水の止まる地区
南の水路へ向かう道は、朝から妙に騒がしかった。
まだ店を開けるには早い時刻だというのに、水桶を抱えた人々が通りを行き交い、井戸の前には長い列ができている。水売りたちは荷車を止め、空になった桶を地面へ置いて、互いに低い声で話していた。
リネアは足を速めた。隣を歩くユハンは、いつもより口数が少ない。昨夜、旧水門で聞いた声のことを、二人は誰にも話していなかった。話せば、相手にこちらの手の内を知らせることになる。
「南の水路は、昨日から流れが弱いのですか」
リネアが尋ねると、ユハンは水路を見下ろした。
「昨夜の合図が出る前から、変化はあったらしい。だが、監督局の記録には異常なしとある」
「記録にないから異常がない、とは限りません」
「分かっている」
水路には水が流れていた。けれど、底の石が乾いて見えるほど浅い。普段なら勢いよく回る水車も止まり、軸に絡んだ藻が風に揺れているだけだった。
水売りの女が、こちらに気づいて駆け寄ってきた。
「監督官さん、来てくれたのかい。助けておくれよ」
彼女はマルタと名乗った。町の南側を担当する水売りで、背の高い荷車を引いている。荷台には水桶が六つ並んでいるが、どれも半分ほどしか満たされていない。
「いつから水が減った」
ユハンが訊いた。
「三日前から少しずつさ。朝に汲んでも、昼には水圧が落ちる。昨日なんか、日暮れ前にはほとんど出なかった」
「上流では?」
「貴族区へ行く水路は、いつも通りだよ」
マルタが吐き捨てるように言うと、周囲の人々も口々に賛同した。
「向こうの噴水は止まっていない」
「こちらは子どもの分も足りないのに」
「商会の水車だけは回っている」
ユハンの目が、水路脇の石積みに向いた。そこには新しい泥が付着していた。水位が変わった痕跡だ。リネアはしゃがみ込み、石の隙間を指でなぞった。
泥の中に、細い鉄粉が混じっている。
「水門の鎖が擦れた跡です」
「見えるのか」
「聞こえます」
リネアは記録布を取り出した。布を水路の縁に置き、銀糸の端を石へ固定する。微かな振動が糸を伝わり、布の上で細かな波となった。
昼の町は騒がしい。荷車の車輪、呼び売りの声、桶のぶつかる音。そのすべてが混ざり、普段なら水門の動きなど聞き分けられないはずだった。
だが、布の波には一定の間隔があった。
低い震えが三つ。
短い沈黙。
続いて、鋭い震えが一つ。
リネアは針を取り、波の形を糸へ移した。隣でユハンが水路を見張っている。彼は町の人々に尋ねながら、流れの変化が起きた時刻を確かめていた。
「昨日の昼、突然水が細くなった」
「その前の日は夕方だ」
「三日前は、鐘が鳴ったあとだった」
最後の言葉に、リネアの針が止まった。
「鐘を聞いたのですか」
答えたのは、細い腕の少年だった。水売りの荷車に桶を積んでいる。
「夜に、遠くから。高い音が二回して、そのあと低い音がした」
リネアは布の上に刻んだ波形を見た。昨夜、旧水門で聞いた合図と似ている。しかし、完全には同じではない。
「これは合図ではありません」
「何だ」
「水門を閉める動作の音です。鎖を引く回数が、夜の鐘と一致している」
ユハンは水路の先へ歩き出した。リネアも続く。水路は南の地区を横切り、途中で二つに分かれていた。一方は町の共同井戸へ、もう一方は貴族区と商会の倉庫へつながっている。
分岐点にある小さな水門は、外からは見えないよう石壁の中に収められていた。ユハンが鉄扉を開けると、内部から湿った風が吹き出した。
水門の歯車は動いている。
片側の水路を絞り、もう片側へ水を送る位置で止められていた。歯車の根元には新しい油。鎖には細かな傷。誰かが何度も操作した証拠だった。
「自然に詰まったのではありません」
リネアが言った。
「ああ。人が意図して流れを変えている」
ユハンは水門の刻印を確認した。公用の印の隣に、見慣れない小さな傷がある。
リネアはその傷へ指を当てた。
旧水門の鉄片に刻まれていた溝と同じだった。
「合図を受けた者が、ここを操作する。夜の鐘は命令を伝え、ここで水を分ける」
「南の地区を枯らし、上流へ回している」
「はい」
外から、桶の倒れる音がした。誰かが悲鳴を上げ、水売りたちが一斉に騒ぎ始める。
二人が外へ出ると、先ほどまで細く流れていた水が、さらに弱くなっていた。水路の底が広く露出し、泥の筋だけが残っている。
マルタが空の桶を抱えて叫んだ。
「まただ! 今度は完全に止まったよ!」
人々の怒りが膨れ上がる。ユハンは水路の分岐へ走り、閉じかけた水門の鎖をつかんだ。
「触らないでください!」
リネアが叫ぶ。
「このままでは水がなくなる」
「無理に戻せば、上流の管が破裂します!」
ユハンの手が止まった。彼は水門と町の人々を見比べた。かつて命令に従い、危険を見ないことを選んだ男の顔が、再び現れる。
リネアは布を広げた。
「誰かが、今も遠くから操作を見ています。水を戻すだけでは、証拠を消される」
「ではどうする」
「流れを少しだけ戻す。完全には開けず、圧力を測れる位置で止めます」
彼女は歯車の刻みに指を添えた。音の記憶が、指先から伝わってくる。水の唸り、鎖の張り、金属が限界へ近づく震え。その中から安全な位置を探した。
「そこです。あと一つ分だけ」
ユハンが鎖を引いた。
歯車が重く回り、水が低く唸る。やがて水路の底に細い流れが戻った。人々から安堵の声が上がるが、リネアは布から目を離さなかった。
記録された波形の中に、別の振動が重なっている。
遠くで、鐘が鳴った。
一度。
その音に応じるように、町の外れで水門が動いた。
「まだ終わっていません」
リネアが言った。
ユハンは南の空を見た。雲の向こうで、見えない水路が町を分けている。
「なら、次の水門へ行く」
彼は歩き出した。
リネアは記録布を巻き取り、彼の背を追った。背後では、水を求める人々が桶を満たし始めている。けれど、水圧の落ちた地区はまだ広く、町の半分近くに及んでいた。
誰かが水を奪っている。
そして、その操作は一つの水門では終わらない。




