第25話 怖い顔の治癒士、レンが歩く
その日の午前は、普通だった。
患者を五人診て、グランと薬草の在庫を確認して、リエナが作った昼飯を三人で食べた。
グランが「今日の午後、レンが来る」と言ったのは、片付けをしている時だった。
「……そうか」
俺は返事をしながら、手を動かし続けた。椀を拭いて、棚に戻す。
「三週間ぶりだ」とグランが言った。
「……わかっている」
わかっていた。前回の治療から、正確に二十二日が経っていた。数えていたわけではない。ただ、気がつくと頭の中で数えていた。
リエナが「緊張してる?」と聞いた。
「……していない」
「顔が普段と同じだから信用できない」
「……いつも同じ顔だ」
「そうなんだけどね」とリエナが言いながら、なぜか納得した顔をした。「でもカルの『いつも通り』の中に種類があるのはわかってきた。今日のは、ちょっと違う種類」
「……どう違う」
「強いて言うなら、静かな種類」
俺は何も言わなかった。
静かなのはいつもだ。ただ、今日は確かに何かが違う気がしていた。
前回の治療で、光がレンの体の奥まで届いた。体の芯にある「何か」が、少しずつ動き始めている感覚があった。あの感覚を、この三週間、ずっと手の中で転がしてきた。
届く。もう少し届く。今日こそ、もう一段届く。
それだけだった。
◆ ◆ ◆
午後、レンが母親と一緒にやってきた。
扉が開いた瞬間、待合室に座っていた三人の患者が、ほぼ同時に俺の方を向いた。なぜかいつも、レンが来ると周囲が妙に静かになる。
レンは俺の顔を見て、ちょっとだけ目を細めた。怖がっているのではなく、確認するような顔だった。
「……来てくれたか」
「うん」とレンが言った。「また来るって言ったから」
「……そうだ。座ってくれ」
母親が深く頭を下げた。目が赤い。いつもそうだ。俺はその方を見ずに、レンの前にしゃがんだ。
「……今日は少し時間がかかる。いいか」
「いい」とレンが答えた。
「……痛むかもしれない」
「いつもちょっと痛い」
「……そうだな。でも今日は、もう少し深くいく。耐えられるか」
レンがしばらく俺を見た。
「おにいちゃんが全力でやるなら、俺も全力で耐える」
俺は少し止まった。
「……わかった」
両手をレンの体に当てた。光を流した。
◆ ◆ ◆
集中すると、周囲の音が遠くなる。
グランの気配も、リエナの気配も、待合室の患者たちも、全部遠くなった。母親が息を詰める音だけが、薄く聞こえた。
光を細く絞った。表面を撫でるのではなく、一点に集中させて、深く入れていく。前回届いた場所を探した。あった。前回触れた「何か」が、今日はもう少し手前で感じ取れる。
(……近い)
押し込んだ。光を、奥へ。
レンが小さく声を上げた。「痛い」ではなく「あ」という声だった。
「……続けるか」
「続けて」
もう一押しした。
何かが動く感覚があった。体の芯で、固まっていた何かが、ゆっくりと動いた。解けた、という方が正確かもしれない。固く結ばれていた結び目が、少しだけほどけた。
足に光を集めた。骨の形成を確認した。左足の短さは変わらない。ただ、足の中を通る力の流れが、前回と違う。前回は詰まっていた何かが、今日は少し流れている。
「……立ってみてくれ」
レンが俺を見た。
「……立てる、と思う。ゆっくり」
レンが立ち上がった。母親が思わず手を伸ばした。俺は軽く首を横に振った。まず、一人でやらせる。
レンが、一歩踏み出した。
いつもより、揺れが小さかった。
二歩目。
揺れが、さらに小さかった。
三歩目、四歩目、五歩目。
レンが五歩歩いて、振り返った。
「……揺れが、減ったか」と俺は聞いた。
「うん」とレンが言った。「足が、ちゃんとついてる気がする」
「……完全には治っていない。でも、体の中で詰まっていたものが、少し動いた」
「また来たら、もっと動く?」
「……動かせるつもりだ」
「じゃあまた来る」とレンが言った。あっさりとした声だった。「約束ね」
「……約束だ」
母親が、声を殺して泣いていた。
◆ ◆ ◆
問題は、その後だった。
レンが五歩歩いたのを、待合室の患者三人が見ていた。
正確には、待合室にいた三人と、たまたま通りかかって扉の前で立ち止まっていたらしい通行人一人と、薬草を整理していたリエナと、薬の配合をしていたグランが見ていた。
レンと母親が礼を言って帰った後、しばらく誰も何も言わなかった。
最初に泣いたのは、待合室の隅に座っていた四十代くらいの女性だった。
次に泣いたのは、その隣に座っていた若い男だった。
その次に泣いたのは、扉の前で立ち止まっていた通行人だった。通行人はなぜ泣いているのか自分でもわからない顔をしていた。
