溢れる冷気
誰も、動けなかった。
驚きに思考が固まり、目の前の現実を受け止められない。
確か私は、最近の異常ともいわれる暑さを少しでもしのげないかと魔導具を作ろうとしていた。
ケルノマスト商会が見つけてきてくれた氷晶石の記憶に呼びかけ、イメージを流し込んで力を通した。
そこまでは、いつもの魔導具製作と同じだったはずだ。
目の前にある棺桶のような白い箱は、たぶん作り出した魔導具なのだろう。
箱の縁からは冷たい白い靄がゆっくりとあふれ、床へ落ちるように広がっている。冷たい煙が溶けていくようなそれは、足元に触れるたび肌をひやりと粟立たせた。
途中で変なイメージが混ざってしまったせいで、なんだかドラキュラ伯爵の棺桶のような箱ができてしまった。
でも、だ。
その中で縁にもたれかかるようにしてすやすやと寝息を立てているこの存在は何なのか。
いや、本人が氷の神と名乗ったのだから、きっと本当に神なのだろう。
魔導具製作の詠唱の途中でザクロが何かに気がつき、顕現の詠唱に切り替えた。だから神が現れてもおかしくはないのかもしれない。けれどこれまでとはあまりに違う。
ヴェントルーザの時もフラミストラの時も、石に宿る明確な意思を感じ取っていた。
だが今回は、まったく感じなかったのだ。
あまりに予想外のことに、混乱で思考がまとまらない。エーレもザクロも同じように驚きで動きを止めている。エナテリアスに至っては興奮と緊張に驚きまで混ざり、今にも気を失いそうな顔をしていた。
まとまらない思考に追われていると、店の内外の音が異様にはっきりと聞こえてきた。
カウンターに置いたゴブレットから絶え間なく落ちる水の音。
店の外では家路へ向かう人々の声がまだらに漏れ聞こえ、遠くでは馬車の車輪が急くように石畳を叩いている。ふと目に入った扉では、夕刻を告げる青白い満月が浮かび上がっていた。
――ああ、あの馬車は日の入りとともに閉まる門を急いで通過したんだろうな。
そんな日常の出来事へ思考がそれていき、私は若干の現実逃避を始めていた。
足元から忍び寄る冷気が、扉の隙間から入る熱を帯びた風とぶつかって渦巻く。冬と夏がせめぎあいながら上へと昇ってはじけた。
パンッ
短く手を打つ音が鳴る。
最初に動いたのはエーレだった。
さすがというべきか、彼はすぐに気を取り直して状況を見極めたらしい。
「ザクロ、すぐに神殿へ連絡を。グラシアーロ様から漏れる冷気が強すぎます。このまま外に漏れては大事です。詳しいことは神殿に着いてから説明しますので、とにかく新たに顕現した氷神を連れて転移門でそちらへ伺うと伝えてください」
「あいわかった」
声をかけられてはっとした様子のザクロは、すぐさま天井へと翔けていった。
ビロードの影が梁を滑り、次の瞬間には天窓へ向かって跳ね上がる。天窓から外へ出て屋根伝いに神殿へ向かうのだろう。
エーレは白い箱へつかつかと近づくと、その縁にもたれて眠るグラシアーロへいつも通りの丁寧な口調で声をかけた。
「お久しゅうございます、グラシアーロ様。わたくしを覚えておいででしょうか。かつてフルグリオ様にお仕えしておりました幻獣雷虎のエーレでございます。お休みのところ申し訳ございませんが少し場所を移していただきたいのです。起きてはいただけないでしょうか」
グラシアーロはうっすらと目を開け、ぼんやりとエーレを見る。
その瞳は、無垢な水晶に氷の粒を閉じ込めたようだった。
奥で散り散りに光が飛び交う淡い水色が、一瞬だけエーレの姿を映す。
けれどそれもほんの一瞬。すぐにまた長い睫毛が伏せられる。
「この方は……まったく、お変わりないようですね」
そう言うと深いため息をついて、エーレは持っていた杖の先を握る。
そして大きく振りかぶり――降ろした。
――ゴッ!!
