第31話 怖い顔の治癒士、門を通る
出発の朝は、静かだった。
グランが治癒所の入り口まで出てきた。足が痛いとは言わなかった。昨日で治ったらしい。
「……行ってきます」と俺は言った。
「行ってこい」とグランが言った。それだけだった。
リエナが荷物を一度見て、「忘れ物はない」と言った。それから「気をつけてね」と言った。少し間を置いてから「アルフさんも」と付け加えた。
アルフが「……世話になった」と言った。
リエナが「また来てね」と言った。短い言葉だったが、声に少し力があった。
チャが荷物の上に乗った。
「……チャ、荷物の上ではなく袋の中に入ってくれ」
「にゃ」
「……入らないのか」
「にゃ」
動かなかった。アルフが「このまま行こう」と言った。
グランが「無理をするな」と言った。背中に向かって言った。
俺は返事をしなかった。もう歩き始めていたからだ。
ただ、聞こえていた。
◆ ◆ ◆
王都の城門は、朝から混んでいる。
商人の荷馬車が列を作っていた。旅人が数人並んでいた。行商人が割り込もうとして揉めていた。衛兵がそれを仕切っていた。毎朝の光景だ。
俺たちも列に並んだ。
前の旅人が通った。荷馬車が通った。行商人が通った。
俺たちの番になった。
門の右側に立っていた衛兵が、こちらに目を向けた。
止まった。
目が、止まった。体は立ったままだ。足も動いていない。ただ視線だけが俺の顔の上で完全に固まった。
「止まれ」
「……止まっている」と俺は言った。
衛兵が俺の顔を見た。荷物を見た。荷物の上のチャを見た。チャが「にゃ」と鳴いた。衛兵がチャを見た。アルフを見た。外套で顔を半分隠した体格のいい男を見た。また俺の顔を見た。
沈黙が続いた。
列の後ろにいた旅人が、首を伸ばして覗いた。
「……通れ」
「……ありがとう」
俺たちは門を通った。
後ろで衛兵たちが小声で話していた。
「……なんだったんだ、あいつ」
「わからん」
「職質しなくてよかったのか」
「……できなかった」
「何か問題があったか?」
「……何もない。ただ、あの目を見たら」
「あの目を見たら?」
「……できなかった」
「……同じく」
声が遠くなった。
アルフが小声で「……あっさり通れたな」と言った。
「……理由はわからない」と俺は言った。
「俺にはわかる」
「……何か」
「……言わなくていい」
チャが「にゃ」と言った。荷物の上で前足を伸ばした。
◆ ◆ ◆
城門を出ると、石畳がしばらく続いて砂利道になり、やがて土道になった。
建物がなくなると空が広くなった。王都にいる間は気づかなかったが、ずっと空が狭かったらしい。
「……空が広い」と俺は言った。
「慣れると見えなくなる」とアルフが言った。
しばらく黙って歩いた。
「……一つ聞いていいか」と俺は言った。
「何か」
「……衛兵が通してくれた理由が、本当にわからない」
アルフが少し間を置いた。
「……職質という仕事がある。怪しい者を止めて、目的と素性を確認する。怪しい者というのは、疚しいことがある人間のことだ」
「……知っている」
「お前は何も疚しくない。だから堂々と歩いている」
「……歩いている」
「その目で、堂々と」
「……目は関係あるか」
「大いにある」とアルフが言った。「衛兵の立場で考えてみろ。目が据わった大男が正面から歩いてくる。止めようとする。でもその目を見ると、こいつは後ろめたいことがあるわけではなく、ただ怖い顔をして堂々と歩いているだけだ、という確信がなぜか生まれる」
「……なぜ確信が生まれるのか」
「それは俺にもわからない」とアルフが言った。「ただ、そういう目をしている」
「……申し訳ない気がする」
「衛兵に?」
「……職質できなかった衛兵に」
アルフが「謝るな」と言った。「職質できなかったのは衛兵の問題だ。お前の顔の問題ではない」
「……俺の顔が原因では」
「言い方が違う」とアルフが言った。「原因ではなく、きっかけだ。あの衛兵は、怖い顔を見て止められなくなったのではない。疚しくない目を見て、止める必要がないと判断したんだと思う」
「……その二つは、違うのか」
「……違う」とアルフが言った。「前者はお前のせいだ。後者はお前のおかげだ」
俺はしばらく考えた。
「……難しい」
「……慣れろ」とアルフが言った。「これからも、似たようなことが起きる」
チャが「にゃ」と言った。アルフが「チャもそう思うか」と言った。チャがまた「にゃ」と言った。
俺は何も言わなかった。
◆ ◆ ◆
一刻ほど歩いたところで、街道沿いに一人の旅人が見えた。大きな荷物を背負って、同じ方角へゆっくり歩いている。
