混乱の神殿長室
転移門を越えると、アクアが出迎えてくれた。
神殿長室の空気は先ほどまでの店とは違い、暑さを残している。
テーブルの中央には沈黙の蝶が置かれ、クラルビアが地下の氷室で冷やしていたのであろう冷茶を用意してくれていた。薄い水色の繊細なグラスが並び、同じ装飾のデキャンタは細かな結露に濡れている。水滴がひとつ、硝子の肌をゆっくりと伝い、その内側で冷茶の琥珀が静かに揺れていた。
神殿長とザクロはまだ来ていないようだった。
「グラシアーロ様、なんて久しいのでしょう。最後にお会いしたのは、私がダイアナ様の眷属になったばかりの頃でしょうか。グラシアーロ様のことだから、また何千年かお休みになっていたのでしょう?」
アクアはくるりと宙を泳ぐように前へ出ると、そのまま人型となってグラシアーロの前に立った。
水に揺れるような髪が肩のあたりでふわりと広がる。透き通るような青が、神殿長室の光を受けて静かにきらめいた。その表情には驚きと懐かしさが滲んでいる。
けれどまだ少し眠気の抜けない顔のグラシアーロは、アクアをちらりと見て「うーん」と首をかしげた。
何度か唸りながら首を左右に傾け、部屋全体を見渡してからもう一度アクアを見る。
それからようやくゆっくりと口を開いた。
「あー……えっと、アクアだよね。うん。姉様のところにいたアクア。うーん……まあ本人が言うならそうなんだよね。うん、久しぶりだね。そっちのノクテローラも久しぶり。二人とも元気そうで何よりだよ」
ゆらりと滑るようにクラルビアがすすめた椅子に座り、グラシアーロは机に頬をぺたりとつける。そして力なくひらひらと手を振った。
――今、何か聞き捨てならないことを言わなかっただろうか。
ひっかかったのは私だけではなかったようで、アクアの目が丸く見開かれ、エーレの笑みが固まる。クラルビアは茶器の横で指先がぴたりと止まっていた。
私は反射的にテーブルの中央を見た。
そこにはいつも通り、沈黙の蝶が静かに羽を閉じている。
「グラシアーロ様、今なんとおっしゃいましたか。わたくしとしたことが、何か聞き違いをしたでしょうか。ノクテローラ、とおっしゃったように聞こえたのですが」
エーレがグラシアーロの肩をがしりとつかんで問い詰める。
私にもそう聞こえた。
確かノクテローラは沈黙の神だったはずだ。この沈黙の魔導具の蝶は、ノクテローラの象徴の石であるアイオライトから作られたものだと聞いた気がする。
そう、あくまでも魔導具で、これまで一度たりともそこから意思を感じ取ったことはない。
「痛いよエーレ……。ノクテローラって言ったよぉ。だってそこにいるんだから、私だって旧知の友にきちんと挨拶ぐらいはするんだよ」
肩を力強く揺らされ、力なくぐらんぐらんと頭を揺らされたグラシアーロは、情けなく涙目になりながらだらりと下ろしていた腕をゆっくりと持ち上げ、テーブルの中央を指さした。
そこにいた全員の視線がテーブルの中央へと向く。
蝶の形をした繊細な銀細工。
羽には細かなアイオライトがあしらわれ、中央の胴は深い菫色の石そのもので形作られている。
神殿長室で密やかな話をするとき、いつもテーブルの中央で声を閉ざしてくれていた魔導具。
美しいその蝶は、起動時以外ほとんど動かない。
……はずだった。
指をさされ、皆の注目を浴びた蝶は大きく羽ばたいて舞い上がる。
不思議と音はなかった。
銀の羽が震えたはずなのに、羽音ひとつ響かない。けれど空気だけが静かに波打つ。沈黙そのものが形を持って舞い上がったようだった。
蝶はテーブルの上をひらりと飛び、光を受けるたびに青にも紫にも金にも見える石の粒をまたたかせる。そしてテーブルの奥へと降りていった。
視界から一瞬外れたと思った次の瞬間には、暗い菫色のローブをまとった小柄な存在が立っていた。
その存在はゆっくりと、衣擦れの音ひとつさせずに目深にかぶっていたフードを外した。
短めの黒髪は美しくアシンメトリーに整えられ、なんとも言えない苦笑いを浮かべた女性がこちらを見ている。
彼女はゆっくりとテーブル沿いに歩いて近づいてくると、私の前で静かに跪いた。
しばし流れる沈黙。
「なんか言いなよ、ノクテローラ。アメジスト様が困ってるよ」
沈黙を破ったグラシアーロは、目の前に跪いている女性を指先でつんつんとつついた。
――いや、あなたが言う?
