表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
24/38

(23)夢を諦めた男②


 ライブハウスの近くにあった公園のベンチに初音を座らせ、真島は自動販売機に足を向けた。初音の様子が気掛かりで急いで投入口に五百円玉を入れようとして手が滑り、それが砂の上を転がっていく。


「あっ」


 側溝へ向けて真っ直ぐに転がる五百円玉。溝の中へとそれが落ちる寸前、飛び出してきた黒猫が素早くそれを前足で押さえた。


「え? ラッキーキャット様?」


 真島の声に、黒猫はハッとしたようにこちらを見た後、オロオロとした様子で視線を漂わせている。その仕草はどう見ても、「しまった! 思わず身体が動いてしまったけれど、この後どうしよう」と戸惑っているような顔だった。


 いつ見ても、この黒猫の動きや表情は、どこか人間のようで面白い。


「あの……。それ、有り難うございました」


 肉球の下にある五百円玉を指差し、驚かさないように声のボリュームを抑えて話し掛ける。


「それから、雨宮のことを見つけてくれて有り難うございます。あいつの歌を、気に入ってくれて有り難うございます。これからも、公演見に来て下さいね」


 そう言って真島が笑うと、垂れ下がっていた尻尾をピーンと立て、まるで返事をするかのように勢いよく左右に振ってくれた。そして、五百円玉を咥え、恐る恐るこちらに近付いてくる。


「え?」


 黒猫の方から近寄ってくれるなんて初めてだ。真島がそっと掌を差し出すと、咥えていた五百円を乗せてくれた。


 うぉおおおーーー!

 ラッキーキャットさまぁあああ!


 その場で叫び出しそうな嬉しさを必死に心の中に押し込めて、真島は「有り難うございます」と黒猫に頭を下げる。その毛並みに触れて、思う存分モフってみたかったけれど、初音の事が気になり真島は自販機へと引き返した。


 冷たいお茶と温かいお茶を一本ずつ買って、駆け足で初音の元へ戻る。


「日比野さん、お待たせしました。温かいのと冷たいの、どっちがいいっすか?」

「有り難う。温かい方、もらってもいい?」

「もちろん」


 初音がバッグから財布を出そうとしていたので、「いいっすよ」と制して、真島は隣に腰を下ろした。


「ごめんね。皆さんとの話の途中で、急に抜けちゃって」

「いえ。さっきより、顔色だいぶ良くなりましたね。良かった」


 真島が笑うと、初音もようやく落ち着きを取り戻したのか笑みを返してくれた。それでもやはり、まだ少しぎこちない笑顔で、初音の心に何か大きな衝撃があった事が予想できる。


 それは、『小町さん』と呼ばれている老婦人の話題になり、その行方不明の息子の名がでた瞬間だったように思った。


 隣の初音の様子を伺うと、何か言おうと口を開き、けれど戸惑うようにまた口を閉ざしてしまう。そんな風に、先程からずっと何かを言い淀んでいる。



 真島は無理に聞き出すことはせず、努めて明るい声で別の話を振った。


「あそこの自販機で、手が滑って小銭を落としたんですけど、それをラッキーキャットが拾ってくれたんですよ」

「え? ラッキーキャットさんがいたの?」

「はい。溝に落ちる寸前に小銭を止めてくれて、更にそれを咥えて、僕のところまで運んでくれたんです!」


 真島はポケットの中に入れていたそれを取り出すと、初音の手をとりそれを掌に乗せた。自販機でこの五百円玉を使ってしまうのが勿体無いような気がして、お茶は千円札を崩して買ったのだ。


「この五百円、日比野さんが持っていて下さい。ラッキーが詰まった、最強の御守りだと思うんで」


 初音はそれをしばらく見つめると、ギュッと握り締めた。そして、意を決したように話し始める。



「私ね……。子供の頃、施設で育ったの」



 好き勝手に夢を追い働こうとしない父親と、支えるだけの生活に疲れ果て、壊れてしまった母親。そんな母と初音を置いて、父親はすぐに別の女性の元へと去っていった。それは真島が初めて知る、初音の過去だ。


「私の名前は、出て行った父がつけたの。母はこの名前を呼ぶたび父の事を思い出すようで、この名前をずっと憎んでいたと思う。まだ父が側にいた頃は、違っていたのかもしれないけれど、私にはもう、母から愛しそうな声で名前を呼んでもらった記憶はなくて……。いつも辛さや憎さがこもった声をしていた」


 名前へ向けられた母親の憎しみは、徐々に形を変えて、初音自身へと向けられるようになったという。


「ある夜、息苦しさに私が目を覚ますと、母は泣きながら私の首を絞めていた。でもね、あの頃の私には母の存在が全てだったから、その母をこんなにも苦しめる自分の名前と父の事が許せなかった」


 

『ごめ、んね……おかあ……さ……』



 初音のその声で母親は我に返り、最悪の事態は免れた。しかし母は即日入院となり、その日から初音は親戚中をたらい回しにされる事になる。そして、どこにも居場所は見つからないまま施設で暮らす事になったらしい。



