消えた原本の行方
夜半、旧水門の西壁には、昼間の熱がまだ石の奥に残っていた。
リネアは針箱を抱え、ユハンの半歩後ろを歩いた。水路沿いの道は暗く、雲の切れ間から落ちる月明かりも、濡れた石を薄く照らすだけだった。遠くで、あの鐘が鳴った。
一度。
間を置いて、二度。
水門の奥で鉄具が震え、低い水音が返ってくる。リネアは糸を張った小さな枠を取り出し、その響きを布へ移した。針先が細かく動くたび、夜の音が一本の線になって残っていく。
「今夜も操作されている」
ユハンが言った。
「ええ。でも、いつもと違います」
音の終わりに、別の振動が混じっていた。水が壁の内側を押している。石の隙間を通り抜ける、ひどく乾いた擦過音だった。
二人が西壁へ近づくと、ユハンは持ってきたランタンを掲げた。
壁は崩れていなかった。だが、継ぎ目に新しい鉄の留め具が埋め込まれている。表面だけを急いで塗り固めたような跡があり、周囲の石とは色が違った。
「帳簿では、ここを補修したことになっている」
「実際には、壊れかけた場所を隠しただけですね」
リネアは留め具に耳を寄せた。鉄の中から、かすかな空洞音が返る。
「壁の裏に空間があります」
ユハンは周囲を見回した。誰かに見られている気配はない。だが、風もないのに、壁の上から細い砂が落ちてきた。
「下がれ」
彼が腕を伸ばす。
次の瞬間、壁の一部が沈み、水が噴き出した。ユハンはリネアの肩をつかみ、脇の石段へ引いた。濁った水が足元を走り、二人の靴を濡らす。水路の水位が、目に見えて下がっていった。
噴出口の奥から、木箱が押し出されてくる。
ユハンが棒で引き寄せると、箱には商会の印があった。蓋を開けると、中には折れた杭、古い測量具、そして何枚もの契約書の写しが詰め込まれていた。
リネアは一枚を手に取った。
そこには、町の水路を管理商会へ譲渡するための仮契約が記されていた。日付は三年前。水不足が続いた場合、商会が修繕費を負担する代わりに、主要水路の使用料を徴収できるという内容だった。
「こんな契約、議会で承認された記録はありません」
「仮契約だからだ。正式な契約に切り替える条件が、別紙に書かれている」
ユハンが別の紙を拾った。
そこには、水圧が一定以下になった場合、公共水路の維持能力が失われたものとみなす、とあった。
リネアの指が震えた。
「水を減らして、条件を満たそうとしていた」
「そして、水が足りない原因を、老朽化のせいにする」
ユハンは紙を見つめたまま、低く続けた。
「商会は水路を買う。町は水を買い戻すことになる」
そのとき、箱の底から厚い封筒が出てきた。封蝋は割られている。中には、議会提出用と書かれた契約書が一通だけ入っていた。
リネアは紙の端へ指を置いた。古い紙の音に混じって、何度も折り直された跡が響く。だが、最後の頁だけがない。
「決定的な条項が抜かれています」
「この契約が原本ではない?」
「写しです。しかも、誰かが見つけたときに都合のいい部分だけ残した」
ユハンは箱の中を探した。測量具の下、布の切れ端、錆びた鍵。けれど、原本らしいものは見つからない。
水路の奥で、再び鐘が鳴った。
今度は三度だった。
合図に応じるように、対岸の暗がりから足音が近づく。ユハンはリネアを壁際へ押し、片手を腰の短剣へ伸ばした。
「誰だ」
返事はない。
足音だけが止まり、次いで小石が投げ込まれた。石は水面に落ちず、崩れた壁の裂け目へ吸い込まれた。
ユハンが駆け寄る。
裂け目の奥には、狭い空洞があった。人ひとりが通れるほどの隙間だ。その床に、濡れた紙片が一枚落ちている。
リネアが拾い上げると、そこには震える字で書かれていた。
――原本は、もう水門にはない。
――議会の金庫へ移された。
最後の行は途中で途切れていた。誰が、いつ移したのかは分からない。
ユハンは紙片を見たまま、黙っていた。
「役所の中に、商会へ通じている人がいる」
「あるいは、脅されている」
「どちらにしても、原本は安全ではありません」
リネアは濡れた紙を布で挟み、慎重に乾かし始めた。水に溶けかけた墨の下から、別の印が浮かんでくる。
議会の印ではなかった。
水路管理商会の荷札に使われていた、あの印だった。
「この紙片も、商会の中で作られたものです」
「なら、誰かが原本の移動を知っている」
「そして、私たちに知らせようとしている」
ユハンは暗い水路の先を見た。
「明朝、議会の金庫を確認する」
「正面から?」
「役所の手続きで開けさせる。拒まれれば、その拒否自体を記録する」
「原本が残っているとは限りません」
「残っていなくても、消えた事実を追う」
彼の声には、いつもの抑えた硬さがあった。けれど、その奥に焦りがあることを、リネアは聞き取っていた。
水路の水音が弱くなる。
町の人々が眠る間にも、水は商会の都合で狭められていた。水不足を演出し、町に恐怖を植えつけ、最後には公共の水を売り渡す。その計画は、すでに契約書の形を得ている。
二人は箱の中身を包み直し、旧水門を離れた。
夜明け前、役所の塔から鐘が鳴った。
いつもの時刻を告げる鐘ではない。
議会臨時招集の合図だった。
ユハンは足を止め、塔を見上げた。
「先に動かれた」
リネアは濡れた紙片を握りしめた。
「原本が移されたのではありません。消されるために運ばれたのです」
水路の底で、見えない水が流れていた。
町の運命を決める原本は、もう彼らの手の届く場所にはなかった。




