(29)夢なんか見ない女②
初音は、小町の家の前にいた。
緊張で固まる初音の手を、隣に立つ真島がそっと握ってくれている。こうして会いに来る決断が出来たのも、真島がいたからだ。
二人で一緒に朝を迎えた翌日。
初音は改めて小町の息子の事について考え、小町に会いに行く決断をした。
真島から雨宮へ、そして真田と美空へ連絡を入れてもらい、美空からお隣さんである小町へと話を通してもらった。そして、全員の都合を擦り合わせた二週間後の今日、こうして家を訪ねる事になったのだ。
雨宮たちは、隣の美空の家で話が終わるのを待っているとの事だった。
「じゃあ、押します」
「うん」
真島の指が小町の家のインターホンを押す。その音が響くと、すぐに老夫が扉を開けてくれた。
「水寺 健次郎です。話は、隣の美空ちゃんから聞いております」
静かに一礼して顔を上げた健次郎の表情にも、緊張の色が浮かんでいるように見える。
「日比野と申します。宜しくお願いいたします」
「真島と申します。本日は同席させて頂きます」
健次郎に案内されて、初音は真島と一緒に家の中へと足を進める。廊下を歩く途中、ガラス戸の向こうの縁側に黒猫がいるのが見えた。
「あ……」
奥にある小町の部屋の様子を、黒猫は心配そうに見つめている。真島もそれに気付いたようで、互いに視線で頷きあった。
襖を開けた部屋の中に、布団の上で上半身を起こした老婦人がいる。
「こんな格好で、ごめんなさいね」
「いえ。お身体に触るようでしたら、すぐにおっしゃって下さい」
「お気遣い有り難う。二人とも、来て下さって嬉しいわ。美空ちゃんから話を聞いて……居ても立っても居られなくて……。来て頂いて早々だけれど、これが、出ていった頃の宗一です」
逸る思いを止められないように、小町は握り締めていた写真をこちらに差し出した。
初音は不安な思いを胸にそれを受け取る。
父親の顔は、もう覚えていない。
けれどそれは、無意識の自己防衛で思い出さないようにしている可能性が強いと、施設の先生に言われた事があった。
父親は、初音が一生許さないと決めた男だ。
もしかすると写真を見つめた瞬間に、とてつもない怒りで心が潰れそうになるかもしれない。
あの男の両親である小町達にも、ひどい暴言を吐いてしまうかもしれない。
決断したはずなのに、写真を持つ手が震える。
そんな初音の背に、そっと温かい手の平が触れた。真島がくれた温もりに、もう一人ではないと勇気が湧いてくる。
真島と視線を交わして頷き、初音は深呼吸をしてから写真の中の男を見つめた。
その瞬間、靄のかかった記憶の残像が、写真の中の人物と同じ顔でくっきりと蘇っていく。
『金は?』
働こうともせず、ギリギリの状態で頑張る母に向かって言った非常な男の声が、初音の耳の奥で反響した。
湧き上がる怒りに奥歯を噛み締める。
落ち着けと心で叫びながら、胸に手を当て深い呼吸を繰り返した。
初音は小町と健次郎を見る。
そして、しっかりと頷いた。
「……父です」
初音の言葉に小町が息を飲む。
その時。
小町の隣にいた健次郎が、突然、小町と初音の二人に向かって床に頭を擦り付けるように土下座をした。
「死んでいるんだ……あいつは……、宗一はもう、二ヶ月前に亡くなっているんだ! 黙っていてすまなかった」
あまりに突然の告白に、状況が分からず混乱する。
その場にいる全員が言葉を失い。すすり泣く健次郎の声だけが、その部屋の中に響いていた。




