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水音を織る仕立師は、契約の嘘をほどく  作者: 銀細工ナギ


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6/20

音を織った証拠

 翌朝、リネアは工房の机を窓際へ移した。


 薄い光の中で、昨夜までに集めた記録布を一枚ずつ並べる。水門の開閉音、鎖の擦れる音、留め金が跳ねる音。どれも耳で聞けば一瞬で消えるものだが、糸に移せば、時間の中に留めておける。


 ただし、音を布へ織るには順序があった。


 最初に、基準となる鐘を記録する。次に、水路の流れを示す低い糸を張る。それから、周囲で鳴った音を聞き分け、発生した順に横糸として通す。糸の色や太さは、音の高さと強さに合わせる。最後に、記録を行った場所と時刻を、布の端へ縫い込む。


 手順のどこかを省けば、ただの模様になる。


 逆に、すべてを正しく行えば、布は音の流れを証言する。


 リネアは新しい縦糸を張り、昨夜の記録を織り始めた。


 最初の鐘が鳴ったのは、夜の八刻。太い灰色の糸を一本。そこから水の流れが次第に細くなり、九刻を過ぎたところで、短い金属音が三つ続く。水門の留め金が外された音だ。


 彼女は音の間隔を測った。


 一つ目と二つ目の間は、呼吸二つ分。二つ目と三つ目の間は、呼吸一つ分。以前の記録と同じだった。


「同じ人間が扱っているのでしょうか」


 背後でユハンが言った。


 いつからそこにいたのか分からない。リネアは針を止めずに答えた。


「同じ手順ではあります。でも、同じ人とは限りません」


「手順を教えられた者が複数いる可能性か」


「ええ。それに、音だけでは手の大きさも顔も分かりません」


「なら、この記録で何が証明できる」


 リネアは布へ赤い糸を通した。


「操作があったこと。いつ行われたか。どの水門で、どの順序で音が鳴ったか。そして、記録に残された点検時刻と一致しないことです」


「操作した者は?」


「そこまでは分かりません」


 赤い糸が、布の中央で鋭く折れた。


「音は嘘をつきません。でも、聞こえたこと以上は語れない」


 ユハンは黙った。彼が求めているのは犯人の名前だろう。監督官として、誰が鍵を持ち、誰が水門を動かしたのかを明らかにしなければならない。けれど、リネアにできるのは、音が残した輪郭を正確に形にすることだけだった。


 昼前、二人は古い商会倉庫へ向かった。


 倉庫の扉には、北部水路管理商会の印が刻まれている。ユハンが許可証を示すと、番人は不満そうに目を細めた。


「点検記録を確認するだけだ」


「今朝、正式な申請が通ったことは聞いている。しかし、倉庫の中まで見せろとは言われていない」


「水門鍵の保管状況も調査対象だ」


 ユハンが答えると、番人はしばらく睨みつけ、やがて鍵を取り出した。


 扉が開いた瞬間、冷えた油と湿った木の匂いが流れてきた。中には水門の部品、古い鎖、交換用の留め金が積まれている。壁際には、鍵を掛けるための棚があった。


 ユハンは棚の帳簿を調べ、リネアは部品の音を聞いた。


 床に置かれた鎖を指で軽く弾く。低い音が返る。次に、棚の端に掛かった鍵を揺らした。


 わずかに違う音がした。


「この鍵、最近使われています」


 番人の顔がこわばった。


「鍵を見ただけで分かるものか」


「鍵穴に残った油の匂いと、金属の擦れ方が違います」


 リネアは鍵を布の上へ置いた。表面には細かな傷が並んでいる。古い傷の上に、新しい傷が重なっていた。


「ただし、誰が使ったかは分かりません」


 ユハンが鍵を受け取り、刻印を確認する。


「これは第二南水門のものだ」


 帳簿には、その鍵を持ち出した記録がなかった。


 ユハンは番人へ視線を向けた。


「最後に鍵を使ったのは誰だ」


「知らない。私は夜番ではない」


「夜番の名は」


「交代したばかりだ」


 答えはすべて曖昧だった。倉庫の中には、誰かが水門を動かした痕跡がある。それなのに、記録には手を触れた人間の名がない。


 リネアは床にしゃがみ込んだ。埃の上に、細い水滴の跡が残っている。倉庫の奥から入口へ、濡れた靴底の形が続いていた。


 足跡は二種類あった。


 一つは番人の大きな靴。もう一つは、踵の片側だけが深く沈んだ靴だった。歩き方に癖があるのか、左足を引きずっている。


「この足跡は、昨夜のものです」


「なぜ分かる」


「水滴が乾き切っていません。倉庫の床は朝から誰も濡らしていない」


 ユハンが足跡を見た。


「外へ続いているか」


「途中で消えています。荷箱の後ろへ」


 二人で荷箱を動かすと、壁際に小さな通気口が現れた。外へ抜けるほど大きくはない。だが、箱の上には、青い繊維が一本引っかかっていた。


 リネアはそれを拾い上げ、指先で撫でた。


「水門の作業服と同じ色です」


「商会の作業員なら、誰でも着ている」


「そうです。だから、これも犯人を特定する証拠にはなりません」


 言葉にすると、胸の奥が重くなった。


 音も、足跡も、鍵も、すべてが誰かの存在を示している。けれど、いくつもの人間が同じ印を使える仕組みの中では、証拠は名前へ届かない。


 倉庫を出ると、空は曇っていた。


 ユハンは記録布を見下ろした。


「これだけ揃っていても、まだ決定的ではない」


「はい」


「君は落胆しないのか」


「します」


 リネアは正直に答えた。


「でも、だからといって、分からないものまで分かったことにはできません」


 ユハンは彼女を見た。責めるでもなく、慰めるでもない視線だった。


「その線引きを、私は忘れないようにする」


「あなたは、犯人を見つけたいのでしょう」


「見つけたい」


「なら、私の記録にない名前を書かないでください」


「分かった」


 短い返事だった。


 リネアは布を広げた。水門の音が、細い糸の列となって並んでいる。そこには操作された時刻が残り、記録の空白と重なっていた。


 犯人の顔はない。


 声もない。


 それでも、誰かが夜ごと水門を動かし、町の流れを変えた事実だけは、もう消せなかった。


 リネアは布の端へ、最後の文字を縫い込んだ。


 ――聞こえたものを、聞こえたままに。


 その隣へ、ユハンが調査日時と場所を記した。二人の署名が並ぶ。


 証拠は、まだ犯人を指していない。


 だが、水路を私物化する計画の上に、最初の確かな糸が結ばれた。

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