第二章 宮田絹枝の日記
外は静かに雨が降っていた。
喫茶店「樹」の窓を叩く雨粒が、店内の灯りに淡く揺れている。
「……もうお客様は来ないわね」
シャロンは、いつもより早く店を閉めることにした。
片付けをしながら、ふとあの夜を思い出す。
ミアが初めて「樹」に現れた夜。
深夜、灯りのついた店を探し回り、
お嬢様のために甘いものを求めて駆け込んできた、あの必死な表情。
――あの夜から、すべてが始まったのだ。
カウンターに置かれた一冊の日記帳。
それは、絹枝さんの孫・高嶋房江さんから託されたものだった。
「……宮田絹枝さんの日記……」
シャロンは紅茶を淹れ、深呼吸をしてから、
そっと日記を開いた。
日記の最初のページには、
まだ幼い筆跡でこう書かれていた。
「今日は、山崎のお屋敷の旦那様が来た。」
絹枝は十歳。
村一番のべっぴんさんと言われる、明るく働き者の少女だった。
実家は大きな農家で、屋根裏では養蚕を営んでいた。
蚕の繭から紡いだ絹糸は、東京の元伯爵家・山崎家に卸している。
「ほう……宮田さん、あれが娘さんかね?」
「ええ…それで山崎の旦那さん、さっきの絹糸の卸値の話だが…」
種雄の目が、絹枝に向けられた瞬間。
父は嫌な予感を覚えた。
その日、山崎家の主人・山崎種雄が商談のため宮田家を訪れた。
「あれではうちの儲けは、ほぼ無いじゃないか」
「何だね宮田さん、文句があんのかい?」
「文句ってあんた、俺達に儲けなしで働けって言うのか!」
一緒に働いている男衆が声を荒げる。
「みんな、大丈夫だから、作業に戻っておくれ」
これ以上刺激しないよう皆には作業場に行ってもらった
「やれやれ、困った人達だね」
「旦那さん、考え直してくださいよ」
「…ふん、まあいいだろう、そのかわり…」
案の定、種雄は言い出した。
「絹枝を東京の屋敷に奉公に出すなら、絹糸は高値で買おう。」
父は迷った。
しかし絹枝は、父を安心させるように笑った。
「私なら大丈夫だよ、お父さん。」
こうして絹枝は、東京の山崎家へ奉公に出ることになった。
「さあ絹枝、ここが私の屋敷だよ。」
都心から少し離れた山手の高台に建つ洋館。
広大な庭園、英国風の門、まるで小さな城のような屋敷。
しかし、その美しさとは裏腹に――
屋敷の空気は重かった。
「お前たち!この子が新しい使用人の絹枝だ。面倒を見てやれ!」
「……こんな子供を?」
「何だその顔は!俺の言うことが聞けないのか!」
使用人たちは、種雄を恐れていた。
入り婿でありながら横柄で、女癖が悪く、
使用人にも手を出すことで有名だった。
奥様・山崎明子は聡明で気品ある女性だったが、
親同士が決めた結婚で、夫婦仲は冷え切っていた。
「その子は?」
「宮田の娘だよ。働きたいと言うのでね。」
奥様は静かに絹枝を見つめた。
「そう……よろしくね。」
その優しい声が、絹枝には救いだった。
しかし、屋敷の使用人たちは冷たかった。
「宮田?贅沢な名前だね。」
「半人前なんだから“みや”で十分だよ。」
こうして絹枝は「みや」と呼ばれるようになった。
旦那様と奥様の間に子供はできなかった。
そのせいで入り婿である旦那様は責め立てられていた。
使用人たちには裏で「種無し」と言われていた程だった。
「ふう…重い」
奉公に出て五年。
絹枝は十五歳になっていた。
重い洗濯物を抱え、階段を上り下りする日々。
使用人たちの意地悪も日常茶飯事だった。
そんな中、旦那様は絹枝に目をつけていた。
「みや、こっちへおいで。菓子をやろう。」
背中から腰に回される手。
絹枝は必死に拒んだが、
旦那様は悪びれもせず笑った。
