第30話 怖い顔の治癒士、文書を出す
朝、アルフが出かける支度をしていた。
「……一人で行くか」と俺は聞いた。
「……お前が来ると目立つ」とアルフが言った。
「……一緒に行く」
「……だから目立つと言っている」
「……二人の方が安全だ」
アルフがしばらく俺を見た。それから「……わかった」と言った。
グランが「カル」と呼んだ。
「……何か」
「午前の患者を全員診てから行け」
「……そうします」
「それとアルフ」
「……何でしょう」
「……無事で帰ってこい」
アルフが「……はい」と言った。短く、真剣な声だった。
◆ ◆ ◆
文書院は王都の中心部にある。
王城の外縁、貴族街と一般区の境目あたりだ。石造りの落ち着いた建物で、外から見るとどこにでもある役所のような顔をしている。看板も小さい。「王国文書院」と書いてあるだけだ。
俺たちが正面の石段を上がった。
扉を開けた。
中にいた受付の男性が顔を上げた。
止まった。
「……不正の告発文書を提出したい」と俺は言った。
受付の男性が俺の顔を見たまま、動かなかった。
「……受け付けているか」
「……あ、は、はい……!」男性が急に動いた。「告発文書の受理窓口は、えっと……」
男性が書類の山をあさり始めた。手が少し震えている。
アルフが俺に小声で「……前に立たないでくれ」と言った。
「……前に立っている方が話が早い」
「……相手が震えている」
「……緊張しやすい方のようだ。申し訳ない」
別の男性が奥から出てきた。四十代くらいだ。眼鏡をかけている。受付の男性より落ち着いた顔をしていた。俺を見て、一瞬止まったが、すぐに「どのようなご用件でしょうか」と言った。
「……不正の告発文書を提出したい」
「告発文書の受理でございますね」男性が頷いた。「こちらにどうぞ」
応接室のような部屋に通された。テーブルと椅子が四つ。窓から外が見える。
「……担当の者をお呼びします」と男性が言った。「少々お待ちを」
男性が出ていった。
アルフが「……思ったより普通だな」と言った。
「……文書院は比較的まともだと聞いていた」
「……聞いていた、というのは」
「……王国法を調べていた時に、評判も一緒に調べた」
「……治癒士がなぜそこまで」
「……知らないと損をする。前の仕事での癖だ」
アルフが「……前の仕事、というのはいつか聞かせてくれ」と言った。
「……遠い話だ」
「……そうか」
◆ ◆ ◆
担当の職員が来た。五十代の女性だ。灰色がかった髪を後ろにまとめている。眼鏡はかけていない。
俺の顔を見た。
止まらなかった。
「……告発文書の受理を担当しております、マーゲンと申します」女性が椅子に座った。「お二人が提出者でよろしいですか」
「……私が提出者です」とアルフが言った。「こちらの方には、文書の整理を手伝ってもらいました」
「……カルディン・ヴァルゼ。治癒士だ」
マーゲンが俺を見た。
「……治癒士の方が、告発文書の整理を?」
「……法的に無効になる文言を除くのを手伝った」
「……なるほど」マーゲンが少し目を細めた。「では、文書を拝見させていただけますか」
アルフが懐から文書を取り出した。二つ折りにされた紙が数枚。それと添え状が一枚。
マーゲンが受け取って、読み始めた。
部屋が静かになった。
マーゲンが一枚目を読んだ。二枚目を読んだ。三枚目に差し掛かったところで、少し目が止まった。そのまま読み進めた。最後まで読んで、また一枚目に戻った。
「……賄賂の記録が、これだけ細かく」とマーゲンが言った。
「……三年分だ」とアルフが言った。「騎士団に在籍していた間、記録し続けた」
「……証人の欄に「行方不明」とある方が何名かいらっしゃいますが」
「……証拠を持ちすぎると、消される。それを知っていたから、誰にも言わなかった」
マーゲンが添え状に目を移した。読んだ。
「……添え状は、ご本人がお書きになったんですか」
「……そうだ」とアルフが言った。
「……よく書けています」マーゲンが静かに言った。「本文の方は?」
「……私が整理した」と俺は言った。
マーゲンが俺を見た。
「……本文の文体、非常に……明確ですね」
「……事実だけを書いた」
「……はい。ただ、読んでいて少し……」マーゲンが言葉を選ぶように間を置いた。「……迫力がありました」
「……そうかもしれない」とアルフが静かに言った。
俺は何も言わなかった。
◆ ◆ ◆
「……正式に受理いたします」とマーゲンが言った。
アルフの肩が、わずかに動いた。
「……ただし」とマーゲンが続けた。「この文書が動くまでには、時間がかかります。内部での確認、関係機関への照会、場合によっては証人の召喚——それぞれに時間が必要です」
「……どのくらいか」とアルフが聞いた。
「……半年から、一年。あるいはそれ以上かもしれません」
部屋が静かになった。
「……それで構わない」とアルフが言った。「動き始めてくれれば、それでいい」
「……提出者の方への連絡先は」