思わずそう思ったけれど、ノクテローラは特に気にした様子もなく少しだけ顔を上げた。
その瞳がまっすぐに私を見つめる。
菫色のようで、それでいて淡い青にも黄色にも見えた。少し角度が変わるだけで印象を変えて輝くそれは、まさにアイオライトそのもののようだった。
夜と夕暮れと朝焼けの境目を、ひとつの石の中に閉じ込めたような不思議な色。
見つめていると音が遠のく。自分の鼓動さえ、少しだけ静かになった気がした。
「……ノクテローラ……だ」
なんともか細い声が響く。
声というより、閉じた部屋の中に小さな灯りがともるような音だった。
「えっと……もしかしてあなたはずっと蝶の姿でここにいたのかしら。沈黙の神、ノクテローラ?」
目の前の女性はこくりと頷いた。
それだけだった。けれどその一度の頷きだけで、部屋の空気が変わる。
エーレはこめかみを押さえてそばにあった椅子にがたりと座り込み、アクアはまだ驚きで目を丸くしたままだ。
クラルビアだけは扉の横で静かに控えていた。けれどその手が完全に止まっているので、クラルビアもかなり驚いてはいるのだろう。
沈黙の蝶。
それが魔導具ではなかった。
彼女は蝶の姿で、ずっとこの神殿にいたのだ。
きっと長い長い時を、ここで過ごしてきたのだろう。
そこへ神殿長室の扉が開き、カーバンクル姿のザクロと共に神殿長が入ってきた。
「アメジスト様、お待たせして申し訳ありません。少々文献を持ってくるのに手間取ってしまい……おや、そちらの女性は?」
かなり急いできてくれたのだろう。
神殿長は慌ただしく部屋に入ると、執務机に何冊かの本や丸めた羊皮紙を置き、私の方を向いた。
そして見慣れない女性が目に留まったのか首を傾げる。
「ノクテローラ様……」
隣にいたザクロの目は驚きをにじませていた。
ザクロは普段、よほどのことがなければ表情を大きく変えない。けれど今その紅い瞳には、確かな驚きがにじんでいた。
「アミィ、状況の説明を」
さっと駆け寄ってきて肩に乗ったザクロが私に説明を求めてくる。
――そんなの、私が聞きたいくらいなんだけど……。
戸惑いながらグラシアーロとノクテローラを交互に見ていると、再び神殿長室の扉が勢いよく開いた。
「来たぞ、エーレ!! グラシアーロが現れたんだって?!」
扉を豪快に開けて入ってきたのはヴェントルーザ。
「ちょっと……もう少しノームに気を遣ってくれんかの」
その後ろから続いて入ってきたのは、小走りで息を切らしたバリーだった。
「ん……? そこにいるのはノクテローラじゃないか。お主、昔からグラシアーロと仲が良いと思ってはいたが……なんと一緒におったのか? グラシアーロも隅に置けんな」
はっはっはと豪快に笑いながら、ヴェントルーザは机に突っ伏しているグラシアーロの背中をばしばしと叩く。
「痛い……痛いよぉ。ヴェントルーザは相変わらずうるさいし暑苦しいなあ」
グラシアーロは机に頬をつけたまま、力なく文句を言う。
ノクテローラはその隣でわずかに首をかしげ、アクアはまだ目を丸くしている。エーレはこめかみに指を当てて何かを必死に整理しているようだった。
神殿長もバリーもあまりのことに状況がつかめず、言葉を失ったまま立ち尽くしている。
もう何が何だかわからない。
誰かこの状況をどうにかしてほしい。
そう思っていると、目の前に跪いていたノクテローラがすっと立ち上がり、グラシアーロの隣に腰を下ろした。
「ちゃんと、話す。みんな、座ろう」
とても小さな声だった。
けれど不思議とよく通った。
大きな声ではないのに、その一言で部屋の空気が静かに整っていく。ざわめきかけていた心まで、すっと低いところへ沈んでいくようだった。
この場で一番状況をかき乱しているはずのノクテローラに促され、私たちはようやくそれぞれ席に着いた。
クラルビアはいつの間に用意し直したのか、冷茶ではなく暖かい紅茶を淹れていた。何事もなかったかのように給仕して回ると、再びそっと扉の前に控える。その所作はいつも通り流れるようで、こんな状況でなければ見惚れていたかもしれない。
湯気と共に上る華やかな紅茶の香りが頭をすっきりとさせてくれた。飲めば喉やお腹からじんわりと体が温まっていく。
気付けば神殿長室もすっかり冷えており、あたたかな紅茶が少しずつ体の芯をほどけさせていくようだった。
私はカップを両手で包みながら、ゆっくりと息を吐いた。
やがて誰からともなくカップが置かれる。
かすかな音が重なり、ようやく部屋に呼吸が戻ったような気がした。
「それで、アメジスト様。これはどういうことなのかお伺いしても?」
神殿長の問いを皮切りに、まずはグラシアーロが現れた経緯の説明を始めた。
この時の私はまだ知らなかった。
氷の神が目覚めたことも。
沈黙の神がずっと神殿にいたことも。
その先に待つ真実に比べれば、私たちはまだ扉の前に立ったばかりだったのだと。