『私、首元に、前方から手を伸ばされるのが苦手で……』



 真島は一度、前方から初音の肩についた糸を取ろうとして、強く手を振り払われた事があった。向かい合わせで座り、一緒にランチを食べた日の事を思い出す。あれは、幼少期のトラウマだったのだろう。


「父の事は、もう顔も覚えてないの。それでも私は、一生あの人のことを恨み続ける。私と母の人生をめちゃくちゃにしたあの人を、私は絶対に許さない」


 初音の瞳に、強い憎悪の色が滲んでいるのが見えた。


「日比野という苗字は母の旧姓で、父の……父の苗字が……」


 真島の脳裏に、雨宮の同級生が言った名前が過ぎる。



『行方不明の息子さんの名前は、水寺 宗一さんだよ』



 そんな思考の中の名前と、隣に座る初音の言葉が重なる。



「父の名前は、水寺 宗一。雨宮くんの同級生の方が言った名前と同じだった」



 ただの同姓同名の偶然という可能性は否定できない。けれど、なぜかその人が初音の父であるような気がした。


 誰よりも憎んでいる父親の名前と、初音にとって祖母になるかもしれない『小町』の存在。こんな情報を一気に知る事になり、初音が戸惑うのは当然だ。



「でも、あの場では、何も言えなくて……。逃げるみたいに、離れることしか出来なくて」


 初音がうつむいて、今にも泣き出しそうな顔で掌の中の五百円玉を強く握り締めている。


「日比野さん。話してくれて有り難うございます。今は、ものすごく混乱してると思うんですよね。だから……だから……、うまい飯を食いに行きませんか?」

「え?」

「落ち着いて、お腹いっぱいになって、それから、日比野さんがどうしたいのか。ゆっくり考えるのがいいと思います」


 恐らく、雨宮たちは初音に話を聞きたいと思っているだろう。小町の体調不良を思うと、早く情報を知りたいはずだ。もちろん真島もそう思う。けれど、こんな状況の初音を無理やり急かして話をさせる事だけはしたくなかった。


「改めて、落ち着いてから、しっかり考えましょう」

「そうだね。そう言えば……、私もお腹すいたかも」


 そう話す初音の表情が、少し和らいだように思う。ホッと息を吐いた時、ベンチの後ろの植え込みから、ふと視線を感じて真島はそちらに目を向けた。


「あ」


 黒猫が、木々の合間からチラチラとこちらを見つめ、まるで聞き耳を建てるようにピンと耳を伸ばしている。

 その表情は初音を気遣っているような眼差しで、先程までの二人の会話を理解しているような顔をしていた。


「あそこ、ラッキーキャット様も心配してるみたいですよ。日比野さんのこと」

「え?」


 真島が小声でそう告げると、初音がそっと後ろを振り返った。こちらを見つめる黒猫と初音の視線がピタリと重なったのが、横から見ていて分かった。


「ラッキーキャットさん。心配してくれて有り難う。私は……あの頃と違って、子供の頃の私とは違って、……今の私には、隣で話を聞いてくれる誰かがいるから。ちゃんと、ちゃんと笑えるような気がします」


 初音が黒猫に向かってそう話すと、伸ばした耳をピクッと震わせ、それから嬉しそうに尻尾を左右に振った。けれどその数秒後には、「別に心配とかしてませんけどー」とでも言いたそうなスンッとした表情をして、植え込みの中へと姿を消してしまった。


 あの黒猫にも、使い分けなければいけない本音と建前があるのだろうか。


「急にスンッて顔して去って行きましたね」

「うん」


 振り返っていた姿勢を戻し、初音が小さく笑う。真島も釣られるように、声を出して笑った。


「でも、隣で話を聞いてくれる誰かが、真島くんで良かった」


 五百円玉を握り締めた手を胸に当てて、「真島くんで、よかった」と初音がもう一度呟く。


 この人を守りたい。

 誰かに守られなければいけないほど、初音は弱い人ではないし、誰かを守れるほど真島は強くもない。それでも今、止められないほどの熱い想いが心の中に湧き立ってくる。



「日比野さんが嫌いなその名前を、これからは僕が、あなたの代わりに愛してもいいですか?」



 見開かれた初音の瞳が、驚きのせいか複雑に揺れているのが見える。


「こんな時にすみません。でも、あなたの事が好きです。返事は急ぎません。色んな事が落ち着いて、もし、もしも気が向いたらご検討下さい。…………という訳で、飯食いに行きましょうか!」


 初音の負担にならないように、真島は笑ってベンチから立ち上がった。ゆっくりと歩き始めた時、不意に背中に温もりを感じて立ち止まる。

 初音の手が真島の服をキュッと握り締めたのが、引っ張られた服の感触で分かった。肩口の温もりは、そこに初音の額が触れているからだ。


「ちゃんと返事をします。だから少し、少しだけ待っていて下さい。凄くびっくりして……でもそれ以上に嬉しかった。だから、もう少し落ち着いてから、ちゃんと返事をさせて下さい」


 押し当てられた額の温もりと、背中越しに香るほんのり甘い匂いに、このまま振り返り抱き締めてしまいたい衝動に駆られ、真島は強く掌を握り締めた。


 待つと言ったのは自分だ。


 一つ大きく息を吐いてから、真島は努めて明るい声で「はい、お待ちしております」と言葉を返したのだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