そして――
奥様が留守の日、
旦那様は絹枝を部屋に呼びつけた。
「お前も十五だ。そろそろ頃合いだろう。」
絹枝は震えた。
拒めば、実家の絹糸の取引を切られる。
「……父さんたちが……」
絹枝は泣きながら従うしかなかった。
「心配するな。俺は種無しだからな。黙っていれば誰にも分からん。」
その言葉は、絹枝の心を深く傷つけた。
資産家である山崎家はよく会合を開き仲間内で株などの値動き情報の交換を行っていた。
だがその場に種雄は呼ばれない。
入り婿でしかも跡取りが作れない種雄は、見向きもされていないのだ。
「あら?」
屋敷に帰ってきた明子奥様は種雄の部屋から出てゆく絹枝を見かけた。
「あなた、今帰りました。」
「お、おぉ…お帰り」
「はあ…遊びも大概、程々にして下さいましね」
「…あぁ…わかっているよ…」
旦那様のいい加減な返事に呆れ、奥様は部屋を出ていってしまった。
「あんた、また旦那様の所へ行ったんだって?」
「…呼び出されて、用事を言いつけられただけです」
「へえ…どんな用事なんだか」
「布団の掃除でもしてたのかい(笑)」
使用人達が絹枝を取り囲み、旦那様との間を邪推している。
旦那様の女癖の悪さは皆知っている。
今まで何人もの使用人が旦那様の手で汚されてきた事もだ。
「お前達!さっさと仕事を始めないか!」
屋敷の執事が使用人達に声をかけ仕事に向かわせた。
「うっ……、……うぇっ」
絹枝は突然吐き気を感じ、トイレへ駆け込んだ。
「ゲホゲホ…はぁはぁ…」
「なんだね悪い物でも食ったのか?」
皆は笑っていたが、
絹枝は青ざめた顔をして、自分のお腹をさすっている。
ここ数ヶ月、月のものが来ていない…
「まさか…まさか!」
絹枝は妊娠に気づいた。
旦那様は狂喜した。
「俺の子だ!俺は種無しなんかじゃない!」
その分、絹枝への風当たりはさらに強くなった。
「迷惑なんだよ、お前は!」
「さっさと田舎に帰れ!」
その時、奥様が現れた。
「やめなさい!」
奥様は絹枝を自室に連れて行き、
静かに話を聞いた。
「絹枝……お腹の子は本当に主人の子なのね?」
「はい……申し訳ございません……!」
「あなたが謝ることではないわ。主人と、主人の女癖を放っておいた私のせいでもあるのだから。」
奥様は深く息をつき、
そして言った。
「絹枝、その子を……私にくれないかしら?」
「奥様……?」
「その子は私の子として…山崎家の跡取りとして育てます。」
「ですが…」
「大丈夫、主人の子ですから、その権利は充分あります。」
「でも、でもそれでは奥様が…」
「…私は山崎家を守るため、あなたを利用するのです。何も気に病む事はありません」
「奥様……?」
「あなたは……母と名乗ることはできないけれど……
そばにいてあげてほしい。」
絹枝は涙を流しながら頷いた。
「はい……この子が幸せになれるなら……」
奥様は旦那様に対し、
絹枝に産ませた子を山崎家の子として受け入れる代わりに、今後一切女遊びはしないと誓わせた。
「いいですか、二度はありませんよ。もしまた浮気をすれば、この家から追い出しますからね!」
「わ、わかった。二度と浮気はしない、いえしません。」
その日から旦那様も変わっていった。
「明子、その…私も株の勉強をしたいのだが…」
後継者を作らねばならないという重圧から解放され真面目になっていった。
奥様は絹枝を離れに移した。
そして数人の信頼できる使用人だけを配置した。
「安心して産んでちょうだい。」
数ヶ月後――
絹枝は無事に女の子を出産した。
その子は奥様の娘として迎えられ、
「真理亜」と名付けられた。
