偽物の契約布と三日間の依頼
水音は、嘘をつかない。
リネアは、そう信じて仕立師になった。
朝の工房には、まだ川霧の冷たさが残っていた。窓辺に吊るした糸束が、風もないのにかすかに揺れている。青、灰、淡い銀。どれも染め上がったばかりの麻糸で、指で弾けば、それぞれ違う響きを返した。
リネアは耳を澄ましながら、糸を選んでいた。
普通の仕立師が布の色や手触りを見るように、彼女は音を聞く。織機の歯が刻む規則正しい音、針が布を抜けるときの細い音、染料が乾くときに立てるかすかな軋み。その記憶を糸に織り込めば、布は一度聞いた音を失わない。
町ではそれを「音織り」と呼んでいた。
便利な技術だが、好かれているとは限らない。音は目に見えず、聞き手の記憶にしか残らない。だから人々は、証拠として差し出された音より、権力者の署名を信じた。
その朝、工房の戸を三度叩く音がした。
「開けろ。水路監督局だ」
聞き慣れない男の声だった。
リネアが鍵を外すと、濃紺の外套を着た役人が二人立っていた。その後ろには、町の中央水路を管理する貴族商会、ヴェルグ商会の使いがいる。使いの男は、白い手袋をした手で丸めた布を抱えていた。
「これを鑑定しろ」
役人は挨拶もせず、布を作業台へ置いた。
広げられたのは、幅一腕ほどの古い契約布だった。黄ばんだ地に、赤茶色の糸で水路の使用権と維持費が記されている。中央には、町の印章を模した紋が織られていた。
「三日前、旧水門の保管庫から出た原本だ。おまえは以前、契約布の補修を担当したな」
「補修はしました。でも、この布が私の工房を通ったとは――」
「余計なことは言うな」
リネアは黙って布に触れた。
最初に聞こえたのは、乾いた雨のような音だった。古い麻糸が擦れる音。次に、遠くで水車が回るような低い唸り。彼女は目を閉じ、布の中に残された記憶をたどった。
水路契約の原本なら、署名が織り込まれた夜の音が残る。役所の地下にある記録室。窓の外を流れる水。夜番の鐘が二度。インク壺を置く音。
だが、この布から聞こえたのは、三度の鐘だった。
それも、町の鐘ではない。ヴェルグ商会の倉庫に吊られた、小さく濁った鐘の音だ。
さらに、赤茶色の糸には、奇妙な癖があった。結び目のたびに、糸がわずかに震えている。まるで同じ文字を写し取った者が、手の震えを隠せなかったように。
「これは原本ではありません」
リネアが言うと、部屋の空気が止まった。
「何だと?」
「紙の写しを見ながら、あとから織ったものです。署名も印章も、本物の音を知らない人が似せている。記録室の鐘は二度、この布に残っているのは三度。それに、印章を押したときの金具の音がない」
役人の顔が赤くなった。
「貴様、自分の罪を隠すために原本を偽物扱いするのか」
「罪?」
後ろの使いが一歩進み、冷たく笑った。
「契約布の補修を請け負ったのはおまえだろう。布をすり替え、町の水路使用権を盗もうとした。商会は寛大にも、返却と謝罪で済ませるつもりだった」
「私が、そんなことをする理由はありません」
「理由ならある。工房の借金だ。先月の染料代も払えていないそうだな」
胸の奥を、細い針で突かれたような痛みが走った。確かに工房の経営は苦しい。だが、だからといって契約布を偽造するはずがない。
役人は布を巻き取り、封蝋を押した。
「工房を本日付で封鎖する。調査が終わるまで、道具も布も触るな」
「待ってください。鑑定の記録を――」
「おまえの言葉など記録にはならん」
戸口で、低い声がした。
「記録にならないと決めるのは、あなたではない」
役人たちが振り返った。
外套の肩に雨粒を残し、ひとりの男が立っていた。黒髪を短く切り、飾り気のない水路監督局の徽章を胸につけている。背は高いが、威圧するような立ち方ではない。ただ、見ているものから目をそらさない人間の姿勢だった。
「ユハン監督官」
役人がたじろぐ。
ユハンは作業台の布を見たあと、リネアに視線を移した。
「今の説明を、もう一度」
「この布は偽物です。音が違います」
「それを証明できるか」
「記録布を作れば」
「三日で?」
リネアは息をのんだ。
ユハンは懐から一枚の書類を取り出した。役所の正式な契約用紙だった。
「三日間、私の臨時調査員として働いてもらう。報酬は工房の封鎖解除に必要な保証金と同額。調査中は、あなたの道具を使用できるよう私が申請する」
「私を疑っているのに?」
「疑っている。商会も、役所も、あなたも」
ユハンの声には、冷たさより疲れがあった。
「だが、布の音を聞いたあなたを、ただの偽造犯として扱うのも疑っている」
差し出された契約書には、調査範囲、報告期限、報酬、そして一行だけ、手書きの条文が加えられていた。
――調査員は、監督官の指示に従う義務を負う。ただし、調査員が虚偽と判断した指示には異議を述べる権利を持つ。
リネアはその一文を何度も読んだ。
「三日後に、私が偽造したと証明されたら?」
「工房は失う」
「あなたが間違っていたら?」
「私も職を失う」
ユハンは淡々と言った。
「契約するか。しないなら、今日の封鎖が続く」
外では、水路を流れる水が石壁を叩いていた。一定の、まっすぐな音だった。その奥に、誰かが水門を閉じる重い響きが混じった。
リネアはペンを取った。
自分の名前を書く手が震えている。恐怖のせいだけではなかった。水路の音が、何かを急かしている。
署名を終えると、ユハンは契約書を受け取った。
「明朝、旧水門へ来てくれ」
「旧水門に何が?」
「偽物の布が、なぜそこにあったのかを調べる」
彼はそれだけ言い、役人たちを促して工房を出た。
残されたリネアは、作業台の上の糸束を見つめた。赤茶色の糸を一本、指先で弾く。
かすかな音がした。
三度鳴る、小さな倉庫の鐘。
そしてその直後、誰かの囁きが糸の奥から聞こえた。
「水は、売るものだ」
リネアは顔を上げた。
三日間の契約は、もう始まっていた。




