帳簿にない補修工事
役所から戻った午後、工房の戸を叩いたのは、見覚えのない少年だった。
「リネアさんに、これを」
差し出されたのは、油紙に包まれた薄い帳面だった。表紙には水路管理商会の印が押されている。少年はそれだけ告げると、誰に頼まれたのかも言わず、路地の向こうへ走っていった。
ユハンが戸を閉める。
「開く前に、差出人を確認する」
「見れば分かるでしょう。商会の帳面です」
「だからこそだ」
彼は帳面を作業台の上に置き、表紙の綴じ糸、金具、紙の端を順に調べた。リネアも手袋をはめ、紙に残る音を聞いた。乾いた紙をめくる音、糸が擦れる音、そして、途中の頁だけがわずかに違う響きを返している。
「ここです」
リネアは帳面の中央を指した。
「この頁だけ、後から綴じ直されています」
「破損の修理では?」
「違います。糸の通り方が逆です。それに、紙の厚みも一枚だけ違う」
ユハンが慎重に頁を開いた。
そこには水路管理商会の支出記録が並んでいた。石材、木材、鉄具、運搬費。日付と金額が整然と書かれている。だが、ある項目の前で、リネアの指が止まった。
「旧水門西壁、補修工事」
日付は二年前の春。工事費は、町の水路維持費の三分の一に近い額だった。
「旧水門の西壁は、二年前に補修されていません」
ユハンが即座に言った。
「覚えているのですか」
「あの年の春は、増水が続いた。補修どころか、作業員は東側の崩れを直すだけで手いっぱいだった」
彼は帳面に顔を近づけた。
「工事責任者の名は?」
リネアは署名欄を読む。
「アドラス・ヴェイン」
水路管理商会の代表であり、町議会の有力者。水路契約の改定を求めている人物だった。
ユハンの表情が硬くなる。
「この署名は、彼のものだ」
「本物ですか」
「少なくとも、私が見た書類では同じ癖がある。最初の文字を大きく書き、最後の線を途中で止める」
リネアは署名の上へ耳を寄せた。署名そのものが音を残すわけではない。それでも、筆圧の跡を指先でなぞれば、紙が受けた力の偏りが分かることがある。
「この署名は、記録を書いたときに一緒に書かれていません」
「どうして分かる」
「墨の沈み方が違います。本文のほうが古い。署名だけ、後で上から押しつけたように紙へ残っている」
「つまり、空欄だった支出記録に、後から署名を足した」
「あるいは、署名のある紙を別の帳面へ綴じた」
ユハンは帳面を閉じなかった。頁の隅に、薄い鉛筆の印がある。数字を訂正した跡だ。二百四十七と書かれていた金額の上に、四百七十と重ねられている。
「工事費が増やされている」
「実際には工事がなく、費用だけが支払われたことにしたのかもしれません」
「誰に?」
リネアは次の頁をめくった。そこには石材商、木材商、運搬業者への支払いが記されていた。いずれも町の外にある業者の名だったが、同じ日に、同じ筆跡で受領印の代わりとなる印が押されている。
「この印、全部同じです」
「業者ごとに違うはずだ」
「違うどころか、商会の倉庫で使う荷札の印と同じです」
工房の中に、沈黙が落ちた。
帳簿に記された補修工事が実在しないなら、その費用はどこへ消えたのか。誰かが水路の維持費を抜き取り、その穴を埋めるために、存在しない工事を記録した。その目的だけなら、商会内部の横領で終わる。
だが、旧水門の名が書かれている。
リネアは、夜ごと聞こえた鐘の音を思い出した。水門が操作され、特定の地区だけ水圧が下げられていた。工事の名目で費用を使い、補修されていない壁を危険なまま放置する。もし崩れれば、商会はこう言うだろう。公共の管理ではもう維持できない。水路を売り渡すしかない、と。
「これは、ただの帳簿偽造ではありません」
「分かっている」
「水路を壊す準備です」
ユハンは否定しなかった。
そのとき、帳面の背表紙から小さな金属音がした。リネアが布用の細い針を差し入れると、綴じ糸の奥から丸めた紙片が落ちた。
紙片には、日付と短い言葉だけが書かれていた。
――西壁、夜半。音を合わせること。
「音を合わせる?」
ユハンが読んだ。
リネアは紙片を裏返した。そこには見覚えのある三本の線が引かれている。水門の合図に使われていた、帳簿の布に隠された印と同じだった。
「この帳面を渡した人は、商会の中にいる」
「なぜそう思う」
「外の人間なら、これを見つけても意味が分からない。わざわざ隠し紙を残す必要もない」
ユハンは窓の外を見た。通りには人影がなかった。けれど、遠くで荷車の車輪が止まり、すぐにまた動き出した。
「帳面は役所へ出す」
「原本を?」
「写しを取ってからだ。原本を失えば、商会は存在そのものを否定する」
「では、今夜、西壁へ行きます」
「危険だ」
「帳簿にある工事が本当にないなら、現場を見れば分かります」
「君を連れていく理由にはならない」
「私の記録布がなければ、工事がなかった時間も証明できません」
ユハンは口を閉じた。
リネアは続けた。
「私は守られるために、この調査をしているのではありません。あなたが私を専門家だと言ったのなら、都合の悪いときだけ外さないでください」
しばらくして、ユハンは小さく息を吐いた。
「分かった。同行を許可する」
「許可ではなく、共同調査の判断です」
リネアが言うと、彼はわずかに目を細めた。
「訂正する。共同調査として行く」
夕暮れが工房の窓を青く染めた。
リネアは記録用の糸と針を選び、ユハンは役所へ提出する書類を整えた。帳簿の頁には、存在しない補修工事が記されている。その署名は町の有力者のものだった。
夜半、西壁で何が待っているのか。
二人はまだ知らない。
ただ、帳簿にない工事の影が、町の水路の底から、ゆっくりと浮かび上がろうとしていた。




