第19話 怖い顔の治癒士、夜の路地で拾う
その夜は、醤油を切らした。
正確には、醤油に似た調味料だ。この世界の名前は「ダークソース」という。味は前の世界の醤油にかなり近い。一人暮らしが長かった俺には、これがないと夕飯の味が決まらない。
グランに借りようかと思ったが、グランの家は反対方向だ。
というわけで、夜の王都に出た。
夜の石畳は、昼間より人が少ない。少ない分、俺の顔に遭遇する人間も少ない。逃げられる頻度が下がる。夜の外出が嫌いではない理由の一つだ。
露店はもう閉まっていた。開いているのは酒場と、夜遅くまでやっている食料品の店が数軒だ。
目当ての店に向かって歩いていると、路地の入口で人影に気づいた。
壁にもたれて座っている。動いていない。
俺は足を止めた。
(……寝ているのか、倒れているのか)
近づいた。
男だった。三十代くらい。体格がいい。鎧の一部を纏っているが、上半身は外套で隠している。外套の左側が、黒く濡れていた。
血だ。
「……大丈夫か」
男が目を開けた。俺の顔を見た。
「……っ」
男が壁に背中を押しつけた。これ以上後退れない体勢なのに、さらに後退ろうとした。
「……治癒士だ。傷がある。診る」
「……来るな」
「……なぜ」
「……お前が、誰の差し金か、わからない」
俺は少し止まった。
ただの怪我人ではない。誰かに追われているか、何かから逃げているか。外套の下の鎧の紋章が、一瞬見えた。見覚えのある紋章だった。
聖騎士団だ。
「……神殿の差し金ではない。ギルド登録の治癒士だ」
「……ギルドと神殿は繋がっている」
「……繋がっていない部分もある。俺はその部分にいる」
男がしばらく俺を見た。出血が続いている。このままでは長くない。
「……信じられないなら、治療だけ受けて、俺のことは忘れてくれ。名前も聞かない。どこへ行くかも聞かない」
「……なぜ、そこまでする」
「……目の前に傷ついた人間がいる。それだけだ」
男が長い沈黙の後、外套を少しだけ開いた。
◆ ◆ ◆
刺し傷だった。
左の脇腹。深い。刃物で刺されている。出血量が多い。内部の損傷も確認が必要だ。
「……痛みが強くなるかもしれない。我慢できるか」
「……やれ」
男が歯を食いしばった。俺が光を当てた。
内部から確認した。肝臓の端がわずかに傷ついている。血管は無事だ。出血源は筋肉層だ。順番に修復していく。血管、筋肉、脂肪、皮膚。
男が途中で「っ……」と小さく声を上げた。それだけで、あとは黙っていた。
十分ほどかかった。
「……終わった。二日は安静にしてくれ。無理に動くと再出血する」
男が傷口を確認した。塞がっている。恐る恐る腹筋を動かした。痛みがないことを確認した。
「……本当に、治った」
「……そうだ」
「……なぜ、怪しい人間を治す」
「……怪しいかどうかは関係ない。傷があれば治す」
男が俺をじっと見た。暗い路地で、俺の顔を正面から見た。怯えていない。怪しんでいる。それは怯えとは違う目だ。
「……お前、本当に治癒士か」
「……そうだ」
「……こんな夜中に、路地を歩いている治癒士が」
「……調味料を買いに来た」
「……は?」
「……醤油に似た調味料を切らした。買いに来た。そこでお前を見つけた」
男がしばらく沈黙した。
「……調味料」
「……ダークソースだ。これがないと夕飯の味が決まらない」
「……そうか」
男がゆっくりと息を吐いた。緊張が少し抜けた気配がした。
「……名前を聞かないと言ったな」
「……言った」
「……アルフだ」
「……聞かないと言ったが、教えてくれるなら受け取る」
アルフが「……お前は変わった治癒士だな」と言った。
「……よく言われる」
◆ ◆ ◆
「一つだけ聞いていいか」
俺が立ち上がりながら言った。
「……何だ」
「……今夜、安全な場所があるか」
アルフが黙った。それが答えだった。
俺は少し考えた。
治療して、はいさようなら、が筋だ。名前も聞かないと言った。どこへ行くかも聞かないと言った。
でも、安静にしてくれと言った。安静にできる場所がなければ、その言葉は意味をなさない。
「……神殿の物置部屋に、俺が寝ている場所がある。狭いが、屋根と床がある」
「……なぜ、そこまでする」
「……さっきも聞いた」
「……答えが同じなら、聞く意味はないな」
「……そうだ」
アルフがゆっくりと立ち上がった。傷をかばいながら、でも自力で立った。体幹がしっかりしている。鍛えている人間の立ち方だ。
「……世話になる」
「……来てくれ」
二人で夜の石畳を歩いた。
途中、夜遅くまで開いている食料品の店の前を通った。
「……少し待ってくれ」