絹枝は乳母として真理亜のそばに仕えることになった。
「母と名乗ることは許されない。それは分かっているわね?」
「はい……もちろんです。」
それでも絹枝は、
真理亜のそばにいられるだけで幸せだった。
真理亜が初めて発した言葉は――
「みあ」だった。
絹枝は泣いた。
「あぶぅ、みあ、みあ!」きゃっきゃと笑うお嬢様
その日から、絹枝は“ミア”として生きることを決めた。
母であることを隠すため、
決して笑わず、感情を表に出さず、
ただ静かに真理亜を見守る存在として。
真理亜は健康な子だったが、
山崎家の世間体のため「病弱」として育てられた。
幼い頃から、あなたは病弱なのだと言い聞かされた真理亜は、
自分でも病弱なのだと思い込んでいた。
使用人達の中には、真理亜が通るたびに声を潜める者もいた。
廊下の曲がり角で聞こえた『あの子、誰に似たのかしらね』という冷ややかな笑い。
真理亜は、自分がこの屋敷で“病気”でなければならない理由を知ってしまった。
外に出られない真理亜の楽しみは、
洋菓子と、ミアのそばにいること。
奥様は真理亜に手芸を教え、
真理亜は初めて作った猫の人形をミアに見せた。
「ミア、見て!猫さんよ!」
「……犬かと思いました。」
ミアが珍しく笑うと、
真理亜は嬉しそうに笑った。
その姿を見て、
奥様の胸は締めつけられた。
「私はこの子を産んでいない……
本当の母親にはなれない……」
真理亜は旦那様と奥様に愛されて、
すくすくと成長した。
真理亜が初めて笑った日、
初めて歩いた日、
初めて「おかあしゃま」と呼んでくれた日・・・
奥様は気付く
「私は、この子を本当に愛している」
そして同時に絹枝の存在が胸を刺す
「この子の本当の母親は絹枝なのだ」と。
真理亜がミアに懐くほど、
奥様の心は苦しくなっていった。
ある日、奥様は絹枝に言った。
「あなたには、あなたの人生を歩んでほしいのです。」
「ですが奥様……私は……」
「この家にいては、あなたは幸せになれない。
真理亜のためにも……あなたのためにも。」
絹枝は泣いた。
奥様も泣いていた。
「あなたが娘を授けてくれた。
あなたがいなければ、私は母になれなかった。
ありがとう……
でも私はあなたを遠ざけた。
許してほしいとは言わない。
ただ、あなたが幸せになることを祈らせてほしい……」
絹枝は静かに頷いた。
――こうして、絹枝は山崎家を離れる決意をした。
夜更けの屋敷は、いつもより静かだった。
離れの灯りだけがぼんやりと揺れ、
絹枝は荷物をまとめ終えると、そっと真理亜の部屋へ向かった。
扉を開けると、
真理亜は小さな胸を上下させながら、
安心しきった顔で眠っている。
まるで白い花のように、
まるで本当に“眠り姫”のように。
絹枝はそっと膝をつき、
真理亜の髪に触れた。
細くて柔らかい、赤ん坊の頃と変わらない髪。
「……ごめんね、真理亜お嬢様。
黙って出ていく私を、どうか許してね……」
声は震え、涙がぽたりと落ちる。
絹枝は慌てて袖で拭ったが、
涙は止まらなかった。
真理亜の腕の中には、
いつも抱いて眠る“ミア人形”がいた。
絹枝はその人形をそっと両手で包み込む。
「お願い……お願いよ。
どうか、私の代わりに真理亜お嬢様を……
私の娘を、守ってあげて……
ずっと、ずっとそばにいてあげて……」
人形のボタンの目が、
涙に濡れた絹枝を静かに映した。
絹枝は人形を真理亜の胸に戻し、
最後にもう一度だけ、
真理亜の頬に触れた。
「……大好きよ。
生まれてきてくれて、ありがとう……」
扉が静かに閉まる。
その瞬間、
真理亜の肩が小さく震えた。
眠っているはずの少女は、