「……今は定住していない。ただ、この方の治癒所に連絡をもらえれば届く」
アルフが俺を見た。
「……構わない」と俺は言った。「ただし、しばらく治癒所を離れる」
「……離れる?」とマーゲンが聞いた。
「……北の辺境に行く。グラムハイン領だ。戻ってくるつもりだが、時期はわからない」
「……グラムハイン領……」マーゲンが少し考えるような顔をした。「……マルディウス侯爵の管轄ですね」
俺とアルフは黙った。
マーゲンが「……奇妙な偶然ですね」と言った。声のトーンは変わらなかった。「この文書に出てくる侯爵の名前と、あなた方が向かう先が同じとは」
「……偶然ではない」とアルフが言った。「私の故郷がそこだ」
マーゲンがしばらくアルフを見た。
「……気をつけてください」とマーゲンが言った。「文書が動き始めた時、関係者が敏感になることがあります」
「……わかっている」
「……文書の写しを一部、こちらで保管します。それとは別に、安全な場所に控えを置いておくことを勧めます」
「……グランさんに預ける」と俺は言った。「治癒士だ。王国法も知っている。信頼できる」
「……それが良いでしょう」
マーゲンが立ち上がった。俺たちも立った。
「……受理の証明書をお渡しします。少々お待ちを」
マーゲンが部屋を出た。
アルフが息を静かに吐いた。
「……三年だ」と小声で言った。「やっと、動いた」
俺は何も言わなかった。動いた、という言葉の重さは、アルフだけが知っている。
◆ ◆ ◆
文書院を出ると、空が高かった。
「……腹が減った」とアルフが言った。
「……そうか」
「……何か食べて帰ろう」
「……構わない」
近くの飯屋に入った。昼時で混んでいた。
入った瞬間、何人かが振り返った。俺の顔を見た。数人が少し固まった。一人が椅子を引いた。
「……いつも通りだ」と俺は言った。
「……そうだな」とアルフが言った。
二人分の昼食を頼んだ。スープとパンと焼いた肉が出てきた。アルフが黙って食べた。俺も黙って食べた。
「……一つ聞いていいか」とアルフが食べながら言った。
「……何か」
「……文書院の担当者が、本文に迫力があると言っていた」
「……そうだ」
「……心当たりはあるか」
「……事実を書いた。感情は入れていない」
「……それはわかっている。でも怖かった、というのは俺も同意見だ」
「……そうか」
「……なぜそうなるのか、自分ではわからないのか」
俺は少し考えた。
「……前の職場でも言われたことがある。報告書が怖い、と」
「……前の職場でも」
「……内容は正確だったはずだ」
「……内容の問題ではないんだと思う」とアルフが言った。「……才能だ。向いている方向が少しずれているだけで、強い」
「……前にも同じことを言ってくれた」
「……そうだったか」
「……悪い気はしなかった」
アルフが少し笑った。
「……出発は明日にする」とアルフが言った。「……今日は、三年分が終わった日だ。一日くらい、ゆっくりしていい」
「……そうする」と俺は言った。
二人で飯を食べ終えた。外は明るかった。
◆ ◆ ◆
治癒所に戻ると、グランが薬草の仕分けをしていた。
「……終わったか」とグランが聞いた。
「……受理された」と俺は言った。
グランが手を止めた。アルフを見た。
「……そうか」と静かに言った。
アルフが「……世話になりました」と言った。「……ここにいなければ、動けなかった」
グランが「……儂は何もしていない」と言った。「薬草の仕分けと昼飯を作っただけだ」
「……それが、十分だった」
グランが何も言わなかった。薬草に目を戻した。その背中が、少し動いた気がした。
「……一つお願いがある」と俺は言った。「文書の控えを預かってほしい。文書院が動いた時に、連絡が来るかもしれない」
「……預かる」とグランが言った。「どこに向かっているかわからない相手への連絡先になるのか」
「……戻ってくるつもりだ」
「……知っている」
グランが振り返らずに「……出発はいつだ」と聞いた。
「……明日の朝にする」とアルフが答えた。
「……そうか」
それだけだった。
リエナが奥から出てきた。俺たちの顔を見て、何かを察したようだった。何も聞かなかった。
「……文書院、どうだった?」とだけ言った。
「……受理された」
「……よかった」リエナが短く言った。それだけだった。
夕方の光が治癒所の窓から入ってきた。いつもと変わらない光だった。
チャが窓枠から降りて、アルフの足元に来た。「にゃ」と鳴いた。
アルフが「……明日も来るか」と聞いた。
チャが「にゃ」と答えた。
「……心強い」とアルフが言った。
三年分の記録が、今日、動き始めた。
明日、俺たちは王都を出る。
文書院に行きました。担当者が止まらずに対応してくれました。五十年のキャリアのある方だったかもしれません。
本文に迫力があると言われました。事実を書いただけです。
アルフさんが「三年だ、やっと動いた」と言いました。その重さは俺にはわかりません。でも隣にいることはできました。
明日、出発します。