「えっ!?」
あまりの衝撃音に思わず声が出た。
杖の先にあしらわれた琥珀の握り部分が、グラシアーロの頭部にぶつかり鈍い音を立てたのだ。
「痛いなぁ……エーレ。もう少し優しくしてくれてもいいじゃないか」
後頭部をさすりながら今度はしっかりと目を開けたグラシアーロがのんびりと抗議する。
――痛い、で済むような音ではなかった気がするけれど……。
いてて、と後頭部をさする様子は少し小突かれたくらいの反応だった。
「エーレ……いくら何でもそれは……」
私はまだ若干杖を浮かせているエーレに恐る恐る声をかけた。
「よいのですよ。この方は見た目とは違ってとても頑丈ですから。いつもこうなのです。こうでもしないと起きないのですよ」
「そんなことないよぉ……あっ、待って。起きるから。ちゃんと起きるから杖を振りかぶらないで」
そんなことないと言いながらも、グラシアーロの瞼はまたゆっくりと落ちかけている。
その様子を見たエーレの笑みが一層深くなった。
いつもの穏やかで丁寧な笑みなのに、なぜだろう。今だけはひどく怖い。
その気配に気がついたのか、箱の縁にもたれかかっていたグラシアーロはようやく体を起こし両手でしっかりと頭を守った。
私は唖然としてしまい言葉が出なかった。
最初は儚げで美しい美青年で、なんだか白いザクロみたいだなと思った。けれどその印象は今やすっかり薄れている。
目の前にいるのはただの寝坊助で、のんびりした少年のようだった。
「グラシアーロ様。わたくしは今、こちらのダイアナ様の後継者であらせられるアメジスト様の従者をしております。どうせまた何千年かお休みになっていたのでしょう? 状況も何もわかっておられないかと思いますので詳しく説明するため別の場所へ向かいます。その箱を片付けていただけますか」
にっこりと笑うエーレはまだ杖を下ろしていない。
グラシアーロは「わかったよ」と慌てて箱から出ると、その箱を指先でトントンと叩いた。
すると箱はみるみる小さくなり、親指の先ほどの大きさになる。あれほど存在感を放っていた白い箱が、まるで雪片が手のひらに落ちるように小さくなっていく。
グラシアーロはそれを拾い、長衣の中へごそごそとしまった。
そしてくるりとこちらを向くと深くお辞儀をする。
「お初にお目にかかります。月の女神の後継者、アメジスト様。私は水の神クラリシアが末弟、氷の神グラシアーロでございます。素敵な寝床を作っていただき感謝いたします。以後、お見知りおきを」
そう多くない動作なのに洗練されていて美しい。
揺れる白の長衣は、まるで風に舞う粉雪のように光を反射して煌めいた。
……いや、寝床を作った覚えはないのだけれど。
目の前で首を垂れる儚げな青年に、なんと返すべきか戸惑っていると、エーレがあきれたようなため息をついて歩み寄ってきた。
「騙されてはいけませんよ、アミィ。今も寝てますからね、この方は」
そう言われてよくよく下を見ると、頭が微妙にゆらゆらと舟をこいでいた。
「本当に寝てる……」
ガクンと横に大きく揺れたところで、目を覚ましたのかこちらを見てニコリとほほ笑んだ。
「さて、ザクロがそろそろ神殿に伝えているでしょうから行きましょうか。エナテリアスさんには大変申し訳ないのですが、急ぎ商会へ戻ってバルメステリオ殿にヴェントルーザ様と共に神殿へ来ていただけるようお伝えいただけますか」
端の方で今にも倒れそうな顔をしていたエナテリアスは、ふいに声をかけられてびくりと小さく飛び上がった。一瞬間を置いて我に返ったのか、背筋をピンと張ってエーレをしっかりと見据える。
「は、はいっ。すぐに」
急いで出ようと小走りにドアへ駆け寄り、ドアノブに手をかけると、はっとしたようにエナテリアスが振り返る。
「あの、自警団長とフラミストラ様にはお伝えしなくてもよいのでしょうか」
……たしかに。
現在顕現している神はフラミストラもいる。バリーとヴェントルーザを呼ぶなら、フラミストラにも知らせるべきではないのだろうか。
どうなのだろうかとエーレの方を見ると、目の前の氷神から耳を疑うような声が出た。
「うえぇ」
先ほどまで微笑みをたたえていたグラシアーロは、その美しく端正な顔をこれでもかというほど歪ませて舌を出していた。
まるで苦い薬を口の中に放り込まれたような顔だ。心底嫌そうな顔とも言う。
「フラミストラ様はよいのです。フラメラにも後日わたくしから説明いたしますので」
「そう……ですか。承知しました。では私はこれで失礼いたします」
エナテリアスが出ていくと、エーレは素早く扉の鍵を閉める。そして杖の先にあしらわれた琥珀で扉をこんこんと軽く叩いた。
かすかに空気が揺れる。
扉の前でゆるく渦を巻いていた空気がぴたりと止まり、まばらに漏れ聞こえていた外の喧騒がすっと遠のいた。
「簡易な結界を施しました。これで冷気が漏れることはないでしょう」
その間もグラシアーロはまだ舌を出して嫌そうに顔を歪ませている。
その様子でなんとなく察した。
炎と氷だもの。
しかもこちらは見るからに怠惰な寝坊助で、あちらは真面目で血気盛んな女騎士。控えめに言って相性が悪いのだろう。
「グラシアーロ様、そのような顔をしなくともフラミストラ様は来ませんよ。さ、アミィ、急いで行きましょう。ああ、上着を持っていきましょう。少々寒いですから」
そう言われて私は無意識に自分の腕をさすっていたことに気がついた。
店内がとても寒かったのだ。
さっきまで暑さにうんざりしていたはずなのに、今は肌の上を冷気がすべっていく。息を吸うたび肺の奥に冷たいものが沈み、首筋に触れた髪までひんやりとする。
私は急いで部屋へ上着を取りに行く。
中庭から見える空は夕日の赤から紫へ、そして夜の闇へと移り変わる淡いグラデーションを描いていた。
絵葉書のように小さく切り取られた空を眺めながら上着を羽織る。紙風船のようにぷっくりと膨らんだ桔梗の蕾が中庭で揺れていた。
その紫を見ているうちに、昔読んだ物語の中にあった「がらんとした桔梗色の空」という言葉がふと胸をよぎる。
「アミィ、準備はできましたか」
エーレに促され、私は転移門を神殿へとつなぐ。
「さ、グラシアーロ様行きますよ。ほらほら、さぁ歩いて」
エーレに杖の先で背中をこんこんと叩かれながら、グラシアーロがとぼとぼと転移門をくぐっていった。
店内に目をやると、火の魔石からトカゲ姿の焔がちらりと顔を出してこちらへ手を振っている。
その小さな姿が、いつもより少しだけ火の奥へ引っ込んで見えた。
氷の神様の冷気は、火の精霊にとっても落ち着かないものなのかもしれない。
「焔、店をお願いね」
声をかけ、私も小さく手を振り返してから転移門に足を踏み入れた。




