第17話
キキョウと別れ、自室まで移動したブレムはベッドに仰向けに倒れ込んだ。
ベッドに沈み込んだまま、ブレムは視線を漂わせる。
しかしその目に浮かぶのは、部屋の天井の模様ではない。
――目前に迫っていた爆風に巻き込まれる直前、時が止まったように静止する光景。
――壊滅寸前だった礼拝堂の時間が巻き戻り、無傷同然になった光景。
――歌うだけで鯨の攻撃を全て打ち消し、逃げる鯨を黄金の何かで瞬く間に消し去った光景。
それら全てが、脳裏に焼き付いている。
(オリヴィアの天才性とやらは、俺が想像していたより遥かに異質な物だった。とはいえ、今までの関係が変わるとは思わない。ただ――)
知らずに手が震える。
(あんな魔法――いや、あんな馬鹿げた真似、オリヴィアが起こした物じゃなかったら、受け入られる筈がない)
キキョウに回廊で投げかけられた問いが、遅れて胸の奥で反響した。
――どうして貴方は、今まで通りに【聖女】様と接する事が出来るのですか?
その答えは、先ほどキキョウに告げた通りだ。
どんな理屈の通らないことが起きても、それがオリヴィアに起因するものなら、ブレムは笑って受け入れられるという事だ。
しかし、それはオリヴィアとの関係が既に築けていたからだ。
仮に初めてオリヴィアを目にしたのが故郷の街の教会ではなく、この本教会で、鯨を一蹴する姿だったのなら。
そのときでも、今のような関係に至れていたのだろうか?
「無理、だよな……俺が受け入れられない」
独りでにオリヴィアを神格化して、過度に近づこうとしないだろう。
恋人関係になど、なれる筈がない。
結局のところ、運が良かったのだ。
オリヴィアと初めて出会ったのが【聖女】として圧倒的な力を振るう姿ではなく、ただの少女としての一面だったから、今のブレムはオリヴィアの天才性を苦なく受け入れる事が出来る。
――これでいいのか?
ブレムの胸に、一抹の不安が過ぎる。
それは今の関係を続けることに対してではない。
このまま、自分はオリヴィアの恋人という都合のいい立場に甘えてしまうのではないかという不安だ。
(多少なりとも、オリヴィアの天才性を意識した方がいいのか――)
ベッドから起き上がりながら、ふと、窓際に置かれた一冊の本が目に留まった。
家から持ってきた、魔術式についての詳しい本である。
昨晩、暇を潰すために、読み込んでいたのだ。
ブレムはベッドから降り、本を手に取る。
この古びた本は、内容の質としては上の下と言ったところで、決して粗悪というわけではないが、もっと良い専門書をブレムは他に何冊も所持している。
にも関わらずわざわざここに持って来たのは、この本に特別な思い入れがあるからで――。
(――あ)
不意に、ブレムは思い出した。
◇
確か、今から6、7年前のこと。
「魔術式のテストでまた一位?!凄いじゃないか、ブレム!てかずっと一位じゃないか?俺の息子とは思えんなあ!!」
狭い家の中に、豪快な笑い声が響き渡り、ブレムは身を縮こませて口をもごもごと動かす。
「う、うん、そうだね……」
そうして、手に持ったフォークでベーコンを突き刺し、口に運ぶ。
「どうしたブレム、いつもより元気がないな。何かあったか?」
向かい側に座って豪快にパンを口に放り込んでいた男は、ブレムの顔を覗き込みながら眉を上げた。
「ううん、そんな大した事じゃないんだけどね、父さん……」
ブレムはぽつぽつとと、不安を吐き出していく。
「このまま、魔術式の勉強だけをしててもいいのかな……って。魔術式以外のテストは、ついにクラスで最下位になっちゃった…」
男――父親は、首を傾げる。
「ん?でも、お前は魔術式が特段凄いから、別にいいんじゃないか?この調子なら、将来食い物に困る事はないだろ?」
ブレムは一度だけ喉を鳴らし、視線を皿に落とした。
「僕も、そのつもりだったんだけど……先生とみんなから言われるんだ。魔術式の勉強だけじゃなくて、他の教科ももっと頑張った方がいいんじゃないって……」
