えなくなってしまったという。


 ただ教科書通りに授業を進め、当たり障りの無い事しか言わない。授業中にスマートフォンで動画を見る生徒がいても、眠る生徒がいても。


「注意することが怖くて……」


 何をしても怒らない。

 いつしか生徒から馬鹿にされるようになり、今では信頼関係など何もない。そんな、教師になっていた。


「私、なにやってるんだろう……」


 やり切れない思いがこもった声に、真田は心からの共感を込めて言葉を返した。


「難しいですよね。……自分も、いろいろあったので」


 真田が苦笑すると、驚いたように彼女がうつむいていた顔を上げた。


「そうなんですか?」

「はい。私は、自殺まで考えました」

「え?」


 その言葉に衝撃を受けたのか、彼女の瞳に戸惑いの色が滲む。


「でも、今は前を向いています」

「何かきっかけがあったのですか」


 問われて、真田は頷いた。



「黒猫に救われました」



 その一言が、あまりにも予想外だったのか、彼女は「え? ね、猫……ですか?」と驚きの声を上げる。


「あなたは、ラッキーキャットをご存知ですか?」


 彼女が首を横に振った。


「幸せを、運んでくれる黒猫です」

「そんな猫がいるんですね。私も……、会えるかな」


 思い詰めていた彼女の表情が、少しだけ和らいだような気がする。


 その時ふと、真田の頭の中にあの珈琲店の貼り紙が浮かんだ。



「もし、もし宜しければ……。またいつでも話を聞くので、ただ聞くだけで解決はできないかもしれませんが。それでも話す事で、あなたが楽になるなら……、私があなたの話を聞きます。いつでも、言って下さい」



 彼女は驚いたように目を見開いて、それから、「ありがとうございます」と、ふんわりとした柔らかな笑みを浮かべた。


「私、あの珈琲店が好きでよく行くんです。でも、マスターに話をした事はなくて……。そこまでは、なかなか勇気がでず……。もし、もしまたあの店であなたとお会いできたら、その時はもっとゆっくり、私の話を聞いてもらえますか?」


 その言葉に、真田も微笑む。



「勿論です。帳珈琲店で、また会えたら」

「はい。また、帳珈琲店で会えたら」



 互いに一礼して、真田は彼女に背を向けた。

 それは約束と呼ぶにはあまりに不確かな、約束の一歩手前のような言葉だったけれど、きっとまたあの店で会えるような、そんな気がする。


 真田が小走りで珈琲店に戻ると、四人全員がニヤニヤした顔でこちらを見ていた。


「な、なんで、そんな顔で……」


 戸惑う真田に雨宮が突っ込んでくる。


「なんかすっごく時間掛かってましたけど、仲良くなれたんですか?」

「は? 仲良くなんかなってない。名前だってまだ知らないし」

「まだって事は、これから知るつもりなんですよね?」

「や、そう言う訳じゃないが……。また、ここで偶然会うかもしれないだろ」

「偶然ねぇぇーー」


 雨宮が、意味ありげに語尾を伸ばす。

 

「そ、それより! 珈琲が冷めてしまったから、また何か頼もうかな」


 四人の視線を遮るようにメニューを開き、真田はよく分からない珈琲豆の名前を、分かった振りをしながら見つめたのだった。


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