ぎゅっとミア人形を抱きしめ、
暗い部屋の中で、誰にも聞こえない声で呟いた。
「……しあわせになってね……
おかあさん……」
その言葉を聞いたのは、
部屋の片隅で静かに佇むミア人形だけだった。
人形のボタンが、
ほんの一瞬だけ、
涙のように光った。
朝の空気はひんやりとして、
屋敷の庭に薄い霧がかかっていた。
荷物を抱えた絹枝の前に、
奥様と旦那様が並んで立っている。
奥様は、いつもの凛とした表情のまま、
しかしその目だけが少し赤かった。
「絹枝。
高嶋さんは、私が知る資産家の中で一番誠実な方よ。
安心して嫁いでいきなさい。」
「奥様……ありがとうございます。」
奥様は絹枝の手をそっと握った。
その手は、母のように温かかった。
「あなたが幸せになってくれないと、
私は真理亜に顔向けができないわ。
しっかりね。」
「……はい。」
すぐ横にいた旦那様は、
何と言葉をかけてよいのか分からず、
ただ唇を噛んで立ち尽くしていた。
絹枝はそんな旦那様に向き直る。
「旦那様……」
「!」
旦那様は驚いたように顔を上げた。
「私は……真理亜お嬢様を産むことができて、
本当に嬉しいのです。
ですから……そんな顔をなさらないでください。」
旦那様の喉が震えた。
「絹枝……
私は……お前に申し訳ないことをした。
だが……
私たちに娘を授けてくれて……
本当に……ありがとう。」
絹枝は深く頭を下げた。
「奥様を……どうか大事になさってください。」
旦那様は強く頷いた。
「わかった。
約束する。」
その時、
高嶋家のお迎えの車が静かに門の前に停まった。
絹枝は荷物を抱え、車へと歩き出す。
乗り込む直前、
ふと振り返り、
屋敷の二階――真理亜の部屋の窓を見上げた。
カーテンは閉じられ、
中の様子は見えない。
けれど絹枝には分かっていた。
――あの子は、きっと起きている。
――きっと泣きながら、私を見送っている。
胸が締めつけられる。
「……車を、出してください。」
絹枝がそう告げると、
車は静かに動き出し、
屋敷を離れていった。
絹枝は最後まで窓から目を離さなかった。
もう二度と会えない娘を想いながら。
絹枝が嫁いでいった翌日、
奥様は真理亜の部屋の前で深く息を吸った。
扉を開けると、
真理亜は窓辺に座り、
ミア人形を抱きしめたまま外を見ていた。
「真理亜、朝ですよ。ご飯にしましょう」
「……ミアは?」
奥様は胸が痛んだ。
「ミアはね、幸せになるためにお嫁に行ったのよ」
真理亜はゆっくりと奥様を見た。
その瞳は、いつもよりずっと大人びていた。
「……そう。
じゃあ、ミアはもう帰ってこないのね」
奥様は頷くしかなかった。
その日から、
真理亜は少しずつ変わっていった。
真理亜は食事の時間になると、
ミア人形を椅子に座らせるようになった。
「ミア、今日はパンケーキよ。
一緒に食べましょうね」
奥様は何も言えなかった。
言えば、真理亜の心が壊れてしまいそうで…
そんな気がしてならなかった。
真理亜は部屋に閉じこもる時間が増えた。
奥様が扉をノックすると、
中から小さな声が聞こえる。
「ミア、針と糸を取って。
今日は新しい子を作りましょう」
奥様は扉の前で立ち尽くした。
――ミアがいなくなってから、
真理亜は“誰か”と話すようになった。
その“誰か”は、
ミア人形のはずなのに、
時折、まるで本物のミアの声のように聞こえる気がした。
ある日、奥様が部屋を訪れると、
真理亜は机いっぱいに布と糸を広げていた。
「真理亜、何をしているの?」
真理亜は振り返り、
にっこりと笑った。
「ミアと一緒にね、
