(30)夢なんか見ない女③
健次郎の言葉でその場が静まり返った。
初音は言葉なく土下座している健次郎を見つめる。
小町が布団の上から這い出るようにして、健次郎の腕を掴んだ。
「に、二ヶ月前に亡くなっているって……どう、どういう……どういう事なの」
「電話が掛かってきた」
流れる涙もそのままに、健次郎が顔を上げて話し出した。
他県の自治体から水寺家に電話が入ったのは、ちょうど二ヶ月前の出来事だったらしい。
それは、高架下に寄り集まって生活していたホームレスの一人が風邪を拗らせて亡くなり、仲間の一人が遺体をどうすればいいかと自治体の窓口に相談してきた事で発覚した。
自治体から警察へ連絡して調べてもらったけれど、その時は身元が分かるものは見当たらず、その遺体は不明のまま法律に則り火葬された。
その後一定期間遺骨を保管したのち、身元不明者や身寄りのない者を埋葬する無縁塚に、遺骨が埋葬される段取りが組まれていたようだった。
その後、近隣住民から高架下近辺の治安についての苦情が多く寄せられていた事から、高架下のホームレスについて強制移動が開始され、ダンボールとビニールシートで作られたホームレス達の寝床の下から、砂に埋もれた宗一の身元を示す古い免許証が見つかったという。
「自治体からの電話をとった後、すぐに遺骨を引き取りに行った」
ちょうどその時は、小町が一番体調を崩し床に臥していたので、健次郎が一人で外出しても小町がそれを不思議に思う事はなかったのだろう。
「宗一が亡くなった事をお前が知ったら、ますます体調が悪化するのではないかと思って……」
健次郎は遺骨を小町の目に入らないようにして黙っていた。その後も小町の体調が芳しくなく、言い出す機会を失ったまま今日に至ってしまったとの事だった。
「何度も言おうとしたが、宗一の写真を握り締めるお前を見たら……どうしても……どうしても……言い出せなかった」
初音にとってもそれは驚きの内容だったけれど、小町にはもっと大きな衝撃だったに違いない。そしてそれを一人で胸の内に抱えていた健次郎もまた、やり切れ無い思いをしていただろう。
押し潰されてしまいそうな重い沈黙の中で、初音は無意識に小町と健次郎へ向かって手を伸ばしていた。
「私の名前は……初音といいます。初めての音と書いて、初音です。この名前は、父がつけました」
自分と父親を繋ぐもの、それはもう名前しかない。
初音にとって憎しみの鎖でしかなかったものが、今、自分と目の前の老夫婦を繋ぐ一筋の糸に思えた。
あの父親が、何を思って自分にその名をつけたのかは知らない。それでも、この名前をつけたのが父であると、小町と健次郎にどうしても伝えなければいけない。そんな気がしたのだ。
その時ふと、嬉しそうに弾んだ母の声が初音の耳の奥で蘇った。
『初音。その名前はね、パパが付けたのよ。綺麗な響きね。初音、大好きよ。名前も、あなたも!』
初音の中で色濃く残っていた記憶はどれも、憎しみのこもった母の声だった。
けれど、かつては母も愛を込めてこの名を呼んでいた。その声を、思い出せたのだ。
そんな風に呼んでもらえたのは、短いひと時の間だったのかもしれない。それでも、初音が娘として愛された時間は、確かに存在していた。
「この名前は、……父が、つけました」
初音の伸ばした手を、小町と健次郎が震える手で握り締める。
「そう、あの子が付けたの? そんな美しい名をあのこが……。初音さん。初音ちゃんっ。なんて……素敵な名前かしら。初音ちゃん、初音ちゃん……。会いに来てくれてありがとうっ……。あの子の……宗一のせいで、たくさん辛い思いをしたのでしょう? ごめんなさい! ごめんなさいね。それなのに……会いに来てくれてっ」
泣き崩れる小町の横で、健次郎も泣きながら何度も頭をこちらへと下げる。
「申し訳ない。申し訳……なっ……。初音ちゃんっ……。私たちに、会いに来てくれて有り難う。本当にっ……本当に有り難う。孫に、まさか孫にっ……」
痩せてしまった細い手で、それでもしっかりと小町が初音の手を握り締めている。その上からは、健次郎の手が二人の手を抱き締めるように包み込んでいた。
小町と健次郎にとっては、息子の最期を看取れなかった事など、色々と思う事はあるだろう。健次郎はわだかまりを残して別れたままで、小町は思い続けた再会が叶わぬままとなった。
それでも、こうして会いに来た事を二人はこんなにも喜んでくれた。勇気を出しここへ来て良かったと、初音はそう思う事ができた。
「もし……もし、初音ちゃんが……嫌じゃなければ、また……またここに……」
遠慮がちに問われた小町の言葉に、初音はうなずく。
「会いに来ます」
初音の言葉で、不安げだった小町と健次郎の表情にほんの少し安堵の色がさしたのが見えた。
初音は涙に濡れた目で、この様子を見守ってくれていた真島へと視線を向ける。この場にいる誰よりも、激しく涙を流している真島がそこにいた。
自分の為にこんなにも泣いてくれる人がいる。
なんて、幸せな事なのだろう。
そして縁側にいた黒猫も、小町の部屋の窓辺から中の様子を眺めていて、まるで状況を理解しているかのようにポロポロと涙を流していた。
初音は改めて、真島とこの黒猫のお陰だと思い、心の中で一人と一匹に「ありがとう。だいすき」と、つぶやいたのだった。




