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(22)夢を諦めた男


真島 秋斗(まじま あきと)の場合】



 後輩である雨宮のミュージカル本番の日。

 初音との待ち合わせ場所に到着した真島は、先にその場に立っていた初音の姿に見惚れ、思わず少し手前で足を止めた。


 普段、会社で会う初音は肩より少し長い髪を一つにまとめている。服装も、ジャケットとパンツの組み合わせである事が多い。


 けれど今日は、艶のある髪がそのまま下ろされており、時折吹く穏やかな風にサラサラと揺れていた。その髪と同じように、鮮やかなさくら色のスカートも膝の辺りで揺らめいている。


 やっぱ、好きだ。

 真島は思う。


 本当はもう随分前から、既に好きになっている自覚はあった。その真島の視線の先で、初音が揺れる髪を手で押さえ、そっと耳に掛けている。しばらくして視線に気付いたのか、初音が不意にこちらを向いた。

 

 真島の姿を見つけた途端、凜とした印象の瞳が柔らかに細められていく。その微笑みに、思わず息をのんだ。自分と近い距離にいた男二人から、「綺麗な人だな」と囁きあう声が聞こえる。


「今、俺に笑った?」

「や、俺じゃね?」


 などと交互に話す声に対し、『それ自分なんで』という優越感と、もっと早くに来るべきだったという後悔が、同時に胸に広がった。自分が初音にドキドキするのはいいが、他の男まで一緒になってドキドキを味わっているのは癪に障る。

 しかしそこまで考えが巡った所で、お互いの正しい関係値を思い出して真島は苦笑した。


 初音と真島は、ただの先輩と後輩。そのうえ、社会人経験ゼロの使えない後輩でもある。


 こっそり彼氏ヅラをして喜んでいる場合ではない。

 早く仕事のできる後輩へステップアップしなければと掌を握り締め、真島は初音の元へ駆け出した。


 


 *


 舞台の幕は降りて、狭いライブハウスの中が拍手の音に包まれた。


 やはり、雨宮圭吾は本物だった。

 自分の夢を託した後輩に、真島も心からの拍手を送る。けれどこの心境に至るまで、正直、驚くほどたくさんの葛藤があった。



 雨宮が入ってくるまでの劇団七年生は、大学サークルの延長線上にある、芝居や歌のレベルは似たり寄ったりな、『みんな一緒に』楽しく過ごす劇団だった。


 そんな中に、明らかな才能の差を認識ぜずにはいられない異分子が入ってきたのだ。みんな驚き、喜び、けれど……じわりじわりと、心が嫉妬で侵食されていった。


 輪を乱すな。このぬるま湯に、熱湯なんか注いでくるな。いつしか、雨宮に対しそんな空気が漂い始める。


 みんなで楽しみ、みんなで夢を見て、みんな一緒に『やっぱり難しい世界だったね』と諦める。

 自分の夢は叶わない、けれどみんなの夢も叶わなかった。それを『夢の引き継ぎ』と言ってしまえば聞こえはいいけれど……。

 これこそが、誰も傷つかないこのユートピアの秩序だったのだ。


 雨宮に対して距離を置き始めた周りの態度に、雨宮は居心地の悪さを感じていたと思う。雨宮が初めて劇団七年生の舞台本番を経験した日、その公演後に、彼は舞台袖で震えながら泣いていた。


 観客はわずか数人。そんな現実を目の当たりにし、尚且つ劇団内の先輩からは嫉妬で距離を取られる。

 雨宮はもう、何もかもが嫌になってしまったのかもしれない。そう思った瞬間、耐えられない程の罪悪感に襲われ、真島は雨宮の元へ駆け寄っていた。


 ごめん。

 ごめん、雨宮。


 けれど、至近距離で見たその横顔に驚き真島は足を止める。


 彼の口角は上がり、その表情は笑っていた。

 そこにマイナスの感情など一欠片も無い。その涙は、舞台に立つ意味を知った歓喜の涙だったのだ。


 自分の内側から湧き立ってくる高揚感を抑えきれないように、雨宮はギュッと拳を握り締めて、零れ落ちる涙もそのままに笑っていた。

 その瞬間の彼の耳にはもう、ちっぽけな妬み嫉みという雑音など届いていなかったのかもしれない。


 あぁ、次元が違う。


 真島は全身の力が抜けて、その場に座り込んでいた。いっそ清々しい程に、格の違いを見せつけられた。歌や芝居の優劣だけでは無い、役者としての素養、その根幹の違いを……。


