記録布は偽物なのか
臨時招集の鐘が鳴り終わる前に、役所の正門には人だかりができていた。
リネアとユハンが近づくと、門柱に一枚の布告が貼られているのが見えた。水路監督官ユハンの調査権限を一時停止すること。仕立師リネアの記録師資格を取り消すこと。理由は、二人が提出した記録布に改ざんの疑いがあり、町に不安と混乱を広げたため、とある。
リネアは布告の文字を読み終えるまで、指一本動かせなかった。
「私の記録布が、偽物だと?」
周囲から、低い声がいくつも返った。
「あの娘が音を聞いたと言って、好きなように糸を刺しただけだ」
「水門を壊したのも、商会を脅すためだったんじゃないか」
「監督官まで巻き込んで、工房を取り戻そうとしている」
言葉の一つ一つが、濡れた石に落ちる冷たい水のようだった。
ユハンが前へ出た。
「布告の根拠を示せ」
役所の階段に立っていた若い書記が、怯えた顔で答えた。
「昨夜、商会から照合記録が提出されました。リネア殿の布に残る音の線は、水門の構造上、発生し得ない振動を示している、と」
「誰が照合した」
「商会の技師です」
「第三者の検証は?」
書記は黙り込んだ。
ユハンはその沈黙を見て、さらに詰め寄ろうとした。だが、リネアは彼の袖をつかんだ。
「今はやめてください」
「やめる理由がない」
「ここで怒鳴れば、布告の内容を認めたように見られます」
ユハンは彼女を見た。その目には、怒りより深い焦りがあった。
議会の金庫を確認するどころか、二人は調査そのものを奪われた。原本が消えた直後に資格を取り上げられたのは、偶然ではない。記録布を使って追跡できる道を、商会が先に断ち切ったのだ。
その日の昼、リネアの工房から残りの記録布が運び出された。役所の係員は証拠品だと言ったが、扱いは押収品と変わらなかった。棚に並べていた布を一枚ずつ広げ、糸の状態を調べ、記録帳まで持ち去っていく。
「これは公文書です。乱暴に扱わないで」
リネアが言うと、係員は鼻で笑った。
「公文書かどうかを決める資格を、あなたはもう失った」
ユハンが踏み込んだ。
「その資格停止は正式な審査を経ていない。私が立ち会う」
「あなたも調査権限を停止されたはずです」
「だから何だ」
彼の声が工房の梁を震わせた。
係員たちは顔を見合わせ、布を箱へ詰めて出ていった。最後に扉へ封印札が貼られる。リネアはその音を聞いていた。紙が糊に押しつけられる、乾いた音。工房が自分の手からもう一度奪われる音だった。
その夜、ユハンは一人で役所へ向かった。
リネアが気づいたときには、彼の机から水路台帳の写しと、議会の金庫を開けるための照会文が消えていた。
「何をするつもりですか」
旧水門へ続く道で、リネアは彼を追いついた。
「金庫を調べる」
「資格を停止された監督官が?」
「私の身分証がなくても、裏口の鍵を持つ者はいる」
「誰を脅したのです」
「脅してはいない」
「では、何を約束したのです」
ユハンは答えなかった。
彼の沈黙の中に、リネアは知らない取引の気配を聞いた。誰かを巻き込み、誰かに責任を負わせ、彼自身が危険を引き受けるつもりなのだ。
「私を置いていくつもりですか」
「あなたの名前があるだけで、商会は動く。捕まるのは私一人でいい」
「それで記録布が本物だと証明できますか」
「できる」
「どうやって」
「原本を見つける。あなたの布は、そのあとでいい」
リネアの胸の奥で、何かが切れた。
「そのあと?」
彼女は針箱を抱え直した。
「私の記録は、あなたが原本を見つけた後に価値が出る道具ではありません。原本を探す道を示したのも、金庫に移されたことを聞き取ったのも、私です」
「分かっている」
「分かっていません。あなたは私を守ると言いながら、私から判断する権利を取り上げている」
ユハンの顔が強張った。
「守らなければ、あなたは失う」
「もう失いました。工房も、資格も、町の人たちからの信頼も。それでも私はここにいます」
風が水路の上を渡った。遠くで、閉じた水門の金具が鳴る。
「私を危険から遠ざければ、真実まで遠ざかるんです」
リネアは布告の写しを取り出し、彼の前に突きつけた。
「記録布が偽物だと言われたなら、私は本物だと説明します。誰かに代わってもらうのではなく、自分の手順を示す。音の取り方も、糸の意味も、何度でも」
「審査の場は商会が選ぶ」
「なら、町の人の前で行います。水門の音を聞ける人は、私一人ではない」
ユハンは黙って水面を見た。
「あなたが一人で動けば、商会はあなたを失敗した監督官として扱うでしょう。私を切り離せば、二人の調査が最初からなかったことにされる」
その言葉に、ユハンの肩がわずかに下がった。
「……怖くないのか」
「怖いです」
リネアは正直に言った。
「でも、怖いからといって、私の耳まで誰かに預けるつもりはありません」
しばらくして、ユハンは照会文を折り畳んだ。
「明日、私は役所へ戻る。独断で金庫には入らない」
「それだけですか」
「あなたの調査資格停止に異議を申し立てる。私の権限停止も含めて、正式な記録に残す」
「私が証言します」
「ああ」
彼はようやくリネアを見た。
「次に動くときは、先に話す」
それは謝罪と呼ぶには不器用だった。けれど、彼が自分の判断を彼女の前に置き直したことを、リネアは聞き取った。
二人は旧水門の脇に立ち、閉ざされた水面を見つめた。
布告は嘘を広めるために作られた。記録布を偽物にするには、音そのものを否定する必要がある。ならば、否定できない音を町の中に残せばいい。
リネアは針箱から白い糸を一本取り出した。
「明日から、記録を公開します」
「資格がなくても?」
「資格がないからこそです」
水門の奥で、かすかな振動が生まれた。
リネアは糸を張り、暗闇の音を受け止めた。誰かが封印を貼っても、資格を奪っても、水の記憶まで消すことはできない。
ただ、その記憶を守るには、二人が互いを道具にしないことが必要だった。