リエナが目を押さえながら「……いいもの見た」と言った。
グランが「……うむ」と言いながら、視線を薬の瓶に向けたままにしていた。
「……なぜ皆泣いているのか」と俺は言った。
「なぜって」とリエナが言った。
「……レンが歩いた。それだけだ」
「それだけって……」
「……治療は終わった。次の患者を呼んでいいか」
「呼んでいい。でもちょっと待って」とリエナが言った。「みんな泣いてて目が見えてないから」
「……泣きながらでも診られる」
「あなたが診るのは問題ないけど、泣いてる人の前にあなたが立つと、泣いてる理由がわからなくなるから」
俺は少し考えた。
「……理由がわからなくなる、というのは」
「感動で泣いてたのか、顔を見て泣いてたのか、自分でもわからなくなるの。混乱する」
「……それは困る」
「だから少し待って」とリエナが言いながら、自分も目を押さえていた。
そこへ、扉が開いた。
五十代くらいの、がっしりした男が入ってきた。腕に布を巻いている。怪我の患者だ。
男は部屋を見回した。
全員が泣いていた。
男の顔が険しくなった。
「……なんだここは。何があった。誰かがいじめられているのか」
誰も答えなかった。泣いていて声が出なかった。
男がさらに顔をしかめた。「誰がこの人たちを泣かせた。出てこい」
「……俺だ」と俺は言った。
男が声のした方を向いた。
俺と目が合った。
男が白目をむいた。
そのまま、前のめりに倒れた。
しばらく誰も何も言わなかった。
リエナが「……今度は別の理由で倒れた」と言った。
「……診る」と俺は言って、男に近づいた。軽く光を当てた。打撲はない。ただ気絶しただけだ。
男がゆっくりと目を開けた。俺の顔を見た。また目を閉じた。
「……怪我を診る。目は閉じていていい」と俺は言った。
「……そうします」と男がかすれた声で言った。「さっきのは、その、なんというか」
「……よくある」
「……そうですか」
「……腕を見せてくれ」
男が目を閉じたまま、布を巻いた腕を差し出した。
待合室の三人が、泣き腫らした目のまま、その様子を黙って見ていた。
リエナが小声で「……感動で泣いてたのに、気絶した人の治療が始まった」と言った。
グランが小声で「……カルの治癒所はいつもこうだ」と言った。
「……聞こえている」と俺は言った。
二人が黙った。
待合室の三人が少しずつ落ち着いてきた。扉の前の最初の通行人は、いつの間にか去っていた。
女性患者が目を赤くしたまま「……あの子、治るんですか」と聞いた。
「……完全にかどうかはわからない。ただ、今日より明日、明日より来週の方が、届く場所が増えていく」と俺は答えた。
「……そうですか」と女性が言って、また目を押さえた。
若い男が「……俺、なんで泣いてるんですかね」と言った。
「……わからない」と俺は答えた。
「……見てたら、泣けてきました」と男が言った。「なんか、すみません」
「……泣いたことを謝る必要はない」
男がまた目を押さえた。
グランが「……カル、次の患者を呼べ」と言った。
「……はい」
「ただし三分待て。儂もまだ目が」
「……グランさん」
「……薬の瓶のせいだ。目に染みる薬がある」
「……薬棚から離れているが」
「……そういう薬がある」
俺は何も言わなかった。三分待った。
◆ ◆ ◆
夕方、患者が全員帰った後、グランが「今日は、光が一段階変わった」と言った。
「……わかりますか」
「わかる。五十年、光を見てきた」グランが俺の手を見た。「前回から今回の間に、お前さんの光は育った。ただ育ったのではなく、使い方を覚えた」
「……まだ完全には届いていない」
「届かなかったから来月また来る、とあの子は言った。お前さんは届くたびに強くなる。あの子は届くたびに歩けるようになる」
「……そうだ」
「……悪くない話だ」とグランが言った。
「……そう思う」と俺は言った。
リエナが「今日の待合室、歴代最多の泣き人数だったと思う」と言った。「ランキングに入れていい?」
「……入れるな」と俺は言った。
「もう入れた」とリエナが言った。
グランが「ランキングに泣いた人数を入れるな」と言った。
「でも記録として残しておきたい」とリエナが言った。「感動の記録も歴史だから」
俺は何も言わなかった。
手のひらを開いて、見た。
(……まだ足りない。でも、足りなかった昨日より、今日の方が確かに届いた)
レンがまた来る日まで、もう少し強くなれる。
それだけが、今日の俺には十分だった。
届きました。少しだけ。
でも、少しは少しじゃなくて、昨日の俺には届かなかった場所です。
レンがまた来ます。それまでにもう少し強くなります。




