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水音を織る仕立師は、契約の嘘をほどく  作者: 銀細工ナギ


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9/20

帳簿にない補修工事

 役所から戻った午後、工房の戸を叩いたのは、見覚えのない少年だった。


「リネアさんに、これを」


 差し出されたのは、油紙に包まれた薄い帳面だった。表紙には水路管理商会の印が押されている。少年はそれだけ告げると、誰に頼まれたのかも言わず、路地の向こうへ走っていった。


 ユハンが戸を閉める。


「開く前に、差出人を確認する」


「見れば分かるでしょう。商会の帳面です」


「だからこそだ」


 彼は帳面を作業台の上に置き、表紙の綴じ糸、金具、紙の端を順に調べた。リネアも手袋をはめ、紙に残る音を聞いた。乾いた紙をめくる音、糸が擦れる音、そして、途中の頁だけがわずかに違う響きを返している。


「ここです」


 リネアは帳面の中央を指した。


「この頁だけ、後から綴じ直されています」


「破損の修理では?」


「違います。糸の通り方が逆です。それに、紙の厚みも一枚だけ違う」


 ユハンが慎重に頁を開いた。


 そこには水路管理商会の支出記録が並んでいた。石材、木材、鉄具、運搬費。日付と金額が整然と書かれている。だが、ある項目の前で、リネアの指が止まった。


「旧水門西壁、補修工事」


 日付は二年前の春。工事費は、町の水路維持費の三分の一に近い額だった。


「旧水門の西壁は、二年前に補修されていません」


 ユハンが即座に言った。


「覚えているのですか」


「あの年の春は、増水が続いた。補修どころか、作業員は東側の崩れを直すだけで手いっぱいだった」


 彼は帳面に顔を近づけた。


「工事責任者の名は?」


 リネアは署名欄を読む。


「アドラス・ヴェイン」


 水路管理商会の代表であり、町議会の有力者。水路契約の改定を求めている人物だった。


 ユハンの表情が硬くなる。


「この署名は、彼のものだ」


「本物ですか」


「少なくとも、私が見た書類では同じ癖がある。最初の文字を大きく書き、最後の線を途中で止める」


 リネアは署名の上へ耳を寄せた。署名そのものが音を残すわけではない。それでも、筆圧の跡を指先でなぞれば、紙が受けた力の偏りが分かることがある。


「この署名は、記録を書いたときに一緒に書かれていません」


「どうして分かる」


「墨の沈み方が違います。本文のほうが古い。署名だけ、後で上から押しつけたように紙へ残っている」


「つまり、空欄だった支出記録に、後から署名を足した」


「あるいは、署名のある紙を別の帳面へ綴じた」


 ユハンは帳面を閉じなかった。頁の隅に、薄い鉛筆の印がある。数字を訂正した跡だ。二百四十七と書かれていた金額の上に、四百七十と重ねられている。


「工事費が増やされている」


「実際には工事がなく、費用だけが支払われたことにしたのかもしれません」


「誰に?」


 リネアは次の頁をめくった。そこには石材商、木材商、運搬業者への支払いが記されていた。いずれも町の外にある業者の名だったが、同じ日に、同じ筆跡で受領印の代わりとなる印が押されている。


「この印、全部同じです」


「業者ごとに違うはずだ」


「違うどころか、商会の倉庫で使う荷札の印と同じです」


 工房の中に、沈黙が落ちた。


 帳簿に記された補修工事が実在しないなら、その費用はどこへ消えたのか。誰かが水路の維持費を抜き取り、その穴を埋めるために、存在しない工事を記録した。その目的だけなら、商会内部の横領で終わる。


 だが、旧水門の名が書かれている。


 リネアは、夜ごと聞こえた鐘の音を思い出した。水門が操作され、特定の地区だけ水圧が下げられていた。工事の名目で費用を使い、補修されていない壁を危険なまま放置する。もし崩れれば、商会はこう言うだろう。公共の管理ではもう維持できない。水路を売り渡すしかない、と。


「これは、ただの帳簿偽造ではありません」


「分かっている」


「水路を壊す準備です」


 ユハンは否定しなかった。


 そのとき、帳面の背表紙から小さな金属音がした。リネアが布用の細い針を差し入れると、綴じ糸の奥から丸めた紙片が落ちた。


 紙片には、日付と短い言葉だけが書かれていた。


 ――西壁、夜半。音を合わせること。


「音を合わせる?」


 ユハンが読んだ。


 リネアは紙片を裏返した。そこには見覚えのある三本の線が引かれている。水門の合図に使われていた、帳簿の布に隠された印と同じだった。


「この帳面を渡した人は、商会の中にいる」


「なぜそう思う」


「外の人間なら、これを見つけても意味が分からない。わざわざ隠し紙を残す必要もない」


 ユハンは窓の外を見た。通りには人影がなかった。けれど、遠くで荷車の車輪が止まり、すぐにまた動き出した。


「帳面は役所へ出す」


「原本を?」


「写しを取ってからだ。原本を失えば、商会は存在そのものを否定する」


「では、今夜、西壁へ行きます」


「危険だ」


「帳簿にある工事が本当にないなら、現場を見れば分かります」


「君を連れていく理由にはならない」


「私の記録布がなければ、工事がなかった時間も証明できません」


 ユハンは口を閉じた。


 リネアは続けた。


「私は守られるために、この調査をしているのではありません。あなたが私を専門家だと言ったのなら、都合の悪いときだけ外さないでください」


 しばらくして、ユハンは小さく息を吐いた。


「分かった。同行を許可する」


「許可ではなく、共同調査の判断です」


 リネアが言うと、彼はわずかに目を細めた。


「訂正する。共同調査として行く」


 夕暮れが工房の窓を青く染めた。


 リネアは記録用の糸と針を選び、ユハンは役所へ提出する書類を整えた。帳簿の頁には、存在しない補修工事が記されている。その署名は町の有力者のものだった。


 夜半、西壁で何が待っているのか。


 二人はまだ知らない。


 ただ、帳簿にない工事の影が、町の水路の底から、ゆっくりと浮かび上がろうとしていた。

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