地下保管庫への手がかり
翌朝、リネアは封印された工房の前に立ち、役所へ行く代わりに町の水売り組合を訪ねた。
資格を失った者が記録を公開すると言えば、笑われるか、追い返されると思っていた。だが、帳場の奥から顔を出した老水売りのマルタは、黙って椅子を一つ引いた。
「水門の音を聞かせてくれるんだろう」
「記録布の作り方を見せます。私の布だけを信じてほしいわけではありません。皆さんの耳で確かめてほしいんです」
リネアは卓上に細い糸を張った。昨夜、旧水門の脇で拾った振動を、糸の結び目と間隔で示す。水圧の変化、金具の擦れる音、遠くで鳴った鐘。説明をしながら、彼女は何度も針を動かした。
見ていた水売りたちは、最初こそ戸惑っていたが、やがて自分たちが聞いた音と布の線を照らし合わせ始めた。
「この結び目の日、北通りの水が急に細くなった」
「その翌朝、商会の荷車が南の水門へ入っていた」
「私は鐘を聞いた。夜明け前だった」
証言が重なるたび、リネアの胸の内にあった空白が少しずつ埋まった。
そこへユハンが現れた。役所とのやり取りを終えたらしく、疲れた顔をしている。
「調査資格停止への異議申し立ては受理された。ただし、審査の日程は決まっていない」
「こちらはもう始めています」
リネアが示した布を見て、ユハンは小さくうなずいた。
「旧水門の地下を調べる」
「地下?」
「今朝、古い管理規程を読み直した。水門が作られた当時、契約書や修理記録を保管する地下室があったらしい。ただ、地図からは消されている」
マルタが身を乗り出した。
「地下室なら、昔の水路番が話していた。水門の下には、鍵のかかった石扉があるってね」
「誰が鍵を持っていたのですか」
「水路監督だ。だが、三十年前の洪水で役所の倉庫が移された後、鍵は見つからなくなった」
ユハンは懐から一枚の古い台帳の写しを取り出した。そこには旧水門の設備一覧が記されていた。貯水槽、排水路、点検階段。そして最後に、判読しにくい文字で「下層記録室」とある。
リネアは台帳を指でなぞった。
「この紙、変です」
「何が」
「書き直されています。文字の周りだけ、紙の繊維が潰れている」
彼女は窓辺へ台帳を持っていった。光に透かすと、消された文字の影が浮かんだ。
下層記録室ではない。その前に、「旧水門地下保管庫」と書かれている。
「誰かが名前を変えた」
「保管庫を隠すために?」
「名前を変えるだけなら、場所まで消せません。けれど、地図から外せば、誰も探さなくなる」
ユハンは台帳の端を見た。そこには小さな赤い印が残っている。三角形の中に一本の線。以前、偽造契約の布に隠されていた合図と同じ形だった。
リネアの指先が冷えた。
「この印は、商会がつけたものではありません」
「分かるのか」
「糸の合図は、読む人間によって意味が違います。でもこれは水路番の記号です。危険な場所、あるいは封じた場所を示す印」
「なら、原本はそこにある可能性が高い」
「可能性だけで入れば、商会に無断侵入と言われます」
ユハンは黙った。以前なら、彼は一人で鍵を探しに行っただろう。リネアはその沈黙に、迷いが生まれているのを感じた。
「正式な手続きを待っている間に、証拠が消されるかもしれません」
「分かっている」
「だから、規則の中で先に動きます」
リネアはマルタに向き直った。
「今日ここにいた人たちに、証人になってほしい。私たちが旧水門を調べること、見つけたものを持ち出さず、その場で記録することを証明してもらうんです」
水売りたちは互いの顔を見た。やがてマルタが立ち上がった。
「水を止められてきたのは、あんたたちだけじゃない。証人くらいにはなるよ」
午後、二人は水売りたちとともに旧水門へ向かった。封鎖札は剥がされていなかったが、脇の点検通路には新しい泥の跡があった。誰かが最近、ここを通っている。
リネアはしゃがみ込み、泥に残った靴跡を見た。底の模様は商会の荷役靴に似ている。
「先に来た人がいる」
ユハンが腰の短剣に手を添えた。
「戻るか」
「いいえ。今度は、私も行きます」
二人は点検通路を下った。湿った石壁の奥で、水が低くうなっている。階段は途中で崩れていたが、壁の片隅に、台帳と同じ三角の印が刻まれていた。
リネアはその印の下へ耳を寄せた。
水音に混じって、かすかな空洞の響きが返ってくる。
「ここです」
ユハンが石を押すと、壁の一部がわずかに沈んだ。隠し扉だった。錆びた鍵穴には、真新しい傷がいくつも残っている。
誰かが開けようとしていたのだ。
リネアは針箱から白い糸を取り出し、鍵穴の周囲にそっと張った。金具の中から、微かな擦過音が返る。扉の向こうで、何かが揺れた。
帳簿か、箱か、それとも人間か。
ユハンが彼女を見る。
「開ける」
「証人に見てもらってから」
リネアは振り返り、通路にいる人々へ声をかけた。
「ここから先で見つけたものは、誰のものでもありません。町の水の記憶です」
マルタがうなずいた。
ユハンは鍵穴へ細い金具を差し込んだ。何度か失敗した末、内部で小さな音が鳴る。
かちり、と錠が外れた。
扉の隙間から、冷たい空気が流れ出した。その奥には、長い年月閉じられていた地下保管庫の暗闇が待っていた。リネアは糸を握りしめ、最初の一歩を踏み入れた。