今日は“誰の人形を作りましょうか”って相談してたの」
その笑顔は、
幼い頃の真理亜のままなのに、
どこか遠くを見ているようだった。
奥様は震える声で言った。
「……真理亜、ミアは……」
「ここにいるわよ?」
真理亜はミア人形を抱きしめた。
「ミアはね、
私を置いていったりしないの。
ずっと一緒にいてくれるの」
奥様は何も言えなかった。
真理亜の腕の中のミア人形のボタンが、
光を反射していた。
まるで、
“見返している”ように。
真理亜の部屋は、
いつの間にか人形で埋め尽くされていた。
壁際の棚にも、
窓辺にも、
ベッドの足元にも、
大小さまざまな人形が並んでいる。
そのどれもが、
真理亜がミアと一緒に作った子たちだった。
ミアがいなくなってから、
真理亜はひたすら人形を作り続けた。
そして――
その頃から、屋敷では“説明のつかないこと”が起こり始めた。
深夜、廊下を歩く使用人がふと足を止める。
――カツ、カツ、カツ……
誰かが歩く音。
メイド靴のような、規則正しい足音。
振り返ると、
廊下の奥に“メイドの影”が立っている。
しかし、
その影は人間よりも細く、
輪郭がどこか歪んでいた。
「……だ、誰……?」
そう呟いた瞬間、影はスッと消えた…
また別の日には、
真理亜の部屋の前に、
温かい紅茶が置かれていることがあった。
誰も置いた覚えがない。
奥様が使用人を問いただしても、
全員が首を振る。
紅茶はいつもアールグレイ。
ミアが淹れていた香りと同じだった。
ある日、奥様が真理亜の部屋の前を通ると、
中から声が聞こえた。
「ミア、今日は誰の人形を作りましょうか……?」
真理亜の声。
そして――
それに応えるような、
低く、柔らかい声。
「……そうね、お嬢様……」
奥様は凍りついた。
扉を開けると、
部屋には真理亜しかいない。
ミア人形が、
真理亜の膝の上に座っていた。
異変は続き、
屋敷の空気はどんどん重くなっていった。
夜中に勝手に開く扉、
誰も触っていないのに揺れるカーテン、
いつの間にか変わっている人形の位置、
真理亜の部屋の前で聞こえる“針の音”…
使用人たちは怯え、
ひとり、またひとりと辞めていった。
とうとう、
誰も真理亜に近づこうとしなくなった。
奥様は困り果てた。
そんなある日、
屋敷の門にひとりの女が立っていた。
黒いメイド服。
控えめな微笑み。
どこか見覚えのある雰囲気。
「……あなたは?」
奥様が尋ねると、
女は深く頭を下げた。
「ミアと申します。
夢で“お嬢様のお世話をしなさい”とお告げを受けました。
どうか、雇っていただけませんか。」
奥様は訝しんだ。
しかし――
誰も真理亜の世話をしない現状では、
この女に頼るしかなかった。
「……分かりました。
しばらく様子を見ましょう。」
ミアは静かに微笑んだ。
驚くべきことに、
ミアが屋敷に入ったその日から、
不思議な現象はぴたりと止んだ。
夜の足音も消え、
紅茶も勝手に現れなくなり、
人形の位置も変わらなくなった。
真理亜も落ち着きを取り戻し、
ミアに懐いていった。
奥様は安堵し、
ミアを正式に世話係として雇った。
しかし――
奥様は気づいていなかった。
ミアが真理亜の部屋に入る時、
ミア人形のボタンが
かすかに光ったことに。
新しいミアが来てから、
真理亜の部屋には久しぶりに笑い声が戻った。
以前のように無邪気ではない。
どこか影を落とした笑顔だったが、
それでも奥様にとっては救いだった。
ミアは献身的に真理亜の世話をし、
真理亜もまた、ミアに心を許していった。
――しかし、その平穏は長く続かなかった。
