第22話 生きる理由
「ああ、やっと来たんだね、【護人】」
別館の扉を荒々しく開けて居間に踏み込んだバッカスに、声がかけられる。
椅子の肘掛けに頬杖をついた【人間】が、こちらをじっと見つめていた。
その向かいに座っていたオリヴィアが、バッカスに微笑みかける。
「お疲れ様です、バッカス先生」
バッカスはそれに応えるように小さく頷くが、すぐに【人間】をまっすぐと見据える。
「……彼と、何の話をしていた」
低い声だった。【人間】は肩を竦める。
「これからも【聖女】をよろしく、ってことを可能な限り遠回りしながら伝えただけだよ」
バッカスは【人間】の眼の前で立ち止まった。
【人間】は見上げることすらせず、ただ床をじっと見つめている。
「ブレム少年は、この短時間で貴様に少なからず心を許していたようだったが」
「そう?ならよかった。そうなるように演じていたからね」
演じる、という言葉を【人間】が口にした瞬間、バッカスは無意識に拳を握る。
「善人は扱いやすいからね。
今まで冷徹だと思っていた人間が、ふとした瞬間に僅かな善意や温情を垣間見せるだけで、信頼を寄せてくれる。少なくとも、警戒は緩めてくれるかな。
あの少年からの信頼なんて、いくら獲得しても損はないでしょう?」
バッカスは、背筋を這い上がるような嫌悪感をぐっと押し殺す。
この【人間】という存在は――合理性が幼い少女の皮を被った化物だ。
それが合理的ならば、どんな手でも迷わず打つ。
例えばそれが、何人もの人が犠牲になる選択肢でも、また逆に、多くの人々を逆境から救う選択肢でも。
『合理的』というただそれだけの基準で、等しく天秤にかける。
「あの少年に、随分と入れ込んでいるようだな。それはオリヴィアの――【聖女】の恋人だからか?」
「うん。それが一番の理由――だけど、それだけじゃない。彼が特別だから、というのも大きい。君もそれを実感したから、あの少年の味方についているんだよね」
バッカスは応えない。
いつの間にか席を立っていたオリヴィアは、少し離れた場所から目を伏せ、二人の様子を静かに見つめていた。
やがてバッカスは、ゆっくりと口を開いた。
「……まともな人間であれば、数日間で出会った相手を、恋人にしようと思わない」
それを聞いて、オリヴィアは少し驚いたように顔を上げる。
「そうなのですか?」
「……【聖女】。普通は、それなりに長い年月をかけて愛を育んでいくものだよ……だけど【護人】」
【人間】はそこで一度言葉を切ると、頬杖をついたまま、バッカスへ視線を向ける。
「【聖女】の容姿なら、一目惚れする人も多いんじゃないかな」
「無論、何も知らぬ段階であれば好意を抱く者も多いだろう。だが、その相手と自分の間に絶望的なまでの才能の差があると、心の底から理解しても、その好意を維持できる者がいるか?」
「いないね。いるはずがない。普通はね」
【人間】は、淡々と言葉を続けていく。
「彼我の才能差を理解できないほど、愚鈍なわけではない。
才能の差から目を逸らして、少女としての一面だけを都合よく切り分けているわけでもない。
ただその才能を直視した上で、気にしていないというだけ。
そんな態度で、自分の恋人と接することができる精神性の人間は、珍しい。
そして非凡な精神性の人間を、私は野放しにするつもりはない。
利用価値の多寡に関わらず、そういう人間は傘下に加えるべき、というのが私の持論だからね」
そこまで言い切って、【人間】は机の上に置いてあったコップを手に取り、口をつける。
バッカスは眉をひそめて、嫌悪感を露わにする。
「……貴様が、彼を道具としてしか認識していないのは、よく理解した」
「そう。よかったね。
じゃあ雑談はここまでにして、本題に入ろうか。
まずは、今日発生した魔物達について……」
【人間】は、最後まで言い終わることはなかった。
バッカスが、座っていた【人間】の襟を掴み、持ち上げたからだ。
「貴様は気に入った人間を、余程のことがない限り見捨てることはないことは重々承知している。まして彼は【聖女】の恋人だ。貴様もわざわざ敵に回すようなことはしないだろう。
――だが」
無表情の【人間】を睨みつけながら、バッカスは静かに、しかし言葉を叩きつけるように告げる。
「仮に貴様が彼を、そしてオリヴィアを害することがあれば、私は、貴様を殺――」
「バッカス」
告げようとして、しかしそれは【人間】が放った言葉に遮られる。
【人間】の表情は変わらない。
その目にも、感情の揺らぎのかけらも見られない。
その視線に、バッカスの背筋に寒気が走り――。
「君は、どうして生きているのかな?」
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