俺たちが近づいた。
旅人が振り返った。
俺の顔を見た。
旅人が道の端に寄った。精一杯寄った。荷物ごと寄った。背中が街道脇の木の幹にぶつかった。これ以上は寄れない、という位置だ。
「……こんにちは」と俺は言った。
「……こ、こんにちは……!」と旅人が言った。声が少し裏返った。
通り過ぎた。
後ろから旅人の独り言が聞こえた。街道が静かだったので、わりとよく聞こえた。
「……北に向かうのか、あんな人が……」
「……北には魔物が出るというが……」
「……魔物の方が逃げそうだな……」
アルフが「……聞こえたか」と聞いた。
「……聞こえた」
「……どう思った」
「……魔物は逃げる。経験済みだ」
アルフがしばらく黙った。
「……なぜ知っているんだ」
「……以前、リエナと薬草採取に行った。三種類の魔物に遭遇した。三回とも逃げた」
「……三回とも」
「……百パーセントだ」
アルフがまた黙った。
「……お前と話していると、時々どこで笑えばいいかわからなくなる」と言った。
「……笑う話をしたか」
「……していない。そこが問題だ」
チャが荷物の上から振り返らずに「にゃ」と言った。
「……チャにはわかるのかもしれない」とアルフが言った。
「……何が」
「……どこで笑えばいいかを」
俺は何も言わなかった。
◆ ◆ ◆
夕方、街道沿いの宿場町に着いた。
小さな町だ。宿が一軒、飯屋が一軒、鍛冶屋が一軒。旅人が泊まるためだけにある場所という感じがした。
宿の扉を開けた。
中にいた主人が顔を上げた。
固まった。
「……一泊、二人と一匹だ」
主人が口を開いた。閉じた。もう一度開いた。
「……に、二人と……一匹……」
「……猫だ。問題があれば外で寝る」
「……い、いえ、猫は、その……」主人がチャを見た。チャが「にゃ」と鳴いた。主人が小さく息を吐いた。「……問題ないです」
「……ありがとう」
部屋に案内された。狭くはない。チャがすぐに窓枠に乗って外を見た。
夕飯を食べに飯屋へ向かった。扉を開けると、先に来ていた客が三人振り返った。一人が椅子から腰を浮かせかけて、止まった。一人が手のパンを皿に戻した。一人が水を飲みかけて止まった。
「……こんばんは」と俺は言った。
三人が「……こんばんは」と声を揃えた。
飯を食べた。温かかった。
帰り際、三人のうちの一人が「……お気をつけて」と言った。怖がっていたはずの男が、目を合わせて言った。
「……ありがとう」
宿に戻る道でアルフが「一人、声をかけてきたな」と言った。
「……そうだ」
「怖がっていたが、声をかけた」
「……そうだ」
しばらく黙って歩いた。夜の街道は静かで、遠くで虫が鳴いていた。
「……王都でも、最初はそうだった」と俺は言った。「全員逃げていた。でも戻ってくる人間がいた。それが増えた」
「……どのくらいかかった」
「……一話目から七割は戻ってきた、とグランさんに言われた。最初から七割だった」
アルフが「……七割」と繰り返した。
「……残りの三割は怖くて戻れなかっただけかもしれない、とも言われた」
「……グランじいさんらしい言い方だ」
「……グラムハイン領では、最初は何割が戻るかわからない」と俺は言った。「でも、戻る人間は必ずいる」
「……根拠は」
「……今夜、一人が声をかけてきた。根拠はそれだけで十分だ」
アルフが少し笑った。夜だったので表情はよく見えなかったが、笑ったのはわかった。
「……お前はそういうところがある」とアルフが言った。
「……そういうところ、というのは」
「……一つあれば十分だと思えるところだ」
俺は少し考えた。
「……一つもなければ困る。でも一つあれば次がある。前の世界でも、そうやってきた」
「……前の世界でも、似たようなことがあったのか」
「……怖がられることは、日常だった」
「……それで、どうしていた」
「……毎日出かけた。それだけだ」
アルフがしばらく黙った。
「……強いな」と静かに言った。
「……慣れているだけだ」
「……それを強いと言う」
チャが部屋の窓枠で待っていた。外を見ていたが、俺たちが入ると降りてきた。
一日目が終わった。明日も歩く。
出発しました。
門で止まれと言われました。通れと言われました。衛兵が「できなかった」と二回言っていました。申し訳なかったです。
旅人に「魔物の方が逃げそうだ」と言われました。魔物の習性を調べていませんでした。明日、アルフさんに聞いてみます。
飯屋で怖がっていた人が「お気をつけて」と言ってくれました。
悪くない一日でした。