ある日、旦那様が蒼白な顔で帰宅した。
「……終わった……」
その一言で、奥様はすべてを悟った。
旦那様は莫大な負債を抱え、
山崎家の財産は一夜にして崩れ落ちた。
旦那様は土地を切り売りし、
屋敷の維持費を捻出するために
使用人たちを次々と解雇した。
最後に残ったのは――
ミアだけだった。
それでも旦那様は、
真理亜のための洋菓子だけは欠かさなかった。
「……あの子に美味しいものを食べさせることだけが、
私の……償いなんだ……」
その言葉は、
かつて絹枝にした過ちを抱え続けた男の、
唯一の祈りだった。
心労は旦那様の身体を蝕み、
彼は静かに息を引き取った。
奥様は涙を流さなかった。
ただ、真理亜の肩を抱きしめ、
「大丈夫よ」と繰り返した。
財産の管理は奥様が引き継ぎ、
娘と二人で生きていくために
残された資産を整理した。
それでも――
屋敷だけは手放さなかった。
「この家は……真理亜の居場所なのだから」
広すぎる屋敷に、
奥様と真理亜、そしてミアの三人だけが暮らすようになった。
屋敷の奥にある離れ――
かつて絹枝が身を隠し、
真理亜を産んだ場所。
奥様にとってそこは、
夫の不義理の象徴であり、
同時に“愛おしい娘が生まれた聖域”でもあった。
奥様はその離れを、
小さな教会へと建て替えた。
白い壁、
小さな十字架、
柔らかな光が差し込む窓。
「……ここだけは、穢れのない場所にしたかったの」
それは、
夫を赦し、
絹枝を赦し、
自分自身を赦すための
“心の浄化”だったのかもしれない。
奥様は毎朝、
その教会で祈りを捧げた。
――真理亜が幸せでありますように
――絹枝が遠い地で幸せでありますように
――ミアが真理亜を守ってくれますように
しかし奥様は知らなかった。
祈りのたびに、
教会の片隅に置かれた“ミア人形”のボタンが
かすかに光っていたことを。
屋敷は広すぎるほど静かで、
その静けさが、真理亜の創作意欲を逆に刺激した。
ミアは、真理亜のそばに立つと、
まるで空気が澄んだように感じられた。
針を持つ手が震えない。
布の選び方に迷わない。
色の組み合わせが自然と浮かぶ。
「ミア、今日はこの子を作りたいの」
「ええ、お嬢様。布はすでに揃えてあります」
ミアはいつの間にか、
真理亜が必要とする材料を先回りして用意するようになっていた。
まるで――
真理亜の心を読んでいるかのように。
真理亜の作品が少しずつ世に出始めると、
注文や問い合わせが増えていった。
普通なら、
病弱で外に出られない真理亜には対応できないはずだった。
しかし――
ミアがすべてを引き受けた。
• 手紙のやり取り
• 作品の発送
• 展示会の調整
• 依頼者との交渉
• 収支の管理
どれも完璧だった。
「ミア、どうしてそんなに何でもできるの?」
真理亜が尋ねると、
ミアは静かに微笑むだけだった。
「お嬢様のために必要なことですから」
その言葉は、
どこか人間離れした静けさを帯びていた。
真理亜の作る人形は、
どれも表情が豊かで、
まるで魂が宿っているかのようだった。
それは、
真理亜が“誰よりも孤独を知っている”から。
そして、
“誰よりもミアを愛している”から。
真理亜は人形を作るたびに、
ミアの横顔を思い浮かべた。
「ミア、あなたがいてくれるから、私は作れるの」
「お嬢様……私はいつまでもそばにおります」
ミアの声は、
まるで誓いのように響いた。
ミアの支えもあり、
真理亜の作品は国内外で高く評価されるようになった。
その人形は“生きているようだ”と評され、
作品展は常に満員になった。
海外のコレクターからは高額の依頼が舞い込むようになった。
