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水音を織る仕立師は、契約の嘘をほどく  作者: 銀細工ナギ


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3/20

夜だけ鳴る水門の鐘


 旧水門の通路は、思っていたより深く伸びていた。


 扉が閉まると、外の朝の気配はすぐに消えた。残ったのは、壁の内側を流れる水の音と、二人分の足音だけだった。リネアは記録布を胸に抱え、ユハンの背中から目を離さないようにした。


「足元に段差がある」


 言われた直後、石床が一段落ちた。リネアが踏み外しかけると、ユハンの手が伸び、肘をつかんだ。


「ありがとうございます」


「礼はいい。転ぶと記録布が濡れる」


「私の心配ではなく、布の心配ですか」


「今はそうだ」


 いつもの無愛想な返事だったが、つかんだ手はすぐには離れなかった。暗闇の中で、彼の指が確かめるように彼女の袖を支えている。やがて足場が平らになると、ユハンは何事もなかったように手を放した。


 通路の先には、古い操作室があった。


 壁には歯車と鎖が並び、中央には水門を動かすための大きな車輪が据えられている。錆びているように見えるのに、車輪の根元には新しい油が塗られていた。床には泥の跡があり、靴底の形が奥へ続いている。


 リネアはしゃがみ込み、泥に指を近づけた。


「今朝ついたものではありません。表面は乾いていますが、割れ目の中は湿っている」


「昨夜か」


「たぶん」


 ユハンは灯りを掲げた。操作室の奥に、小さな扉がある。その扉の上には、鐘の形をした鉄片が吊るされていた。


「鐘……?」


 リネアが近づくと、鉄片の表面に細い溝が刻まれていた。溝は三本ずつまとまり、ところどころで間隔を変えている。旧水門の杭にあった傷と同じだった。


「これは音を鳴らすものではありません」


「では何だ」


「鳴った音を、別の音に変える仕掛けです」


 鉄片の裏側に細い糸が通されている。糸は壁の穴へ入り、その先で鎖につながっていた。水門が動くと鎖が引かれ、鉄片が壁に当たる。振動が通路を伝わり、外にいる者へ合図を送る仕組みらしい。


 リネアは鉄片を指で軽く弾いた。


 かすかな音が返ってきた。


 高く、乾いた響き。その後に、遠くで水がせき止められる音が重なった。


「夜だけ鳴る鐘です」


「夜だけ?」


「昼は水路の音や人の声に紛れます。でも夜なら、ここから響く音を聞き分けられる。誰かが水門を動かした合図を送っていたのでしょう」


 ユハンは鉄片を見つめたまま黙っていた。


「監督局は、この仕掛けを知っていたのですか」


「知らなかった」


「では、なぜそんな顔をするのです」


 彼はすぐに答えなかった。灯りの火が揺れ、頬に濃い影を落とす。


「三年前、この水門の下流で事故があった」


 低い声だった。


「春の雨で水位が上がった夜、下町の仮設橋が流された。渡ろうとした職人が二人、川に落ちた。一人は助かったが、もう一人は見つからなかった」


 リネアは黙って聞いた。


「私はその夜、監視所にいた。水位の報告を受けていたが、警報を出さなかった」


「なぜですか」


「水門を閉じれば、上流の貴族区へ送る水が止まる。担当官は朝まで待てと言った。私は、その命令に従った」


 ユハンの手が、灯りの柄を強く握った。


「だが、朝まで待つ必要はなかった。水位はすでに危険域を越えていた。記録を見れば分かったはずだ。私は見なかった。見ないことを選んだ」


「事故の原因は、あなた一人ではありません」


「そう言ってくれる人は多い」


 彼は苦く笑った。


「だから、信じられない。責任を分ければ軽くなると思っているだけに聞こえる」


 リネアは記録布を広げた。そこには、さきほど聞いた鉄片の音が縫い込まれている。震えの間隔を指でなぞると、音の記憶が細かな起伏となって返ってきた。


「あなたは今も、音を覚えているのですね」


「何の話だ」


「事故の夜の音です」


 ユハンの顔から血の気が引いた。


「水が橋を叩く音。誰かが助けを呼んだ声。鎖が引かれた音。あなたは忘れられないから、ここへ来た」


「……忘れるつもりはない」


「忘れないことと、自分を罰し続けることは同じではありません」


 彼は返事をしなかった。


 そのとき、奥の扉の向こうで金属が擦れた。二人は同時に振り向いた。ユハンが剣の柄に手を置き、リネアは灯りを消す。


 暗闇の中で、誰かの足音が二つ響いた。


 一つは重く、もう一つは軽い。やがて声が聞こえた。


「今夜の合図は、二度と一度だ」


「分かっている。明日の夜には、南の水路を閉じる」


 リネアは息を殺した。ユハンの手が彼女の肩に触れ、動かないように示す。


「契約布は処分したのか」


「旧水門に残してはいない。だが、あの仕立師が余計なものを見つけた」


「なら、鐘を止めろ。音を聞かれれば終わりだ」


 足音が遠ざかる。扉が閉じる音がして、しばらく水の流れだけが戻った。


 ユハンは灯りを点けた。


「聞いたか」


「はい。明日の夜、南の水路を閉じる」


「それだけではない。彼らは、私たちがここを調べることを知っている」


 リネアは鉄片を見上げた。夜だけ鳴る鐘。誰かが水門を動かした証拠であり、誰かが次の命令を伝えるための声でもある。


「この音を記録しましょう」


「今すぐ?」


「今でなければ、誰かが壊します」


 リネアは銀糸を取り出した。前の試験具では足りない。彼女は自分の袖口から糸を抜き、銀糸により合わせた。余計な震えを抑え、鐘の響きを正確に受け止めるためだった。


 ユハンは黙って、操作室の扉の前に立った。


「見張る」


「逃げるためですか」


「違う。あなたが音を聞き取る時間を作るためだ」


 リネアは彼を見た。責任に縛られた背中は、まだ固く、重い。それでも今は、彼女の判断を邪魔せずに守ろうとしている。


 銀糸が震えた。


 夜の鐘が、また鳴った。


 二度。


 間を置いて、一度。


 リネアはその音を布へ移した。針を進めるたび、過去の事故と今夜の企みが、一本の糸でつながっていく。


 水門の向こうで、水が低く唸った。


 ユハンは扉の外を見たまま言った。


「明日、南の水路を止めさせない」


「あなた一人で?」


「一人ではない」


 その言葉を聞いた瞬間、リネアの針先がわずかに揺れた。


 記録布には、新しい音が刻まれていた。鐘の響きの隣に、二人分の足音が重なっている。屈服するためではなく、真実へ向かうための音だった。

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