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水音を織る仕立師は、契約の嘘をほどく  作者: 銀細工ナギ


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11/20

記録布は偽物なのか

 臨時招集の鐘が鳴り終わる前に、役所の正門には人だかりができていた。


 リネアとユハンが近づくと、門柱に一枚の布告が貼られているのが見えた。水路監督官ユハンの調査権限を一時停止すること。仕立師リネアの記録師資格を取り消すこと。理由は、二人が提出した記録布に改ざんの疑いがあり、町に不安と混乱を広げたため、とある。


 リネアは布告の文字を読み終えるまで、指一本動かせなかった。


「私の記録布が、偽物だと?」


 周囲から、低い声がいくつも返った。


「あの娘が音を聞いたと言って、好きなように糸を刺しただけだ」

「水門を壊したのも、商会を脅すためだったんじゃないか」

「監督官まで巻き込んで、工房を取り戻そうとしている」


 言葉の一つ一つが、濡れた石に落ちる冷たい水のようだった。


 ユハンが前へ出た。


「布告の根拠を示せ」


 役所の階段に立っていた若い書記が、怯えた顔で答えた。


「昨夜、商会から照合記録が提出されました。リネア殿の布に残る音の線は、水門の構造上、発生し得ない振動を示している、と」


「誰が照合した」


「商会の技師です」


「第三者の検証は?」


 書記は黙り込んだ。


 ユハンはその沈黙を見て、さらに詰め寄ろうとした。だが、リネアは彼の袖をつかんだ。


「今はやめてください」


「やめる理由がない」


「ここで怒鳴れば、布告の内容を認めたように見られます」


 ユハンは彼女を見た。その目には、怒りより深い焦りがあった。


 議会の金庫を確認するどころか、二人は調査そのものを奪われた。原本が消えた直後に資格を取り上げられたのは、偶然ではない。記録布を使って追跡できる道を、商会が先に断ち切ったのだ。


 その日の昼、リネアの工房から残りの記録布が運び出された。役所の係員は証拠品だと言ったが、扱いは押収品と変わらなかった。棚に並べていた布を一枚ずつ広げ、糸の状態を調べ、記録帳まで持ち去っていく。


「これは公文書です。乱暴に扱わないで」


 リネアが言うと、係員は鼻で笑った。


「公文書かどうかを決める資格を、あなたはもう失った」


 ユハンが踏み込んだ。


「その資格停止は正式な審査を経ていない。私が立ち会う」


「あなたも調査権限を停止されたはずです」


「だから何だ」


 彼の声が工房の梁を震わせた。


 係員たちは顔を見合わせ、布を箱へ詰めて出ていった。最後に扉へ封印札が貼られる。リネアはその音を聞いていた。紙が糊に押しつけられる、乾いた音。工房が自分の手からもう一度奪われる音だった。


 その夜、ユハンは一人で役所へ向かった。


 リネアが気づいたときには、彼の机から水路台帳の写しと、議会の金庫を開けるための照会文が消えていた。


「何をするつもりですか」


 旧水門へ続く道で、リネアは彼を追いついた。


「金庫を調べる」


「資格を停止された監督官が?」


「私の身分証がなくても、裏口の鍵を持つ者はいる」


「誰を脅したのです」


「脅してはいない」


「では、何を約束したのです」


 ユハンは答えなかった。


 彼の沈黙の中に、リネアは知らない取引の気配を聞いた。誰かを巻き込み、誰かに責任を負わせ、彼自身が危険を引き受けるつもりなのだ。


「私を置いていくつもりですか」


「あなたの名前があるだけで、商会は動く。捕まるのは私一人でいい」


「それで記録布が本物だと証明できますか」


「できる」


「どうやって」


「原本を見つける。あなたの布は、そのあとでいい」


 リネアの胸の奥で、何かが切れた。


「そのあと?」


 彼女は針箱を抱え直した。


「私の記録は、あなたが原本を見つけた後に価値が出る道具ではありません。原本を探す道を示したのも、金庫に移されたことを聞き取ったのも、私です」


「分かっている」


「分かっていません。あなたは私を守ると言いながら、私から判断する権利を取り上げている」


 ユハンの顔が強張った。


「守らなければ、あなたは失う」


「もう失いました。工房も、資格も、町の人たちからの信頼も。それでも私はここにいます」


 風が水路の上を渡った。遠くで、閉じた水門の金具が鳴る。


「私を危険から遠ざければ、真実まで遠ざかるんです」


 リネアは布告の写しを取り出し、彼の前に突きつけた。


「記録布が偽物だと言われたなら、私は本物だと説明します。誰かに代わってもらうのではなく、自分の手順を示す。音の取り方も、糸の意味も、何度でも」


「審査の場は商会が選ぶ」


「なら、町の人の前で行います。水門の音を聞ける人は、私一人ではない」


 ユハンは黙って水面を見た。


「あなたが一人で動けば、商会はあなたを失敗した監督官として扱うでしょう。私を切り離せば、二人の調査が最初からなかったことにされる」


 その言葉に、ユハンの肩がわずかに下がった。


「……怖くないのか」


「怖いです」


 リネアは正直に言った。


「でも、怖いからといって、私の耳まで誰かに預けるつもりはありません」


 しばらくして、ユハンは照会文を折り畳んだ。


「明日、私は役所へ戻る。独断で金庫には入らない」


「それだけですか」


「あなたの調査資格停止に異議を申し立てる。私の権限停止も含めて、正式な記録に残す」


「私が証言します」


「ああ」


 彼はようやくリネアを見た。


「次に動くときは、先に話す」


 それは謝罪と呼ぶには不器用だった。けれど、彼が自分の判断を彼女の前に置き直したことを、リネアは聞き取った。


 二人は旧水門の脇に立ち、閉ざされた水面を見つめた。


 布告は嘘を広めるために作られた。記録布を偽物にするには、音そのものを否定する必要がある。ならば、否定できない音を町の中に残せばいい。


 リネアは針箱から白い糸を一本取り出した。


「明日から、記録を公開します」


「資格がなくても?」


「資格がないからこそです」


 水門の奥で、かすかな振動が生まれた。


 リネアは糸を張り、暗闇の音を受け止めた。誰かが封印を貼っても、資格を奪っても、水の記憶まで消すことはできない。


 ただ、その記憶を守るには、二人が互いを道具にしないことが必要だった。

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