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水音を織る仕立師は、契約の嘘をほどく  作者: 銀細工ナギ


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7/20

信じてもらえなかった記憶

 その夜、雨が降った。


 工房の屋根を細かな音が叩き、窓の外では水路の流れがいつもより速くなっていた。リネアは記録布を棚へしまおうとして、手を止めた。


 布の端に縫い込まれた二人の署名が、雨明かりの中で揺れている。


 聞こえたものを、聞こえたままに。


 その言葉を見つめていると、遠い昔の音が蘇った。


 乾いた風に揺れる麦の穂。軒先で鳴る風鈴。母が食器を重ねる音。父が作業場で鋏を閉じる音。そして、床へ落ちた糸巻きが転がり続ける、長い長い音。


 リネアがまだ八歳だった頃のことだ。


 家は町の外れにあった。仕立屋だった父は、貴族の屋敷へ納める服を縫い、母は糸を染めていた。暮らしは豊かではなかったが、二人とも仕事に誇りを持っていた。


 リネアは幼い頃から、音を覚えるのが得意だった。


 鋏の刃が布を切る角度。糸が針穴を抜ける速さ。染料をかき混ぜる棒が桶の底に触れる間隔。音は目に見えないのに、彼女の中では色や形を持っていた。


 ある夕方、父の作業場で、棚の上から糸巻きが落ちた。


 ころり、と床を転がったあと、壁際で一度跳ねた。リネアは顔を上げた。


「お父さん、今の音、いつもと違う」


 父は振り返らなかった。


「糸巻きが落ちただけだ」


「ううん。床じゃなくて、何かに当たってから転がった」


 彼女は棚へ駆け寄った。糸巻きが落ちた場所には、細い木片が挟まっていた。棚の脚が割れていたのだ。


「棚、壊れるかもしれないよ」


 父は手を止め、木片を見た。それから、困ったように笑った。


「お前は音を聞きすぎる。見てもいないものを、見たように言うな」


 母も染め桶の前から振り返った。


「リネア、仕事の邪魔をしてはいけないよ」


 その晩、棚は倒れた。


 父が大切にしていた布地が下敷きになり、納品前の服が泥水で汚れた。父は声を荒らげなかった。ただ、片付けながら何度も同じ言葉を呟いた。


「どうして、誰も気づかなかったんだ」


 リネアは言えなかった。


 私は言った。聞こえたから言った。でも、信じてもらえなかった。


 翌日、父は納品先へ謝りに行った。帰ってくると、疲れた顔でリネアを見た。


「音を覚えることが悪いわけじゃない」


 そう言ってから、少し間を置いた。


「だが、音だけで人を動かそうとするな。お前の耳が正しくても、他人が信じなければ何も変わらない」


 その言葉は、助言だったのかもしれない。


 けれど幼いリネアには、拒まれたように聞こえた。


 それから彼女は、音を口にする前に何度もためらうようになった。聞こえても、確かだと思っても、誰かの顔色を見てからでなければ話せなくなった。


 数年後、母が病気になったときもそうだった。


 夜中、母の呼吸に小さな乱れがあった。眠りに落ちる前の息とは違う。喉の奥で、糸が切れるような音がしていた。


「お父さん、医者を呼んで」


 リネアが言うと、父は母の額に手を当てた。


「熱はない」


「でも、息の音が」


「昼間から働きづめだった。疲れているだけだ」


 リネアはそれ以上、強く言えなかった。


 翌朝、母は起き上がれなくなった。


 医者を呼んだが、手遅れだった。母は数日後に亡くなった。


 もちろん、あのとき医者を呼んでいれば助かったとは限らない。リネアも、それは分かっている。けれど、あの夜の呼吸音を思い出すたび、自分の言葉が届かなかったことだけが胸に残った。


 信じてもらえなかった。


 そして、信じさせることもできなかった。


 その記憶は、彼女の職能に絡みついた。音を記録し、糸に織り込むたび、誰かが首を振る姿を想像した。そんな音に意味はない。子どもの思い込みだ。証拠にはならない。


 だから、今回も怖かった。


 記録布を作る手が震えたのは、犯人に近づけないからだけではない。布を差し出した瞬間、また誰かに言われる気がしたのだ。


 見てもいないものを、見たように言うな。


「眠れないのか」


 背後から声がした。


 ユハンが戸口に立っていた。雨除けの外套から、水滴が床へ落ちている。


「昔のことを思い出していました」


 リネアは隠さなかった。


「音を信じてもらえなかったことです」


 ユハンはすぐには答えなかった。彼はいつも、言葉を選ぶというより、余計な言葉を捨ててから話す。


「私も、見逃した音がある」


 リネアが振り向いた。


「事故の前夜、水門の鎖が鳴った。私は聞いたが、風で揺れただけだと判断した。翌朝、堤が崩れた」


「あなたは、そのことを話したことがありますか」


「報告書には書いた。だが、自分が聞いた音については書かなかった。確かめられなかったからだ」


「怖かったのですね」


 ユハンは否定しなかった。


「確かでないことを確かだと言えば、誰かを傷つける。だが、確かめられないからと黙れば、別の誰かが傷つく」


 雨音が二人の間を満たした。


 リネアは記録布へ目を戻した。


「私は、音が正しいと証明したいのではありません」


「では、何を」


「私が聞いたものを、誰かが確かめられる形にしたいのです。私の耳だけに閉じ込めないために」


 ユハンは布の端に触れた。糸を乱さないよう、指先を止める。


「なら、これは君の記憶だけではない」


「はい」


「私も見た。鍵の傷を。足跡を。水門の音を」


「でも、署名はあなたの判断で書いたものです」


「そうだ」


 彼は記録布から手を離した。


「君が恐れているのは、音を信じてもらえないことだけではない。信じてもらえないまま、間違った責任まで背負わされることだろう」


 リネアの喉が詰まった。


 否定できなかった。


 偽造犯と呼ばれた日から、彼女はずっと、また誰かの失望を見ることを恐れていた。耳を信じたせいで、工房を失い、家族の名を汚し、町を混乱させるのではないかと。


「私は、怖いです」


 ようやく言葉にした。


「この布が間違っていたら。私の聞き違いだったら。あなたまで巻き込んでしまったら」


「そのときは、間違いを調べる」


 ユハンは静かに答えた。


「君一人の耳に、すべてを背負わせない」


 慰めではなかった。約束とも少し違う。ただ、調査の手順として、彼はそう言ったのだ。


 だからこそ、リネアには信じられた。


 窓の外で、水路の流れが石壁に当たった。低く、一定の音だった。その下に、遠くで鎖の触れ合う音が混じる。


 リネアは顔を上げた。


「今の音、聞きましたか」


「聞いた」


「水門のほうです」


「記録するか」


 リネアは新しい布を取り出した。指先の震えは、まだ完全には止まっていない。


「はい。今度は、二人で確かめます」


 針が糸をすくい、雨の夜の最初の音が布へ移されていく。


 信じてもらえなかった記憶は、消えなかった。


 けれど、その記憶の隣に、別の音が重なり始めていた。


 一人で聞く音ではない。


 二人で確かめる音だった。

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