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(28)夢なんか見ない女


日比野 初音(ひびの はつね)の場合】



 公園で告白された後、初音は自宅の前まで真島に送ってもらった。その道中もずっと、真島は告白する前と変わらない態度で初音に接してくれている。


「恋愛の好きとは別に、僕は先輩としての日比野さんもちゃんと尊敬してますけど」

「けど?」

「僕自身はイマイチ、後輩に尊敬されてないんですよね……」

「そんな事ないんじゃない」

「やー、そんな事ありますね。雨宮とか最近は、面と向かって『真島先輩は尊敬キャラではないっすね』とか言ってくるし」

「ふふっ。そうなんだ」


 思わず初音が笑うと、「笑って良かった」と真島が初音以上に嬉しそうにする。振り返るといつも、こんな風に気を配ってくれていたと初音は思った。


 この人柄に、どれだけ救われただろう。


 会社で初めて会った日もそうだった。

 夢を諦めたと話す真島に、初音は酷い言葉で相手の夢を否定した。定職についていないというだけで、勝手に父親と重ね合わせてしまい、言葉に棘を含んでしまう。


『諦めて正解ね』


 その時も真島は、『夢の引き継ぎを済ませてきた』と笑って話をしてくれたのだ。

 そこに至るまでにはきっと、様々な葛藤もあったはずだ。初音の発言に対して、腹立たしい思いを飲み込んでくれたに違いない。


 一緒にランチに行った日もそうだ。

 肩についた糸くずを取ろうとして、真島は初音の首元へ手を伸ばした。その手を、初音は思い切り払いのけたのだ。

 心を病んだ母親に首を絞められた初音のトラウマを知らない相手からすれば、あからさまな拒絶に気を悪くしたり、以後は萎縮して距離を置かれるのが普通だろう。


『僕、距離感バカってよく言われるんですよ! コンプライアンス的にアウトな時は、どんどん言って下さいね!』


 あの瞬間でさえ、笑いかけてくれた。

 どうしようもなくホッとして、たまらないほど嬉しかった事を思い出す。


『これは、日比野さんが持っていて下さい』


 初音のポケットには、公園で真島が持たせてくれた『ラッキーがたくさん詰まった五百円』が入っている。

 ラッキーキャットが大好きな真島にとって、この五百円玉は何より価値がある御守りに違いない。それを、初音に譲ってくれた。


「真島くん。あの、よかったら……うちでご飯、食べていかない?」

「え? い、いいんですか?」


 自宅マンションの前で初音がそう問い掛けると、真島がひどく驚いたように声を大きくした。


 告白の返事を保留している相手を部屋に誘うなど、確かに驚かれて当然だったと気付き初音は焦る。

 少しでも何か真島にお礼がしたくなり、無意識のように口を出た言葉がそれだった。


「公園から、結局ご飯を食べずに戻ってきたから……。お腹空いてるかなって思って……それで……、でも告白してくれた人に対して、返事もせずに家に誘うとか失礼だよね。ごめんね」


 咄嗟に頭を下げる。


「ありです!」

「え?」


 初音が顔を上げると、真島がキリッと胸を張った。


「犬にエサをあげるつもりで僕にご飯を与えてもらって大丈夫です! 告白に関しては、長期的にも『待て』ができる男なんで!」

 

 胸を張るような、格好いい台詞ではなかったけれど……。真島らしいなと、気付けばまた笑っていたことに初音は気付いた。


 そして思う。

 真島と出会ってからまだ数ヶ月しか経っていないというのに、これまで生きてきた日々以上に、自分は笑えているのではないかと……。


「ありがとう。真島くん」

「へ?」

「ううん!」


 部屋の鍵を開け、「どうぞ」と、初音はスリッパを勧めた。


 昨年までは奨学金の返済があり、初音は狭小ワンルームに住んでいた。今年になってようやく返済を終えて、1LDKに住めるようになったのだ。


 リビングに真島を案内すると、チェストの上に置いてある写真立てに近づき、「子供の頃の日比野さんですか? 可愛いっすね」と眺めている。


「五歳の頃かな。隣にいるのが母なの」


 二人で笑っている写真。

 初音の手元には、この一枚しかない。

 母は相変わらず精神科の入退院を繰り返しているようで、幼いあの日の別れから、再会を果たす事は叶っていなかった。


「ご飯作ってくるから、楽にしててね」


 真島に声を掛け、初音はキッチンへ向かう。冷蔵庫の中を見つめて、何ができるだろうとメニューを考えた。


 鶏肉と玉ねぎと卵があり、親子丼を作ることにする。


「今からご飯を炊いたら時間が掛かるし、今はレンチンでいっか」


 保存用で置いているレトルトの白米を二つ、引き出しから取り出した。再び冷蔵庫の中を見つめると、豆腐とエノキに目がいく。


「お味噌汁はこれを使って、あともう一品は……。あ、先に飲み物!」


 お茶も出さずに待たせていた事に気付き、初音は急いでグラスをトレーに乗せてリビングへ向かう。まだ写真を見ていたのか、真島がこちらに背を向けていた。


 そして、微かに聞こえた囁き声に、初音はトレーを持ったまま動けなくなる。



「有り難う、幼い初音さん。君が頑張ってくれたお陰で、僕は今、大きくなった君に出会う事ができました」



 真島の小さな呟きに、初音は息を飲んだ。


 今もずっと初音の心の最奥に、うずくまり膝を抱えて泣いている少女がいる。

 凍てついた氷の棘に覆われた箱庭から出る術を知らない少女が、真島の声に導かれるように顔を上げたような気がした。


 学生の頃に一度だけ、初音は児童施設外の友人に自分の身の上を話した事がある。

『重過ぎて引く』

 影でそう言われていた事を知り、それ以後は自分の過去を誰にも話せなくなった。

 冷静に考えれば確かに、一般的な学生には引くような内容だったのだろう。それでも、その重過ぎて引くような日々が、初音が生き抜いてきた証そのものだったのだ。



「有り難う、小さな初音さん」



 繰り返されたその言葉で、箱庭の少女を縛る氷の鎖が、一つまた一つと、連鎖するように解けていく。


 少女が……あの頃の初音が、照れくさそうに、けれどたまらないほど誇らしげに笑う顔が見えた気がした。


 真島はいつも、初音が欲しいと願った言葉を簡単に見つけてしまう。公園で、愛の言葉をくれた時もそうだ。


『あなたが嫌いなその名前を、僕が代わりに愛してもいいですか』


 写真を覗き込む少し丸まったその背中に、たまらない程の愛しさが込み上げてくる。

 初音は持っていたトレーをテーブルに置き、思わずその背に抱き付いていた。


「うわっ……え? ひ、日比野さん?!」

「真島……く、……ありが、とう」


 認めてくれて。


「ありがとう」


 愛してくれて。


 今の自分だけでは無い。

 あの頃の初音にも愛をくれた。


 公園では状況が落ち着くまで返事を待って欲しいと言ったけれど、初音の中で愛しい想いが溢れ出して止まらなくなる。



「私もあなたが好き」



 真島の心音が急激に大きくなったのが、抱き付いた背中越しに伝わってくる。ゆっくりと振り返りこちらを向いた真島に、正面から強く抱き締められた。


「本当ですか?」

「うん」


 温かい両手に頬を包み込まれて、静かに瞳を伏せる。

 重ねた唇から伝わる熱にまた愛しさが込み上げてきて、初音は彼の服を握り締める手に力を込めたのだった。


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