「……なるほどなぁ」
父親は動かしていた手を止めて、まっすぐブレムを見た。
黒色の眼球で見つめられ、所在なく目線を動かすブレムに対して、父親は口元だけで笑いながら、口を開いた。
「それで、お前自身の気持ちとしては、魔術式以外の勉強をしたいのか?」
魔術式以外の、勉強……。
ブレムはゆっくりと父親の言葉を噛み締めた後、小さく首を振る。
「……ううん。その暇があったら、魔術式の勉強を進めたい」
ブレムはおずおずと答えた。言い切った瞬間、胸の奥が少し軽くなる。
「じゃあ次だ。お前は周りの忠告を聞いて、他の勉強をしようと思っているのか?」
今度は、そこまで逡巡の時間は掛からなかった。
「ううん……みんなには申し訳ないけど、この気持ちは変わらないと思う……」
父は一拍置いてから、ふっと笑った。
「なるほどなぁ。ブレム。お前が不安になってる理由がわかるか?」
そう言われても、幼いブレムの頭に、ピンとくる答えは思い浮かばなかった。
「……分かんない」
父親はニヤリと笑って、言った。
「お前は、『自分のやりたいこと』ってのがはっきりしてる。
これ、実は結構凄いことなんだぞ?大人でも、やりたい事が定まってる人間ってのは少数派だ。
でも周りは、それを『危ない』だとか、『偏ってる』って言ってくる。
だから、お前は自分が間違ってる気がしてくるんだ」
父親は椅子の背にもたれると、口元に浮かんだ笑みを消して、低い声で言った。
「けどな息子よ――そんな忠告とか、常識とか世間体とかは話半分に聞いとけ。
そういう正論は、気が変わったら聞き入れるくらいでいい。
自分勝手に生きろよ。そっちの方が、辛いけどそれ以上に楽だ。自分の心に従うだけでいいからな」
自分勝手に、生きる。
そっちの方が、辛くて楽だ。
その言葉が、胸の奥にすとんと落ちた。
ブレムは、小さく頷いた。
「ありがとう……でも、それは少し、無責任過ぎるんじゃない……?」
「そうかもな……でも、俺はそっちの道を勧めるぞ?何と言ったって、お前は俺の息子だからな」
父親は立ち上がると、棚の奥を探る。
「そういや渡し忘れてたな。ほい」
差し出されたのは、一冊の魔術書だった。装丁が綺麗で、紙も新しい。
「神律スペア聖教国から取り寄せた本でな? 結構高かったけど、俺の稼ぎならちと厳しいくらいで――ゴホッ!!」
「父さん!」
ブレムが慌てて立ち上がると、父は片手で制した。
「……大げさだ。平気だよ」
そう言いながらも、咳はしばらく止まらなかった。
ようやく落ち着いた父は、少しだけ声を落とす。
「……俺も、いつまでお前のそばにいられるか分からんが……」
父は言い切らず、代わりにブレムの頭をぽん、ぽんと軽く叩いた。
「お前が選ぶ道だ。好きにやれ。周りの声が鬱陶しかったら、首だけ縦に振っておきな」
ブレムはその温もりを感じながら、手元の本に視線を落とした。
胸の奥が、言葉にできない形で、じんと熱くなった。
◇
(今更ながら、あのバカ親父は自分のガキに何てことを教え込んでんだよ……)
ブレムは本を閉じ、息を吐いた。
呆れるのに、不思議と胸の奥は少し軽い。
(だけどまあ、そうだよな……)
周りの忠告が正しいかどうかじゃない。
従うかどうかを決めるのは――今の自分だ。
(例えそれが正論でも、それに従うのは、少なくとも今じゃない。俺――と、オリヴィアがその気になってからでいい)
そう結論づけた瞬間だった。
控えめなノックがして、扉が開いた。
「ブレム様、失礼しますね」
オリヴィアがそっと部屋に入ってくる。
ブレムは本をそっと机の上に戻して、そちらに視線を向けるが――。
口を開きかけたところでもう一つ、重い足音が廊下から近づいてくる事にブレムは気がついた。
扉の向こうに、巨躯が影を落とす。
「オリヴィア……それにブレム君」
現れたのはバッカスだった。
その表情は硬い。
「第一席次が、二人を呼んでいる。上層階へ――共に来てもらおう」
次回は明日の22:00に更新します