 そういことか。


 納得した途端、じっとりと湿り気を帯びていた妬みの感情が、まるで雨上がりの空のように爽快な気分へと変化していく。


 その時真島が目にしたものは、才能の輝きが消える瞬間ではない。その原石が、本物の光に目覚める刹那だった。



 何としても、雨宮圭吾を世間に届けたい。


 その日から真島の行動は変わった。

 雨宮には泣きながら謝罪して、とくかく『お前には才能がある』と伝え続けた。そして、まだ距離を置いたままの周りに歩み寄りを促したのだ。


 そして少しずつ、けれど着実に、劇団内の意識に変化が起こり始めた。今の劇団七年生は、『夢の引き継ぎ』が本来の意味で行われている劇団になっている。


 それでも『芸』の道の現実は厳しく、劇団七年生の公演に観客は増えない。見て欲しい。見てもらえない。届けたい。届かない。宣伝や呼び込みの声は、虚しく地面に転がり消えるだけだった。


 注目のための、最初のきっかけが欲しい。


「雨宮。うちなんか辞めて、もっと大手の劇団に……」

「俺、ここで足掻ける事は全部やりたいっす」


 劇団七年生に、雨宮がそこまで義理立てする必要はない。そう話す真島に、雨宮は小さく「先輩のおかげなんで」と笑った。


「記憶にないと思いますけど、大学のサークル勧誘で、劇団のチラシを俺に渡したの真島先輩だから。あのきっかけが無かったら、そもそも俺は芝居とかやってない」


 ただ無作為に、チラシを配りまくった事だけは覚えている。けれど、その中に雨宮がいたとは知らなかった。そんな、気にも留めない行動の一つが、一人の人間の指針を変えた。そう思うと、たまらなく胸の奥が熱くなってくる。


「マジか?」

「マジっす」


 真島は雨宮の肩を小突く。


「それさ。お前がいつかテレビや雑誌のインタビュー受ける時に絶対言えよ。尊敬する先輩がくれたきっかけのおかげで、今の自分があります。この先ずっと、ギャラの半分はその先輩へ捧げます。って!」

「そこは前半のみで許して下さいよ」

「むしろ後半の方が大事だ。就活、上手くいかなくて無職になったら養ってくれ」

「それ嫌すぎる」


 露骨に顔を顰めた雨宮を見て、真島は「冗談に決まってるだろ」と、声を出して笑ったのだった。

 


 そんな時を経て──。

 今、雨宮が羽ばたこうとしている。


 ラッキーキャット信者だけにとどまらず、あの動画は『歌に酔いしれる猫の表情がたまらん』と、一般的な猫好きの間にまで広まっていった。

 世界は猫好きで溢れ、猫の映像が動画再生数の上位を席巻している。そんな多くの猫好き達の中にも、雨宮の歌声に興味を持つ人がたくさん現れたのだ。

 あの動画はこの先、まだまだ再生数を伸ばすだろう。



 ふと、隣の初音に目を向ける。

 惜しみない拍手を送りながら、初音は涙を流していた。


「日比野さん、うちの後輩どうでした?」


 そっと声を掛けると、初音は前を向いたまま話し始めた。


「私ね。歌をうたってる人が嫌いだったの。ただあの人と同じ事をしている。それだけで許せなかった」


 あの人が誰なのか、真島にはわからない。それでも話を止めたりせず、初音の言葉に耳を傾ける。


「歌って、響くんだね。こんなに、届くんだね」


 胸に両手を押し当て、ゆっくりとこちらを向いた初音が微笑んだ。


「後輩くん、すごかったよ。真島くん、有り難う! 誘ってくれて」


 好きな人が笑っている。

 それが、真島の心を堪らないほど嬉しくさせた。


「それ、直接あいつにも伝えてやって下さい。絶対に喜びます。この後、裏口に行きましょう」

「でも、公演の直後なのにいいの?」

「大丈夫です!」


 言って真島は席を立ち、そっと初音の手をとった。


「こっちです」


 どさくさに紛れて手を繋ぐ。振り払われ無かったので、そのままギュッと力を込めた。

 そして、劇団七年生には珍しく人の賑わう客席の中をすり抜け、真島は初音と一緒に雨宮の元へ向かう。そこで雨宮の高校時代の恩師と同級生を紹介され、一緒にラッキーキャットの話題で盛り上がった。


 しかし、話題の流れで老婦人の息子の名前が出た直後に、初音の顔色が一変した。その場で倒れてしまいそうな程に、血の気が引いている。


 真島は初音に寄り添い、その場を後にした。そして彼女の子供時代の話を、真島は知ったのだった。


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