俺は店に入った。ダークソースを買った。店主が俺の顔を見て壁に張り付いた。いつも通りだった。
出てくると、アルフが不思議そうな顔をしていた。
「……本当に調味料を買った」
「……目的は果たす」
アルフが「……そうか」と言った。何か言いたそうだったが、言わなかった。
◆ ◆ ◆
神殿の裏口から入った。
深夜の神殿は静かだった。見回りの神官と一度すれ違った。神官が俺の顔を見て、いつも通り壁に張り付いた。横のアルフを見て、「……ど、どちら様で……?」と聞いた。
「……俺の客だ」
「……お客様……? この時間に……?」
「……明日、グランさんに話す」
「は、はあ……」
神官が壁に張り付いたまま、それ以上は聞かなかった。
物置部屋に着いた。狭い。床に俺の荷物が少しある。窓が一つ。
「……狭い」
「……そうだ。申し訳ない」
「……いや。屋根がある。十分だ」
アルフが床に座った。壁に背を預けた。傷をかばいながら、でも無理のない姿勢を自分で見つけた。場数を踏んだ人間の動きだ。
「……毛布がある。使ってくれ」
「……お前はどうする」
「……上着を着て寝る。慣れている」
「……そうか」
アルフが毛布を受け取った。それから、少し間を置いて言った。
「……礼を言う。信じる理由もないのに、治してくれた」
「……信じる信じないは関係ない。傷があったから治した」
「……それだけか」
「……それだけだ」
アルフが俺の顔をもう一度見た。暗い部屋の中で、じっと見た。
「……怖い顔だな」
「……よく言われる」
「……でも、怖い人間の顔じゃない」
俺は何も言わなかった。
そういう言い方をされたのは、初めてだった。
「……おやすみ」
「……ああ」
俺は上着を着込んで、床の端に横になった。
いつもより少し狭かった。でも、それが気にならなかった。
◆ ◆ ◆
翌朝、グランに話した。
全部話した。夜の路地で傷ついた男を見つけたこと。聖騎士団の紋章があったこと。治して、場所を提供したこと。アルフという名前だということ。
グランが一通り聞いて、「聖騎士団か」と静かに言った。
「……問題になりますか」
「なるかもしれん。聖騎士団は神殿と近い。エルダが絡んでいる可能性もある」
「……それでも、治した」
「わかっている。お前さんがそうする人間だということも」グランが短く言った。「今日、儂もその男に会ってみる」
「……ありがとうございます」
グランが「礼はいい。患者を診ろ」と言って、治癒所の扉を開けた。
リエナが「聖騎士団って、腐敗してるって噂の?」と小声で聞いてきた。
「……噂は知っている。詳しくは聞いていない」
「……アルフさんって、逃げてきた人なのかな」
「……そうかもしれない。でも、今は関係ない」
「関係ない?」
「……傷があったから治した。それが全部だ。事情は、本人が話したければ話す」
リエナがしばらく俺を見た。
「……カルって、そういうとこあるよね」
「……そういうとこ?」
「聞かない。でも、ちゃんと見てる」
俺は何も言わなかった。見ているかどうかは、自分ではよくわからない。ただ、目の前のことに向き合っているだけだ。
最初の患者が入ってきた。
今日も始まった。
◆
夜、チャが来た。扉の隙間から入ってきた。
部屋に入って、いつもの場所に行きかけて、止まった。
床の端に、アルフが寝ていた。
チャがアルフを見た。アルフがチャを見た。
アルフが「……猫か」と言った。
チャが「にゃ」と言った。
アルフがゆっくりと手を差し出した。チャが近づいて、においを嗅いだ。それから頭を擦りつけた。
「……懐くのが早い」
「……悪意のない人間には懐く。グランさんの言葉だ」
アルフが少し黙った。
「……猫に懐かれる人間が、悪い人間のはずはないな」
「……そうかもしれない」
チャがアルフの膝の上で丸くなった。アルフが困ったような、でも悪くない顔をした。
「……名前は?」
「……チャだ」
「チャ」
「……茶色いから」
「……そのままだな」
「……命名の才能がない」
アルフが小さく笑った。傷をかばいながら、でも確かに笑った。
俺は上着を着込んで目を閉じた。
今夜は三人と一匹だった。
明日、アルフはどんな話をするだろうか。聞かない。でも、話したければ聞く。
それだけだ。
明日も治しに行く。
調味料を切らしました。
買いに行く途中で傷ついた男を拾いました。聖騎士団の紋章がありました。治して、場所を提供しました。
「怖い顔だが、怖い人間の顔じゃない」と言われました。そういう言い方は初めてでした。
チャがアルフさんの膝の上で丸くなりました。悪意のない人間には懐くそうです。
ダークソースは無事に買えました。夕飯の味が決まりました。




