教導職の無能は誰にも把握されない
なろうイベント「春チャレンジ2026」のお題「仕事」ということで書いてみた話。
本項のタグ:「春チャレンジ2026」「仕事」「教導官」「無能」「無能という評価と実態の乖離」「実態としての無能」
瘴気の森で野営する際、退屈こそが最大の敵である。
冒険小説の帯に書かれているような警句を意識した訳でもないだろうが、エリオットは退屈しのぎに興じていた。
冒険者としての最盛期を過ぎ、初老に踏み入れた彼と相対するのは繁殖期真っ只中の瘴森猿。
次代のボスを担う巨躯は針のような剛毛に覆われ、剣すら弾く。その膂力は鎧兜さえ容易くすり潰すが、恐るべきはその体躯から発せられる声である。圧縮された呼気は岩を穿ち、空を飛ぶワイバーンすら一撃で墜とす。
しかしその瘴森猿は呼吸ができないことに困惑していた。
「ここのところに横隔膜っていうのがある。これを動かさずに呼吸するのは難しいぞ」
息を吐いた一瞬を彼の指先は押さえている。
呼吸を止められた経験など当然ない瘴森猿は、しかし攻撃の気配を見せない生き物に疑問を抱いた。その不可解な生き物に手を取られて、相手の腹に指先が押し付けられる。爪を捻じ込めば容易く引き裂ける程度の金属鎧越しに感じられた呼吸が、止まる。
「呼吸をせずに息を吐くには、こうするんだ」
それでもその生き物はしゃべっている。何を言っているのかは全く理解できていなくても、何をしているのかは理解できた。
元々、エリオットは現場に出ないタイプの冒険者だった。
王都にあった酒場兼宿屋の三男坊で、衛士や冒険者の小競り合いに触れながら育ち、王都民の義務から衛士訓練を受けた。
その際に新設先の町へ出向になり、そのまま現地の冒険者組合に対人戦の訓練担当の一人として雇用され、支部を転々としているうちに冒険者の教導官に収まったが、後任の配属によりお役御免となった。
それならばと数十年ぶりに故郷の王都に帰ろうとした矢先、組合長についでの仕事を押し付けられて瘴気の森を横断している。名目は瘴気の森の威武調査である。
他の教導官たちが彼に下す評価は、誰にでもできることしか教えられない教導官として非常に低く見られている。そうした蔑みが表出していることが彼ら自身の評価を下げているのだが、総じて低評価の教導官しかいないと認識されていた。組合長が直接教導場を訪れるなどという冒険小説のような事態はなく、そのため最高齢の教導官であるエリオットを体良く使い潰すことにしたのだ。
瘴気の森を横断するような道はなく、その最奥の危険度は正確には測られていないため、後腐れのない処分方法であった。高齢で低評価を受ける教義官が横断できれば、瘴気の森の深奥も恐れるものではないという公表が得られて儲け物。
そんな背景を知らずに送り出された際の空気が期待に満ちたものだったことが、エリオットに憂なく瘴気の森を直進させていた。
もちろん直に教えを受けた者たちからすれば、呼吸の仕方をわかりやすく理解、体感させるような教導官であるため、評価は全く違う。
だが誰もエリオットの異常さには気づいていなかった。誰でもできることができない者を、できるようにする。
それはただ近くで見聞きしているだけの、元々できる者たちにも多大な影響を与えていることを。
いまも瘴森猿の他の個体が遠巻きにしながら真似をしていることを。
こうしてエリオットは昼に夜に普段とは異なる相手への教導を重ねてながら、およそ三十日かけて瘴気の森を横断した。
その事実を伝え聞いた組合が瘴気の森開拓を試みるのは報せから僅か三日のこと。その成果は惨憺たるものとなった。
呼気を放った直後の隙を狙われて討伐されていた瘴森猿は、細かく鋭い呼気を放って隙を無くしていた。
古木の怪は枝を叩きつける動きを、はるかにコンパクトに数を増やし、それらを誘いに地中から根を突き上げるようになった。
最弱のスライムさえわざと高く弾き飛ばされることで頭頂部に落下して頭皮を溶かすようになり、藪蛇は鞭のように剣に絡んで引き剥がす。
突進猪はジャンプして進行方向を急激に変えるようになったし、逃げ惑うだけだった角つき兎に至ってはその後ろ脚の鋭い爪で起死回生の一撃を放つようになった。
瘴気の森の危険度が著しく上げたことを全く自覚していないエリオットの無能っぷりは、しかし魔物を教導することなど想像の埒外であったために決して誰にも把握されることはないのだった。
本当に無能なところを知らないとしたら、ということで書いてみた話。
無能な味方は敵よりタチが悪い、とかそんな話。
実社会だと敵味方問わず一緒に仕事することもありますよね。……やだなぁ、私は味方の側ですよ?