しかし真理亜は、
どれだけ成功しても外に出ようとはしなかった。
「私はここでいいの。
ミアがいてくれるから」
ミアは静かに頷いた。
その瞳の奥で、
ボタンのような光が一瞬だけ揺れた。
春の終わり、庭の薔薇が咲き始めた頃だった。
「…ミア」
「はい奥様、ミアは此処におります。」
年月は過ぎ去り、無常にも命は期限を迎えようとしていた。
「お母様…」
真理亜は母の手を握っていた
「真理亜…真理亜を、お願いね…」
「…畏まりました。」
「ミア…あなたのように…ずっと隣に……」
…そうして愛しい娘に看取られながら、明子奥様は逝かれたのでした。
真理亜は泣かなかった。
ただ、ミアの袖を握りしめ、
「ミアがいるから大丈夫」と小さく呟いた。
葬儀の日、
屋敷の中庭に建てられた小さな教会には、
奥様の棺が静かに置かれた。
真理亜は棺に触れず、
ただミアの影に隠れるように立っていた。
その姿を見た近所の者たちは、
「あの子は悲しみを理解できないのだろう」と噂した。
しかし本当は違った。
真理亜は――
悲しみを“ミアに預けてしまった”のだ。
奥様が亡くなってから、
絹枝の元に届く手紙の差出人はミアになった。
最初の数通は、
確かにミアの筆跡だった。
しかし、ある時から――
文字が変わり始めた。
丸みのある、幼い頃の真理亜の字。
絹枝が何度も見た、あの癖のある筆跡。
「……これは……」
絹枝は震える指で手紙をなぞった。
ミアが書いているのか。
真理亜が書いているのか。
それとも――二人が溶け合っているのか。
分からなかった。
ただひとつだけ確信できた。
この手紙は、真理亜の“心”が書いている。
「…たぶん、そうなのだろう、でも…」
正体を知りながらも手紙を読んでいた
いや、読み続けたかった…できることなら永遠に。
そしてそれは10年前に、終わりを迎えていたのだった。
日記の最後にはこう記されていた
「もし、この日記を読んでいる方がいたら、あの子に伝えてください。私はずっと、あなたの隣にいたかった」
…シャロンは静かに日記を閉じた。
房江さんは、絹枝さんが亡くなってからも手紙が届いていたと言っていた。
「ミアさんは絹枝さんが亡くなったことを知らなかったのね。そして真理亜お嬢様も。」
ミアさんからの最後の手紙を読み直しながらシャロンはため息をついた。
受け取れなかった最後の10年分の思い…
それは一体どんな思いだったのだろう…
届けられるはずだった、最後の10年分の言葉。
絹枝さんが亡くなった後も、真理亜お嬢様は手紙を書き続けていた。
それは、二度と会えない母へと宛てた、終わりのない祈りだったのかもしれない。
アールグレイの香りがふっと鼻をかすめた。
ふと顔を上げると、足元にボタンが落ちている。
それは、かつて絹枝が持っていたはずの「古い欠けたボタン」だった……。
「あ、そうか…だから美亜ちゃんは」
房江さんの娘である美亜ちゃんは絹枝さんのひ孫だ、真理亜お嬢様の面影があって当然だ。
シャロンは房江さんと美亜ちゃんにもう一度会って話がしたいと思った。
自分がミアだったらそうするだろうと思ったからだった。
お嬢様のドールハウス 第二章 宮田絹枝の日記 完
お嬢様のドールハウス 第二章 宮田絹枝の日記
をお届けしました。
絹枝の日記から、昭和初期から現在までのお屋敷で起きた出来事を描きました。
物語は、第一章のホラー・ミステリー的な雰囲気から、第二章で一気に壮大な愛の歴史へと変わります。
足元に落ちていた「古い欠けたボタン」が、時を超えてシャロンと絹枝、そして真理亜を繋ぎ直ます。




