封鎖された工房からの出発
翌朝、リネアは工房の戸の前で立ち止まった。
封蝋はまだ乾いた艶を残し、扉には水路監督局の印が斜めに貼られている。昨日までなら、鍵を差し込めば一日の仕事が始まった。今日はその鍵を持っていても、内側へ入ることはできない。
窓越しに見える作業台には、途中まで織った灰色の布が置かれていた。糸車も、染料桶も、音を覚えた針も、すべてそこにある。手を伸ばせば届く距離なのに、封鎖という言葉は壁より厚かった。
「遅い」
背後から声がした。
振り返ると、ユハンが水路沿いの道に立っていた。昨日と同じ濃紺の外套を着ている。手には細長い木箱があり、蓋の隙間から金属の留め具が覗いていた。
「工房に別れを告げていました」
「戻るつもりで?」
「もちろんです」
リネアは封印された扉から目をそらさなかった。
「戻れないなら、戻れるようにする。それが今回の契約でしょう」
ユハンはわずかに眉を動かした。賛成したのか、ただ記憶に留めたのか分からない。
「旧水門までは歩く。途中で質問があれば聞く」
「質問はあります。なぜ、私を調査員にしたのですか」
「音を聞ける人間が必要だった」
「それだけですか」
「それ以上の理由が必要か」
「私を疑っているのに、私の言葉を信じたからです」
ユハンはすぐには答えなかった。水路の水面に朝日が細く砕けている。その光を見ながら、彼は言った。
「信じたわけではない。確かめる価値があると思った」
冷たい返事なのに、リネアは不思議と腹を立てなかった。信頼というものを、最初から渡す人ではないらしい。ならば、自分の手で確かめさせるしかない。
旧水門は町の北端にあった。今は新しい水門が使われているため、石造りの建物は蔦に覆われ、管理人も置かれていない。水路は細く分岐し、かつて貴族の庭園へ水を引いていた溝だけが、今も濁った水を流していた。
鉄柵の前で、ユハンは木箱を開けた。
中には小さな金槌、薄い板、封印用の紐、それから白い布を張った枠が入っていた。
「これは?」
「音を記録するための試験具だ。監督局にあったものを借りた」
「私の道具ではありませんね」
「あなたの工房は封鎖中だ」
リネアは枠を受け取り、指で布を撫でた。張りが弱く、織り目も粗い。音を受け止めるには頼りない。
「これでは、水門の音は逃げます」
「分かっている。だから別のものを持ってきた」
ユハンは懐から細い銀糸を取り出した。光を受けると、青白い線が走る。
「昨日、あなたが工房で使っていたものと同じか」
「似ていますが、違います。これは鳴りすぎる。記録した音に余計な震えが混じる」
「では、どうする」
問い方が妙に率直だった。命令ではなく、判断を求めている。
リネアは周囲を見回した。鉄柵の錆、崩れた石壁、苔の湿り気。足元には古い杭が一本残っている。その杭に、細い赤茶色の繊維が絡みついていた。
しゃがんで拾い上げる。
「この色……契約布の糸と同じです」
ユハンも膝を折った。
「ここに布があった?」
「布そのものではありません。糸を抜いた跡がある」
杭の表面には、一定の間隔で浅い切り傷が刻まれていた。三本、空けて二本、また三本。偶然の傷にしては規則正しい。
リネアは糸を指の間で伸ばした。乾いた音がした。契約布で聞いた、あの小さな鐘の響きに似ている。
「合図です」
「何の」
「まだ分かりません。ただの印ではない。糸の本数と間隔が、音の代わりになっている」
彼女は布枠を地面に置き、持っていた裁縫道具から針を一本取り出した。封鎖前に、髪へ挿しておいたものだった。針先に自分の袖口の糸を結び、杭の傷に沿って軽く弾く。
一本目。低い震え。
二本目。少し高い震え。
三本目。低い震え。
続く二本は間隔が短い。
その順に音を拾い、白布へ移していく。布の上に縫い目が増えるたび、杭の傷は別の形を持ち始めた。
――三、二、三。
「数字ですか」
「たぶん。水路契約の条項に似た区切り方です」
リネアはさらに周囲を探った。古い石壁の裏、壊れた排水口、蔦の根元。すると、排水口の奥に小さな陶片が埋め込まれているのが見えた。
引き抜くと、内側に黒い煤が付着していた。煤は細い線となって、陶片の表面に文字のような記号を描いている。
ユハンが灯りを近づけた。
「読めるか」
「文字ではありません。音を示す符号です」
リネアは陶片を耳元へ持ち上げた。指で縁を撫でると、かすかな残響が返ってくる。三度の鐘。そのあと、水が急にせき止められる音。最後に、木箱の蓋を閉じる音。
昨日の布に残っていた音と同じだった。
だが、最後の音の前に、別の響きが混じっている。遠くで何かが擦れる音。太い鎖が石を引きずる音だった。
「契約布は、ここで作られたんです」
リネアは顔を上げた。
「ここで音を聞き、合図を使い、誰かが記録を持ち去った。布を偽造しただけではありません。水門を動かす手順そのものが、隠されている」
ユハンは陶片を受け取った。無言のまま、旧水門の奥を見つめている。
そのとき、閉ざされた水門の向こうから、重い音が響いた。
ごうん、と一度。
使われていないはずの門が、わずかに震えた。
水面が逆流し、足元の溝へ黒い筋を伸ばす。
リネアは記録布を胸に抱いた。布の縫い目が、今聞いた音を細かく返している。
「誰かが、まだここを使っています」
ユハンは腰の鍵束を外した。
「なら、入る」
「封鎖されているのでは?」
「旧水門を封鎖した記録はない」
彼は錆びた扉の錠前に鍵を差し込んだ。何度か噛み合わなかったが、最後には小さな音を立てて回った。
扉の隙間から、冷たい水気と、微かな鐘の音が流れ出す。
今度は三度ではなかった。
二度、間を置いて、一度。
リネアはその音を聞きながら、昨日の囁きを思い出した。
水は、売るものだ。
けれど、この水門の奥には、売るためではなく隠すための何かがある。
二人は暗い通路へ足を踏み入れた。背後で扉が閉まり、朝の光が細く消える。
工房を出たとき、リネアは自分が一人で証拠を探すのだと思っていた。
だが、闇の中で先に歩くユハンの足音を聞いていると、事件はもう、彼女一人のものではない気がした。




